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2014年3月26日 (水)

マルティン・ゼール「自然美学」(3)

3.自然美学はいかなる自然を扱うか

ここで問われるのは、自然に対する我々の好感の対象とはいかなる自然でありうるのかということである。美的な自然知覚の対象とは、たんに「自然それ自体」なのではなく、我々が総じて「自然」と呼んでいるものの特定の所与性である。すなわち、人間の生活世界的現実のうちで、人間が持続的に関与しなくても生起してきたし、今も生起している感性的に知覚可能な領域である。そうした自然の規定に対して、我々の規定は三つの観点を強調する。すなわち、第一に自然における力動の自力性、第二に自然の感性的な知覚可能性、第三に自然の生活世界的な現存である。

自然の変化に富む状態及び自然の事物が人間の手で作り出されていないかぎり、自然は自力的である。自然の存在は意図を欠く生成である。この意味で自然とは、独力で生起する一切のものである。この場合の「独力で」とは、人間の助力なしに存在し生起するという意味でしかない。そうすると、自然が独力で生起するものであるのに対して、文化は人間を通じて生起するものであると言われるのも当然である。

とはいえ、自力性という性格は、自然のままの生に対する我々の美的関心の領域をなすような、そうした現実を規定するにはあいまい過ぎる。たとえば、自然科学的に記述可能な合法則性の意味で自力性という性格が了解されるやいなや、自然客体物と人工物の区別と共に「自然的」生の領域と「非自然的」生の領域の区別も解消されてしまう。この場合の自然は方法的に客体化された自然である。この自然はもはや肉眼では知覚できず、たしかに人間の生命の基礎をテーマとするが、その現実はテーマとしない研究の理論的構成物、つまりは観察可能な自然経過の法則として定義される。

ところでわれわれは壊れ易い自然でさえも気に入ることがありうる。その理由は、人間の経験可能な生活世界の問題提起的な特質が破壊されうるからにほかならない。こうした自然に対する我々の関係は理論的に-客体化されたものではなく、生活世界的-実践的なものである。それは、この生活世界的関係からのみ生起し、生活世界的関係の現実に必然的に関係づけられている。こうした関係においてのみ自然は感性的に多様な自然発生的形態をとって登場するが、その形態は一貫性を持った一切の形式から注目すべき仕方で区別される。こうした自然のままのものは、我々がそれを自然のままでないものから区別する限りで自らを区別する。自然が美的に目を引くのは、周知かどうかに関わらず、自然の客体が日常言語でもって自然として同定されるか、あるいは少なくともそのように言及される場合に限られる。美的な承認の候補者は、人間が行為する環境である限りでの自然である。人間の支配を受けない自然現象の美的知覚は、生活世界における自然了解及び自然関係の枠内での自然の感性的な遠近を前提とする。

自然の美的知覚は上に述べた自然了解や自然関係を、それが特定の視点において科学の特殊な実践にも妥当するにせよ、前提するだけでなく、そうした了解や関係にとどまってもいる。自然が人間の行為という現実の一部として美的に与えられていることは、自然のままのもの、「自然的」の意義がつねに自然の直観のなかに息づいていることを意味しない。しかし、自然が生活世界として現前しているというコンテクストにおいてこそ、こうした自然のままのものの直観から「自然さ」を脱落させることができるし、そうした直観は認識と行為の区別に対抗する自然の疎遠さを際立たせることができる。この事情を誰よりも明確に洞察したのがカントに他ならない。カントは自然の美的観察を理論的考察と混同することを悉く却下する。自然の美しさが受け入れられるのは、自然知覚の目指すものが客体化する認識ではなく対象の下に佇む直観である場合に限られる。自然を客体化する関係のうちでは自然に人間の目的を実現する手段の領域という意義が付与されるが、カントは「無関心性」というキーワードで自然を客体化する関係のこれ以外の形式にも自制を求めている。それゆえ、自然を客体化しようとする立場からは自然の審美化は為され得ない。自然のままの事物と空間という日常的でありふれた現象は、自然がしばしば非日常的に現前するための土台である。

こうして美的知覚の対象でありうる自然を、理論的-科学的および道具的-技術的に客体化された自然と区別して、手短に生活世界としての自然と見なす考え方が提示される。ただし、この考え方は些か安易すぎる。なぜなら第一に、今日ではあらゆる種類の客体化が生活世界として経験可能な自然の確固たる構成要素だからである。たとえば、技術的に客体化された自然は、我々の生活文化の一部である。こうして自然を客体化した結果として出来たもの─田畑、公演、庭園など─がそれまでと同様に自然として知覚可能であれば、それらのものも自然に対する美的関心の対象になりうる。第二に、「生活世界」としての自然の概念は文化の区分に応じて「意味付随的」な自然概念を内包しているからである。こうした留保をつけたうえでならば前述の客体化された自然と生活世界的自然という区別を再び容認できるかもしれないが、私はそれとは別の言葉で両者の決定的な差異を名づけようと思う。私が言いたいのは特別な美的関心の舞台は基準的自然ではなく問題提起的自然だということである。「基準的」と名付けられるのは、自然科学が観察的記述をする自然の所与性である。「問題提起的」と名付けられるのは、行為者のパースペクティヴから見てその歴史的生活の現実の構成要素として現象する自然の所与性である。自然の疎遠さとの美的出会いは自然の問題提起的現前の内部でのみ可能である。美的な意味は、自然豊かな環境の不確かさへの日常的-実用的信頼に揺さぶりをかける。生活世界の行為者として自然に出会うことは、自然の生活世界的規範性の極度に技術的な異化、あるいは美的な異化に出会うことである。

問題提起的自然は自然科学においては現前しない。たとえば、物理学は自然の歴史を記述する術をよく心得ているのに、人間の歴史的実在性及び外的自然に対する人間の複雑な関係の歴史的実在性は、物理学からすれば歴史に登場しない。つまり、問題提起的自然そのものについて限定的な情報しか提供できない。問題提起的自然は何よりも人間の実践的管轄の下にある。人間は、自らが樹立した文化との区別において自然として体験され了解されるように、そうした現実のなかでこそ生きているのである。

こうした区別こそが「問題提起的」自然の問題提起的たるゆえんである。この区別は文化のなせる業の一つであり、その区別を行う際に文化は常に自らの能力の限界に突き当たる。問題提起的自然という意味での「自然」という語は、「文化」と対比される語であり、そのとき「文化」は自然と共に生きるという問題が課せられている実践及び、その制度の意味である。これに対して問題提起的自然の現実は、文化的方向づけに対して距離をとるきっかけにされるにせよ、人間文化の現実の内なる一つの現象である。他方であらゆる文化は、自然という一つの現実の只中における生活形式として理解されなければならない。文化は自らが存立するための一つの次元として自然を承認しなければならないのである。

近代における自然に対する美的関心がおもに「自由」な自然への関心であったのは、偶然ではない。こうした自然の自由の自己充足的な知覚は、しばしば自然における特別の自由の知覚として経験された。これに応じて自然美学は「自由」であり「自由」ゆえに評価され探求される自然の理論となる。なぜなら美しい自然が存在し得るのは、多かれ少なかれ「自由」な自然においてのみだからである。ただし、「自由」な自然とは幅を持った表現であり、絶対的な自由は美的直観に必要な距離を誰もとることのできないような自然に限られる。完全に自由な自然は完全に不自由な自然と同様、人間が存在しない自然ということになり、「問題提起的」自然ではなく、たんに限界事例であって、それらのあいだでなんらかの程度に自由ないし不自由な自然の現実の幅広いスペクトルが把握されうる。ここで明らかなのは、自由な自然についての語りは段階的なだけではなく、より自由な自然あるいは不自由な自然の事例に関係づけられることによって相関的である。

 

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