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2014年4月

2014年4月30日 (水)

ラファエル前派展 英国ヴィクトリア絵画の夢(5)~2.宗教 Religion

宗教を題材とした作品の展示ですが、ラファエル前派の画家たちは敬虔な信仰を有していたという人はおらず、彼らの作品は教会の堂内に掲げられることなく、展覧会や個人が家庭内で鑑賞するために描かれたものだったと言います。ルネサンス初期やそれ以前の古いカトリック美術の象徴性や形式主義に倣ったような作品を制作していったといいます。彼らにとって聖書は人間ドラマの宝庫であり、神の教えではなく文学的、詩的な意味合いを求める対象であったといいます。

Mireidaiku ミレイの「両親の家のキリスト(大工の仕事場)」という作品。幼いキリストとその家族を描いた作品です。父親のヨセフと助手が製作中のドアから突き出た釘で、少年イエスが左手の掌を傷つけてしまう。傷を負った息子を慰めにやって来たマリアがあまりに心配そうなのを見て、イエスは母親を安心させようと左の頬に口づけをする。マリアの夫ヨセフは傷口を確かめようとしてイエスの左手を後ろに逸らし、これが祝福を与える仕草となると同時に、そのために少年の足もとに血がしたたり落ちる。作業台の向こう側から、マリアの母親アンナが傷の原因となった釘を抜こうと手をやっとこに差し延べる。右手からは、洗礼者ヨハネが、従妹のキリストの傷を洗うために盥に水を入れて運んでくる。と場面を説明されています。こうして読むと、なんとも複雑な作品になっています。ミレイという画家は、前のところで見た「オフィーリア」や「マリアナ」のような一人かせいぜい2~3人の人物に焦点をあてて、そのドラマをじっくりと描くという傾向の画家です。しかし、ここでは6人の人物が登場し、複雑に動きが織り成すスペクタクルを描いています。古い宗教画の作風などを参考に構図などで工夫を凝らしているということですが、どこか窮屈で不自然に無理をしている感じを消し去ることができません。画面に奥行が感じられず平面的で、窓や扉があいて外が見えているにもかかわらず、狭いところに閉じ込められたような窮屈さがあります。もともと、空間を圧縮する傾向にある人ですが、折角の大きなキャンバスもその大きさを感じられません。だから、この画面は広くキリストと聖家族の場面を描いて、宗教的なことを広めるということには至らないようなものになっています。また、登場人物を、意識して様式的に描き、複雑なスペクタクルの機能も果たさせるためにか、かなり無理な描き方をしているように見えてしまいます。例えば、ヨハネのおどおどしたような表情は不自然なほどで、中央のキリストの顔は接吻を施しているようには見えず、マリアは接吻というより愛の口づけを無理強いしているようにしか見えます。そして、何よりも6人の人物の動きがバラバラに見えてしまっていて、相互の動きが関連したドラマを生んでいないのです。だから、6人もの人物画いて窮屈な空間に閉じ込められているにも関わらず、それぞれがばらばらで彼らの関係がドラマを生んでいない。それゆえに、彼らの顔が描き込まれているにもかかわらず、表情に奥行が感じられないのです。後姿で表情が見えない「マリアナ」が濃密な表情を湛えているのと正反対です。その意味で、ミレイの作品としては、異質な印象を抱きました。

Preraffaros1 一方、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの「見よ、我は主のはしためなり(受胎告知)」という作品。画家本人が処女マリアは床に就こうとしているけれども、寝具は見当たらず、これもしかし暑い地方であれば当然であろう。天使ガブリエルがマリアに白百合を手渡そうとしていると説明しているように受胎告知の場面を描いた作品です。受胎告知の絵画と言うと、有名な絵画作品が数多描かれていますが、そこにある共通のパターンとはまったく異質な描かれ方をしています。天使に羽根がないとか色々言われているようですが、それは措いて、私には、ここで描かれているマリアという女性が、後年のロセッテイの描く女性とあまりにも違うので、それが印象的でした。ファム・ファタールとでも言うような、成熟した、蠱惑的を濃密に描くというロセッテイのイメージとはかけ離れた、ここでのマリアは呆けたような顔をして、天使から逃れるように壁際に身を寄せて、身を護るかのように脚を屈めています。伝統的なマリアの色である青を配すことなく、あえて純白の衣装を着せているのは、受胎告知を受け入れて聖母となる前の、処女の状態でいるという聖母に変貌する直前の、過渡的で不安定な状態を描いたということらしいです。聖母の神々しさはなく、追い詰められて恐怖におののく普通の女の子がいるようなかんじです。それにしても室内に対してマリアのサイズが異常に大きかったり、マリアの中でも顔が不自然に大きかったり、顔が右側にずれていたり、かなり無理な姿勢を強いられているようにみえます。それがこの作品の落ち着きのなさ、これだけ純白の白をつかっているのに静謐さとか清澄さのようなものは微塵も感じられない。ラファエル前派はマニエリスムやバロック絵画の劇的な宗教画を遠ざけたといいますが、別の方法で、バロックとはちがったドラマを、より心理的に描いたと言えるかもしれません。天使の前で不安におののくマリアの姿は古代の女性というよりは近代の個人の心理的なドラマで、その心情が空間の歪みにも表現として現れている、というように考えると一種の幻想絵画の世界とも言えます。そして、そこには性的なニュアンスが見え隠れしていて、聖母の運命を受け入れるということ自体に性的に成熟した女性に変容していくことに対して慄く処女の懊悩というニュアンスが見えるのです。それは、寝台という舞台装置や脚を屈めたというポーズなどが暗示するものです。

2014年4月29日 (火)

ラファエル前派展 英国ヴィクトリア絵画の夢(4)~1.歴史 History(アーサー・ヒューズ)

Preraffahu1 アーサー・ヒューズの「四月の恋」と言う作品です。展示室に入って最初に飾られていた作品で、正面に主催者あいさつが大きく掲げられていた横面に、この小さな作品が置かれていたので、目立たず、通り越す人が結構いたようです。何と言っても先には、人気のある「オフィーリア」に人だかりしているのが目に入っているのですから。とはいえ、この作品にとっては、静かにひっそりとした佇まいで、心底この作品に惹きつけられる少数の人々に見守られるのが、相応しいのかもしれません。

アーサー・ヒューズと言う画家は、初めて聞く名前ですし、それほど日本で有名な画家出来ないと思います。正確に言うとラファエル前派兄弟団に参加したわけではなので、ラファエル前派と言えないということです。1850年ころにラファエル前派の機関誌を熱心に購読し、ラファエル前派の画家たちとも交流があったといいます。ジョン・エヴァレット・ミレイが恋人たちを描いた初期の作品などに影響を受け、この「四月の恋」などもそうで、自然の細密な描写によく表われていますが、自然の逞しさが感じられるミレイに比べて、自然に対する人間若さや恋の儚さを感じさせるところに特徴があるということで、画家としては、アカデミーに出展するも認められず、挿絵画家として活躍したということです。

この「四月の恋」という作品は、アルフレッド・テニスンの「粉屋の娘」という詩をもとに描かれたようです。

愛すれば心は軋み苛立ち痛むもの

愛に漠とした後悔はつきものか

目は無為の涙に濡れながら

無為の習いによってのみわたしたちは結ばれる

愛とはいったい何でしょう、いずれ忘れてしまうものなのに

ああ、いいえ、いいえ

この詩のこまごまとして部分を描写する代わりに、ヒルガオの繁る庭のあずまやで口論する若い恋人を描いていると言います。しかし、描かれている中心は女性で、男性は女性の右手に影が見える程度です。何よりも、女性のドレスの青と木の葉のグリーンの息を呑むほどの鮮やかさが印象的です。全体に影の部分おおい仄暗い画面の中で、青と緑が鮮やかに輝くと、なんとなくひんやりとした密やかで繊細な印象が強くなります。全体に青みがかった色調のなかで女性の腕と顔の肌色が透き通るようです。女性の顔の表情は細かく描き込まれておらず、観る者の想像に任せるということなのでしょうが、全体の色調と俯きかげんポーズから、物憂げというのか、哀しみを湛えているように見えます。そこをはっきりと描いていないことによって、具体的な感情としてよりも雰囲気として恋の苦しさとか儚さ、それによる哀しさが漂ってくる効果を上げているように見えます。不健康とまでは行かないけれど、繊細さを突き詰めて行けるところまで行ったという感じがします。

Preraffahu2 同じ作者の「ロムニーを退けるオーロラ・リー」は「四月の恋」よりも、もっと小さな作品。青と緑の色彩が画面全体を覆い尽くす、その色調のよって幻想的な風景を作り出しています。エリザベス・バレット・ブラウニングの「オーロラ・リー」という詩に題材をとっているということです。画面中央のオーロラ・リーという女性が自身の詩集を携え、ロムニーからの求婚を拒むシーンを描いているといいます。「四月の恋」に比べて、人間の存在感はより希薄になっていて、例えば左側の男性と、彼の手前の白百合を比べてみれば、どちらに存在感があるがは一目瞭然です。二人の人物は地に足がついていないように見えて、画面の中で浮遊しているかのようです。中央の女性も人間と言うよりは妖精のような実体としての存在感があまり感じられず、顔の表情にも生気があまり感じられません。こんなことを書くと不健康で死んだ絵のように受けられるかもしれませんが、これに対して自然描写は細かくて、生命感が感じられるものとなっていて、これに対して、人間を見る目が無常観のような人の儚さに目が行くような視点で描かれているように見えます。その場合、人間の存在の現実性が薄くなって、幻想の風味が反比例するように前面に出てくる。それが、ヒューズの作品の特徴ではないか、と思います。それをヒューズ独特の青と緑の鮮やかな色調が効果的に盛り立てている。それゆえでしょうか、ここで描かれている女性は、ギュスターブ・モローやベルギー幻想派のクノップフの描く幻想的な女性を想わせるところがあると思います。

アーサー・ヒューズは沢山の挿絵を描いたといいますが、ラファエル前派の周辺の画家として、今回、初めて見た画家です。今回の展示で出会うことができたというのは、大きな収穫であったと思います。

2014年4月28日 (月)

ラファエル前派展 英国ヴィクトリア絵画の夢(3)~1.歴史 History(続き)

Miremariana 同じミレイの「マリアナ」(左図)という作品です。画像では分かりにくいでしょうが小さな作品で、「オフィーリア」の隣の片隅に展示されていたため、今回は地味な印象になってしまいました。「オフィーリア」は有名な作品ですか、作品の前に人だかりができるのに比べて、こちらは静かにじっくり観ることができました。この作品で、まず目に付くのは、青の印象です。中心の人物の着る衣装の青の鮮烈さです。じつは「オフィーリア」でも作品の完成当時は、もっと青を基調にした色合いだったのが色褪せてしまったといいます。この「マリアナ」では、散らかる木の葉や飾りのステンドグラスなど、他の部分には一切青系統の色が使われず、衣装に集中しているので、その鮮やかな印象は尚更です。その青い衣装のアクセントとしてマリアナの金髪と腰のベルト。そして、その鮮烈な青い衣装に包まれたマリアナのポーズ、あるいは肢体が、腰に手を当ててのけぞるような姿勢を際立たせています。長時間椅子に座っていたのを立ち上がって腰を伸ばしている場面ということなのでしょうか。それにしては、手を当てた腰から尻にかけての線とか、背を伸ばしたことで強調される胸の線が、衣装の青に包まれて、やたら目に付くのです。そこに、私のような人間は性的な仄めかしを感じ取ってしまうのです。しかも、マリアナの物憂げで虚ろな表情が、助長させるのです。マリアナという女性は婚約者を失い、幽閉されるような生活を強いられたというテニスンの詩の登場人物という設定です。愛してくれる人を失ってしまい、さらに閉じ込められた生活での煩悶というのでしょうか。かつて愛を受けた思いが現在はかなわないというフラストレーションとか疼きのようなものが、身体を締め付けるような青い衣装が、そのうずく身Preraffamarina2 体を際立たせるように逆に際立たせている、と言えます。しかも、この小さい画面に描かれた空間の狭い感じ、画面のサイズの小ささがそれを募らせています。さらに、室内の調度や床に散らばった木の葉の一枚一枚まで細かく描き込みことで、室内の稠密さが濃く印象付けられ、また、マリアナのテーブルを不自然なほど小さくして、代わりにテーブルクロスの装飾を執拗に細かく描き込むことなどによって、室内の狭さ、空間的余裕のなさを強調し、マリアナのいる空間の閉塞感を強く印象づけています。「オフィーリア」の場合もそうですが、ミレイという画家は空間を小さくとる傾向があるようで、広がりというよりは小さな空間に閉じ込め精緻に細かく描き込む傾向があるようです。そういう傾向で、歴史画を描くと、壮大なスペクタクルとか活劇の場面などには似合わず、少ない人物を掘り下げて描き込むことに向いているのが分かります。この「マリアナ」のような、きっとマリアナ自身も自覚していないような身体の疼きとか煩悶のようなものを描いてしまうというのは、歴史画では例がなかったと言えると思います。しかし、空間の設定からマリアナのポーズに至るまで、一貫して彼女の精神と身体の微かな疼きのようなものを表わすということが、初めて可能になっているとおもえるのです。この画面の中で、唯一のその一貫性に沿っていないのは当のマリアナの顔です。それが、この作品の節度を保ち、その一方で、マリアナ自身も意識していないような疼きとして屈折したエロチシズムの風情を与えていると言えます。このことは、ウォーターハウスの「南の国のマリアナ」(右図)という同じ題材を扱った作品と比べてみると、よく分かります。同じようにマリアナを後姿で描き、彼女の嘆くさまを前に鏡をおいて表情まで描いてみせたウォーターハウスの作品には暗さはあるものの、閉塞した空間は感じさせず、マリアナは境遇を嘆いているが、ミレイの作品にあるような疼きに襲われることはありません。ウォーターハウスのマリアナは肉体を備えた個人としてではなく、物語の類型として捉えることによって、ミレイの作品にはない、ある場面でのひとつの理想の美しい女性を描くことができたとも言えると思います。

Preraffacal コールデロンの「破られた誓い」という作品です。制作したフィリップ・ハーモジニーズ・コールデロンという人はラファエル前派兄弟団に参加した人ではないそうですが、ミレイの「マリアナ」をはじめとした作品の影響を見ることができます。ここでは、「マリアナ」ほどの閉塞感はありませんが、庭の一部という空間の限定と、木の壁や塀に茂った蔦の精緻な描写や、中心の女性の描き方等で「マリアナ」に通じるところが多いと思います。しかし、何よりもこの作品の特徴は、ミレイにはない、陽光の描き方です。陽の当たる部分の明るく暖かな感じは、印象派の描く光と影とは違った光の表現として、もっと触覚に近い感じを与えるものです。主人公の顔に陽光が当たり、その顔の肌が柔らかく映えるあり様と、黒を基調とした衣装とのコントラスト、そして黒い髪が日に映える様は、それだけで魅せられてしまうほどです。

2014年4月21日 (月)

ラファエル前派展 英国ヴィクトリア絵画の夢(2)~1.歴史 History

Mireofiria ここでは、歴史や文学の一番を題材として描かれた作品が展示されていた、ということです。その際に、ラファエル前派の画家たちの描き方は伝統的な慣例を無視したものとなり、権威筋の批評家や教養ある鑑賞者たちを挑発する結果となったと言います。例えば、伝統的な歴史画によくある華々しい活劇場面や、裸婦が物憂げに佇む理想化された古典的情景などには興味を示さず、自分たちが読んだ本や芝居から題材を主体的に見出して行ったと言います。とくにシェイクスピアの戯曲からの取り上げ方は、劇場の舞台でのあり様とは乖離した、登場人物の親密な交わりや人間体験に焦点を当てて、人物の輪郭を際立て、衣装や装身具を精緻に描き込み、背景を入念に仕上げるなどにより歴史や文学の情景が、現実にリアルに蘇ることを目指すような描き方をしたと言います。

Mireofiria20waterhouse ミレイ「オフィーリア」(上図)を見てみましょう。今回の展示のメダマ、というよりもミレイの代表作、ラファエル前派を代表する作品です。シェイクスピアの『ハムレット』を題材とした、少女オフィーリアが身を投げるように溺死した場面です。ミレイが想像力豊かに視覚化したハムレットの悲運な恋人の死は、16世紀後半の文学の出現、特別に考案された衣装、そしてオフィーリアの姿そのものを通じて過去を彷彿させる。オフィーリアはゴシックの墓石の彫像のように硬直して仰向けに横たわり、彼女の墓となる水に浮かびつつ身を浸し、鮮やかに花を咲かせる草木に絡まれ、自らが拒んだ生命の素晴らしさを雄弁に語る色とりどりの花々に飾られている。と言う説明は、ここの展示テーマであるアヴァンギャルドな歴史画という線に沿ったもので、そういう方向でもラファエル前派を代表する作品と位置付けているようです。しかし、私がこの作品を見る時に、「オフィーリア」というタイトルはあるもの、歴史画という見方はしないで、幻想絵画とか美少女を取り上げた作品として見ています。フィリップ・アリエスが「子どもの誕生」で指摘したように、かつてはヨーロッパには子供という概念がなくて、近代的な教育制度が整備されるのにしたがって、子供を純粋無垢に存在して創造し、そこに教育を施していくということが進んで行ったといいます。この場合の純粋無垢とは、端的に言えば、セックスの禁忌です。そして、ロマン主義の進展によって、子供と大人の過渡期として青春という時期も創造されます。「オフィーリア」に描かれているのは、ちょうどその時期の、子供の純粋無垢さを一方でもちながらも、大人への過渡期にあってセックスの禁忌が解けようとしている時期の少女です。分厚い衣装のゆえに定かではありませんが、こころもち胸も膨らみ、身体的にはもはや子供ではなく、大人のセックスに耐えうる身体つきに変容してきているのは、明白です。しかし、オフィーリアの表情は虚ろで感情のようなものは表われていません。人間的な感情から離れた、超越した言うなれば無垢な表情になっているとも言えます。このオフィーリアは、だから、純粋無垢な子どもとセックスの禁忌から解かれる大人の両方を兼ね備え、かつ、どちらでもない微妙な過渡期にいる。それは、オフィーリアが死んでしまったことによって、時間が止まってしまって、彼女はその微妙な過渡期の状態で瞬間凍結されてしまった、そのさまを描いた、というように、私の場合は観ています。ちょっと屈折した言い方かもしれませんが、ロセッティがファム・ファタール的な魔性の女性のイメージを描いたのに対抗してミレイが無垢な女性のイメージを描いて見せたのではないか、というように考えたりします。

考えてみれば、溺死という死に方は、様々な死に方がある中で一番身体の表面に損傷を与えない死に方と言えないでしょうか。私には、ミレイはこのような美少女を描きたかったのであって、そのためにオフィーリアという「ハムレット」の登場人物は格好の題材を見つけたというものだったのではないかと想像してしまうのです。それは、他の画家のオフィーリアを描いた作品(例えばウォーターハウス(右上図))の作品とあまりに違うのは、そのためではないか。

Matujizoku また、リアリティということから見れば、オフィーリアの浮いている川面は小川のような感じで、とても人をおぼれさせる川には見えません。むしろ、少女の横たわる肢体を描くのにちょうどいいという感じです。柔らかそうな面に横になるというのは、褥に横たわるというセックスの隠喩と、死ぬことによって、それを拒否するということをシンボライズしているようにも見えなくもありません。そして、オフィーリアの周囲に咲く花々は、アトリビュートとして象徴的な意味がそれぞれの花に込められているのでしょうが、花の命は短くて、という一瞬のものというイメージと、花というのは植物の生殖器でもあるということで、オフィーリアを飾っているというように見えなくもありません。

このオフィーリアの構図というのは後世に様々なフォロワーを生んでいて、その多くは私が、ここで述べた視点に近い姿勢で創作されているように思えます。例えば、松井冬子の「浄相の持続」(左図)という作品は、現代日本画の作品ですが、少女の死体が腐乱していく様を描いたシリーズの一つですが、花に囲まれて、虚ろな表情の美少女の死体が横たわるというのは、まさに、この作品の影響を受けたものと思えます。

2014年4月20日 (日)

ラファエル前派展 英国ヴィクトリア絵画の夢(1)

2014年2月12日(水)森アーツセンター・ギャラリー

Preraffapos 東京に降った大雪が未だ融けきれず、六本木の歩道にも脇に雪が残っている珍しい風景を眺めながら、六本木ヒルズに向かうちょっとした違和感。病院の定期検診の後、時間ができたので、思い切って行ってみた。最初に述べた小さな違和感というのは、ラファエル前派に対する私のイメージに通じるところがあると思ったから。多分、同意する人は少ないと思うけれど、ラファエル前派に対して私が抱いているイメージは英国式庭園のような徹底して人工的な自然らしい空間を作ろうという観念先行のつくり、というものです。そこに意図せぬもの、六本木に積雪のようなことがあると浮いてしまう、そんな印象なのです。さて、森アーツ・センターへは初めてだったのですが、六本木ヒルズの一画にあって、それゆえでしょうか、美術館としては入口が分かりにくく、入場券の売り場が広い割に窓口が少なく行列ができていて、コインロッカーは少なく高い(返金もない)、肝心の展示室への高層階への直通エレベーターで行かされるのですが、案内が立っているのはいいのですが、うるさい。文句がいくらでも出て来そうな、雰囲気が悪い、手際が悪い、で美術館としては興ざめさせられてしまうものでした。展示スペースの使い方も、無駄が多い割に空間の余裕が感じられず、落ち着かない感じでした。多分、私の感覚と絶対に合わないのでしょう。ということにしておきます。今後、余程のことがない限り、ここには来ないだろうと思いますが。

さて、「ラファエル前派」に対しては、中心人物のロセッティが画風を変容させたり、母体となった兄弟団に出入りがあったりで、人によってまちまちの定義がされているようです。ここでは主催者あいさつの中で、次のように説明されています。ラファエル前派兄弟団は1848年、ロンドンのロイヤル・アカデミー美術学校で学ぶ3人の学生、ジョン・エヴァレット・ミレイ、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハントを中心とする7人の若者によって結成されました・彼らは、盛期ルネサンスの巨匠ラファエロを規範に据えていた当時の保守的なアカデミズムを憂い、ラファエロ以前の初期ルネサンス絵画を理想に見いだします。自然を注意深く観察してありのままの姿を忠実に描き、より自由な表現を追求しました。彼らの前衛的、すなわち「アヴァンギャルド」な作品は社会から猛反発を受け、英国画壇にスキャンダルを巻き起こします。しかし、美術批評家ジョン・ラスキンの擁護もあり、次第に彼らの活動は認められていきました。またロセッティのもとにエドワード・バーン=ジョーンズや、ウィリアム・モリスら第二世代が集い、唯美主義やアーツ・アンド・クラフツ運動にもつながる英国近代美術の発展に大きく貢献しました。とまとめられています。また、別のところではラファエル前派兄弟団の結成から、象徴主義的な作品に彩られるバーン=ジョーンズの晩年にいたるまで脈々と流れる、ラファエル前派の急進性に光を当てる試みです。挑発的な様式と主題をもって同時代の社会的、政治的な動乱に向き合うラファエル前派芸術を紹介します。と述べて、この美術展のコンセプトを説明しています。具体的には、ラファエル前派の急進性は、彼らの師や世間一般の崇める慣習を受け入れず、芸術的な、そして社会的、政治的な諸問題の根源、あるいは原因にあくまでもさかのぼろうとし、うわべではなく根本的な変化を求めてやまなかったところにある。ラファエル前派の芸術とデザインは、今日改めて見直してみても、製作当時と同様に難解で、一筋縄ではいかない、際立った特質を保っている。その鋭利な線と、エルンスト・ゴンブリッチの言う「けたたましい色彩」は、歴史画に対する革新的なアプローチ、自然界の豊かさや輝かしさの探求、ヴィクトリア朝イングランドの社会と宗教生活に対する批判的精神、そして美と性の独特な描き方とともに、ある種の不穏な音色を奏でている。と説明されています。

引用が長くなって、しかも引用が論文のような抽象的な説明なので、読みにくいかもしれません。引用した説明は、おそらく通説的なラファエル前派に対する捉え方だと思うので、そういうものとして読んでいただければいいと思います。それで、これに対して、私はどう考えているのか、ということをこれから簡単に述べますので、引用した通説と距離を見ていただきたいと思います。私は、ラファエル前派をまとまった芸術運動として、これ自体に共通した特徴を見るほどのこともないと思っています。ロセッティやミレイはそれぞれ自立した個性を備えた画家たちであって、彼らがラファエル前派兄弟団という団体を結成したといっても、たまたま、王立アカデミーの仲のいい学生たちが集まったという程度のものに過ぎないと思います。とは言っても、同じ学校で一緒に修行していたわけですから、彼らの地盤に共通性があって、一緒に活動していたので、ひとまとめた方が扱いやすい、ということではないのか、と思います。彼らを一人の画家として扱うには知名度はイマイチなので、ラファエル前派としてまとめるとちょうどいい。実際のところ、ミレイは好きだが、ロセッティはどうも…という人もけっこう多いのではないかと思います。だから、ラファエル前派展とは言っても、私は、ロセッティやミレイを見に来たという方がいいのかもしれません。でも、今回の展示のようにラファエル前派を一つの視点で斬って、それをまとめて色々な要素を見てみるというのも、新しい発見があるかもしれないと思います。その結果、どうだったかは、これから具体的に作品を見ながらお話ししていきたいと思います。

展示は次の6章に分かれていました。

1.歴史 History

2.宗教 Religion

3.風景 Landscape

4.近代生活 Modern Life

5.詩的な絵画 Poetic Painting

6.美 Beauty

2014年4月19日 (土)

マルティン・ゼール「自然美学」(24)

5.想像的判断

想像的自然の知覚は、人間世界の意味関連を持つ画像となった世界に向かっている。この知覚は芸術の彼岸で芸術の現実を目指している。自然美は、その第三の形式において、芸術の一つの特別な出来事である。

この投影的な想像によって喚起された出来事によって、我々は芸術作品の枠組みとは異なる仕方で判断をする。想像的自然は一つの芸術批評的解釈の対象ではなく、可能な限りの様々な解釈についての空想の対象である。我々が自然の芸術的仮象に即して行える諸々の解釈は、つねに投影された芸術作品にかかわり、それに対して、これらの解釈をわれわれが獲得する機会となる自然にはかかわらない。我々が有意味な仕方で自然に帰属させることのできるのは、自然があれこれの芸術の活動的仮象において現出しているという状態のみである。芸術作品の成功の対概念は、芸術作品の失敗である。想像的自然の即興的美や崇高の対概念は、芸術の成功という想像的自然のヴァリエーションが生じないことである。この観点から言えば自然美の対概念は、醜や雑、あるいは過度の美ではなく、むしろ美的芸術の気分において何も感じないことである。

形式的には自然についての想像的判断は、観照的判断と照応的判断のあいだに立っている。前者の観照的判断とは異なり、自然の想像的判断は自然の価値を低くする判断も心得ている。しかし後者の照応的判断と異なり、この想像的判断には醜の概念が欠けている。最後にこの点に実存的照応と想像的照応との隔たりが明らかになる。実存的美あるいは実存的崇高性の反対物が自然のある種の否定的照応にあるすれば、想像的自然観察の場合の反対物はまさしく芸術の形式との非-照応であり、これはたんに肯定的な評価の中止へと導く照応である。実存的に醜い自然は、その観察舎を敵対的に出迎えるが、それに対して、想像的に感受されない自然は、その観察だけに敵対者に向かってくる。この意味において照応敵対的であるのは、そこにおいて我々の構想の試みを、自然がいっさいの逆行投影的な回答に値しないと認めるような土地である。このような自然はじっさいのところ、ボードレールが包括的に指摘したように「想像を除外」しているのである。

それにもかかわらず、投影的に知覚された自然が、たんに何も感じさせないと判定されうるだけではなく、単刀直入に醜いと判定されうるように見えるかもしれない。それはすなわち、投影的に知覚された自然が駄目な芸術の再生産のように現出する場合である。

成功した芸術の上でのみ、自然を美しくあるいは崇高に即興することができると結論付けることができるかもしれない。しかしこれも全く正しいワケデハナイ。キッチュな絵葉書でさえも、成功を収めつつある画像のうまくいった幻想の出発点となりうる。自然の即興は、つねに成功した芸術の、あるいは成功しつつある芸術の想像である─すなわち、われわれが成功したものとして知っている芸術の想像であり、まず幻想の遊戯によって、一つの成功した芸術となるような芸術の想像、そしてわれわれに芸術の新しい形式を開示してくれるような芸術の想像である。芸術がその作品の形式と解釈を超越するときだけ、ようやく自然は芸術に答えを出す。自然は投影的に美しく、あるいは崇高である。というのも、自然はある一つの自然の構築物に全く対応しているわけではないからである。ここでは剥奪された対応のみが充足された対応である─これだけはアドルノの、想像に関する否定的形而上学に関して真実である。しかし、そこで「約束され」ているすべてのことは、事物の最終的な言語への憧憬が決して満たされ得ないということである。想像的自然は、我々が世界の中で自らの存在について抱いているもろもろの画像と対応しているように見える。しかしまた想像的自然は、それについて─もろもろの画像や世界について─到底十分に知らないこと、そして我々にとって一方は他方なしでは充分ではないこと─そして我々にとって世界と画像の統一は決して十分に満足のゆくようにはならないことを、我々に示しているのである。

 

2014年4月18日 (金)

マルティン・ゼール「自然美学」(23)

4.芸術の形而上学と芸術のイデオロギー

美的な自然関係に関する概念倹約的な解説は、第一により普遍的な、そして第二に規範としてより説得力のある規定を与える能力があるということである。しかしながら第二章において述べたように、ここで提案された解釈を与える能力があるということである。しかしながら第二章において述べたように、ここで提案された解釈の対極をなすのは、自然美の形而上学的誇張だけでなく、自然美を通俗化して蔑む態度もそうなのである。

a.芸術の精神から自然の誕生

19世紀の美学論議は、芸術と自然の関係に関する古典的模倣テーゼを反転させている。芸術の美的生産の原像としての自然から、自然の美的受容の原像としての自然が生じるのである。オスカー・ワイルドは「芸術が人生を模倣するよりもはるかに多く、人生は芸術を模倣する。ここから引き出される結論は、可視的な自然もまた芸術を模倣するということである。自然がぼくらに提供できるただ一つの印象は、ぼくらがすでに詩か絵画を通じて知っているということである。これが自然の魔力の秘密であると同時に、自然の弱点の説明でもあるわけなのだ」と言っている。ワイルドの要点は「芸術が存在したところにのみ、美的自然は生成し得る」つまり、美的な自然知覚のすべての形式は自然を芸術に連関させて知覚することに由来している、ということである。

この立場は、美的自然に関する三つの局地的なイデオロギーのうちの三つ目を強調している。それは、自然の美的知覚すべてが芸術に依存するのみならず、明示的にも暗示的にも自然の美的知覚すべてが芸術に関連するものだというイデオロギーである。他の二つのイデオロギーと同様に、このイデオロギーもまた美的自然知覚の三つの観点の一つを、それらのうちの唯一の基本型に高めようとする。たしかに、我々の美的自然の感受すべては、芸術と分かちがたく結びついている。それは正しい。だからといってそこから結果として、自然への美的連関が総じて芸術の画像に従って遂行されることが結論付けられるわけではない。

b.アドルノの逆行

一つの点において、自然が芸術を模倣するという逆さまの自然模倣テーゼは半面の真理以上のものを含む。芸術の想像が自然にどれほど関連しようとも、芸術の想像は自然を模倣するわけではない。自然が原像として芸術の記号のために役立つには、自然は広い意味で一つの画像的記号として見られることがすでに可能でなければならない。自然を芸術的に「模倣」することは、自然と世界を芸術的に提示することを前提としている。芸術を美しくあるいは崇高に投影することなしに、芸術が再び対応しうる自然、あるいは対応し得ないであろう様な自然の分節化は何ら存在しない。すべての模倣理念は、自然自体がまさに想像的に現出するときにはじめて意味をなす。それによって芸術はその仮象に満ちた表出活動へと自らの側で接近するよう試みることができるのである。

そのように読めば、第二の自然模倣テーゼは、第一のテーゼに対する一つのこの上なく説得力のある批判を含んでいる。それは想像的自然の形而上学への批判である。この想像的自然の形而上学とは、自然のうちに人間によって貸与されたのではない独自の想像の芸術作品を見る形而上学である。この想像的自然の形而上学は、前章で却下されたのではない独自の想像の芸術作品を見る形而上学である。再び自然の「言語」という思考が中心となるが、今回は自然から人間への雰囲気的な語りかけと言うよりは、むしろ自然の漠然とした画像の力強さが意図されることになる。そして、それを解きほぐすことが人間によるあらゆる芸術作品の本来の課題となる。

アドルノは、「自然の美的経験とは、芸術経験と同じように画像経験である」。観照的でもなく照応的でもなく、主として芸術の様式における一つの画像感覚的な経験として『美の理論』の自然は現れている。芸術美との絡み合いにおいてのみ、自然の純正な想像は生じうる。アドルノは芸術と自然との一つの規範的な相互依存のテーゼを定式化した。自然の想像的画像は、芸術なしには想定不可能な、それにもかかわらず芸術にとって「画像化するのが不可能」な、いかなる芸術の形式によっても置き換えが不可能な画像である─つまり、生動的な芸術や世界の画像としての生動的世界なのである。このような自然美は世界と芸術についての一つの自由な想像のための空間を提供するのである。

アドルノの自然と芸術との相互依存テーゼは、第一の模倣テーゼのロマン的異解の一つの新装版として了解してほしいのである。考察全体の重要な論点は以下のとおりである。「自然は、それがある通り以上のことを語っているかのように見えるというところに、その美しさがある。この過剰をその偶然性からもぎ取るということ、その仮象を意のままに操ること、仮象として仮象自体を想定し、非現実的なものとして仮象を否定しもすること、それが芸術の理念である」。規範的な相互依存テーゼの反転はこれでなされた。アドルノは、想像的に知覚された自然が芸術の仮象において現出するという事情を、われわれに身近な自然の欠陥、ならびに真の接近をしえない芸術の欠陥だと解釈している。仮象はこの欠陥を充たすものではない。こ欠陥は、芸術の超現実的で即興的な仮象としての自然が、芸術と世界との戯れの可能性を開くことによって充たされるものではない。芸術の仮象は、もはや仮象的ではない現実に無条件的に関連付けられることになる。すると変容的な仮象への距離を置くことがもはや必要なくなる、という恐れがでてくる。この転向に従えば、自然はもはや芸術についての模倣し難い回答ではない。芸術は言葉にならない自然の意味の絶望的な模倣である。アドルノの古典的模倣テーゼへの逆行は、同時に照応的自然の形而上学への逆行なのである。

2014年4月14日 (月)

マルティン・ゼール「自然美学」(22)

c.美の想像と崇高の想像

我々の考察の結果には矛盾があるように見える。想像的な自然知覚は、美的芸術の知覚の本来の形式の一つである。しかし芸術作品が自然の仮象を有することが芸術作品の成功の条件である。ということが正しいのなら、想像的芸術と想像的自然との結合が理解できることになる。想像的な自然知覚は、芸術が自然であるかのような仮象を呼び起こすものである。この知覚は芸術形式の側だけで成功しているような、すでにある芸術形式を模倣するのではない。

そこでは次のような推測が真実であると証明される。つまり自然に関する想像的関心が、芸術の側のみに向けられているのではなく、同じくらいに芸術の側から動機付けられた関心であるということである。ただし、投影的に知覚される自然への関心と投影的に呼び覚まされた作品群への関心との間には、一つの重要な非対称性が見出される。想像的自然への関心は、つねに芸術の想像への関心である。これに対して芸術の想像への関心は、通常は同時に想像的自然への関心ではない。これはたんに以下の理由による。つまり、自然を想像的な仮象とする訓練なしに、芸術への知的関心を想定することを可能にするのが難しいからである。にもかかわらずいかなる個別の芸術作品についても、その作品がその芸術形態において把握できるようになるためには、自然に投影されていなければならない、と語ることはできない。想像的自然についての一般的関心は、それゆえにあれこれの芸術作品についてのいかなる関心でもなく、それはむしろ芸術作品の数多性と多様性における芸術の生命力についての関心なのである。この関心から自然美の一つの特殊な質自体が発生することが、こうして明らかになる。自然についての自由な想像は、芸術についてよりよく知覚するための手段ではなく、それ自体でただ一つの無比の芸術の形式との出合い方、そしてそれとの交わり方なのである。そのように見られた自然が我々を魅了するのは、その自然が我々の表象を芸術的にうまくいったもので驚かせながら満たすか、あるいは当惑させながら凌駕するからなのである。

以上によって第三の美的自然の次元において美と崇高の間の相違を伝えている箇所が指摘された。狭義で美しいのは、想像的自然が芸術や芸術作品について持つ我々の理念に驚きを伴いつつ対応する場合である。そして想像的自然は、このような了解を当惑させながら凌駕する場合に、特別な意味において崇高となる。

芸術の「投影」から一つの「即興」が自然の側において産み出されることは、自然の美しい様態ならびに自然の崇高な様態の前提条件である。投影的に知覚された自然が美しい、あるいは崇高なのは、そこに投影された作品や様式の遊戯的な変容を見る「幸運に恵まれる」そのときだけである。このような変容の方法があって初めて、想像的自然美の双方のあり方の相違が決まる。美しい即興で起こることは一つの刷新であり、崇高な即興において生ずることは既知の可能性からはみ出すことである。

想像的自然美驚くべき展開をする。それはどのような種類の芸術の記憶の中においても発展することができる。たとえそれが崇高の美学あるいは恐怖の美学による芸術であるにしても、である。タトエバ、カスパー・ダーヴィト・フリードリッヒの果てしなく茫洋と広がり、空しくも見える薄暗い荒々しさのような風景はまさに以下の点において美しい。つまり、その画家の技が思いがけずその風景を産出するということ、しかもこれまで見たこともない方法でその風景を現出させるということにおいて美しいのである。改めてここで照応的な自然直観と想像的な自然直観との間に割れ目が現れる。照応的な意味においては明らかに脅威的であり、拒絶的であり、あるいはされどころか醜い自然の断片や土地は、想像的な直観にとってはむしろ美しく現出する。想像的自然は、成功した芸術の自由な活性化および現実化として美しい。

崇高な想像においてはこれに対し、これまでの芸術の成功自体を意のままにできる。自然の画像は、未だにいかなる芸術作品にも対応しておらず、おそらく今後も決して対応することはないであろう様な成功の始まりを示している。このような仮象の基点となるのもまた、周知の芸術形式にその端を発する投影的転化である。しかし自然の現出の戯れによって起こる変容はこの場合、押し破るような即興の特性を持っている。自然と言いう舞台で観者に立ち向かってくるのは、すでに知られた芸術における新しい画像ではなく、これまで知られていないし、これまで一度も存在しなかった芸術の画像である。想像された作品はジャンル間の境目を無効にし、この上なく異種混合的な総合芸術さえやらない仕方でジャンルの特徴を結びつける。自然に即して想像される芸術は、芸術を通して生み出され、芸術から生じ、芸術として現前している現実の印章、いかなる崇高な芸術の仮象は、想像上の芸術の仮象である。

2014年4月13日 (日)

マルティン・ゼール「自然美学」(21)

3.想像的意識

投影的で美的な想像は、空間における一つの事物や空間における一つの空間を機縁とした、世界としての芸術の自由な直観であり、かつ芸術としての世界の自由な直観である。このような規定においては、自然はもっともな理由によってまだ話題にされていない。「投影的で美的な想像は、自然としての芸術の自由な直観であり、かつ芸術としての自然の自由な直観である」。この命題は間違っているかもしれない。投影的想像についての我々の分析が自然知覚の諸々の例に方向づけられていればいるほど、そのような自然知覚が自然らしさのない与件についてもなされうるということが、事例に関する我々の議論の結果に含まれるのである。

a.それは自然でなくてもよい

「自然の芸術」の唯一無二性についての疑問に対する我々の最初の回答が十分でなかったことは容易に見て取れる。この回答は単に投影的に産み出された自然の芸術に当てはまるだけでは全くなかった。この回答は、暗黙のうちに想像的に知覚された外的世界の美的状況にも当てはまった。厳密に注視してみると、想像的「自然の芸術」はある一つの一般的な「事物の芸術」の変種であることが判明する。そのような事物や出来事は、たしかに芸術-作品ではないが、まるでそれらが芸術作品であるかのように見える物事のことである。それは自然らしさを湛えている必要はなく、同様に自然らしさがない与件でもありうる。我々がこのことを明確に理解しい初めて、自然の芸術-仮象の本来の意味に対する疑問への、より良い二つ目の回答を獲得する見通しが立つのである。

しかしさしあたりここでの事情は観照的態度と同じである。すなわち、それは自然でなくてもよい。あらゆる、どのようなことも、それがまるで芸術でもあるかのように知覚されうる。古典芸術であれ現代芸術であれ、芸術におおよその造詣のある人ならば、その芸術的構想を前にした時、何も、そして誰も確かなことがないのである。その人は、都市や建造物をその芸術家の芸術的見解に即した様式で見ることになるだけでなく、すべてのものについて、実用的かつ日常的な意味や役割からして何であるか、それほど単純ではないかのように見ることができる。日常的な事物を、生活世界においてはまったく必然性のないものの記号として、その提示として、それについての反映として把握する。芸術に結びついた幻想において、我々は芸術のイディオムを世界の事物に与えることにより、それは自ずからではなく、我々の側から一つの言語を獲得するが、その言語はやがて、まるで自分から語っているように見えるのである。

人工的客体や人工的領域ならびに人間関係ではなく、自然だけが我々の投影的問いへの即興的回答をすることができるのであれば、想像的自然の特殊性はそもそも、すでに我々の戯れと自然が戯れるのを記述することのうちに示されていることになろう。しかしながら我々はその特殊性について、軽く扱うことはできない。人工的かつ社会的な諸々の現象もまた、我々の想像の戯れと戯れるのを駆り立てることが可能である。

b.芸術の修正としての自然

想像の仮象的結果に、まるで自然のように見える出来事の特質を認めるという、ほとんど避けようのない強制。投影的知覚において一つの自然化が忍び込む。この自然化は、そこにおいて想像的審美化が生じる現象の、最初の意味を否定するところに成立している。人工的なものや意図的なものにおけるあらゆる芸術-仮象は、結果として一つの自然の仮象とその人工的な仮象とに至る傾向がある。何かが、それが自然であろうとなかろうとどちらでもよいが、即興的な芸術の仮象として知覚されることが可能となるためには、それは近似的に自然として、つまりまるで自然のように、偶然的な出来事のように知覚されなければならないのである。

このような考えは、観照的知覚で自然の果たす役割に対して際立たせられたことと類比的な一つの帰結に至る。芸術の即興として、人工的で社会的な環境が現出するのは、それらの環境がそれにもかかわらず自然のように、意図せずとも成立し生成したもののように一定の意味において把握されるときにのみである。芸術を主題とした世界のあらゆる「即興」は、したがって自然の芸術との一つの戯れのようである。美的観照のように、投影的な美的想像は自然のある一つの効果をつねに見ているもののすべてに見る。結果としてそれは、自然やその仮象において、その芸術渇望的な幻想の反映を見出すのである。

これは、想像的に知覚された自然の特殊性についての問いへの、求めていた「二つ目」の回答のように見える。自然の芸術-仮象は、あらゆる投影的かつ美的想像の原像である。それはたしかに一つの正しい回答である。しかし、それは想像的自然の十分な魅惑を正確かつすぐれた仕方で根拠づけるにはあまりにも弱すぎる。問題設定を裏返して初めて、我々は事柄の核心に至る。自然の想像が芸術の想像に依存すればするほど、芸術の想像もまた自然の想像に依存する。自然が投影的に想像されるためには、すでに諸々の想像─つまり芸術の想像─がそこに存在しなければならない、ということがただしいのであればあるほど、我々が芸術の構成的想像についてまさに正当に評価できるようになることも。また正しいのである。自然についての想像的関心は、芸術の革新的創出ならびに生産的な知覚への関心の内にある。想像的に知覚された自然、「いかなる芸術によっても達成不可能な芸術への回答」は、あらゆる芸術の強度の一つの条件である。芸術の記号として想像された自然は、芸術上の想像、そして芸術に関連した想像にとって代用不可能な修正となっている。自然の芸術仮象に対応するのは、芸術の自然仮象である。

2014年4月12日 (土)

マルティン・ゼール「自然美学」(20)

b.画像および舞台としての自然空間

我々はいまや投影の手続きに関しての、一つのより良い洞察を得ている。その手続きは、空想に耽りながら芸術の構成的な想像に関わる表象方式のうちに見出される。そのさい注意しなければならないのは、私が芸術の想像について「想像上のこと」との関連から語っているのでもないし、その作品に「想像上の客体」という肩書をわりあてているわけでもないということである。いずれにせよどちらも、ある点で、狭すぎるか広すぎるかであろう。「美的想像」という言葉で、ここで意味しようとしているのは、状況形成的見方か世界形成的見方のどちらかを提供する─あるいはあたかもそうだと理解されうるような記号を発見し、構想し、知覚し、了解することとなる。ここで我々にとって興味深いのは、二番目の非実在的な場合の方である。自然は外的世界の断片であるが、それはまるで芸術作品の内的分節性を含んでいるように現出する。自然の客体あるいは自然の場面の感性的連関は、新種の意味連関となる。それは、照応の類における意味付随的な仕方ではなく、むしろ芸術という様式における画像感覚的記号である。

ある一つの意味画像において、人は通常ある一枚の画像か文学的テクストを了解するが、その画像やテクストとは、画像的でない仕方で(あるいは文学的でない仕方で)把握できる意味やメッセージを直観的に代弁している。そこで問われるのは、美的でない博多で把握できる意味についての諸々の美的画像なのである。自然の美的画像形成はこのような類には属さない。芸術の仮象における自然は、まさに何かについての意味画像ではないのであって、画像感覚的に、自律的芸術作品のあり方と類似しているのだ。そり投影的に獲得された意味は、他の媒体に譲渡することもできないし、その現出の感覚的多様性によって取って替わられることもできない。想像的自然とは、従って、それがきっかけとして見出されている芸術についての紋章では決してない。自然の画像的感覚を産み出すのは、芸術を題材とする自然の「即興」だけなのだから、その感覚は、何によっても、つまり投影された作品によっても代弁されたり置き換えられたりすることはない。このようなことは、我々が自然に投影しているものがなんと実際に紋章的意味画像である場合でさえあてはまる。自然の芸術的仮象は、自然をも芸術の能力に対する画像感覚的回答へと変容させられるのである。

私は先に、想像的自然とは、どんな芸術も到達することのできないような可能性を持った芸術のように現出すると述べたが、それは以下のように言い表すことができたかもしれない。想像的自然とは、どのような芸術も到達不可能な芸術に対する解答のように現出する、と。したがって、このような自然との関係は自然との「照応」という名にふさわしかったであろう。そこから結果として生じるのは、自然との美的照応の二つの概念、つまり「実存的」照応と「想像的」照応とのを可能な限り厳密に区分するという課題である。明晰性という根拠からね、私はそのさい(美的)「照応」という用語を、たとえ付加語なしで使用しようとも、以前の章において展開された意味において実存的美的照応のためにとっておきたい。

何が実存的自然の照応と想像的自然の照応との違いをなしているかは根本的に明らかである。何と照応するか、ということがそれぞれ異なっているのだ。前者の場合、自然の諸々の形態は善き生についての我々の表象と照応している。後者の場合、それは芸術という可能性、すなわち人間の生の想像的記述の諸形式と照応している。あるいは、次のように言うこともできるかもしれない。ある場合には、我々の関心は、自分自身の生を直観することであるが、別の場合には、芸術家による生の解釈の直観とヴァリエーションとに関心が置かれる、と。この根本的相違は、手短にではあるが掘り下げるべき更なる区別をもたらす。想像的に知覚された自然は、その照応的に体験された現出とは異なる一つの空間を構成し、またそうした現出とは異なる一つの表出を示すのである。

実存的照応において美的自然は、知覚する主体が存在する状況の表出であり、その状況の一部である。この知覚においてほとんどすべての感覚は、多かれ少なかれ同等に等しく参与している。ローザ・ルクセンブルクの湖の思い出の中で、感知された陽の光の暖かさや葡萄畑の雑草の臭いは、周囲を取り囲んでいる感動的なパノラマに劣らず非常に重要なのである。前章で述べた自然空間は、遠くや近くから感覚された空間であると同様に、遠くや近くとして感覚された空間でもある。そうした限りで、その自然空間は完全な意味で照応的空間、つまり照応的に満たされた空間なのである。想像的照応の場合、話は異なる。この別の照応の場合、空間は分割されもするし裂かれもする。ここにおいて自然空間の諸部分は、投影的幻想のために提供される。このような想像の舞台は、想像が生じる生の場所と同じではない。美的に想像された自然は、それぞれの環境の範囲内で行われる演劇のような特質を持っている。それゆえ、ここにはしばし理想的な観察の立場のようなものがある。この立場は、実存的照応に満たされた空間においては必要ないし、まして観照的空間経験においてはまったく論外である。この理想的な観察の立場は、このような演劇をその観察の仕方によって始動させるのだが、その立場それ自体は、演劇の中には存在しない。実存的照応経験の場合とは違い、この立場は、仮象によって導かれた知覚の位置とその反転した位置を通して、その演劇の事実的状況によって起こる出来事に参与することはないのである。それに応じて、ここでは感覚に誘発され巻き込まれた状態がはるかに弱まる。投影と想像、これらの言葉で訓練された耳の扱う業務である。目と耳以外の感覚を持つ、対象との至近性は除外されているのである。照応的─そしてまた観照的な─知覚とは異なって、諸々の現出空間への距離は自然を想像的に楽しむ基本条件なのである。

c.現実にはない芸術

照応的自然の魅力的な饒舌、つまり表情豊かに分節化されたあり様は、ここでいわばある一つの自立的な語りの諸形式に惹き戻ってゆく。ここで人は実際に、自然の「言語」について語ることができる。もっともこの言語とは、人間が自然から借りた言語であると意識せずに聴き取ることは出来ないのだから。自然は、家畜化された動物を除いて、人間に向かってこの唯一の言語を操れるが、それは人間から借用した芸術の言語にほかならない、それでももし我々がこの隠喩性について語ろうとする場合、自然は、我々が芸術に貸与しているある一つの仕方で、つまり、芸術だけでは支配できないある一つの仕方でその言語を語る、と言わなければならないだろう。自然は芸術の唯一無二のイディオムを語るのである。

しかし、いまだに明確でないのは、この「自然の芸術」の唯一無二性とは一体何なのかということである。暫定的ではあるが、今それに一つの回答を与えることができよう。自然の芸術的仮象の特殊性とは、その芸術的仮象において人間世界の記述を、我々が再度その世界の一部として経験するということである。自然の芸術的仮象において外的現実は、まるで世界を形象化する意味連関の想像的な展開が自然の作品であるかのように現出する。生の現実の只中において、可能的な生の現実との想像的な出会いの可能性が現れてくる。自然についての投影的想像が成功すると、外的世界は、世界における現実的存在ならびに可能的存在についての我々の画像のヴァリエーションとなる。従って想像的自然の「芸術」の実質は、これによって日常世界と別世界の芸術的呈示との突然の共存にあるのだ。その自然の想像の空間は、現実世界の空間として現出する。この空間は、芸術-空間の移ろいやすく気ままな仮象であるから、その空間は現実の作品の記号的存在がなしうるよりも、人間の日常生活へ接近する。芸術から離れたところで、芸術への極限の接近が生じる。「自然の芸術」とは、とても奇妙であると同時に、現実的な芸術よりも現実味のある「現実にはない芸術」である。

こうした自然のシュルレアリスムは、直截に知覚された芸術作品によっては与えることのできない想像の自由を開示する。この自由は、想像がそのなかで生じる世界の実在性にも、そこから想像が始まる芸術の手本にも囚われない。そうすると美的自然は、われわれを芸術の個々の形式の要求や特定の解釈の要求から解放するような芸術との出会いである。仮に言ってみれば「自然の芸術」とは世界と芸術の自由な想像なのである。

2014年4月11日 (金)

マルティン・ゼール「自然美学」(19)

2.世界との戯れ

風景を眺めた瞬間に、心地よい、その風景の側にうまく適った想像を思い起こさせるか、想定できなければならない。その助けによって、私は自然を芸術として想像することが可能となる。もとより、我々は二重の想像とかかわらなければならない。自然についての投影的想像は、芸術についての構成的想像を拠り所としている。この二重化においてのみ、芸術様式において即興される自然の戯れ、そして様々な芸術様式によって即興される自然の戯れが生じる、そうすることによってのみ、自然は芸術との戯れとして、そして同時に世界との戯れとしても成立する、ひとつの戯れの媒体となる。こうした戯れの意味をよりよく理解するために第一に必要なのは、芸術の想像について理解すること、第二に想像的自然の空間についての、より詳細な記述をすること、そして第三にあらゆる芸術を超え出てしまっている芸術の想像的自然空間にいてのより厳密な規定をすることである。

a.芸術の想像についての補説

芸術の投影的活性化の基盤をなす芸術のあり方は、芸術の諸々の機能のうちの何か一つの機能ではない。それは芸術の正真正銘の基本的機能なのである。私はこれを芸術の想像的あり方と名付けることにする。このあり方は基本的である。というのは、少なくともこの機能を満たすこと、あるいは満たすことを要求すること技術の産物のみが、狭義での芸術作品と呼ぶことができるからである。このことはその機能において、芸術作品だけが存在権を持つとされるということではない。この芸術の基本的機能は、芸術にとって唯一の重要な機能というわけではないのである。芸術のひとつの限定的な概念なのである。ここでは、さしあたり、想像的自然の了解のために芸術の想像的エネルギーを了解することにしたい。

芸術の構成的想像は、世界を形成する視覚方法の発見的な分節化を目指している、と私は言いたい。それは、芸術とは人間世界の直観的記述を使命とする伝統的把握の単なる一つの再定式化に過ぎない。ここで言う世界とは対象的世界ではなく、文化的な意味連関の世界であり、そこにおいて事物や出来事が人間にとって意味を獲得するような世界なのである、芸術が分節化するのは、したがって、ある事態が何なのかについてではなく、ある事態がどんな可能性を持つか、その有意義性を問う文脈なのである。芸術作品は、対象化できない人間の世界内存在を、それでも芸術なりに「客体化する」、つまり経験にもたらすか、直観可能にする客体なのである。ひとつの芸術作品が常に提示するものが何であれ─それが悲劇的な心の葛藤であれ、りんごの載った皿であれ、あるいはその作品が可能な何らかの条件であれ─内容に関して作品が我々に指示していることについての、ある一定の視界を分節化するということである。芸術との出会いとは、このような考え方に従ってみれば、何かと出会うという人間の状況の記号化であるような、そうした形象と出会う状況のことであるということもできる。

芸術作品とは、特別な種類の美的な客体である。その基本的な枠組みは、他の二つの美的対象の基本型と比べてみれば見間違いようがない。純粋に観照する客体と異なって、芸術作品は一つの記号である。それはたんに世界の中の一つの客体ではなく「世界について」の一つの客体である。芸術の記号とは、内的世界における現存在と情態の表出である。照応の表出力豊かな対象と異なって、やはり表出は喜寿的表出となる。芸術作品の想像とは、ある特定の生の状況を創出するのではなく、世界内存在の諸状況を記述する。他のすべての種類の記述的記号─ここで私が意図しているのは、知覚の叙述や解説文の類であるが─と異なって、芸術作品は事態の記述ではなく、かかわったりかかわられたりする人間と事物や出来事との連関、そして出来事と出来事との相互連関という特別な形式の記述を、その連関的記述を再び事態の特定に逆流させることなしに目指している。芸術作品は、視覚方法を視覚方法として提示する。芸術作品にそれが可能なのは、芸術作品がつねに何かを呈示するにせよ、提示するところのものを押しなべて次のように呈示するからである。つまり、芸術作品は、作品を呈示する手法を呈示するのである。

芸術作品は記号であり、芸術作品の意味は、その作品がどのように示し、何を示すかということを示すことにあるねということは現代美学の一致する基本原理であるだけではない。芸術作品は、作品内容を呈示する形式を呈示すると言うこともできるのである。より普遍的な基本原理として通用するように、「内容」の概念をここでは可能なかぎり広い意味で了解しなければならない。芸術の「内容」や「テーマ」とは、物語やアイディア、出来事、人物、気分、色彩の組み合わせ、音の響き合い、生理学的ならびに社会的知覚の型、そして芸術の手段や芸術様式に至るまで─一言で言えば古今の芸術作品において、つねにもっぱら「問題であり」うることであるといえよう。そのように読み取ると。芸術作品とはそれが提示するものをどのように提示するかを提示するものである、という定式は、あらゆる芸術における手法呈示的観点を強調するものである。記述形式を知覚することによって、記述されたものについての知覚を導くのが芸術の提示形式である。では一体このような形式に即した提示方法の意味は何かといえば、それには芸術の状況呈示的観点への注意が先ずその一つの回答を与えてくれる。すにわち、芸術はたんにその提示手段を示すだけではなく、むしろ、実施手段を示すことによって、我々がいつも芸術の「内容」として発見していることについての有意性を問う文脈を分節化しているのである。それは次のように言い換えられるかもしれない。芸術はそのつど、テーマである何かとの出会いの地平を分節化する、と。従って芸術形式に注意を払うことは決して自己目的に役立っているのではなく、作品において認識可能な諸々の内容をその作品自身が構成し特徴づけるような方式にかかわっているのである。芸術形式への注意は、芸術の内実に向けられる。この内実は、芸術制作を行うさいの相互作用と密接に結びついているし、他方でこの内実は、解釈に取り戻されうるようなものでもない。芸術の対象は、その内容(指示されたもの)でもないし、その形式(指示の手法)でもない。それは、あらゆる種類の「対象」についての経験飽和的、状況依存的で世界包含的な見方なのである。

芸術との出会いは、それは何かと出会った(具体的な、あるいはまた一般的な)状況を記号化した形象と出会う状況のことなのである。芸術作品とは、しばしば言われることであるが、それぞれの状況において意のままにならない我々の世界内存在の諸側面を言語化するということである。芸術作品は、その記述する形式の力によってそのような世界内存在のあり様を世界にもたらすのだ。しかし我々の見方の変化が芸術経験の重要な作用であればあるほど、芸術経験がどのようにしてこの変化に影響を与えているのか、ということが決定的に重要である。付言すると、それはすべての提示されたものとの関係がそれ以外の仕方では直観されないかまたは把握され得ないような状態に至る原理的に開かれた記述による影響のことである。この記述は、受容者にその人自身の見解との一定の距離、つまりその人に(極端な観照の禁欲とは異なる)実験的な探索やコミュニケーション的伝達の余地を与えるための一定の距離をとらせることになる。その記述は、現実を形成する意味連関と出会うために、現実の意味の地平を超える。芸術の分節化形式は、それぞれの現在に属している人々に、彼らが現に在ることを直視させるために存在するのである。

2014年4月10日 (木)

マルティン・ゼール「自然美学」(18)

第3章 想像の舞台としての自然

1.芸術という仮象

a.投影

ここでは、自然美は美的仮象から生じるということから逃れられない。ここで自然美はさまざまな美的質を具体的に示すが、それは自然美がまるで芸術の形式との連関があるかのように知覚されたときにこそ、為されるのである。このように知覚する場合、我々は自然を─観照的な自然として─つまり諸々の現出の純粋な戯れとして把握するのではない。自然の外見上の生命に、芸術の様式や形態を投影するのである。ここで、我々は自然の「戯れ」との戯れを戯れる。自然がこれによって得る表現は─照応の場合と異なり─芸術によって開かれた生の現実を形成するものではない。この表現は、芸術的に再現された生の関係についての、距離のある表現である。実際、自然の諸現象にこのような表現があることに、表出的な質の意味はない。自然にそうした表現が洞察されるのは、このように見えていることが本当ではないと意識した時である。このような自然が美しいと言うのは、立派な実存空間としてではなく、世界についての比類のない画像空間として美しいのである。第三の美的関係において、自然は芸術の想像である。

とはいえ、この自然は単に我々の幻想によって人工的に作り出された産物ではない。自然が芸術の仮象となるということは我々の投影的な構想の結果である。しかし、自然がその仮象に満ちた芸術の饒舌状態の中で、形象を成すために示す何らかのものは、決して投影的な知覚の暴力のなかにあるだけではない。芸術を自然に投影することは、制御不能な逆行投影の動きを生み出すのである。芸術の記号の中で想像的に知覚された自然はいずれも、芸術のたんなる複製とは異なる。この自然は、過去、現在、そしてさらには未来の芸術の形式や可能性との唯一の出会いの舞台である。

ここで自然を知覚する際には、「として」-知覚することであり、それは「であるかのように」-知覚することを前提としている。自然らしい諸現象には、自然それ自体にはないような、記号による統一構造が当て嵌められなければならないのである。選択が為されなければならず、規則がもたらされ、自然によって引かれることのない境界が引かれなければならない。

b.即興

この場合、想像的な自然知覚を、自然との照応的な関係の産出として描写する傾向、より厳密に言えば、想像する傾向が認められる。というのも、両者においては想像的な自然知覚がつねに同時に、夢見心地な、あるいは非現実的な感覚として示されているからである。自然の芸術-仮象になることには、もう一つ別の現実の、たんに芸術のみならず生の仮象としても大いに意味を持つと言える。しかし自然についての美的想像を、自然とのより高度の照応、つまり生の高揚した現実の予感として経験したり解釈したりする必要性は全くないのである。自然が芸術の仮象となることは、それ自体で充分こと足りているのである。それにもかかわらず想像的な自然知覚にみられる文学的客体化の傾向は、決して偶然ではない─そこには二つの根拠がある。第一に、想像的な自然知覚は、決して純粋ではなく、つねに直観的な性格を持つのであって、それはすなわち対象に結びついた構造だからである。第二に、その芸術的再現は、照応的に経験した現実についての再現へと、ほとんど逃れがたく移行しているからである。

それゆえ、客体化の傾向は一方で、想像的に自然を直観する場合にテーマとなるのは、たんに芸術に与えられた知覚方法の観念連合的な再発見、つまり単に空想的な観察者だけに帰せられるような再発見ではないということを言っている。知覚の側での投影に対応するのは、むしろ投影的に審美化された諸現象の側での即興であることがしばしばなのである。その対応がうまくいった場合には、人工的な基準に従って解釈された自然の現出は、いわばこの解釈の図式と戯れるのである。その時には「自然による芸術の模倣」は、たんなる複製を遥かに上回ることになる。自然による芸術の模倣は、何か「うまくいく」ものでなければならない。我々は芸術形式を見つけ出さなければならないのである。そして自由な自然は、生産的な仕方で構想の戯れを戯れることを我々に許すような諸形態の中で、偶然に提示されなければならない。自然がこのように出会いにおいて獲得する魅力は、芸術審美的な投影に対して自然がしばしば刺激的な感受性を持つことに起因している。この観点の下では、自然が美しいのは、自然が、まるでわれわれによって投影された芸術形式を即興することだけを待ち構えているように見える時である。

これこそ本来的に自然の想像的知覚が産み出す仮象である。自然はたんにある種の芸術のように現出するのではない─そうであればたんなる投影であり、美的な意味でそれ以上に興味深いものではないだろう。芸術の譜面に従って我々が即興するのではなく、自然が自然の下に敷かれた芸術形式の上で即興するのである。このことを説明しているのが、自然を想像的に観察するさいの様相である。我々は投影し、自然は即興する。自然をきっかけとして、芸術に因んだ何かを見出すのではなく、我々は自然をまるで芸術の想像の産物のひとつであるかのように直観するのである。我々の想像の目標は、自然の想像という仮象に浸ることなのだ。これが成功したところにおいては、自然はどんな芸術も到達することができない芸術の可能性として現れてくる。この芸術の可能性とはそれ自体、仮象ではなく、われわれが投影的に創出した自然の芸術的仮象に基づいて構築された直観形式である。

ここで問題としたいのは、次のことである。すなわち、─芸術の事例は、この問題に役立たねばならないのだが─我々が自然を芸術の反映において芸術として知覚できるようにするように自然を表象すること、つまり自然が芸術の反映において芸術として知覚することができるように自然を表象すること、つまり自然が人工的な構成物であるということをよく意識した上で自然を表象することが問題となるのである。

2014年4月 9日 (水)

マルティン・ゼール「自然美学」(17)

5.照応的判断

美的な照応的知覚は、それが形成されかつ形成する人間的生の可能性として直観的に認められるように、意味付随的な世界にも認められる。この照応的知覚は、形成されたものが常に形成するものとなる場所を、自然の中に見出す。照応的知覚の形式は、作られたものではなく、相互主観的な生の構想に対する応答として生じる。

観照的判断と異なり、照応的判断は客観的判断である。つのれ、照応的判断は、判断の対象について規定的なことを述べ、表出や特性を与える。判断が解説されるための説明とともに、判断は価値附随的発見を表明する。地域がこの洋特性をもつひと、その現存がこのような印象を生じさせることなどのことは、ここでは一つになった判断である。これらの結合は、「風景を伴った実存形成」について語るときは重要である。この判断は、ほかならず風景における主観的体験に回帰することによって説明できるということが、判断の相互主観的な要請の土台を掘り崩すことはない。というのも、この体験は、判断の側からすれば風景の影響力ある形態に対する応答として了解されるからである。そもそも風景が我々の体験に反応することはない。我々が、風景の特性や雰囲気として発見するものに対する感受性を備えているのである。

この発見が、開かれた、あるいは閉じられた生の領域に関わっていることは、照応的判断に特別な地位を与える。それは、範例的判断である。自然の照応的性質についてのどの証言も、同時に、成功している生の観念を指示する。そのような証言に関わる人々は、この観念が自然の傍らで確証されているのを見出し、またその観念を自然において獲得し、あるいは疑いの目で見る。現れつつある生の可能性としての自然の性質についての証言は、同時に、現に現れている生の可能性の性質も指示する。それにより、この証言は実存的構想の方法を直接的に指示する。この構想に結びついて、地域はその都度、美として、醜として、あるいは崇高として現れる。自然がこのように問題となることによって、諸構想も問題になる。その内容については、照応的に理解された自然が、直観的に明白に語っている。自然が直接話法で非常に不完全な状態でのみ話題にされ、説明されることがあり、それゆえ、とりわけ範例的に熟考され、取り扱われねばならないということが、実存的構想の構造に含まれているのは偶然ではない。照応する自然はそれゆえ、同時に、生の可能な諸構想の実現しつつある表出であるだけでなく、また、そのような構想の妨害や打破として現れるだけでなく、肯定的反映、あるいは否定的反映、または崇高な閃光として経験される観念をも象徴している。自然は雄弁であるだけでなく、自然が表出しているものについて語る卓越した場所でもある。自然はコミュニケーション的交流の場所でもあり、その交流において人間は、いつもはわずかな直観しか存在しないものについて相互に直観できる。これが自然の美的照応の更なる意味である。

2014年4月 8日 (火)

マルティン・ゼール「自然美学」(16)

b.象徴と同じくらい現実に乳と蜜の流れるところでは

照応する自然の経験は、私の考えでは、それが存在の肯定形而上学あるいは仮象の否定形而上学によって導かれていないのならば、また、そのような経験の意味付随的表現が人間的実践の非人間的形態として認められるのならば、はるかに豊かなものである。肯定形而上学および否定形而上学を越えて要求される世俗的な照応概念だけが、あらゆる美的な照応的経験の基礎概念として役立ちうる、と私は仮定する。そのように見るならば、照応的な自然知覚の世俗的ではない形式、あるいは、ただ世俗的なだけでない形式はすべて、厳密な意味で美的経験と照応的経験の両方を含む経験の特殊形式となる。

形而上学的な理論は、まさにこのような厳密な照応概念に基づくことを拒む点で特異である。それは、美的照応と理論的観照の間にある相違を消滅するに任せる。その意味で、言及された「形而上学的連帯」は支配する。むろん、もっと強固な照応理論の枠組みでは、消滅するに任せることには、決定的に観照理論へのアプローチに向けられた特別な眼目がある。観照はすべて、理論にとって照応的知覚の特殊ケースとなる。照応は、第一義の、観照の休日に抑圧されることのない純粋な眺望のなかで到達されうるものの、いわば仕事をする日常的現前となる。自然の生活世界的な雄弁は、観照としてエリート的実践が状況を超えた眺望では孤立している内的意味の、日常的かつ状況的な現前状態として解釈される。それが別の方法では不可能であるという見解を、照応のイデオロギーと呼ぼう。

c.自然は庭園ではない

仮に、自然関係の質を基準に社会関係の質を量ることが妥当だとすれば、逆の自然関係の質が与えられた社会関係の室に基づき量られることの妥当だと言うことになる。「エコロジー的な自然美学」がそれである。それは、「将来、庭園としての自然という理想の下で自然の人間化に貢献する」という。かぜ美しい自然は、故郷を思わせる自然として、崇高な自然は故郷を思わせる自然の予感として了解されないのか。なぜいつもは文化的関係及び社会的関係である美的な自然関係を、文化的課題及び社会的課題としても─「自然を自然として」産出することをめざす、自然の人間らしい形成化という課題として─とらえ、「それと同時に自然がますますはっきりと自然の側から人間に近づく」ようにはならないのか。つまり、なぜ自然の形而上学的目的論が社会的(政治的)目的設定へと変貌せず、美的自然の意味は、現実的な幸福及び象徴的な幸福の空間が自然の中で維持されたり、あるいはそもそもそれが獲得されたり、という人間的な意味でしかありえない、というのだろうか。

これらはすべて非常に理性的だが、美的代価をともなう。まず、第一に、この立場は照応のイデオロギーを土台にして述べられている。照応的な自然観委は、もっぱら真の自然関係に様式化される。第二、美しい照応であるが、崇高の照応ではない場合、それは「地上の美的装置」の規範になりうる。イギリス式庭園や風景式庭園の造園家も、「崇高な」眺望や「崇高な」場所の絵画を手本にして造形するのだが、我々の定義に従ってもっぱら美しい照応だけを創作する。このように保護された自然が、自然の「野性的な」構想の表出、つまり実際に崇高な自然地域とは反対となりうるのである。第三に、自然を美的な人間化するプログラムは、人為的な意味形成と自然発生的な意味形成の間にある区別を曖昧にする危険がある。このような主張は非常に理性的だが、人間と自然の間にある調和的照応の美的かつ社会的規範は、どう見ても部分的なものに過ぎない。規範はただ、調和的とはいえ、人間によって美しい照応の調和となるように調整された自然であるべきだ、と述べているに過ぎない。このような制限がなければ「エコロジー自然美学」は、自然美の二重に不毛なプログラムとなるだろう。つまり、自然は、それがたとえ自然において発見されようとも人間的な美の規範に従って形成されていることになり、ますますただ自分自身に惚れ込んだ文化の屋内庭園に過ぎなくなるだろう。自然が完全に人間的なものの庭園となるとすれば、それはもはや自然とは言えない。

2014年4月 7日 (月)

マルティン・ゼール「自然美学」(15)

4.照応の形而上学と照応のイデオロギー

a.存在か仮象か

自然の諸形態は、人間の生の諸形態に照応する。問題はこの照応の方程式をいかに読み解くかである。この方程式を厳密に前者から理解する人には、自然は、美的知覚において了解されねばならない言語の秩序あるいは言語に類した秩序として現れる。また厳密に後者から理解する人には、自然の美的雄弁は、たんに人間の意味欲求に呼応した態度である。どちらの読み解き方も、明白な目的論的存在としての、あるいは、恣意的に生み出された仮象としての美しい自然と言う根本形式を許容する。わたしはいずれる説得力があるとは思っていない。照応する自然の美は、目的論的存在の表出でも幻想主義的仮象の表出でもない。それは価値附随的存在である。

自然の美的照応が仮象ではないことは、その表出方法を思い起こせば、証明は容易である。知覚に与えられているものは、自然とのコミュニケーション的関係の虚構とは結びつかない。たしかに、我々は、それかルクセンブルクの欲求に活気を与えつつ「対峙的に現れる」風景であるなどと、しばしば言う。しかし、厳密に言えば、それはルクセンブルクがレマン湖の地域を彼女の欲求に直観的に適合する地域として知覚している、という事態である。それは、該当する欲求がこの地域によって「目覚め」させられる時、価値を獲得する。この欲求は、地域と遭遇することで展開してきた。このような種類の表出的特性の知覚においてわれわれが経験したり、表現豊かで雰囲気のある語彙で描写したりするものは、自然の意図でも気分でもないし、そのような意図や気分の仮象でもない。それは、自然の中や自然と共にある我々固有の情緒的に推定される生の可能性や経験の可能性である。我々は自然に表現力豊かな性質があるかのように見るのではなく、そのような性質を持つものとして捉えている。我々は自然を、我々の感覚的かつ心的な存在に対して意義あるものとして捉えている。

この「として」という知覚は、自然についての解釈の結果でも自然についての了解の結果でもない。湖の風景の陽気さに対する私の感覚は、自然の解釈の前段階や結論ではなく、「思考しつつ行われる観察」の結果として出現する何ものかであり、分節化する感受性と発見の能力である。その際、そもそも了解が問題としてなりうる限り、それは、この場合に了解されている自然の中にではなく、直観しながら了解する対象へと移行する自然の中にあり、かつ、そのような自然と共にある私の状況である。自然が我々に対して意味付随的に対峙して「現れる」ことは、まさに自然が私たちに「対峙的」であること、自然が我々にとって好都合であることを意味する。この自然は分節化されているが、自然を分節化しているわけではない。自然の照応的表出は非意図的で、非言語的な表出である。

表出力豊かな自然から固有言語を持つ自然へと踏み出す時、照応の形而上学への移行が生じる。この移行の根本的な仮定は、自然そのものは、それ自体で考えれば、意味付随的かつ記号附随的な照応的連関として了解されるべきであり、つまり自然には内的意味、すなわち絶対的意味があると言うことである。ここで問題になっていることはすべて、意味付随的な自然の認識及び承認であって、意味付随的な自然の表出そのものではない。もし表出であるとすると、自然の照応は、時間を超えた意味への感覚的接触であることになってしまうだろう。しかしながら、我々の考察が正しいとすれば、意味付随的に表現された自然は必然的にある解釈行為として経験される。人間に対する自然の美しい雄弁の説明は、自然の時間を超えた固有言語という仮定を必要としない。

そのような言語の必然的仮象の仮定すら必要ではない。興味深いことに、自然の意味的存在の形而上学を拒絶するべく我々を導いてきたのは、自然の意味的仮象の仮定に対する拒絶である。したがって、照応する自然美の仮象的特性と言うテーゼは、自然の言語的特性の誤った拒絶と見なされねばならない。このテーゼは、それ自体が退けた立場の前提をそれ自身でなお分かち持っている。それは、照応的自然が言語的パートナーの仮象として了解されることを前提にしている。仮象的特性のテーゼは、固有の意味を持つ秩序としての自然の理念に固執し、この秩序のリアリティに対する信仰だけを放棄する。つまり、構造は放棄するが、存在論的解釈は否認する。照応的仮象の一般理論は、美しい自然の否定形而上学である。

ウィトゲンシュタインは「人間がある花またはある動物を醜いと思う時、人間はいつも、人工的産物と言う印象を抱いている。それは『これこれのように見える』ということである。これは、醜や美という言葉の意味を光に照らす」と言っている。自然は、人間にとって手際悪く形態化された産物のように見える時、極めて美しくないと感じられる、というのがウィトゲンシュタインの意図である。ここでは照応的な自然経験の重要な次元が出現している。この場合、自然は、我々の楽しみや不満に合わせて我々を驚かしている。なぜなら、自然が人工的産物のように見えるからである。それは、自然が目的論的秩序の仮象の中で、ふさわしいか、そうでないかということである。

これについてのカントの定式は「目的なき合目的性」である。自然は、それが実際にはそうではないのに、まるで目的に適っているかのように設えられて現れる時、美しいのだとカントは言う。ここでのカントの革命的な一歩は、この現存を美しい仮象としてだけでなく、仮象であるゆえに美しいものとして解釈していることにある。ただし、カントにとって自然が目的論的仮象において美しいものとして現れることに、疑いを持っていない。つまり、目的論的な仮象は、まるで神か人間によって作られたかのように見えるものが、まるで人間のために、あらゆるたんなる利便を越えて人間の喜びの発見や人間の心に適うために作られたかのように見える時にのみ、美しいものとして現れるのである。このような価値附随的な自然存在は、自然の反-目的論的な仮象の産物と言える。

美しい自然が目的論的な仮象の要素を、あるいは反目的論的な仮象の要素をも含むことができるということは、狭義の美しい自然に十分当てはまる。崇高な自然は、人間の秩序や神の秩序とは共有不可能な状態であることにより、目的論的な仮象を打ち破る。それゆえ、反-目的論的な仮象を崇高な自然は打ち破るのである。自然が未だ知られていない意義において自然の意義の擬人化された生から立ち現われるところでは、それが自然である─そこには、それが自然であるかのような仮象の占める余地はない。

2014年4月 6日 (日)

マルティン・ゼール「自然美学」(14)

3.照応的意識

美的照応は、空間の美的照応であろうと、空間にある事物の美的照応であろうと、喜んで受け入れられるか、または、喜んで受け入れられない、つまり、他者との共通点がある、または、他者との共通点がない人間的生の可能性を形成する表出である。このような規定は自然についてそもそも何も語っていない。それは、美的照応の空間を形成ないし支配する自然ではなくてもよい。観照について分析した場合と同様に、それは生の美的反映として知覚される人工的な客体や環境でも可能であることは、照応する自然の事例にも一貫している。照応と照応的意識が自然の場合、好都合に関連する理由を理解するためには、それらが自然から自立可能であることを明らかにしていかなければならない。

a.それは自然でなくてもよい

喜んで受け入れられる付録あるいは過剰な期待として、肯定的な自然照応を固有な生の形成化という観点から、私は説明した。つねに問題となるのは、善き生の強調や形式、あるいは現前として出現するとき、美しいと感じられる直観的客体と直観的行動である。形成する表出とは、照応に集中している対象や出来事に属する場合、生の出来事と異なる芸術の表出ではなく、その表出の周辺で可能な、あるいは、実際に営まれている生の出来事としての表出である。この表出は、直観的で内的な実践形態である。表出はすでにそのような形態の一部であるか、あるいは、その一部となるべきものである。

美しく照応する自然は、照応的美の一形式に過ぎない。同様のことが、醜悪なものや崇高なものにも当てはまる。自然の生成された照応には、志向的で、しばしば高度に人工的な対価を支払って、あるときは季節的な流行に応じて調整された照応が対峙する。後者の照応には、美しく照応する自然の事例において区別された構成要素がすべて該当する。この照応もつねに空間にかかわり、与えられた実存的現実の形式として第一義的に了解されるのではなく、実存的可能性の直観的な所与性として了解されねばならない。この場合も、美は、たんに私が好むもの、たんに私によく合致するもの、たんに私にとって善いものから区別されねばならない。

照応的美の意識に対しては、実存的に善である現象とみなされる何かがそこにあることで十分である。それは、それが心に適ったものであるがゆえに、実存的に─すなわち、固有な生の営みに配慮したり、道徳的に─すなわち、別の本当に何か善いものに配慮したりしなくてもよい。照応的喜びは、あらゆる種類の生のまやかしを使って─それが見抜かれない限り─その生命を維持できる。私が自分の住居の高価な家具調度を、装飾過多、これみよがし、成金趣味、法外だと認めるや否や、照応的嗜好は、美的な対応関係とともに消え去ってしまう。私が自然を向けた先には、見当はずれな自分の生の醜悪な反映が見える。このとき、美はたんに痛ましい非現実化や何倍にも増してくる胸苦しさを被るだけでなく逆転もする。善の現実存在のごとく見えたがゆえに美しかったものは、悪の形態であることが明らかになったために醜くなったのである。

 

b.生の無遺体としての自然と生の修正としての自然

作為的な照応的美に対して自然な照応的美に特有なものを手短に述べるとすると、それは、意味から構想されたのでも意味のために構想されたのでもない諸々の関係や形式が意味に寄与することにある。そもそも、そうした諸々の関係や形式が構想されることはない。それゆえ、たとえそれらが人間によって特徴を与えられ整備されているのであっても、照応的自然の特殊な魅惑は、それら諸現象の形態、すなわち、個別に生成させられ、個別に活動させられている、常に可変的な具体的形態が人為的に作られたものではないということに動揺を与える。この形態に意味はないが、我々はそこに意味付随的な諸形式を見出す。その美的意味は、産出物ではなく、形態の生成に構成上の意図を持たないことを前提とした出来事である。美的自然の実存的経験は、常に自然と結びついた人間的実践行為の構想可能性に対する限界を経験することである。醜悪な姿で自然が現れる時、この限界は人間的伸展の条件として享受される。このような見方においては、途方もなく表情豊かな未知なるものとして歓迎されている。あるいは、そのような自然ですら歓迎されるのである。

自然が意味付随的に現存している状態には、文化的意味の領域に対峙する経験の一部であることが含まれている。それが普段の文化的意味の領域に対峙する経験の一部であることは、自然から獲得された生の意味も一つの文化的意味であるがゆえに、自明である。熟知された意味の持続との崇高な断絶において、それは明白である。自然の照応的表現に対する文化的留意は、現実存在を道具的かつ機能的に導いた結果でも、既定的に解釈した結果でもない意味連関に対する人間の欲求に由来する。このような関心は、固有な生に対する束縛のない直観の場所を求める。そして、そのような場所が、照応する自然である。そこで見出される現実的な生や可能な生の表出も、厳密に見れば、「作為」、すなわち、人間の知覚能力や観念化する能力の遂行結果として生じると見なすことは、たしかに正しいが、決定的ではない。というのも、この「作為」は発見であり、それを発明や産出によって補うことは出来ないからである。求められているのは、「様式のある」照応ではなく、様式のない照応である。これが、自然の実存的崇高を美的照応の比類なき形式にしているものである。この形式は、人間の生を形態化する文化形式を形成するヴァリエーションと逸脱である。生の作為的形態のあらゆる形式に対する美的命法は、実存的自然観から生じているが、それら産出物としての諸形式は、つねに出来事でもある。同時に、実存的自然観からは、実存的生の諸構想の形式に対する命法も発せられる。すなわち、世界の意味形態を固有の構想に従って査定するだけではなく、世界の意味発生においても固有の構想を査定せよ、というのである。美的自然は、この二番目の次元において、歴史的に構想された生の形式であり修正である。

それゆえ、自然との照応は「問題提起的」自然との照応だけではない。自然との照応は、その本性からして問題提起的なのであって、生の形態の未決定で可変的な可能性の中にある。この照応の問題はまったく不可避である。他の美的態度と異なり、自然とのこのような美的な関係は、自然に対する日常的態度そのものと密接に関係している。人は非観照的に生きることはできても、非照応的に生きることは不可能である。従って、自然に対する照応的態度は、我々の自然に対する照応的態度は、我々の自然に対する美的態度のなかでもとりわけ最も身近な態度である。

2014年4月 5日 (土)

マルティン・ゼール「自然美学」(13)

b.事物と空間

事物と空間の観照的美とは異なり、ある土地の照応的美しさ、あるいは、醜さは、わざわざ知覚していない場合にもそこに存在し、それゆえの影響を与えている。自然の肯定的あるいは否定的な照応形態は、生活世界の意味付随的な空間の一つとして自然の構成物に属する。この構成物は─その時々の生に対する考え方というコンテクストにおいて─そのような空間に客観的に帰属している。それゆえ、私は暗黙の裡に、一方には「照応する」自然と、他方には決定的に「照応的な」─つまり、意識的に照応へと方向づけられた─自然知覚とを区別して考えていた。このような自然は、もっぱらそのような我々の知覚能力ゆえに存在するのだが、自然の意識的な利用とは別のものである。「自然の照応」は、生に影響を与えるべく形成する空間としての自然の現前である。

これまで私はこの現前を、事物的な所与性の現象であるだけでなく、空間的な所与性の現象として、自明なもののごとく扱ってきた。その魅惑あるいは反発が、風景になる土地や建物であった。もっとも、その際、個々の事物やそれぞれの連関の表出形態が、看過できない役割を果たしている。観相学的観点は、空間の特性を極めて本質的に担う「事物的照応」の位置を占めるといえる。その結果、当然、空間的照応は事物的照応を含み、事物的照応はもっぱら空間的照応の構成要素として展開されるに過ぎないことが分かる。

これは、まったく自明と言うわけではない。自由な自然の内部や外部にある個別の自然事物も、照応する客体とみなすことができるが、そのさい、一見、事物の存在する土地や環境が考慮されていないように思われる。しかし、あいにく事物と空間を切り離すことは不可能である。一本の松かポプラが醜悪な土地にもかかわらず成長したり、ひどく陰気な事務所で満開なバラが輝いたりすることは可能である。しかしながら、どちらの現象も空間に比して高貴なものとされているか、空間の醜さの中で突出させられているのかのいずれかである。事物的照応は、空間に対しては決して中立的なものではない。というのも、この場合、個々の事物は、単なる現出でも自足した記号でもなく、空間における一つの形態だからである。それは同時に空間の重要な形姿となる形態でもある。それは、たしかにその影響力のある形態によって、すべて特徴づけられた空間というわけではないが、多かれ少なかれ、附随的に「強調された」空間である。この空間ゆえに、個々の対象は美しく、あるいは、醜く現れるのである。

c.美の照応と崇高の照応

第三のものがある。自然は、多かれ少なかれ、美しく、あるいは、醜く照応するが、崇高にも照応する。これは、直観的自然に対する人間の不一致が、是認の根拠となっている。極端な場合、最も保護された生にも最も意識的な生にも対応関係を見出すことのできない宇宙的な疎遠さを与えるものにおける存在の表出として、比類のない自然は出現する。

2014年4月 4日 (金)

マルティン・ゼール「自然美学」(12)

2.形成する空間

窓から眺める私の第二の視線、湖に向かう私の第二の歩みは、重要なエピソードや形状から一つに統一された性格を獲得した意味付随的空間に続いている。意味付随的な自然空間は、必ずしも意味に満ちた自然空間ではなく、意味を失った生の自然空間の場合もある。これまで論じてきた限りでは、照応する自然は、固有の現実存在を直観する風景である。これが「風景」概念の美的な意味の一つにすぎないことを、もう一度強調しておきたい。

a.魂や心情のこのような響き合い

実存的で美的な自然経験の空間は、美的観照の空間とは全く異なる方法で描出される。観照的観察は、意味付随的な生の秩序すべてを度外視するのに対し、実存的な自然経験は、生活世界的な出来事の空間として環境を知覚する。照応的知覚における美的距離とは、観照の場合のような、情動からの距離ではない。むしろ、情動的に惹きつけられることや嫌悪を抱くこと、すなわち、不可避的な状況によって情動的に包摂されることや排除されることである。しかし、特定の生活状況の情動的なニュアンスだけではまだ照応とは言えない。照応には、外的な生活環境が気分を喚起させられた実存のニュアンスだけではまだ照応とは言えない。照応は、外的な生活環境が気分を喚起させられた実存のあり方の私的ではない表出となって、ようやく成立する。照応する空間も、意味付随的に表現されているだけでなく、意味付随的な表現の中に現れる。それは、自然の中にいると同時に、自然と共にある人間の状況を形成する表出である。

この表出の了解には、観相学的照応に向けられた第二の視線で十分である。四つに分けられた(観相学的、風土的、歴史的、情緒的)照応のいずれもが、他の照応なしにありえないことは、これまで確認されてきた。中でも、観相学的照応は、これら構成要素の相互作用が極めて明白になることによって際立つ。その意味で、視覚は照応的知覚の中でも突出している。しかしながら、ここで視覚的に知覚されるのは、身体的に甘受しつつ魂に衝撃を与えられた主体が、その理解力全般においてすでに感知しているものだけである。そこには、事物を観照する視覚の卓越性はまったくない。これについては、観照的視覚の基本的特徴も、観相学的視覚として描写できることが分かれば、ただちに明らかになるだろう。つまり、これまで述べて来たようにあらゆる生の意味を度外視すれば、事物と本質の「純粋な観相学」が現れる。ただし、観照的観相学はあいにく雄弁ではなく、表情に乏しい。この観相学において、対象は「黙って」現前する。観照的観相学は、擬人化による図式化なしに現実が見られるときに出現する。もっとも、ここで自然主義的な観相学を持ち出すことはできない。それに対して照応の観相学的知覚は擬人化であり、その対象には表現力のある雄弁さが与えられ、対象について意味を関連させる体験がこの知覚に合致する。この場合、「感覚的な形態は、当時に、意味形成」である。

自然の照応的現存は、その場に居合わせた人間を含んでいる。自然の照応は、自然に囲まれた中で起こる照応である。それゆえ照応は、第一義的に「魂の比喩」や魂の雰囲気の比喩ではない─そのような照応には、たとえば風景画も含まれる。照応的知覚は、空間的に広がった諸々の画像にではなく、状況を画像化する雰囲気の感知可能性に向けられる。観照的空間は雰囲気を伴わなくても成り立つが、照応的空間はほぼ雰囲気から成り立っている。もちろん─重要な相違には注意を払われねばならない。土地の持つ雰囲気には様々に異なる可能性がある。それにもかかわらず、それらの雰囲気はどれも、その土地の統一的特性の現象である。私は、その土地が長期にわたり保ち続けて実存的に表出している性状を、風景になる土地の特性と名付けたい。この特性は、特定の天候にも、また、個人的体験のエピソードにも結びつかないが、その時々の空間における顕著な文明の歴史には十分結びついている。それに対して、風景になる土地の環境における目下の生活状況の照応的性質を、その土地の雰囲気と名付けようと思う。これは、一時的な現出や個人の気分的素因によって幾重にも特徴づけられる。私が主として土地の雰囲気を体験するとき、私はこの土地における目下の状況をとくに知覚している。それに対して、主として風景の特性を知覚するとき、私はこの風景によって直観的に開かれた可能な生の形式をとくに知覚している。この場合、土地は、そこで可能な生の一つの形態を雄弁に語っているのであり、その土地における私の実際の滞在形態以上のものはそれほど語っていない。意味付随的に分節化された領域として自然を知覚することは、つねに雰囲気の知覚であるにもかかわらず、その表出は必ずしも特定の雰囲気に結びついているわけではない。

ルクセンブルクの場合には、この二つの観点が区別不可能な状態で重なり合うし、このようなことを、我々は同様にしばしば体験する。しかし、常にそうではないことは、容易に証明されよう。照応的に最も美しい風景の中で、私が悲惨な境遇に陥っていることもありうるが、そのとき、風景の美しさが、私の惨めさのために失われることはない。もっとも、この美しさに対する私の意識は変わるだろう。つまり、私は、この風景を痛々しさを伴った美として感じる。私は、この風景の美の意味を失ったことに気づく。そのようにして、この美は、私の惨めな状態の指標となり、私の絶望をさらに深める。この場合、風景は、私の気分の表出として美しいのではなく、私が閉め出されている生の輝きのなかにある美だから美しいのである。そのような土地は、冷淡に、そうでなければ単に極めて不快な地形のように影響する。つまり、その土地は、美しい土地として現れるのだが、私には醜悪に思われるのである。

これらのように、風景の照応的自然が、我々の気分の単なる産物ではないことを示している。むしろ、気分を喚起させられているというのは、照応による自然の雄弁さに対する我々の感受性の感覚である。そして、それは、我々の気分が風景の美的特性に合致しない場合であっても、そうなのである。風景の特性は様々に異なる雰囲気によって一貫して維持されているのだが、そのような風景の特性の統一性は、我々の気分の特性によって与えられるのでも、その統一性によって我々が避けようもなく諸々の気分にさせられるのでもない。それは、人間の情動的状態への特殊な影響と観相学的、風土的、歴史的な照応の統一性である。その一方で、これによって心動かされる人たちに対してのみ、概して自然の表出附随的な雄弁さは近づき得るが、それが出来ない者などいるのだろうか。というのも、ここで自然が「語っている」こと、つまり、自然の形態をとって生成してくるものは、人間をその本性から動かしている何ものか、すなわち、人間が生を構想したり、その理念を描いたりする展望の外的な現われだからである。そのような構想を持つ者だけが、自分の存在の可能性に対する肯定的あるいは否定的な、驚くべきあるいは愕然とさせられる応答として自然を経験できる。

 

2014年4月 3日 (木)

マルティン・ゼール「自然美学」(11)

第2章 照応する場所としての自然

1.生の反映

a.美しい土地

この湖があることによって、あらゆる私の行動が活気づけられていることに、私は気づいている。湖の周囲に形成された風景を見る時、その眺望をとても快適に感じさせるものもそしてそれとは反対に屠殺場を見る時、その眺望をきわめて殺伐とした眺めにするものは、純粋な観照による了解を超えている。この湖の風景は、私の第二の視線にとっては単なる直観的空間ではない。生活する場所である。

そのような視線は観照的方法とは異なる方法でものを見ている。この視線は、想い出や期待する喜びの中では、特定の場所にぴたりと張りついて離れず、他の感覚による直観を諸々の重要なエピソードから成る一つの空間へと導く。このような方法で美しいと経験された土地は、観察に応じているだけでなく、その土地を観察する者にも応じている。言い換えると、美しい土地は観察する者のありかたにも応じている。この場合の「美しい」という言葉には、美的意味とともに実存的意味が含まれる。言葉のこのような意味において、自然は美しい。というのも、自然は善き生の反映だからである。この土地が美しいのは、土地が先んじて私の生の関心に照応するからである。

この照応には、たんに善である以上のものがある。美の照応はむしろ、このような自然において可能な生の諸形式の、実存的善の直観である。風景を照応的観点から美しいとみなすことは風景によって開かれた善き生の可能性の表出として、また、その一部として風景を経験することである。固有な生との具体的な照応であること、それが美的自然の第二の魅惑である。このような具体的なものは、常に極めてはっきりと感知できる。照応する自然についても、意図的ではない活気、可変性、唯一無二性が尊重されるのだが、我々は照応する自然を、不変的で表情豊かな、価値で幾重にも覆われた形成物の具体化と見なしている。美しい土地は、空間を満たす諸現象の戯れではない。生の特有な形式に向けられ、世界に対して開かれた送球である。このような美が、つねにあるいは繰り返し求められていることからも分かるように、我々はそれを放ってはおけないのである。

ここでローザ・ルクセンブルクのレマン湖への憧憬を例として説明が加えられる。ローザ・ルクセンブルクにとって、この風景の直観的価値は、彼女の実存的価値に結びついているだけではなく、直観的価値そのものが実存的価値になっている。レマン湖に対する美的嗜好は、湖があるゆえにその周囲に形成された地域との実存的合致の証明である。つまり、美しい土地は、その土地における善き生に欠かせない構成要素として出現する。しかもこのような連関は、ルクセンブルクの憧憬に満ちた前提となる記憶と緊密に結びついて現れる。まるで風景の美しさが幸福な滞在を保証してくれるかのようである。もちろん、そのような保証は、どれほど美しい土地であっても不可能である。それにもかかわらず、このような美の縮減されることのない体験は、幸福な瞬間であるだけでなく(それは観照的沈潜でもあるが)、環境によって可能となり、しかも、環境が保証する幸福を直観する幸福なのである。この直観は、実存的な自然経験につねに共通して関わる四つの構成要素に分けられる。すなわち、観想学的照応、風土的照応、歴史的照応、気分的照応である。この影響の程度は、影響に対するルクセンブルクの感受性によって決定される。このような相互規定は、照応する自然の知覚に典型的である。美しい自然の土地は、あらゆる生活世界のように、感情的に「気分を喚起させられる空間」であるだけでなく、美的直観のさいには、それ自体が喜びに満ちたものとして経験される。このような土地を我々は喜んで我々に照応する土地として経験する。なぜなら、その構成要素すべてが強度を増しつつ、相互に照応するからである。

2014年4月 2日 (水)

マルティン・ゼール「自然美学」(10)

5.観照的判断

純粋な観照的知覚が向けられているのは超感性的世界ではなく、感性的世界である。その知覚の聡明さは、幾重にも解釈された世界の中で解釈に至る道、諸理念、全体に至る道を歩まず、直観されたことを直観そのもの以外の何ものにも関連付けない、ということに存する。そこで開かれるのは真の世界、客観的世界、仮象なき世界ではなく、かといってまた、仮構ないし幻想の世界でもない。その世界とは、それまで観察に値しなかったすべてのことがそこで一挙に観察に値するようになる世界である。我々は世界の実用的な分節化を、そしてその他あらゆる価値を帯びた世界の分節化を放棄する。それは新たな本来の分節化のためにではなくて、我々は一度たりとも自分が行う世界の分節化を放棄したりしない。従って我々は、いずれにせよ単なる無視や決断によっては、その世界を見捨てることなどできない。我々はその世界に対する信頼を放棄するだけであり、我々は自分たちが世界の存在に固執するのを止めるのである。現象するものの偶発性に没入することによってのみ、偶発的なものを実定化することによって、必ずしも偶然的なものが否定されるわけでもなければそれが超越化されるわけでもなく、またそこから一つの教えが導出されるわけでもない。美的観照の根本的な意味は、こうした純粋に形式的な意味である。

我々は今、なぜ観照的美が大抵の場合に崇高なものを最低限その要素として併せ持つのか、よりよく理解できる。それが美であれ崇高であれ、観照という様態の中で知覚されたものは、それが我々にとって全ての意味に対する期待を超えて崇高でありうる点で、我々にとって美として現出するのである。こうした自分に対する美しさにとって何が重要であるかは、さらにまた、それがその美しさを示唆する判断の性質によって明らかになる。観照的な美的判断は、どこまでも脱中心的な美的判断である。その美的判断は唯一、そこで美が醜や失敗や悪趣味に対置されることのないものである。我々は、客体と周囲の状況が観照的観察にとって持っている価値を際立たせ─そのことによって特に、その観察を通じてすべての事物と空間が意味疎隔的な美という価値を獲得するに至るような、そうした観察の価値を際立たせる。したがって、こうした判断はやはり、いつでも正しい。我々は何を知覚するにせよ、その醜くて重要でないものでさえ美しく現れるのである。

我々が差し当たり美または崇高という区別を観照的な美的評価の構造に持ち込むならば、事態は少し複雑になる。観照的な事物直観の対象は美しく観照的な空間直観の状況は崇高である。我々はさらに二つの区別に出会ったが、それらは観照的知覚の遂行にとって特徴的であり、それらの区別に観照的知覚の判断の更なる変更が対応している。新たに対極的な対立が問題となり、それらの対立から可能な差異化の段階が生じるのである。一方の対立は、自然の事物ないし空間と人工的なそれらの対立である。こうした対立がさらに高まると、文化的な自然と野生の自然との、第三の対立になる。自由な自然の中の自然現象が、そしてまさしく自由な自然の空間が、他のあらゆるきかいよりも一層、観照への誘いとなるのである。

観照的評価にもより高次の形態があって、観照的評価は善のみ知って悪を知らないとしても、多少とも善なる(ここでは美と崇高である)ものの広い余地を知っている、ということにはつながらない。観照的態度においては、一方では、すべてが同様に美しい。これはそり態度による価値づけの平等を目指した意味である。観照的態度をとるように、他方では、異なった対象と機会がきわめて異なった尺度で我々を誘っている。これは観照的判断のエリート的で選別的な意味である。観照的知覚にとってすべては美しいか崇高であるが、幾つかのものが他と比べてより美しく崇高であるということは、矛盾なく考えることができるのである。

観照的判断は、それが平等を目指す基本的な意味を持っていても、けっして同語反復などではない。観照的判断は単にその都度の観察への促しを相対的に評価するだけではない。観照的判断はそれを超えて重要な構成的機能を持っているのである。それはすなわち、観照的観察の展望を、可能な他の観察方法の文脈の中で際立たせる、という機能である。平等を目指す意味は、それにとって特に誘いとなるものに関係している。これら二つの位相は一緒に第三の位相に至るが、それは観照的知覚の展望そのものを際立たせている。私が観照的意味で「これは美しい」と言う時、私は単に対象における現出の戯れとそれに由来する魅力の程度を強調しているのではない。私が言っているのは、これは観照的態度をとるための正しい瞬間である、ということである。こうした言明は単に観照の中で近づき得る美に積極的に関係しているだけではない。この言明は限界づけながら、美の他の位相とも関係している。そうした美の他の位相は、観照のなかで近づきうる美の代わりに知覚され、その間に為され得たし為されるべきであった善い行為、重要な行為、切迫した行為、不可避の行為と素朴に関係づけられるのである。

これらの根拠として次のことが考えられる。観照的判断が下す提案は、そのさい、人間の生活においては無関心の注意が普遍的な価値を持つ、という暗黙の前提に支えられている。しかしながら、もしもその通りであるならば、我々の考察全体が解消不可能な矛盾に陥るように見える。けれども、そもそも最初に話題にしたのは、「生活上のあらゆる重要性を断ち切ることが美的観照の原理である」ということであった。観照的評価にそれができるのは、内在的にみずからの客体の意味を示唆せずに、もっぱら外在的に自らの展望の意味を示唆して、生活するためには観照的評価が重要であると訴えるからである。こうした重要性は第6章でより詳しく規定されることになる。

2014年4月 1日 (火)

マルティン・ゼール「自然美学」(9)

4.観照の形而上学と観照のイデオロギー

a.美的観照対理論的観照

美的観照を、プラトン的、アリストテレス的、アウグスティヌス的、トマス的、自然神学的、あるいはショーペンハウエル的な観照と取り違えてはならない。というりも、それらの観照は、異なった道をとりながらも、理論的な没頭によって世界の神的な秩序に与ることで達成されるからである。こうした理論的観照の目標は認識である。こうした認識は感性的な出発点を必要としない、絶対者の純粋に精神的な観取としても了解されうる。こうした自覚的直観はたんに創造・存在・世界そのもののうちの、ある一つのものの把握にではなく、それらの意味の把握に向けられている。

美的観照はその伝統の中でこうした知的直観と何度となく等置されてきた。美的観照とは何かと言うことは、理論的観照をモデルとして了解されてきた。まさに美的観照は、たんに多様な感性的現出とは見なされずに、ある超越的な意味の現出と見なされたのである。両者に共通なのは、活動的な行為との距離という前提である。理論的観照と美的観照は活動的行為とその個別的な目標設定に背を向ける。だが、すぐさま両者の道は別れていく。世俗化された制約の下では、美的観照はまさに世界の意味と秩序を捨象するときに、充実されうるのである。純粋な美的直観は近代的な自然経験の渦の中で理論への緊縛から解き放たれる。それ以降、美的距離は、さらに理論的距離に対しても、距離をとるのである。

これは純粋な美的観照の可能性が孕む美的、実存的、及び倫理的価値に対する問いと密接に関連しているのである。あらゆる世俗化や仲違いと同じく、理論的観照の全束縛から美的観照が切り離されることは─解放として─利益であると同時に─疎外として─損失でもある。こうした背景に立つならば、私は観照を狭い概念に制限することで規範的な意思表明をしているのである。─すなわち、美的観照の純粋性に賛成し、それを認識的及び熟慮的な了解に統合することに反対しているのである。

本章で暗示された規範の十全な基礎づけは、本章で示すことはできない。更なる根拠が追加されなければならないが、それらは三つの自然美学的な魅惑全ての比較と解釈によって初めて定式化されうる。だが、幸いにも規範的重みづけの重要な部分は、またしても、それに対応する概念的区別の有効性に即して吟味されるのである。そしてここではすべてが観照の最大限に切り詰めた概念を支持している。すなわち、その概念は一方で厳密に美的な感傷を表わすことを、そして他方では理論的、宗教的、神秘的構成要素が付加された観照を表わすことも許すのである。関心を欠いた感性的注意という美的観照の貧相な規定は、それが美的観照一般の名前に値するかぎり、全ての観照の本質的な核心を包括している。それゆえ、ここでまさに美的観照というものについて語ることは、正当であると思われる。このことは他方で、たとえば美的観照による自然知覚の実践がさらなる要素を含むか、あるいはもっぱら別の種類の─理論的、宗教的、神秘的─方向性の前段階として働くだけである、ということを排除しない。それゆえ、理論的観照と美的観照の区別を対極的な相違として解釈することは適切であり、そして美的観照は、それにとってはもっぱらないし第一義的に自由な感性的注意が問題となるような観照として了解されうるのである。美的観照を通じて反理論的、反宗教的、あるいは反神秘的であると記述するのは、行き過ぎであろう。美的観照はそれらのどれでもありえない。

b.どんな形而上学を木々は持っているのか

美的観照と形而上学的観照─すなわち理論的観照および神秘的観照─の間の緊張は、ヨーロッパの文学に属する多くの重要証人たちが残した作品の中にまだ生きている。形而上学の否認は、否認されたものである形而上学の空虚な形式という名の下で行われる。そこに残されるのは、形而上学的に意味のない形而上学、という逆説である。このような観照のイデオロギー(無用な虚偽意識)は、ひとり観照的知覚のみが美的に適切な知覚であると見なされる場合に、あるいはさらに顕在的には、ひとり観照的で自然に即した生活のみが正しい生活であると見なされる場合に、いつも現に存在しているのである。観照のイデオロギーは執拗に次のように聞こえてくる。「このことが地上における唯一の義務である/明晰性への変化/しかも思い煩うことなく」

たしかに観照のイデオロギーはたとえ形而上学がなくても生じ得るし、観照の形而上学はイデオロギーなしに生じうる。だが哲学の著作形は通常、ミスからの立場を特定の形而上学とイデオロギーに結び付けている。例えばパスカルとカントは、観照的に現出する自然の意味の極北に、思弁的解釈を施す。蒼穹はその異他性において神の創造である証しとされ、その崇高性において人間の二重の現実存在の徴表であると証されるのである。まさにその感覚に適った無意味さにおいて、蒼穹は超感性的意味の証拠となる。これら二人の著作家にとって、観照の形而上学と観照の道徳は一つのものである。パスカルとカントは自然の事実的な偶然性を承認したが、ニーチェは両者によるその承認を偶然の評価的な肯定へと高める。こうした歩みは美的観照の自己認識にとってきわめて重要であるにしても、形式的には、すべては先人の下に留まっている。ニーチェもまた天空の偶然的領域との出会いを第一に存在に関する言明をもたらし、第二に無条件の倫理的結論にもたらしている。天空は意味から自由な存在の直観を開始し、まさに存在が意味から自由であるという直観を開始するということは、見かけ上の無意味さが高い理性と隠された意味を指示するという逆の断言とちょうど同じく、思弁的である。こうした観照的実践の内部における結合が昔も今もいかに身近に思われようと、それは思想的には正当性を欠いた歩みである。これは承認ないし肯定された偶発性から否定された偶然性への歩みなのである。パスカル、カント、そしてニーチェは鑑賞の経験から一つの教えを導出しており、彼らはそれについて、こうした経験の本来的な内容がその教えのなかで述べられている、と主張している。これらの教えの各々が他の教えをどれほど転覆させて誤解しているにせよ、それらはすべてそうした内容を持つことが観照の本質に属するという点で一致している。偶発性の克服の中にありはしない。その場合、観照の実践にとってもはや純粋な美的観照は最終的にその価値を、美的知覚の他の遂行の内の一つとしての自らの位置価から獲得し、そしてその知覚が意識的生活のために持つそのつど限定された意味から獲得するのである。

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