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2014年4月 5日 (土)

マルティン・ゼール「自然美学」(13)

b.事物と空間

事物と空間の観照的美とは異なり、ある土地の照応的美しさ、あるいは、醜さは、わざわざ知覚していない場合にもそこに存在し、それゆえの影響を与えている。自然の肯定的あるいは否定的な照応形態は、生活世界の意味付随的な空間の一つとして自然の構成物に属する。この構成物は─その時々の生に対する考え方というコンテクストにおいて─そのような空間に客観的に帰属している。それゆえ、私は暗黙の裡に、一方には「照応する」自然と、他方には決定的に「照応的な」─つまり、意識的に照応へと方向づけられた─自然知覚とを区別して考えていた。このような自然は、もっぱらそのような我々の知覚能力ゆえに存在するのだが、自然の意識的な利用とは別のものである。「自然の照応」は、生に影響を与えるべく形成する空間としての自然の現前である。

これまで私はこの現前を、事物的な所与性の現象であるだけでなく、空間的な所与性の現象として、自明なもののごとく扱ってきた。その魅惑あるいは反発が、風景になる土地や建物であった。もっとも、その際、個々の事物やそれぞれの連関の表出形態が、看過できない役割を果たしている。観相学的観点は、空間の特性を極めて本質的に担う「事物的照応」の位置を占めるといえる。その結果、当然、空間的照応は事物的照応を含み、事物的照応はもっぱら空間的照応の構成要素として展開されるに過ぎないことが分かる。

これは、まったく自明と言うわけではない。自由な自然の内部や外部にある個別の自然事物も、照応する客体とみなすことができるが、そのさい、一見、事物の存在する土地や環境が考慮されていないように思われる。しかし、あいにく事物と空間を切り離すことは不可能である。一本の松かポプラが醜悪な土地にもかかわらず成長したり、ひどく陰気な事務所で満開なバラが輝いたりすることは可能である。しかしながら、どちらの現象も空間に比して高貴なものとされているか、空間の醜さの中で突出させられているのかのいずれかである。事物的照応は、空間に対しては決して中立的なものではない。というのも、この場合、個々の事物は、単なる現出でも自足した記号でもなく、空間における一つの形態だからである。それは同時に空間の重要な形姿となる形態でもある。それは、たしかにその影響力のある形態によって、すべて特徴づけられた空間というわけではないが、多かれ少なかれ、附随的に「強調された」空間である。この空間ゆえに、個々の対象は美しく、あるいは、醜く現れるのである。

c.美の照応と崇高の照応

第三のものがある。自然は、多かれ少なかれ、美しく、あるいは、醜く照応するが、崇高にも照応する。これは、直観的自然に対する人間の不一致が、是認の根拠となっている。極端な場合、最も保護された生にも最も意識的な生にも対応関係を見出すことのできない宇宙的な疎遠さを与えるものにおける存在の表出として、比類のない自然は出現する。

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