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2014年4月18日 (金)

マルティン・ゼール「自然美学」(23)

4.芸術の形而上学と芸術のイデオロギー

美的な自然関係に関する概念倹約的な解説は、第一により普遍的な、そして第二に規範としてより説得力のある規定を与える能力があるということである。しかしながら第二章において述べたように、ここで提案された解釈を与える能力があるということである。しかしながら第二章において述べたように、ここで提案された解釈の対極をなすのは、自然美の形而上学的誇張だけでなく、自然美を通俗化して蔑む態度もそうなのである。

a.芸術の精神から自然の誕生

19世紀の美学論議は、芸術と自然の関係に関する古典的模倣テーゼを反転させている。芸術の美的生産の原像としての自然から、自然の美的受容の原像としての自然が生じるのである。オスカー・ワイルドは「芸術が人生を模倣するよりもはるかに多く、人生は芸術を模倣する。ここから引き出される結論は、可視的な自然もまた芸術を模倣するということである。自然がぼくらに提供できるただ一つの印象は、ぼくらがすでに詩か絵画を通じて知っているということである。これが自然の魔力の秘密であると同時に、自然の弱点の説明でもあるわけなのだ」と言っている。ワイルドの要点は「芸術が存在したところにのみ、美的自然は生成し得る」つまり、美的な自然知覚のすべての形式は自然を芸術に連関させて知覚することに由来している、ということである。

この立場は、美的自然に関する三つの局地的なイデオロギーのうちの三つ目を強調している。それは、自然の美的知覚すべてが芸術に依存するのみならず、明示的にも暗示的にも自然の美的知覚すべてが芸術に関連するものだというイデオロギーである。他の二つのイデオロギーと同様に、このイデオロギーもまた美的自然知覚の三つの観点の一つを、それらのうちの唯一の基本型に高めようとする。たしかに、我々の美的自然の感受すべては、芸術と分かちがたく結びついている。それは正しい。だからといってそこから結果として、自然への美的連関が総じて芸術の画像に従って遂行されることが結論付けられるわけではない。

b.アドルノの逆行

一つの点において、自然が芸術を模倣するという逆さまの自然模倣テーゼは半面の真理以上のものを含む。芸術の想像が自然にどれほど関連しようとも、芸術の想像は自然を模倣するわけではない。自然が原像として芸術の記号のために役立つには、自然は広い意味で一つの画像的記号として見られることがすでに可能でなければならない。自然を芸術的に「模倣」することは、自然と世界を芸術的に提示することを前提としている。芸術を美しくあるいは崇高に投影することなしに、芸術が再び対応しうる自然、あるいは対応し得ないであろう様な自然の分節化は何ら存在しない。すべての模倣理念は、自然自体がまさに想像的に現出するときにはじめて意味をなす。それによって芸術はその仮象に満ちた表出活動へと自らの側で接近するよう試みることができるのである。

そのように読めば、第二の自然模倣テーゼは、第一のテーゼに対する一つのこの上なく説得力のある批判を含んでいる。それは想像的自然の形而上学への批判である。この想像的自然の形而上学とは、自然のうちに人間によって貸与されたのではない独自の想像の芸術作品を見る形而上学である。この想像的自然の形而上学は、前章で却下されたのではない独自の想像の芸術作品を見る形而上学である。再び自然の「言語」という思考が中心となるが、今回は自然から人間への雰囲気的な語りかけと言うよりは、むしろ自然の漠然とした画像の力強さが意図されることになる。そして、それを解きほぐすことが人間によるあらゆる芸術作品の本来の課題となる。

アドルノは、「自然の美的経験とは、芸術経験と同じように画像経験である」。観照的でもなく照応的でもなく、主として芸術の様式における一つの画像感覚的な経験として『美の理論』の自然は現れている。芸術美との絡み合いにおいてのみ、自然の純正な想像は生じうる。アドルノは芸術と自然との一つの規範的な相互依存のテーゼを定式化した。自然の想像的画像は、芸術なしには想定不可能な、それにもかかわらず芸術にとって「画像化するのが不可能」な、いかなる芸術の形式によっても置き換えが不可能な画像である─つまり、生動的な芸術や世界の画像としての生動的世界なのである。このような自然美は世界と芸術についての一つの自由な想像のための空間を提供するのである。

アドルノの自然と芸術との相互依存テーゼは、第一の模倣テーゼのロマン的異解の一つの新装版として了解してほしいのである。考察全体の重要な論点は以下のとおりである。「自然は、それがある通り以上のことを語っているかのように見えるというところに、その美しさがある。この過剰をその偶然性からもぎ取るということ、その仮象を意のままに操ること、仮象として仮象自体を想定し、非現実的なものとして仮象を否定しもすること、それが芸術の理念である」。規範的な相互依存テーゼの反転はこれでなされた。アドルノは、想像的に知覚された自然が芸術の仮象において現出するという事情を、われわれに身近な自然の欠陥、ならびに真の接近をしえない芸術の欠陥だと解釈している。仮象はこの欠陥を充たすものではない。こ欠陥は、芸術の超現実的で即興的な仮象としての自然が、芸術と世界との戯れの可能性を開くことによって充たされるものではない。芸術の仮象は、もはや仮象的ではない現実に無条件的に関連付けられることになる。すると変容的な仮象への距離を置くことがもはや必要なくなる、という恐れがでてくる。この転向に従えば、自然はもはや芸術についての模倣し難い回答ではない。芸術は言葉にならない自然の意味の絶望的な模倣である。アドルノの古典的模倣テーゼへの逆行は、同時に照応的自然の形而上学への逆行なのである。

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