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2014年4月11日 (金)

マルティン・ゼール「自然美学」(19)

2.世界との戯れ

風景を眺めた瞬間に、心地よい、その風景の側にうまく適った想像を思い起こさせるか、想定できなければならない。その助けによって、私は自然を芸術として想像することが可能となる。もとより、我々は二重の想像とかかわらなければならない。自然についての投影的想像は、芸術についての構成的想像を拠り所としている。この二重化においてのみ、芸術様式において即興される自然の戯れ、そして様々な芸術様式によって即興される自然の戯れが生じる、そうすることによってのみ、自然は芸術との戯れとして、そして同時に世界との戯れとしても成立する、ひとつの戯れの媒体となる。こうした戯れの意味をよりよく理解するために第一に必要なのは、芸術の想像について理解すること、第二に想像的自然の空間についての、より詳細な記述をすること、そして第三にあらゆる芸術を超え出てしまっている芸術の想像的自然空間にいてのより厳密な規定をすることである。

a.芸術の想像についての補説

芸術の投影的活性化の基盤をなす芸術のあり方は、芸術の諸々の機能のうちの何か一つの機能ではない。それは芸術の正真正銘の基本的機能なのである。私はこれを芸術の想像的あり方と名付けることにする。このあり方は基本的である。というのは、少なくともこの機能を満たすこと、あるいは満たすことを要求すること技術の産物のみが、狭義での芸術作品と呼ぶことができるからである。このことはその機能において、芸術作品だけが存在権を持つとされるということではない。この芸術の基本的機能は、芸術にとって唯一の重要な機能というわけではないのである。芸術のひとつの限定的な概念なのである。ここでは、さしあたり、想像的自然の了解のために芸術の想像的エネルギーを了解することにしたい。

芸術の構成的想像は、世界を形成する視覚方法の発見的な分節化を目指している、と私は言いたい。それは、芸術とは人間世界の直観的記述を使命とする伝統的把握の単なる一つの再定式化に過ぎない。ここで言う世界とは対象的世界ではなく、文化的な意味連関の世界であり、そこにおいて事物や出来事が人間にとって意味を獲得するような世界なのである、芸術が分節化するのは、したがって、ある事態が何なのかについてではなく、ある事態がどんな可能性を持つか、その有意義性を問う文脈なのである。芸術作品は、対象化できない人間の世界内存在を、それでも芸術なりに「客体化する」、つまり経験にもたらすか、直観可能にする客体なのである。ひとつの芸術作品が常に提示するものが何であれ─それが悲劇的な心の葛藤であれ、りんごの載った皿であれ、あるいはその作品が可能な何らかの条件であれ─内容に関して作品が我々に指示していることについての、ある一定の視界を分節化するということである。芸術との出会いとは、このような考え方に従ってみれば、何かと出会うという人間の状況の記号化であるような、そうした形象と出会う状況のことであるということもできる。

芸術作品とは、特別な種類の美的な客体である。その基本的な枠組みは、他の二つの美的対象の基本型と比べてみれば見間違いようがない。純粋に観照する客体と異なって、芸術作品は一つの記号である。それはたんに世界の中の一つの客体ではなく「世界について」の一つの客体である。芸術の記号とは、内的世界における現存在と情態の表出である。照応の表出力豊かな対象と異なって、やはり表出は喜寿的表出となる。芸術作品の想像とは、ある特定の生の状況を創出するのではなく、世界内存在の諸状況を記述する。他のすべての種類の記述的記号─ここで私が意図しているのは、知覚の叙述や解説文の類であるが─と異なって、芸術作品は事態の記述ではなく、かかわったりかかわられたりする人間と事物や出来事との連関、そして出来事と出来事との相互連関という特別な形式の記述を、その連関的記述を再び事態の特定に逆流させることなしに目指している。芸術作品は、視覚方法を視覚方法として提示する。芸術作品にそれが可能なのは、芸術作品がつねに何かを呈示するにせよ、提示するところのものを押しなべて次のように呈示するからである。つまり、芸術作品は、作品を呈示する手法を呈示するのである。

芸術作品は記号であり、芸術作品の意味は、その作品がどのように示し、何を示すかということを示すことにあるねということは現代美学の一致する基本原理であるだけではない。芸術作品は、作品内容を呈示する形式を呈示すると言うこともできるのである。より普遍的な基本原理として通用するように、「内容」の概念をここでは可能なかぎり広い意味で了解しなければならない。芸術の「内容」や「テーマ」とは、物語やアイディア、出来事、人物、気分、色彩の組み合わせ、音の響き合い、生理学的ならびに社会的知覚の型、そして芸術の手段や芸術様式に至るまで─一言で言えば古今の芸術作品において、つねにもっぱら「問題であり」うることであるといえよう。そのように読み取ると。芸術作品とはそれが提示するものをどのように提示するかを提示するものである、という定式は、あらゆる芸術における手法呈示的観点を強調するものである。記述形式を知覚することによって、記述されたものについての知覚を導くのが芸術の提示形式である。では一体このような形式に即した提示方法の意味は何かといえば、それには芸術の状況呈示的観点への注意が先ずその一つの回答を与えてくれる。すにわち、芸術はたんにその提示手段を示すだけではなく、むしろ、実施手段を示すことによって、我々がいつも芸術の「内容」として発見していることについての有意性を問う文脈を分節化しているのである。それは次のように言い換えられるかもしれない。芸術はそのつど、テーマである何かとの出会いの地平を分節化する、と。従って芸術形式に注意を払うことは決して自己目的に役立っているのではなく、作品において認識可能な諸々の内容をその作品自身が構成し特徴づけるような方式にかかわっているのである。芸術形式への注意は、芸術の内実に向けられる。この内実は、芸術制作を行うさいの相互作用と密接に結びついているし、他方でこの内実は、解釈に取り戻されうるようなものでもない。芸術の対象は、その内容(指示されたもの)でもないし、その形式(指示の手法)でもない。それは、あらゆる種類の「対象」についての経験飽和的、状況依存的で世界包含的な見方なのである。

芸術との出会いは、それは何かと出会った(具体的な、あるいはまた一般的な)状況を記号化した形象と出会う状況のことなのである。芸術作品とは、しばしば言われることであるが、それぞれの状況において意のままにならない我々の世界内存在の諸側面を言語化するということである。芸術作品は、その記述する形式の力によってそのような世界内存在のあり様を世界にもたらすのだ。しかし我々の見方の変化が芸術経験の重要な作用であればあるほど、芸術経験がどのようにしてこの変化に影響を与えているのか、ということが決定的に重要である。付言すると、それはすべての提示されたものとの関係がそれ以外の仕方では直観されないかまたは把握され得ないような状態に至る原理的に開かれた記述による影響のことである。この記述は、受容者にその人自身の見解との一定の距離、つまりその人に(極端な観照の禁欲とは異なる)実験的な探索やコミュニケーション的伝達の余地を与えるための一定の距離をとらせることになる。その記述は、現実を形成する意味連関と出会うために、現実の意味の地平を超える。芸術の分節化形式は、それぞれの現在に属している人々に、彼らが現に在ることを直視させるために存在するのである。

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