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2014年4月 3日 (木)

マルティン・ゼール「自然美学」(11)

第2章 照応する場所としての自然

1.生の反映

a.美しい土地

この湖があることによって、あらゆる私の行動が活気づけられていることに、私は気づいている。湖の周囲に形成された風景を見る時、その眺望をとても快適に感じさせるものもそしてそれとは反対に屠殺場を見る時、その眺望をきわめて殺伐とした眺めにするものは、純粋な観照による了解を超えている。この湖の風景は、私の第二の視線にとっては単なる直観的空間ではない。生活する場所である。

そのような視線は観照的方法とは異なる方法でものを見ている。この視線は、想い出や期待する喜びの中では、特定の場所にぴたりと張りついて離れず、他の感覚による直観を諸々の重要なエピソードから成る一つの空間へと導く。このような方法で美しいと経験された土地は、観察に応じているだけでなく、その土地を観察する者にも応じている。言い換えると、美しい土地は観察する者のありかたにも応じている。この場合の「美しい」という言葉には、美的意味とともに実存的意味が含まれる。言葉のこのような意味において、自然は美しい。というのも、自然は善き生の反映だからである。この土地が美しいのは、土地が先んじて私の生の関心に照応するからである。

この照応には、たんに善である以上のものがある。美の照応はむしろ、このような自然において可能な生の諸形式の、実存的善の直観である。風景を照応的観点から美しいとみなすことは風景によって開かれた善き生の可能性の表出として、また、その一部として風景を経験することである。固有な生との具体的な照応であること、それが美的自然の第二の魅惑である。このような具体的なものは、常に極めてはっきりと感知できる。照応する自然についても、意図的ではない活気、可変性、唯一無二性が尊重されるのだが、我々は照応する自然を、不変的で表情豊かな、価値で幾重にも覆われた形成物の具体化と見なしている。美しい土地は、空間を満たす諸現象の戯れではない。生の特有な形式に向けられ、世界に対して開かれた送球である。このような美が、つねにあるいは繰り返し求められていることからも分かるように、我々はそれを放ってはおけないのである。

ここでローザ・ルクセンブルクのレマン湖への憧憬を例として説明が加えられる。ローザ・ルクセンブルクにとって、この風景の直観的価値は、彼女の実存的価値に結びついているだけではなく、直観的価値そのものが実存的価値になっている。レマン湖に対する美的嗜好は、湖があるゆえにその周囲に形成された地域との実存的合致の証明である。つまり、美しい土地は、その土地における善き生に欠かせない構成要素として出現する。しかもこのような連関は、ルクセンブルクの憧憬に満ちた前提となる記憶と緊密に結びついて現れる。まるで風景の美しさが幸福な滞在を保証してくれるかのようである。もちろん、そのような保証は、どれほど美しい土地であっても不可能である。それにもかかわらず、このような美の縮減されることのない体験は、幸福な瞬間であるだけでなく(それは観照的沈潜でもあるが)、環境によって可能となり、しかも、環境が保証する幸福を直観する幸福なのである。この直観は、実存的な自然経験につねに共通して関わる四つの構成要素に分けられる。すなわち、観想学的照応、風土的照応、歴史的照応、気分的照応である。この影響の程度は、影響に対するルクセンブルクの感受性によって決定される。このような相互規定は、照応する自然の知覚に典型的である。美しい自然の土地は、あらゆる生活世界のように、感情的に「気分を喚起させられる空間」であるだけでなく、美的直観のさいには、それ自体が喜びに満ちたものとして経験される。このような土地を我々は喜んで我々に照応する土地として経験する。なぜなら、その構成要素すべてが強度を増しつつ、相互に照応するからである。

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