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2014年4月 4日 (金)

マルティン・ゼール「自然美学」(12)

2.形成する空間

窓から眺める私の第二の視線、湖に向かう私の第二の歩みは、重要なエピソードや形状から一つに統一された性格を獲得した意味付随的空間に続いている。意味付随的な自然空間は、必ずしも意味に満ちた自然空間ではなく、意味を失った生の自然空間の場合もある。これまで論じてきた限りでは、照応する自然は、固有の現実存在を直観する風景である。これが「風景」概念の美的な意味の一つにすぎないことを、もう一度強調しておきたい。

a.魂や心情のこのような響き合い

実存的で美的な自然経験の空間は、美的観照の空間とは全く異なる方法で描出される。観照的観察は、意味付随的な生の秩序すべてを度外視するのに対し、実存的な自然経験は、生活世界的な出来事の空間として環境を知覚する。照応的知覚における美的距離とは、観照の場合のような、情動からの距離ではない。むしろ、情動的に惹きつけられることや嫌悪を抱くこと、すなわち、不可避的な状況によって情動的に包摂されることや排除されることである。しかし、特定の生活状況の情動的なニュアンスだけではまだ照応とは言えない。照応には、外的な生活環境が気分を喚起させられた実存のニュアンスだけではまだ照応とは言えない。照応は、外的な生活環境が気分を喚起させられた実存のあり方の私的ではない表出となって、ようやく成立する。照応する空間も、意味付随的に表現されているだけでなく、意味付随的な表現の中に現れる。それは、自然の中にいると同時に、自然と共にある人間の状況を形成する表出である。

この表出の了解には、観相学的照応に向けられた第二の視線で十分である。四つに分けられた(観相学的、風土的、歴史的、情緒的)照応のいずれもが、他の照応なしにありえないことは、これまで確認されてきた。中でも、観相学的照応は、これら構成要素の相互作用が極めて明白になることによって際立つ。その意味で、視覚は照応的知覚の中でも突出している。しかしながら、ここで視覚的に知覚されるのは、身体的に甘受しつつ魂に衝撃を与えられた主体が、その理解力全般においてすでに感知しているものだけである。そこには、事物を観照する視覚の卓越性はまったくない。これについては、観照的視覚の基本的特徴も、観相学的視覚として描写できることが分かれば、ただちに明らかになるだろう。つまり、これまで述べて来たようにあらゆる生の意味を度外視すれば、事物と本質の「純粋な観相学」が現れる。ただし、観照的観相学はあいにく雄弁ではなく、表情に乏しい。この観相学において、対象は「黙って」現前する。観照的観相学は、擬人化による図式化なしに現実が見られるときに出現する。もっとも、ここで自然主義的な観相学を持ち出すことはできない。それに対して照応の観相学的知覚は擬人化であり、その対象には表現力のある雄弁さが与えられ、対象について意味を関連させる体験がこの知覚に合致する。この場合、「感覚的な形態は、当時に、意味形成」である。

自然の照応的現存は、その場に居合わせた人間を含んでいる。自然の照応は、自然に囲まれた中で起こる照応である。それゆえ照応は、第一義的に「魂の比喩」や魂の雰囲気の比喩ではない─そのような照応には、たとえば風景画も含まれる。照応的知覚は、空間的に広がった諸々の画像にではなく、状況を画像化する雰囲気の感知可能性に向けられる。観照的空間は雰囲気を伴わなくても成り立つが、照応的空間はほぼ雰囲気から成り立っている。もちろん─重要な相違には注意を払われねばならない。土地の持つ雰囲気には様々に異なる可能性がある。それにもかかわらず、それらの雰囲気はどれも、その土地の統一的特性の現象である。私は、その土地が長期にわたり保ち続けて実存的に表出している性状を、風景になる土地の特性と名付けたい。この特性は、特定の天候にも、また、個人的体験のエピソードにも結びつかないが、その時々の空間における顕著な文明の歴史には十分結びついている。それに対して、風景になる土地の環境における目下の生活状況の照応的性質を、その土地の雰囲気と名付けようと思う。これは、一時的な現出や個人の気分的素因によって幾重にも特徴づけられる。私が主として土地の雰囲気を体験するとき、私はこの土地における目下の状況をとくに知覚している。それに対して、主として風景の特性を知覚するとき、私はこの風景によって直観的に開かれた可能な生の形式をとくに知覚している。この場合、土地は、そこで可能な生の一つの形態を雄弁に語っているのであり、その土地における私の実際の滞在形態以上のものはそれほど語っていない。意味付随的に分節化された領域として自然を知覚することは、つねに雰囲気の知覚であるにもかかわらず、その表出は必ずしも特定の雰囲気に結びついているわけではない。

ルクセンブルクの場合には、この二つの観点が区別不可能な状態で重なり合うし、このようなことを、我々は同様にしばしば体験する。しかし、常にそうではないことは、容易に証明されよう。照応的に最も美しい風景の中で、私が悲惨な境遇に陥っていることもありうるが、そのとき、風景の美しさが、私の惨めさのために失われることはない。もっとも、この美しさに対する私の意識は変わるだろう。つまり、私は、この風景を痛々しさを伴った美として感じる。私は、この風景の美の意味を失ったことに気づく。そのようにして、この美は、私の惨めな状態の指標となり、私の絶望をさらに深める。この場合、風景は、私の気分の表出として美しいのではなく、私が閉め出されている生の輝きのなかにある美だから美しいのである。そのような土地は、冷淡に、そうでなければ単に極めて不快な地形のように影響する。つまり、その土地は、美しい土地として現れるのだが、私には醜悪に思われるのである。

これらのように、風景の照応的自然が、我々の気分の単なる産物ではないことを示している。むしろ、気分を喚起させられているというのは、照応による自然の雄弁さに対する我々の感受性の感覚である。そして、それは、我々の気分が風景の美的特性に合致しない場合であっても、そうなのである。風景の特性は様々に異なる雰囲気によって一貫して維持されているのだが、そのような風景の特性の統一性は、我々の気分の特性によって与えられるのでも、その統一性によって我々が避けようもなく諸々の気分にさせられるのでもない。それは、人間の情動的状態への特殊な影響と観相学的、風土的、歴史的な照応の統一性である。その一方で、これによって心動かされる人たちに対してのみ、概して自然の表出附随的な雄弁さは近づき得るが、それが出来ない者などいるのだろうか。というのも、ここで自然が「語っている」こと、つまり、自然の形態をとって生成してくるものは、人間をその本性から動かしている何ものか、すなわち、人間が生を構想したり、その理念を描いたりする展望の外的な現われだからである。そのような構想を持つ者だけが、自分の存在の可能性に対する肯定的あるいは否定的な、驚くべきあるいは愕然とさせられる応答として自然を経験できる。

 

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