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2014年4月13日 (日)

マルティン・ゼール「自然美学」(21)

3.想像的意識

投影的で美的な想像は、空間における一つの事物や空間における一つの空間を機縁とした、世界としての芸術の自由な直観であり、かつ芸術としての世界の自由な直観である。このような規定においては、自然はもっともな理由によってまだ話題にされていない。「投影的で美的な想像は、自然としての芸術の自由な直観であり、かつ芸術としての自然の自由な直観である」。この命題は間違っているかもしれない。投影的想像についての我々の分析が自然知覚の諸々の例に方向づけられていればいるほど、そのような自然知覚が自然らしさのない与件についてもなされうるということが、事例に関する我々の議論の結果に含まれるのである。

a.それは自然でなくてもよい

「自然の芸術」の唯一無二性についての疑問に対する我々の最初の回答が十分でなかったことは容易に見て取れる。この回答は単に投影的に産み出された自然の芸術に当てはまるだけでは全くなかった。この回答は、暗黙のうちに想像的に知覚された外的世界の美的状況にも当てはまった。厳密に注視してみると、想像的「自然の芸術」はある一つの一般的な「事物の芸術」の変種であることが判明する。そのような事物や出来事は、たしかに芸術-作品ではないが、まるでそれらが芸術作品であるかのように見える物事のことである。それは自然らしさを湛えている必要はなく、同様に自然らしさがない与件でもありうる。我々がこのことを明確に理解しい初めて、自然の芸術-仮象の本来の意味に対する疑問への、より良い二つ目の回答を獲得する見通しが立つのである。

しかしさしあたりここでの事情は観照的態度と同じである。すなわち、それは自然でなくてもよい。あらゆる、どのようなことも、それがまるで芸術でもあるかのように知覚されうる。古典芸術であれ現代芸術であれ、芸術におおよその造詣のある人ならば、その芸術的構想を前にした時、何も、そして誰も確かなことがないのである。その人は、都市や建造物をその芸術家の芸術的見解に即した様式で見ることになるだけでなく、すべてのものについて、実用的かつ日常的な意味や役割からして何であるか、それほど単純ではないかのように見ることができる。日常的な事物を、生活世界においてはまったく必然性のないものの記号として、その提示として、それについての反映として把握する。芸術に結びついた幻想において、我々は芸術のイディオムを世界の事物に与えることにより、それは自ずからではなく、我々の側から一つの言語を獲得するが、その言語はやがて、まるで自分から語っているように見えるのである。

人工的客体や人工的領域ならびに人間関係ではなく、自然だけが我々の投影的問いへの即興的回答をすることができるのであれば、想像的自然の特殊性はそもそも、すでに我々の戯れと自然が戯れるのを記述することのうちに示されていることになろう。しかしながら我々はその特殊性について、軽く扱うことはできない。人工的かつ社会的な諸々の現象もまた、我々の想像の戯れと戯れるのを駆り立てることが可能である。

b.芸術の修正としての自然

想像の仮象的結果に、まるで自然のように見える出来事の特質を認めるという、ほとんど避けようのない強制。投影的知覚において一つの自然化が忍び込む。この自然化は、そこにおいて想像的審美化が生じる現象の、最初の意味を否定するところに成立している。人工的なものや意図的なものにおけるあらゆる芸術-仮象は、結果として一つの自然の仮象とその人工的な仮象とに至る傾向がある。何かが、それが自然であろうとなかろうとどちらでもよいが、即興的な芸術の仮象として知覚されることが可能となるためには、それは近似的に自然として、つまりまるで自然のように、偶然的な出来事のように知覚されなければならないのである。

このような考えは、観照的知覚で自然の果たす役割に対して際立たせられたことと類比的な一つの帰結に至る。芸術の即興として、人工的で社会的な環境が現出するのは、それらの環境がそれにもかかわらず自然のように、意図せずとも成立し生成したもののように一定の意味において把握されるときにのみである。芸術を主題とした世界のあらゆる「即興」は、したがって自然の芸術との一つの戯れのようである。美的観照のように、投影的な美的想像は自然のある一つの効果をつねに見ているもののすべてに見る。結果としてそれは、自然やその仮象において、その芸術渇望的な幻想の反映を見出すのである。

これは、想像的に知覚された自然の特殊性についての問いへの、求めていた「二つ目」の回答のように見える。自然の芸術-仮象は、あらゆる投影的かつ美的想像の原像である。それはたしかに一つの正しい回答である。しかし、それは想像的自然の十分な魅惑を正確かつすぐれた仕方で根拠づけるにはあまりにも弱すぎる。問題設定を裏返して初めて、我々は事柄の核心に至る。自然の想像が芸術の想像に依存すればするほど、芸術の想像もまた自然の想像に依存する。自然が投影的に想像されるためには、すでに諸々の想像─つまり芸術の想像─がそこに存在しなければならない、ということがただしいのであればあるほど、我々が芸術の構成的想像についてまさに正当に評価できるようになることも。また正しいのである。自然についての想像的関心は、芸術の革新的創出ならびに生産的な知覚への関心の内にある。想像的に知覚された自然、「いかなる芸術によっても達成不可能な芸術への回答」は、あらゆる芸術の強度の一つの条件である。芸術の記号として想像された自然は、芸術上の想像、そして芸術に関連した想像にとって代用不可能な修正となっている。自然の芸術仮象に対応するのは、芸術の自然仮象である。

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