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2014年4月 2日 (水)

マルティン・ゼール「自然美学」(10)

5.観照的判断

純粋な観照的知覚が向けられているのは超感性的世界ではなく、感性的世界である。その知覚の聡明さは、幾重にも解釈された世界の中で解釈に至る道、諸理念、全体に至る道を歩まず、直観されたことを直観そのもの以外の何ものにも関連付けない、ということに存する。そこで開かれるのは真の世界、客観的世界、仮象なき世界ではなく、かといってまた、仮構ないし幻想の世界でもない。その世界とは、それまで観察に値しなかったすべてのことがそこで一挙に観察に値するようになる世界である。我々は世界の実用的な分節化を、そしてその他あらゆる価値を帯びた世界の分節化を放棄する。それは新たな本来の分節化のためにではなくて、我々は一度たりとも自分が行う世界の分節化を放棄したりしない。従って我々は、いずれにせよ単なる無視や決断によっては、その世界を見捨てることなどできない。我々はその世界に対する信頼を放棄するだけであり、我々は自分たちが世界の存在に固執するのを止めるのである。現象するものの偶発性に没入することによってのみ、偶発的なものを実定化することによって、必ずしも偶然的なものが否定されるわけでもなければそれが超越化されるわけでもなく、またそこから一つの教えが導出されるわけでもない。美的観照の根本的な意味は、こうした純粋に形式的な意味である。

我々は今、なぜ観照的美が大抵の場合に崇高なものを最低限その要素として併せ持つのか、よりよく理解できる。それが美であれ崇高であれ、観照という様態の中で知覚されたものは、それが我々にとって全ての意味に対する期待を超えて崇高でありうる点で、我々にとって美として現出するのである。こうした自分に対する美しさにとって何が重要であるかは、さらにまた、それがその美しさを示唆する判断の性質によって明らかになる。観照的な美的判断は、どこまでも脱中心的な美的判断である。その美的判断は唯一、そこで美が醜や失敗や悪趣味に対置されることのないものである。我々は、客体と周囲の状況が観照的観察にとって持っている価値を際立たせ─そのことによって特に、その観察を通じてすべての事物と空間が意味疎隔的な美という価値を獲得するに至るような、そうした観察の価値を際立たせる。したがって、こうした判断はやはり、いつでも正しい。我々は何を知覚するにせよ、その醜くて重要でないものでさえ美しく現れるのである。

我々が差し当たり美または崇高という区別を観照的な美的評価の構造に持ち込むならば、事態は少し複雑になる。観照的な事物直観の対象は美しく観照的な空間直観の状況は崇高である。我々はさらに二つの区別に出会ったが、それらは観照的知覚の遂行にとって特徴的であり、それらの区別に観照的知覚の判断の更なる変更が対応している。新たに対極的な対立が問題となり、それらの対立から可能な差異化の段階が生じるのである。一方の対立は、自然の事物ないし空間と人工的なそれらの対立である。こうした対立がさらに高まると、文化的な自然と野生の自然との、第三の対立になる。自由な自然の中の自然現象が、そしてまさしく自由な自然の空間が、他のあらゆるきかいよりも一層、観照への誘いとなるのである。

観照的評価にもより高次の形態があって、観照的評価は善のみ知って悪を知らないとしても、多少とも善なる(ここでは美と崇高である)ものの広い余地を知っている、ということにはつながらない。観照的態度においては、一方では、すべてが同様に美しい。これはそり態度による価値づけの平等を目指した意味である。観照的態度をとるように、他方では、異なった対象と機会がきわめて異なった尺度で我々を誘っている。これは観照的判断のエリート的で選別的な意味である。観照的知覚にとってすべては美しいか崇高であるが、幾つかのものが他と比べてより美しく崇高であるということは、矛盾なく考えることができるのである。

観照的判断は、それが平等を目指す基本的な意味を持っていても、けっして同語反復などではない。観照的判断は単にその都度の観察への促しを相対的に評価するだけではない。観照的判断はそれを超えて重要な構成的機能を持っているのである。それはすなわち、観照的観察の展望を、可能な他の観察方法の文脈の中で際立たせる、という機能である。平等を目指す意味は、それにとって特に誘いとなるものに関係している。これら二つの位相は一緒に第三の位相に至るが、それは観照的知覚の展望そのものを際立たせている。私が観照的意味で「これは美しい」と言う時、私は単に対象における現出の戯れとそれに由来する魅力の程度を強調しているのではない。私が言っているのは、これは観照的態度をとるための正しい瞬間である、ということである。こうした言明は単に観照の中で近づき得る美に積極的に関係しているだけではない。この言明は限界づけながら、美の他の位相とも関係している。そうした美の他の位相は、観照のなかで近づきうる美の代わりに知覚され、その間に為され得たし為されるべきであった善い行為、重要な行為、切迫した行為、不可避の行為と素朴に関係づけられるのである。

これらの根拠として次のことが考えられる。観照的判断が下す提案は、そのさい、人間の生活においては無関心の注意が普遍的な価値を持つ、という暗黙の前提に支えられている。しかしながら、もしもその通りであるならば、我々の考察全体が解消不可能な矛盾に陥るように見える。けれども、そもそも最初に話題にしたのは、「生活上のあらゆる重要性を断ち切ることが美的観照の原理である」ということであった。観照的評価にそれができるのは、内在的にみずからの客体の意味を示唆せずに、もっぱら外在的に自らの展望の意味を示唆して、生活するためには観照的評価が重要であると訴えるからである。こうした重要性は第6章でより詳しく規定されることになる。

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