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2014年4月19日 (土)

マルティン・ゼール「自然美学」(24)

5.想像的判断

想像的自然の知覚は、人間世界の意味関連を持つ画像となった世界に向かっている。この知覚は芸術の彼岸で芸術の現実を目指している。自然美は、その第三の形式において、芸術の一つの特別な出来事である。

この投影的な想像によって喚起された出来事によって、我々は芸術作品の枠組みとは異なる仕方で判断をする。想像的自然は一つの芸術批評的解釈の対象ではなく、可能な限りの様々な解釈についての空想の対象である。我々が自然の芸術的仮象に即して行える諸々の解釈は、つねに投影された芸術作品にかかわり、それに対して、これらの解釈をわれわれが獲得する機会となる自然にはかかわらない。我々が有意味な仕方で自然に帰属させることのできるのは、自然があれこれの芸術の活動的仮象において現出しているという状態のみである。芸術作品の成功の対概念は、芸術作品の失敗である。想像的自然の即興的美や崇高の対概念は、芸術の成功という想像的自然のヴァリエーションが生じないことである。この観点から言えば自然美の対概念は、醜や雑、あるいは過度の美ではなく、むしろ美的芸術の気分において何も感じないことである。

形式的には自然についての想像的判断は、観照的判断と照応的判断のあいだに立っている。前者の観照的判断とは異なり、自然の想像的判断は自然の価値を低くする判断も心得ている。しかし後者の照応的判断と異なり、この想像的判断には醜の概念が欠けている。最後にこの点に実存的照応と想像的照応との隔たりが明らかになる。実存的美あるいは実存的崇高性の反対物が自然のある種の否定的照応にあるすれば、想像的自然観察の場合の反対物はまさしく芸術の形式との非-照応であり、これはたんに肯定的な評価の中止へと導く照応である。実存的に醜い自然は、その観察舎を敵対的に出迎えるが、それに対して、想像的に感受されない自然は、その観察だけに敵対者に向かってくる。この意味において照応敵対的であるのは、そこにおいて我々の構想の試みを、自然がいっさいの逆行投影的な回答に値しないと認めるような土地である。このような自然はじっさいのところ、ボードレールが包括的に指摘したように「想像を除外」しているのである。

それにもかかわらず、投影的に知覚された自然が、たんに何も感じさせないと判定されうるだけではなく、単刀直入に醜いと判定されうるように見えるかもしれない。それはすなわち、投影的に知覚された自然が駄目な芸術の再生産のように現出する場合である。

成功した芸術の上でのみ、自然を美しくあるいは崇高に即興することができると結論付けることができるかもしれない。しかしこれも全く正しいワケデハナイ。キッチュな絵葉書でさえも、成功を収めつつある画像のうまくいった幻想の出発点となりうる。自然の即興は、つねに成功した芸術の、あるいは成功しつつある芸術の想像である─すなわち、われわれが成功したものとして知っている芸術の想像であり、まず幻想の遊戯によって、一つの成功した芸術となるような芸術の想像、そしてわれわれに芸術の新しい形式を開示してくれるような芸術の想像である。芸術がその作品の形式と解釈を超越するときだけ、ようやく自然は芸術に答えを出す。自然は投影的に美しく、あるいは崇高である。というのも、自然はある一つの自然の構築物に全く対応しているわけではないからである。ここでは剥奪された対応のみが充足された対応である─これだけはアドルノの、想像に関する否定的形而上学に関して真実である。しかし、そこで「約束され」ているすべてのことは、事物の最終的な言語への憧憬が決して満たされ得ないということである。想像的自然は、我々が世界の中で自らの存在について抱いているもろもろの画像と対応しているように見える。しかしまた想像的自然は、それについて─もろもろの画像や世界について─到底十分に知らないこと、そして我々にとって一方は他方なしでは充分ではないこと─そして我々にとって世界と画像の統一は決して十分に満足のゆくようにはならないことを、我々に示しているのである。

 

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