無料ブログはココログ

最近読んだ本

« マルティン・ゼール「自然美学」(13) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(15) »

2014年4月 6日 (日)

マルティン・ゼール「自然美学」(14)

3.照応的意識

美的照応は、空間の美的照応であろうと、空間にある事物の美的照応であろうと、喜んで受け入れられるか、または、喜んで受け入れられない、つまり、他者との共通点がある、または、他者との共通点がない人間的生の可能性を形成する表出である。このような規定は自然についてそもそも何も語っていない。それは、美的照応の空間を形成ないし支配する自然ではなくてもよい。観照について分析した場合と同様に、それは生の美的反映として知覚される人工的な客体や環境でも可能であることは、照応する自然の事例にも一貫している。照応と照応的意識が自然の場合、好都合に関連する理由を理解するためには、それらが自然から自立可能であることを明らかにしていかなければならない。

a.それは自然でなくてもよい

喜んで受け入れられる付録あるいは過剰な期待として、肯定的な自然照応を固有な生の形成化という観点から、私は説明した。つねに問題となるのは、善き生の強調や形式、あるいは現前として出現するとき、美しいと感じられる直観的客体と直観的行動である。形成する表出とは、照応に集中している対象や出来事に属する場合、生の出来事と異なる芸術の表出ではなく、その表出の周辺で可能な、あるいは、実際に営まれている生の出来事としての表出である。この表出は、直観的で内的な実践形態である。表出はすでにそのような形態の一部であるか、あるいは、その一部となるべきものである。

美しく照応する自然は、照応的美の一形式に過ぎない。同様のことが、醜悪なものや崇高なものにも当てはまる。自然の生成された照応には、志向的で、しばしば高度に人工的な対価を支払って、あるときは季節的な流行に応じて調整された照応が対峙する。後者の照応には、美しく照応する自然の事例において区別された構成要素がすべて該当する。この照応もつねに空間にかかわり、与えられた実存的現実の形式として第一義的に了解されるのではなく、実存的可能性の直観的な所与性として了解されねばならない。この場合も、美は、たんに私が好むもの、たんに私によく合致するもの、たんに私にとって善いものから区別されねばならない。

照応的美の意識に対しては、実存的に善である現象とみなされる何かがそこにあることで十分である。それは、それが心に適ったものであるがゆえに、実存的に─すなわち、固有な生の営みに配慮したり、道徳的に─すなわち、別の本当に何か善いものに配慮したりしなくてもよい。照応的喜びは、あらゆる種類の生のまやかしを使って─それが見抜かれない限り─その生命を維持できる。私が自分の住居の高価な家具調度を、装飾過多、これみよがし、成金趣味、法外だと認めるや否や、照応的嗜好は、美的な対応関係とともに消え去ってしまう。私が自然を向けた先には、見当はずれな自分の生の醜悪な反映が見える。このとき、美はたんに痛ましい非現実化や何倍にも増してくる胸苦しさを被るだけでなく逆転もする。善の現実存在のごとく見えたがゆえに美しかったものは、悪の形態であることが明らかになったために醜くなったのである。

 

b.生の無遺体としての自然と生の修正としての自然

作為的な照応的美に対して自然な照応的美に特有なものを手短に述べるとすると、それは、意味から構想されたのでも意味のために構想されたのでもない諸々の関係や形式が意味に寄与することにある。そもそも、そうした諸々の関係や形式が構想されることはない。それゆえ、たとえそれらが人間によって特徴を与えられ整備されているのであっても、照応的自然の特殊な魅惑は、それら諸現象の形態、すなわち、個別に生成させられ、個別に活動させられている、常に可変的な具体的形態が人為的に作られたものではないということに動揺を与える。この形態に意味はないが、我々はそこに意味付随的な諸形式を見出す。その美的意味は、産出物ではなく、形態の生成に構成上の意図を持たないことを前提とした出来事である。美的自然の実存的経験は、常に自然と結びついた人間的実践行為の構想可能性に対する限界を経験することである。醜悪な姿で自然が現れる時、この限界は人間的伸展の条件として享受される。このような見方においては、途方もなく表情豊かな未知なるものとして歓迎されている。あるいは、そのような自然ですら歓迎されるのである。

自然が意味付随的に現存している状態には、文化的意味の領域に対峙する経験の一部であることが含まれている。それが普段の文化的意味の領域に対峙する経験の一部であることは、自然から獲得された生の意味も一つの文化的意味であるがゆえに、自明である。熟知された意味の持続との崇高な断絶において、それは明白である。自然の照応的表現に対する文化的留意は、現実存在を道具的かつ機能的に導いた結果でも、既定的に解釈した結果でもない意味連関に対する人間の欲求に由来する。このような関心は、固有な生に対する束縛のない直観の場所を求める。そして、そのような場所が、照応する自然である。そこで見出される現実的な生や可能な生の表出も、厳密に見れば、「作為」、すなわち、人間の知覚能力や観念化する能力の遂行結果として生じると見なすことは、たしかに正しいが、決定的ではない。というのも、この「作為」は発見であり、それを発明や産出によって補うことは出来ないからである。求められているのは、「様式のある」照応ではなく、様式のない照応である。これが、自然の実存的崇高を美的照応の比類なき形式にしているものである。この形式は、人間の生を形態化する文化形式を形成するヴァリエーションと逸脱である。生の作為的形態のあらゆる形式に対する美的命法は、実存的自然観から生じているが、それら産出物としての諸形式は、つねに出来事でもある。同時に、実存的自然観からは、実存的生の諸構想の形式に対する命法も発せられる。すなわち、世界の意味形態を固有の構想に従って査定するだけではなく、世界の意味発生においても固有の構想を査定せよ、というのである。美的自然は、この二番目の次元において、歴史的に構想された生の形式であり修正である。

それゆえ、自然との照応は「問題提起的」自然との照応だけではない。自然との照応は、その本性からして問題提起的なのであって、生の形態の未決定で可変的な可能性の中にある。この照応の問題はまったく不可避である。他の美的態度と異なり、自然とのこのような美的な関係は、自然に対する日常的態度そのものと密接に関係している。人は非観照的に生きることはできても、非照応的に生きることは不可能である。従って、自然に対する照応的態度は、我々の自然に対する照応的態度は、我々の自然に対する美的態度のなかでもとりわけ最も身近な態度である。

« マルティン・ゼール「自然美学」(13) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(15) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マルティン・ゼール「自然美学」(14):

« マルティン・ゼール「自然美学」(13) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(15) »