無料ブログはココログ

« マルティン・ゼール「自然美学」(19) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(21) »

2014年4月12日 (土)

マルティン・ゼール「自然美学」(20)

b.画像および舞台としての自然空間

我々はいまや投影の手続きに関しての、一つのより良い洞察を得ている。その手続きは、空想に耽りながら芸術の構成的な想像に関わる表象方式のうちに見出される。そのさい注意しなければならないのは、私が芸術の想像について「想像上のこと」との関連から語っているのでもないし、その作品に「想像上の客体」という肩書をわりあてているわけでもないということである。いずれにせよどちらも、ある点で、狭すぎるか広すぎるかであろう。「美的想像」という言葉で、ここで意味しようとしているのは、状況形成的見方か世界形成的見方のどちらかを提供する─あるいはあたかもそうだと理解されうるような記号を発見し、構想し、知覚し、了解することとなる。ここで我々にとって興味深いのは、二番目の非実在的な場合の方である。自然は外的世界の断片であるが、それはまるで芸術作品の内的分節性を含んでいるように現出する。自然の客体あるいは自然の場面の感性的連関は、新種の意味連関となる。それは、照応の類における意味付随的な仕方ではなく、むしろ芸術という様式における画像感覚的記号である。

ある一つの意味画像において、人は通常ある一枚の画像か文学的テクストを了解するが、その画像やテクストとは、画像的でない仕方で(あるいは文学的でない仕方で)把握できる意味やメッセージを直観的に代弁している。そこで問われるのは、美的でない博多で把握できる意味についての諸々の美的画像なのである。自然の美的画像形成はこのような類には属さない。芸術の仮象における自然は、まさに何かについての意味画像ではないのであって、画像感覚的に、自律的芸術作品のあり方と類似しているのだ。そり投影的に獲得された意味は、他の媒体に譲渡することもできないし、その現出の感覚的多様性によって取って替わられることもできない。想像的自然とは、従って、それがきっかけとして見出されている芸術についての紋章では決してない。自然の画像的感覚を産み出すのは、芸術を題材とする自然の「即興」だけなのだから、その感覚は、何によっても、つまり投影された作品によっても代弁されたり置き換えられたりすることはない。このようなことは、我々が自然に投影しているものがなんと実際に紋章的意味画像である場合でさえあてはまる。自然の芸術的仮象は、自然をも芸術の能力に対する画像感覚的回答へと変容させられるのである。

私は先に、想像的自然とは、どんな芸術も到達することのできないような可能性を持った芸術のように現出すると述べたが、それは以下のように言い表すことができたかもしれない。想像的自然とは、どのような芸術も到達不可能な芸術に対する解答のように現出する、と。したがって、このような自然との関係は自然との「照応」という名にふさわしかったであろう。そこから結果として生じるのは、自然との美的照応の二つの概念、つまり「実存的」照応と「想像的」照応とのを可能な限り厳密に区分するという課題である。明晰性という根拠からね、私はそのさい(美的)「照応」という用語を、たとえ付加語なしで使用しようとも、以前の章において展開された意味において実存的美的照応のためにとっておきたい。

何が実存的自然の照応と想像的自然の照応との違いをなしているかは根本的に明らかである。何と照応するか、ということがそれぞれ異なっているのだ。前者の場合、自然の諸々の形態は善き生についての我々の表象と照応している。後者の場合、それは芸術という可能性、すなわち人間の生の想像的記述の諸形式と照応している。あるいは、次のように言うこともできるかもしれない。ある場合には、我々の関心は、自分自身の生を直観することであるが、別の場合には、芸術家による生の解釈の直観とヴァリエーションとに関心が置かれる、と。この根本的相違は、手短にではあるが掘り下げるべき更なる区別をもたらす。想像的に知覚された自然は、その照応的に体験された現出とは異なる一つの空間を構成し、またそうした現出とは異なる一つの表出を示すのである。

実存的照応において美的自然は、知覚する主体が存在する状況の表出であり、その状況の一部である。この知覚においてほとんどすべての感覚は、多かれ少なかれ同等に等しく参与している。ローザ・ルクセンブルクの湖の思い出の中で、感知された陽の光の暖かさや葡萄畑の雑草の臭いは、周囲を取り囲んでいる感動的なパノラマに劣らず非常に重要なのである。前章で述べた自然空間は、遠くや近くから感覚された空間であると同様に、遠くや近くとして感覚された空間でもある。そうした限りで、その自然空間は完全な意味で照応的空間、つまり照応的に満たされた空間なのである。想像的照応の場合、話は異なる。この別の照応の場合、空間は分割されもするし裂かれもする。ここにおいて自然空間の諸部分は、投影的幻想のために提供される。このような想像の舞台は、想像が生じる生の場所と同じではない。美的に想像された自然は、それぞれの環境の範囲内で行われる演劇のような特質を持っている。それゆえ、ここにはしばし理想的な観察の立場のようなものがある。この立場は、実存的照応に満たされた空間においては必要ないし、まして観照的空間経験においてはまったく論外である。この理想的な観察の立場は、このような演劇をその観察の仕方によって始動させるのだが、その立場それ自体は、演劇の中には存在しない。実存的照応経験の場合とは違い、この立場は、仮象によって導かれた知覚の位置とその反転した位置を通して、その演劇の事実的状況によって起こる出来事に参与することはないのである。それに応じて、ここでは感覚に誘発され巻き込まれた状態がはるかに弱まる。投影と想像、これらの言葉で訓練された耳の扱う業務である。目と耳以外の感覚を持つ、対象との至近性は除外されているのである。照応的─そしてまた観照的な─知覚とは異なって、諸々の現出空間への距離は自然を想像的に楽しむ基本条件なのである。

c.現実にはない芸術

照応的自然の魅力的な饒舌、つまり表情豊かに分節化されたあり様は、ここでいわばある一つの自立的な語りの諸形式に惹き戻ってゆく。ここで人は実際に、自然の「言語」について語ることができる。もっともこの言語とは、人間が自然から借りた言語であると意識せずに聴き取ることは出来ないのだから。自然は、家畜化された動物を除いて、人間に向かってこの唯一の言語を操れるが、それは人間から借用した芸術の言語にほかならない、それでももし我々がこの隠喩性について語ろうとする場合、自然は、我々が芸術に貸与しているある一つの仕方で、つまり、芸術だけでは支配できないある一つの仕方でその言語を語る、と言わなければならないだろう。自然は芸術の唯一無二のイディオムを語るのである。

しかし、いまだに明確でないのは、この「自然の芸術」の唯一無二性とは一体何なのかということである。暫定的ではあるが、今それに一つの回答を与えることができよう。自然の芸術的仮象の特殊性とは、その芸術的仮象において人間世界の記述を、我々が再度その世界の一部として経験するということである。自然の芸術的仮象において外的現実は、まるで世界を形象化する意味連関の想像的な展開が自然の作品であるかのように現出する。生の現実の只中において、可能的な生の現実との想像的な出会いの可能性が現れてくる。自然についての投影的想像が成功すると、外的世界は、世界における現実的存在ならびに可能的存在についての我々の画像のヴァリエーションとなる。従って想像的自然の「芸術」の実質は、これによって日常世界と別世界の芸術的呈示との突然の共存にあるのだ。その自然の想像の空間は、現実世界の空間として現出する。この空間は、芸術-空間の移ろいやすく気ままな仮象であるから、その空間は現実の作品の記号的存在がなしうるよりも、人間の日常生活へ接近する。芸術から離れたところで、芸術への極限の接近が生じる。「自然の芸術」とは、とても奇妙であると同時に、現実的な芸術よりも現実味のある「現実にはない芸術」である。

こうした自然のシュルレアリスムは、直截に知覚された芸術作品によっては与えることのできない想像の自由を開示する。この自由は、想像がそのなかで生じる世界の実在性にも、そこから想像が始まる芸術の手本にも囚われない。そうすると美的自然は、われわれを芸術の個々の形式の要求や特定の解釈の要求から解放するような芸術との出会いである。仮に言ってみれば「自然の芸術」とは世界と芸術の自由な想像なのである。

« マルティン・ゼール「自然美学」(19) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(21) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マルティン・ゼール「自然美学」(20):

« マルティン・ゼール「自然美学」(19) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(21) »