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2014年4月10日 (木)

マルティン・ゼール「自然美学」(18)

第3章 想像の舞台としての自然

1.芸術という仮象

a.投影

ここでは、自然美は美的仮象から生じるということから逃れられない。ここで自然美はさまざまな美的質を具体的に示すが、それは自然美がまるで芸術の形式との連関があるかのように知覚されたときにこそ、為されるのである。このように知覚する場合、我々は自然を─観照的な自然として─つまり諸々の現出の純粋な戯れとして把握するのではない。自然の外見上の生命に、芸術の様式や形態を投影するのである。ここで、我々は自然の「戯れ」との戯れを戯れる。自然がこれによって得る表現は─照応の場合と異なり─芸術によって開かれた生の現実を形成するものではない。この表現は、芸術的に再現された生の関係についての、距離のある表現である。実際、自然の諸現象にこのような表現があることに、表出的な質の意味はない。自然にそうした表現が洞察されるのは、このように見えていることが本当ではないと意識した時である。このような自然が美しいと言うのは、立派な実存空間としてではなく、世界についての比類のない画像空間として美しいのである。第三の美的関係において、自然は芸術の想像である。

とはいえ、この自然は単に我々の幻想によって人工的に作り出された産物ではない。自然が芸術の仮象となるということは我々の投影的な構想の結果である。しかし、自然がその仮象に満ちた芸術の饒舌状態の中で、形象を成すために示す何らかのものは、決して投影的な知覚の暴力のなかにあるだけではない。芸術を自然に投影することは、制御不能な逆行投影の動きを生み出すのである。芸術の記号の中で想像的に知覚された自然はいずれも、芸術のたんなる複製とは異なる。この自然は、過去、現在、そしてさらには未来の芸術の形式や可能性との唯一の出会いの舞台である。

ここで自然を知覚する際には、「として」-知覚することであり、それは「であるかのように」-知覚することを前提としている。自然らしい諸現象には、自然それ自体にはないような、記号による統一構造が当て嵌められなければならないのである。選択が為されなければならず、規則がもたらされ、自然によって引かれることのない境界が引かれなければならない。

b.即興

この場合、想像的な自然知覚を、自然との照応的な関係の産出として描写する傾向、より厳密に言えば、想像する傾向が認められる。というのも、両者においては想像的な自然知覚がつねに同時に、夢見心地な、あるいは非現実的な感覚として示されているからである。自然の芸術-仮象になることには、もう一つ別の現実の、たんに芸術のみならず生の仮象としても大いに意味を持つと言える。しかし自然についての美的想像を、自然とのより高度の照応、つまり生の高揚した現実の予感として経験したり解釈したりする必要性は全くないのである。自然が芸術の仮象となることは、それ自体で充分こと足りているのである。それにもかかわらず想像的な自然知覚にみられる文学的客体化の傾向は、決して偶然ではない─そこには二つの根拠がある。第一に、想像的な自然知覚は、決して純粋ではなく、つねに直観的な性格を持つのであって、それはすなわち対象に結びついた構造だからである。第二に、その芸術的再現は、照応的に経験した現実についての再現へと、ほとんど逃れがたく移行しているからである。

それゆえ、客体化の傾向は一方で、想像的に自然を直観する場合にテーマとなるのは、たんに芸術に与えられた知覚方法の観念連合的な再発見、つまり単に空想的な観察者だけに帰せられるような再発見ではないということを言っている。知覚の側での投影に対応するのは、むしろ投影的に審美化された諸現象の側での即興であることがしばしばなのである。その対応がうまくいった場合には、人工的な基準に従って解釈された自然の現出は、いわばこの解釈の図式と戯れるのである。その時には「自然による芸術の模倣」は、たんなる複製を遥かに上回ることになる。自然による芸術の模倣は、何か「うまくいく」ものでなければならない。我々は芸術形式を見つけ出さなければならないのである。そして自由な自然は、生産的な仕方で構想の戯れを戯れることを我々に許すような諸形態の中で、偶然に提示されなければならない。自然がこのように出会いにおいて獲得する魅力は、芸術審美的な投影に対して自然がしばしば刺激的な感受性を持つことに起因している。この観点の下では、自然が美しいのは、自然が、まるでわれわれによって投影された芸術形式を即興することだけを待ち構えているように見える時である。

これこそ本来的に自然の想像的知覚が産み出す仮象である。自然はたんにある種の芸術のように現出するのではない─そうであればたんなる投影であり、美的な意味でそれ以上に興味深いものではないだろう。芸術の譜面に従って我々が即興するのではなく、自然が自然の下に敷かれた芸術形式の上で即興するのである。このことを説明しているのが、自然を想像的に観察するさいの様相である。我々は投影し、自然は即興する。自然をきっかけとして、芸術に因んだ何かを見出すのではなく、我々は自然をまるで芸術の想像の産物のひとつであるかのように直観するのである。我々の想像の目標は、自然の想像という仮象に浸ることなのだ。これが成功したところにおいては、自然はどんな芸術も到達することができない芸術の可能性として現れてくる。この芸術の可能性とはそれ自体、仮象ではなく、われわれが投影的に創出した自然の芸術的仮象に基づいて構築された直観形式である。

ここで問題としたいのは、次のことである。すなわち、─芸術の事例は、この問題に役立たねばならないのだが─我々が自然を芸術の反映において芸術として知覚できるようにするように自然を表象すること、つまり自然が芸術の反映において芸術として知覚することができるように自然を表象すること、つまり自然が人工的な構成物であるということをよく意識した上で自然を表象することが問題となるのである。

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