無料ブログはココログ

« マルティン・ゼール「自然美学」(14) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(16) »

2014年4月 7日 (月)

マルティン・ゼール「自然美学」(15)

4.照応の形而上学と照応のイデオロギー

a.存在か仮象か

自然の諸形態は、人間の生の諸形態に照応する。問題はこの照応の方程式をいかに読み解くかである。この方程式を厳密に前者から理解する人には、自然は、美的知覚において了解されねばならない言語の秩序あるいは言語に類した秩序として現れる。また厳密に後者から理解する人には、自然の美的雄弁は、たんに人間の意味欲求に呼応した態度である。どちらの読み解き方も、明白な目的論的存在としての、あるいは、恣意的に生み出された仮象としての美しい自然と言う根本形式を許容する。わたしはいずれる説得力があるとは思っていない。照応する自然の美は、目的論的存在の表出でも幻想主義的仮象の表出でもない。それは価値附随的存在である。

自然の美的照応が仮象ではないことは、その表出方法を思い起こせば、証明は容易である。知覚に与えられているものは、自然とのコミュニケーション的関係の虚構とは結びつかない。たしかに、我々は、それかルクセンブルクの欲求に活気を与えつつ「対峙的に現れる」風景であるなどと、しばしば言う。しかし、厳密に言えば、それはルクセンブルクがレマン湖の地域を彼女の欲求に直観的に適合する地域として知覚している、という事態である。それは、該当する欲求がこの地域によって「目覚め」させられる時、価値を獲得する。この欲求は、地域と遭遇することで展開してきた。このような種類の表出的特性の知覚においてわれわれが経験したり、表現豊かで雰囲気のある語彙で描写したりするものは、自然の意図でも気分でもないし、そのような意図や気分の仮象でもない。それは、自然の中や自然と共にある我々固有の情緒的に推定される生の可能性や経験の可能性である。我々は自然に表現力豊かな性質があるかのように見るのではなく、そのような性質を持つものとして捉えている。我々は自然を、我々の感覚的かつ心的な存在に対して意義あるものとして捉えている。

この「として」という知覚は、自然についての解釈の結果でも自然についての了解の結果でもない。湖の風景の陽気さに対する私の感覚は、自然の解釈の前段階や結論ではなく、「思考しつつ行われる観察」の結果として出現する何ものかであり、分節化する感受性と発見の能力である。その際、そもそも了解が問題としてなりうる限り、それは、この場合に了解されている自然の中にではなく、直観しながら了解する対象へと移行する自然の中にあり、かつ、そのような自然と共にある私の状況である。自然が我々に対して意味付随的に対峙して「現れる」ことは、まさに自然が私たちに「対峙的」であること、自然が我々にとって好都合であることを意味する。この自然は分節化されているが、自然を分節化しているわけではない。自然の照応的表出は非意図的で、非言語的な表出である。

表出力豊かな自然から固有言語を持つ自然へと踏み出す時、照応の形而上学への移行が生じる。この移行の根本的な仮定は、自然そのものは、それ自体で考えれば、意味付随的かつ記号附随的な照応的連関として了解されるべきであり、つまり自然には内的意味、すなわち絶対的意味があると言うことである。ここで問題になっていることはすべて、意味付随的な自然の認識及び承認であって、意味付随的な自然の表出そのものではない。もし表出であるとすると、自然の照応は、時間を超えた意味への感覚的接触であることになってしまうだろう。しかしながら、我々の考察が正しいとすれば、意味付随的に表現された自然は必然的にある解釈行為として経験される。人間に対する自然の美しい雄弁の説明は、自然の時間を超えた固有言語という仮定を必要としない。

そのような言語の必然的仮象の仮定すら必要ではない。興味深いことに、自然の意味的存在の形而上学を拒絶するべく我々を導いてきたのは、自然の意味的仮象の仮定に対する拒絶である。したがって、照応する自然美の仮象的特性と言うテーゼは、自然の言語的特性の誤った拒絶と見なされねばならない。このテーゼは、それ自体が退けた立場の前提をそれ自身でなお分かち持っている。それは、照応的自然が言語的パートナーの仮象として了解されることを前提にしている。仮象的特性のテーゼは、固有の意味を持つ秩序としての自然の理念に固執し、この秩序のリアリティに対する信仰だけを放棄する。つまり、構造は放棄するが、存在論的解釈は否認する。照応的仮象の一般理論は、美しい自然の否定形而上学である。

ウィトゲンシュタインは「人間がある花またはある動物を醜いと思う時、人間はいつも、人工的産物と言う印象を抱いている。それは『これこれのように見える』ということである。これは、醜や美という言葉の意味を光に照らす」と言っている。自然は、人間にとって手際悪く形態化された産物のように見える時、極めて美しくないと感じられる、というのがウィトゲンシュタインの意図である。ここでは照応的な自然経験の重要な次元が出現している。この場合、自然は、我々の楽しみや不満に合わせて我々を驚かしている。なぜなら、自然が人工的産物のように見えるからである。それは、自然が目的論的秩序の仮象の中で、ふさわしいか、そうでないかということである。

これについてのカントの定式は「目的なき合目的性」である。自然は、それが実際にはそうではないのに、まるで目的に適っているかのように設えられて現れる時、美しいのだとカントは言う。ここでのカントの革命的な一歩は、この現存を美しい仮象としてだけでなく、仮象であるゆえに美しいものとして解釈していることにある。ただし、カントにとって自然が目的論的仮象において美しいものとして現れることに、疑いを持っていない。つまり、目的論的な仮象は、まるで神か人間によって作られたかのように見えるものが、まるで人間のために、あらゆるたんなる利便を越えて人間の喜びの発見や人間の心に適うために作られたかのように見える時にのみ、美しいものとして現れるのである。このような価値附随的な自然存在は、自然の反-目的論的な仮象の産物と言える。

美しい自然が目的論的な仮象の要素を、あるいは反目的論的な仮象の要素をも含むことができるということは、狭義の美しい自然に十分当てはまる。崇高な自然は、人間の秩序や神の秩序とは共有不可能な状態であることにより、目的論的な仮象を打ち破る。それゆえ、反-目的論的な仮象を崇高な自然は打ち破るのである。自然が未だ知られていない意義において自然の意義の擬人化された生から立ち現われるところでは、それが自然である─そこには、それが自然であるかのような仮象の占める余地はない。

« マルティン・ゼール「自然美学」(14) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(16) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マルティン・ゼール「自然美学」(15):

« マルティン・ゼール「自然美学」(14) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(16) »