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2014年4月14日 (月)

マルティン・ゼール「自然美学」(22)

c.美の想像と崇高の想像

我々の考察の結果には矛盾があるように見える。想像的な自然知覚は、美的芸術の知覚の本来の形式の一つである。しかし芸術作品が自然の仮象を有することが芸術作品の成功の条件である。ということが正しいのなら、想像的芸術と想像的自然との結合が理解できることになる。想像的な自然知覚は、芸術が自然であるかのような仮象を呼び起こすものである。この知覚は芸術形式の側だけで成功しているような、すでにある芸術形式を模倣するのではない。

そこでは次のような推測が真実であると証明される。つまり自然に関する想像的関心が、芸術の側のみに向けられているのではなく、同じくらいに芸術の側から動機付けられた関心であるということである。ただし、投影的に知覚される自然への関心と投影的に呼び覚まされた作品群への関心との間には、一つの重要な非対称性が見出される。想像的自然への関心は、つねに芸術の想像への関心である。これに対して芸術の想像への関心は、通常は同時に想像的自然への関心ではない。これはたんに以下の理由による。つまり、自然を想像的な仮象とする訓練なしに、芸術への知的関心を想定することを可能にするのが難しいからである。にもかかわらずいかなる個別の芸術作品についても、その作品がその芸術形態において把握できるようになるためには、自然に投影されていなければならない、と語ることはできない。想像的自然についての一般的関心は、それゆえにあれこれの芸術作品についてのいかなる関心でもなく、それはむしろ芸術作品の数多性と多様性における芸術の生命力についての関心なのである。この関心から自然美の一つの特殊な質自体が発生することが、こうして明らかになる。自然についての自由な想像は、芸術についてよりよく知覚するための手段ではなく、それ自体でただ一つの無比の芸術の形式との出合い方、そしてそれとの交わり方なのである。そのように見られた自然が我々を魅了するのは、その自然が我々の表象を芸術的にうまくいったもので驚かせながら満たすか、あるいは当惑させながら凌駕するからなのである。

以上によって第三の美的自然の次元において美と崇高の間の相違を伝えている箇所が指摘された。狭義で美しいのは、想像的自然が芸術や芸術作品について持つ我々の理念に驚きを伴いつつ対応する場合である。そして想像的自然は、このような了解を当惑させながら凌駕する場合に、特別な意味において崇高となる。

芸術の「投影」から一つの「即興」が自然の側において産み出されることは、自然の美しい様態ならびに自然の崇高な様態の前提条件である。投影的に知覚された自然が美しい、あるいは崇高なのは、そこに投影された作品や様式の遊戯的な変容を見る「幸運に恵まれる」そのときだけである。このような変容の方法があって初めて、想像的自然美の双方のあり方の相違が決まる。美しい即興で起こることは一つの刷新であり、崇高な即興において生ずることは既知の可能性からはみ出すことである。

想像的自然美驚くべき展開をする。それはどのような種類の芸術の記憶の中においても発展することができる。たとえそれが崇高の美学あるいは恐怖の美学による芸術であるにしても、である。タトエバ、カスパー・ダーヴィト・フリードリッヒの果てしなく茫洋と広がり、空しくも見える薄暗い荒々しさのような風景はまさに以下の点において美しい。つまり、その画家の技が思いがけずその風景を産出するということ、しかもこれまで見たこともない方法でその風景を現出させるということにおいて美しいのである。改めてここで照応的な自然直観と想像的な自然直観との間に割れ目が現れる。照応的な意味においては明らかに脅威的であり、拒絶的であり、あるいはされどころか醜い自然の断片や土地は、想像的な直観にとってはむしろ美しく現出する。想像的自然は、成功した芸術の自由な活性化および現実化として美しい。

崇高な想像においてはこれに対し、これまでの芸術の成功自体を意のままにできる。自然の画像は、未だにいかなる芸術作品にも対応しておらず、おそらく今後も決して対応することはないであろう様な成功の始まりを示している。このような仮象の基点となるのもまた、周知の芸術形式にその端を発する投影的転化である。しかし自然の現出の戯れによって起こる変容はこの場合、押し破るような即興の特性を持っている。自然と言いう舞台で観者に立ち向かってくるのは、すでに知られた芸術における新しい画像ではなく、これまで知られていないし、これまで一度も存在しなかった芸術の画像である。想像された作品はジャンル間の境目を無効にし、この上なく異種混合的な総合芸術さえやらない仕方でジャンルの特徴を結びつける。自然に即して想像される芸術は、芸術を通して生み出され、芸術から生じ、芸術として現前している現実の印章、いかなる崇高な芸術の仮象は、想像上の芸術の仮象である。

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