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2014年4月 1日 (火)

マルティン・ゼール「自然美学」(9)

4.観照の形而上学と観照のイデオロギー

a.美的観照対理論的観照

美的観照を、プラトン的、アリストテレス的、アウグスティヌス的、トマス的、自然神学的、あるいはショーペンハウエル的な観照と取り違えてはならない。というりも、それらの観照は、異なった道をとりながらも、理論的な没頭によって世界の神的な秩序に与ることで達成されるからである。こうした理論的観照の目標は認識である。こうした認識は感性的な出発点を必要としない、絶対者の純粋に精神的な観取としても了解されうる。こうした自覚的直観はたんに創造・存在・世界そのもののうちの、ある一つのものの把握にではなく、それらの意味の把握に向けられている。

美的観照はその伝統の中でこうした知的直観と何度となく等置されてきた。美的観照とは何かと言うことは、理論的観照をモデルとして了解されてきた。まさに美的観照は、たんに多様な感性的現出とは見なされずに、ある超越的な意味の現出と見なされたのである。両者に共通なのは、活動的な行為との距離という前提である。理論的観照と美的観照は活動的行為とその個別的な目標設定に背を向ける。だが、すぐさま両者の道は別れていく。世俗化された制約の下では、美的観照はまさに世界の意味と秩序を捨象するときに、充実されうるのである。純粋な美的直観は近代的な自然経験の渦の中で理論への緊縛から解き放たれる。それ以降、美的距離は、さらに理論的距離に対しても、距離をとるのである。

これは純粋な美的観照の可能性が孕む美的、実存的、及び倫理的価値に対する問いと密接に関連しているのである。あらゆる世俗化や仲違いと同じく、理論的観照の全束縛から美的観照が切り離されることは─解放として─利益であると同時に─疎外として─損失でもある。こうした背景に立つならば、私は観照を狭い概念に制限することで規範的な意思表明をしているのである。─すなわち、美的観照の純粋性に賛成し、それを認識的及び熟慮的な了解に統合することに反対しているのである。

本章で暗示された規範の十全な基礎づけは、本章で示すことはできない。更なる根拠が追加されなければならないが、それらは三つの自然美学的な魅惑全ての比較と解釈によって初めて定式化されうる。だが、幸いにも規範的重みづけの重要な部分は、またしても、それに対応する概念的区別の有効性に即して吟味されるのである。そしてここではすべてが観照の最大限に切り詰めた概念を支持している。すなわち、その概念は一方で厳密に美的な感傷を表わすことを、そして他方では理論的、宗教的、神秘的構成要素が付加された観照を表わすことも許すのである。関心を欠いた感性的注意という美的観照の貧相な規定は、それが美的観照一般の名前に値するかぎり、全ての観照の本質的な核心を包括している。それゆえ、ここでまさに美的観照というものについて語ることは、正当であると思われる。このことは他方で、たとえば美的観照による自然知覚の実践がさらなる要素を含むか、あるいはもっぱら別の種類の─理論的、宗教的、神秘的─方向性の前段階として働くだけである、ということを排除しない。それゆえ、理論的観照と美的観照の区別を対極的な相違として解釈することは適切であり、そして美的観照は、それにとってはもっぱらないし第一義的に自由な感性的注意が問題となるような観照として了解されうるのである。美的観照を通じて反理論的、反宗教的、あるいは反神秘的であると記述するのは、行き過ぎであろう。美的観照はそれらのどれでもありえない。

b.どんな形而上学を木々は持っているのか

美的観照と形而上学的観照─すなわち理論的観照および神秘的観照─の間の緊張は、ヨーロッパの文学に属する多くの重要証人たちが残した作品の中にまだ生きている。形而上学の否認は、否認されたものである形而上学の空虚な形式という名の下で行われる。そこに残されるのは、形而上学的に意味のない形而上学、という逆説である。このような観照のイデオロギー(無用な虚偽意識)は、ひとり観照的知覚のみが美的に適切な知覚であると見なされる場合に、あるいはさらに顕在的には、ひとり観照的で自然に即した生活のみが正しい生活であると見なされる場合に、いつも現に存在しているのである。観照のイデオロギーは執拗に次のように聞こえてくる。「このことが地上における唯一の義務である/明晰性への変化/しかも思い煩うことなく」

たしかに観照のイデオロギーはたとえ形而上学がなくても生じ得るし、観照の形而上学はイデオロギーなしに生じうる。だが哲学の著作形は通常、ミスからの立場を特定の形而上学とイデオロギーに結び付けている。例えばパスカルとカントは、観照的に現出する自然の意味の極北に、思弁的解釈を施す。蒼穹はその異他性において神の創造である証しとされ、その崇高性において人間の二重の現実存在の徴表であると証されるのである。まさにその感覚に適った無意味さにおいて、蒼穹は超感性的意味の証拠となる。これら二人の著作家にとって、観照の形而上学と観照の道徳は一つのものである。パスカルとカントは自然の事実的な偶然性を承認したが、ニーチェは両者によるその承認を偶然の評価的な肯定へと高める。こうした歩みは美的観照の自己認識にとってきわめて重要であるにしても、形式的には、すべては先人の下に留まっている。ニーチェもまた天空の偶然的領域との出会いを第一に存在に関する言明をもたらし、第二に無条件の倫理的結論にもたらしている。天空は意味から自由な存在の直観を開始し、まさに存在が意味から自由であるという直観を開始するということは、見かけ上の無意味さが高い理性と隠された意味を指示するという逆の断言とちょうど同じく、思弁的である。こうした観照的実践の内部における結合が昔も今もいかに身近に思われようと、それは思想的には正当性を欠いた歩みである。これは承認ないし肯定された偶発性から否定された偶然性への歩みなのである。パスカル、カント、そしてニーチェは鑑賞の経験から一つの教えを導出しており、彼らはそれについて、こうした経験の本来的な内容がその教えのなかで述べられている、と主張している。これらの教えの各々が他の教えをどれほど転覆させて誤解しているにせよ、それらはすべてそうした内容を持つことが観照の本質に属するという点で一致している。偶発性の克服の中にありはしない。その場合、観照の実践にとってもはや純粋な美的観照は最終的にその価値を、美的知覚の他の遂行の内の一つとしての自らの位置価から獲得し、そしてその知覚が意識的生活のために持つそのつど限定された意味から獲得するのである。

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