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2014年4月30日 (水)

ラファエル前派展 英国ヴィクトリア絵画の夢(5)~2.宗教 Religion

宗教を題材とした作品の展示ですが、ラファエル前派の画家たちは敬虔な信仰を有していたという人はおらず、彼らの作品は教会の堂内に掲げられることなく、展覧会や個人が家庭内で鑑賞するために描かれたものだったと言います。ルネサンス初期やそれ以前の古いカトリック美術の象徴性や形式主義に倣ったような作品を制作していったといいます。彼らにとって聖書は人間ドラマの宝庫であり、神の教えではなく文学的、詩的な意味合いを求める対象であったといいます。

Mireidaiku ミレイの「両親の家のキリスト(大工の仕事場)」という作品。幼いキリストとその家族を描いた作品です。父親のヨセフと助手が製作中のドアから突き出た釘で、少年イエスが左手の掌を傷つけてしまう。傷を負った息子を慰めにやって来たマリアがあまりに心配そうなのを見て、イエスは母親を安心させようと左の頬に口づけをする。マリアの夫ヨセフは傷口を確かめようとしてイエスの左手を後ろに逸らし、これが祝福を与える仕草となると同時に、そのために少年の足もとに血がしたたり落ちる。作業台の向こう側から、マリアの母親アンナが傷の原因となった釘を抜こうと手をやっとこに差し延べる。右手からは、洗礼者ヨハネが、従妹のキリストの傷を洗うために盥に水を入れて運んでくる。と場面を説明されています。こうして読むと、なんとも複雑な作品になっています。ミレイという画家は、前のところで見た「オフィーリア」や「マリアナ」のような一人かせいぜい2~3人の人物に焦点をあてて、そのドラマをじっくりと描くという傾向の画家です。しかし、ここでは6人の人物が登場し、複雑に動きが織り成すスペクタクルを描いています。古い宗教画の作風などを参考に構図などで工夫を凝らしているということですが、どこか窮屈で不自然に無理をしている感じを消し去ることができません。画面に奥行が感じられず平面的で、窓や扉があいて外が見えているにもかかわらず、狭いところに閉じ込められたような窮屈さがあります。もともと、空間を圧縮する傾向にある人ですが、折角の大きなキャンバスもその大きさを感じられません。だから、この画面は広くキリストと聖家族の場面を描いて、宗教的なことを広めるということには至らないようなものになっています。また、登場人物を、意識して様式的に描き、複雑なスペクタクルの機能も果たさせるためにか、かなり無理な描き方をしているように見えてしまいます。例えば、ヨハネのおどおどしたような表情は不自然なほどで、中央のキリストの顔は接吻を施しているようには見えず、マリアは接吻というより愛の口づけを無理強いしているようにしか見えます。そして、何よりも6人の人物の動きがバラバラに見えてしまっていて、相互の動きが関連したドラマを生んでいないのです。だから、6人もの人物画いて窮屈な空間に閉じ込められているにも関わらず、それぞれがばらばらで彼らの関係がドラマを生んでいない。それゆえに、彼らの顔が描き込まれているにもかかわらず、表情に奥行が感じられないのです。後姿で表情が見えない「マリアナ」が濃密な表情を湛えているのと正反対です。その意味で、ミレイの作品としては、異質な印象を抱きました。

Preraffaros1 一方、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの「見よ、我は主のはしためなり(受胎告知)」という作品。画家本人が処女マリアは床に就こうとしているけれども、寝具は見当たらず、これもしかし暑い地方であれば当然であろう。天使ガブリエルがマリアに白百合を手渡そうとしていると説明しているように受胎告知の場面を描いた作品です。受胎告知の絵画と言うと、有名な絵画作品が数多描かれていますが、そこにある共通のパターンとはまったく異質な描かれ方をしています。天使に羽根がないとか色々言われているようですが、それは措いて、私には、ここで描かれているマリアという女性が、後年のロセッテイの描く女性とあまりにも違うので、それが印象的でした。ファム・ファタールとでも言うような、成熟した、蠱惑的を濃密に描くというロセッテイのイメージとはかけ離れた、ここでのマリアは呆けたような顔をして、天使から逃れるように壁際に身を寄せて、身を護るかのように脚を屈めています。伝統的なマリアの色である青を配すことなく、あえて純白の衣装を着せているのは、受胎告知を受け入れて聖母となる前の、処女の状態でいるという聖母に変貌する直前の、過渡的で不安定な状態を描いたということらしいです。聖母の神々しさはなく、追い詰められて恐怖におののく普通の女の子がいるようなかんじです。それにしても室内に対してマリアのサイズが異常に大きかったり、マリアの中でも顔が不自然に大きかったり、顔が右側にずれていたり、かなり無理な姿勢を強いられているようにみえます。それがこの作品の落ち着きのなさ、これだけ純白の白をつかっているのに静謐さとか清澄さのようなものは微塵も感じられない。ラファエル前派はマニエリスムやバロック絵画の劇的な宗教画を遠ざけたといいますが、別の方法で、バロックとはちがったドラマを、より心理的に描いたと言えるかもしれません。天使の前で不安におののくマリアの姿は古代の女性というよりは近代の個人の心理的なドラマで、その心情が空間の歪みにも表現として現れている、というように考えると一種の幻想絵画の世界とも言えます。そして、そこには性的なニュアンスが見え隠れしていて、聖母の運命を受け入れるということ自体に性的に成熟した女性に変容していくことに対して慄く処女の懊悩というニュアンスが見えるのです。それは、寝台という舞台装置や脚を屈めたというポーズなどが暗示するものです。

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