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2014年5月

2014年5月31日 (土)

マルティン・ゼール「自然美学」(44)

c.照応的生

虚構の知覚と同じように照応を意識した知覚もまた善き生の契機ではない。否定的な美的照応においては誤った自己自身の生の直観あるいは実現しなかった自己自身の生の直観が与えられている。この知覚の意味はそれ自身のうちに在るのではなくて、むしろ質の悪い生が居心地のよい生だと自分を欺かない努力のうちに見出される。それだけ一層、肯定的な照応の知覚の自己目的的特性は明らかである。この場合、美的直観は安寧の充実した表象あるいは開示された表象に向けられる。この知覚における注意が目指しているのは、この注意がなければ成り立たないもの、この注意がなければ実効性を持ち得ないものである。美的照応はしばしば、私だけに、そして短い時間だけ与えられているのではなく、同時に他者にも、そして持続的に与えられている。たしかに、特異で一時的な照応も存在するが、しかし、その表われは、一方では持続的であり他方では相互主観的にアクセスできる表現形式に由来の点で対立している。

全ての照応意識が純粋に主観的な感覚になるところでは、照応の破壊的な弁証法が起こっている。そうなると、美的照応手はもはや、実存的な存在の反照ではなく、もはや実存的な仮象の存立である。美的に産み出された照応をはじめから生と見なす危険である。この照応は生を虚構的に反映しているに過ぎないのである。照応的な生と虚構的な生との渾然一体化は実存のこの二つの様相の倒錯である。照応的な趣味感覚のもう一つの誤りは、自己に固有の状況を練り上げて完成させる試みのうちにある。相互主観的に照応関係もまたそのように倒錯する可能性がある。

コミュニケーション的照応と美的照応とは、うまくゆく生のなかで等しい重さを持った観点ではない。コミュニケーション的な生に参加することは自由な美的照応感覚の基礎であるが、しかし、その反対は成り立たない。美的照応に留まることが生の唯一の理想として完全に無意味であるならば、たんにコミュニケーション的な生の理想は端的に制限される。照応的な生のうちにコミュニケーション的な部分的理想は、照応的な生を思ったより貧しいものにするが、それに対して照応的な生のたんにコミュニケーション的な部分的理想は、照応的な生を不可能にしてしまうであろう。なぜなら、成功するコミュニケーションがなければ、うまくゆく生は存在しないからである。ここには、相互主体的な生の形式への美的でない参加は、成功する実践のその他の五つの基本的な観点に比べて、倫理的に優位であることが示されている。こうした非対称性は、倫理的なものの内部で美と善との非対称性が開示される地点である。

 

d.美と善の非対称性

このことを解明する前に、三つの美的次元の倫理的な記述からいくつかの帰結を引き出しておきたい。第一の帰結は、美的知覚の根本次元はそれ自体としても倫理的な方向づけの次元として理解されうるということである。観照的・想像的・照応的活動の美的意味のうちには、観照・想像・照応の何らかの美的ではない遂行のヴァリエーションが存在する。うまくゆくことを目指して遂行されるがゆえに善き生は、けっしてたんに美的な生ではない。第二の帰結も、最初に美的関係に即して見て取られた関係の普遍化を含んでいる。第四章で論じた風景理論の要点は、三つの美的魅惑のいずれも部分的価値としてのみ自然「全体」のなかでそもそも価値を持つ、と言い表すことも出来たであろう。本章でここまで通して論じてきたことの要点は、考察された善き生の六つの観点のうち五つは、部分的理想としてのみ全体としての善き生にとってそもそも価値を持つということである。第四章の結論は、自然との出会いにおいて美的に非相対的な価値を持つものは、差別化された魅惑との相互作用の─美しく崇高な─構造である、ということであった。ここでの結論は、人間の個人的生において非相対的な価値を持つものは、世界に対する差別化された位置と世界における遂行志向的な活動との相互作用─幸福主義的な─構造である。

こうして平行関係にしてみると、美と善との非対称性が明らかになる。それが露わになるのは、我々が、自然美という事例に触発されて出発点とした善き生の包括的な美的概念を、新たに記述するなかで手に入れた善の包括的な倫理概念と対比するときである。善き生の美的概念は、ここで明らかなように、善についての限定された倫理的概念である。しかし、善の美的了解と(完全な)倫理的了解との差異は、前者の美的了解から重要な観点が抜け落ちるという点にあるだけではない。さらに、美的評価においてはうまくゆく生の三つの次元が同等の権利を持っているのに対して、包括的な倫理的評価においてはそうではないという点にもある。包括的な倫理的態度は、コミュニケーション的な生の優位を承認する。つまり、そうした態度は、生に距離を取る形式に対してもコミューン的な生の優位を承認する。つまり、そうした態度、生に距離を取る形式に対してもコミューン的な生の門戸を開放しておくことが生き方の目標だと了解している。それに対して、美的価値の諸観点─ならびにそれらの相互作用─に制限されている生の理想は、想像的生や観照的生に対するコミューン的な生の優位を承認しない。なぜなら、美的価値に制限されている生の理想がそもそも何らかの優位を承認したならば、その理想は想像的生ならびに観照的生の観点のうちの一つであるだろうからである。善き生の包括的な倫理的理念は、うまくゆくコミュニケーション的関係の支持されている生の理念である。それに対して、善き生のたんに美的な理念は、生きられた世界の内部での態度の間で任意に行われる交換という理念である。このことは、包括的な倫理的態度の極端な変様として把握できる。しかし、こうした規定をほんの少しだけ精確にして、善き生の美的理念は生きられた世界の内部での態度どうしのあいだで一般的に(単に偶然にではなく)任意に行われる交換という理念である、と言うや否や、美的なものと倫理的なもののあいだの裂け目は決定的なものとなる。そうすると、美的なものは、もはや倫理的なものの内部での選択肢ではなく、倫理的なものの地平の外部における選択肢となる。そうなると(美的なものと倫理的なものの間に)厳密なあれか-これかが、しかも倫理的な生のすべての強い道徳的解釈に先立って妥当しているのである。

 

2014年5月30日 (金)

マルティン・ゼール「自然美学」(43)

3.善き生の三つの観点

a.観照的生

観照が周縁的な知覚形式であるだけでなく一つの生の形式でもありうるということは古くから考えられてきた。古代の倫理学やキリスト教倫理学にとって観照的現実存在は、数ある生の理想の中の一つとしてではなく、むしろ充実した善き生の最高の段階と見なされた。たとえば、アリストテレスにとって善き生とは、何か他の事のためにではなく、それ自身のために行われる行為の連続性のなかにある。そうした─数ある─活動の中では理論的観照が抜きんでている。なぜなら、第一に理論的観照は純粋にその遂行を志向する行為であるからであり、第二に理性的、つまり人間の最高能力に対応している看取であるだけでなく、理性自身の根拠に向けられた看取でもあるからである。

ここで語られているのは理論的な観照であって美的な観照ではないが、肉体を離れているというメルクマールはどちらの観照にも共通している。純粋に美的な観照は、理論的な観察が所与の現象を解釈しつつ把握することを差し控えることによってあらゆる実用的な実践に対して保持している隔たりを深めてくれる。そのことによって自由な理性的活動の幸福は、拘束されていない自己関係的な感覚的聴取の幸福に変化する。こうした美的な注視はけっして、純粋に理論的な注意のように、獲得された洞察の成果については感知しないので、テオリアという思考活動よりも純粋な自己目的的な活動でさえある。そうしたテオリアについてアリストテレスは、神だけがそれを完全に支配することができると語っている。それどころかこうした感覚を悦ばせる注視はもっぱら人間の幸福であり、身体組織が我々とは異なる存在者と我々が共有しうるかもしれないような一にして全なるもののいかなる理論よりも人間的である。美的観照の時間は人間的な努力の必然的な目的からたんに可能的な目的になっている。美的な世俗化とともに観照は、それ自体で考察すれば、絶対的な善から相対的な善になったのである。

理論的な作業は、それが成功している生の要素であるためには、自律的で内的な意味が付与されるかあるいは少なくとも付与されうる実践形式それ自体を概念的に把握することのうちに含まれていなければならない。理論が自己目的として可能であるのは、それが唯一可能な自己目的ではない場合だけである。理論の幸福は原理的に付随的な幸福である。理論の幸福は他のあらゆる行為への関与から隔たりを取り、それらの行為に反省的に向き合うのである。そのことのうちにまたもや理論的観照と美的観照との差異が現れる。どちらもそれ以外の実践に対してはそれぞれ異なる隔たりを取る。哲学的理論の禁欲は多かれ少なかれ極端な反省による禁欲であるが、それに対して美的観照の禁欲は極端な直観による禁欲である。哲学的な反省は何かに関与する生から生じて、その生について語る。純粋な美的直観はたんに生じるだけである。

 

b.想像的生

ニーチェは『悦ばしき知識』において、観照の弁証法を語っている。ニーチェが観照的理想をたしなめるのは日常的現実の名においてではなくて、想像的世界創作の名においてである。そもそも価値を持つものはすべて創造的な精神の創作にその源を持つ。したがって想像的に活動していることが実存の最高形式なのである。「作られた」画像の─たいていは気づかれることなく行われる─投影が人間の形式の生活世界の本質なのであるから、投影可能な作品や画像、あるいは概念を判断を「形成すること」は、文字通り卓越した行為なのである。それを手がかりにすれば、観照を視野に入れて、解釈された世界ならびにふさわしい解釈による現実作成の力が美的直観と理論的直観の一つの前提であることも少なくとも同じ程度に真である。観照的人間の迷妄とは、自分たちにのみ真の世界あるいは世界の真の価値が手に入ると思っていることである。しかしまた、ニーチェの立場において納得できるのはこれだけである。というのも、絶対化された観照に対するニーチェの批判はその代償として想像を絶対化してしまっている。想像によってはじめて世界あるいは世界の真の価値が作られるというのは、かえって想像の迷妄である。世界─客観化されたあるいは生きられた世界─がわれわれの世界像から生まれた廃棄物に過ぎないという信念がすでに不適切である。人間にとって価値を持つものは─人間を顧みない自然の観点からではなく─人間にとってのみ価値を持つという事実から、すべての価値─真理価値でさえ─が「もともと」恣意的な定立による生産物だということは帰結しない。それは言語記号の記号的性格から、この記号が使用されている時には「文字通り」任意の約束事が語り出されているに過ぎないということが帰結しないのと同じことである。

しかし、想像を中心とした生は美的な生である必要はない。それは、美的なものあるいは「創造的なもの」の概念をニーチェがしたように拡張しすぎるときにも、そうである。そうした生はたんに虚構の生でありうるだけである。そうした生が夢想された別の可能性に逃避することは悪い生に数えられるとしても、その生が夢想された世界に夢中になることは善い生に含まれる。虚構の生は、芸術と並んで、実際に生きられた現実を想像的に変更する一つの形式である。虚構の生の空想も─芸術作品とその生産的現実化のように─実存の時間の中に一つの空間を、実存の時間の中の一つの時間を造り出す。どれほど想像的な生と虚構の生とが相互的に無関係に営まれようと、映画館や長編小説の読書、その他の多くの機会にこの二つの生はよく同時に生じる。虚構の生が唯一の重要な生になるならば、それは想像的な生よりも有意義な生の喪失に直接つながることは説明するまでもない。それにもかかわらず虚構の生はうまくゆく生の本来的な観点を表わしている。美的でかつ芸術に関わる想像と自由に夢想する想像とはありうる善き生の観点として同等の重みを持っているのではない。美的な想像のほうがより重要である。なぜなら第一に、美的な想像は相互主観的な直観媒体に向けられているからであり、第二に美的であるより前の想像作用は美的にあらかじめ作られた形式のうちで遂行されるからである。いずれにせよ芸術の想像に身を捧げることは、それを虚構の生と同一視するのと同じくらい、唯一の倫理的理想としては無価値である。芸術とかかわるだけのあるいは虚構であるだけの善き生の部分的理想は、かえって善き生を思っているよりも貧しくしてしまう。そうした部分的理想は原理的に公共的な想像を前の活動空間から排除してしまうか、あるいは原理的に私的な想像を善の活動空間から排除してしまうかのどちらかである。

 

2014年5月29日 (木)

マルティン・ゼール「自然美学」(42)

2.倫理に関する区別

a.二通りの「道徳」

「道徳」という言葉には二つの根本的な意味がある。広い意味で了解された道徳という言葉は生き方の道徳を意味し、それに対して狭い意味においては他者に対する配慮の道徳を意味している。生き方の道徳は他者に対する配慮の道徳を含むことをも含まないこともできる。他者に対する配慮の道徳は生き方の様々な道徳の中へ組み込まれるかその道徳に基づいている。生き方の道徳は、それらが他者の配慮の諸原理をともに含んでいるとしても、個人の善き生の形式に関わる。生き方の道徳にとって重要である善はすべての人にとって善である。道徳的方向付けは、一言で言えば、(広い意味では)個人的な善に関係し得るか、あるいは(狭い意味では)社会的な正しさにかかわりうる。

「道徳」の二つの意味には哲学的倫理学の二つの意味が対応する。哲学的倫理学の第一の主題は人間の善き生でありうるのかあるいは人間の正しい共生でありうる。そうすると哲学的倫理学は目的論的倫理学であるのか義務論的倫理学、または「努力倫理学」あるいは「当為利理学」であることになる。道徳的なものの理論は、個人的な善あるいは社会的な正しさという二つの次元のどちらを根本概念として選ぶかに従って区別できる。古代の倫理学は「善の倫理学」であった。古典古代の倫理学は成功している生活の理論から相互主体的に有意義かつ正当なものと言う規範を展開しようとした。それに対してカントの伝統に基づく近代の倫理学は「正しさの倫理学」である。その倫理学にとっては社会的に正しい行為という規範が成功している生活の活動の余地を確定する。善の倫理学は価値評価的に解釈された人間の生の形式の共通性に基づいて人間の人倫的連帯を規定しようと試みる。それに対して正しさの倫理学は、人間の生の形式のさらなる価値評価からは独立に人間の自律の相互承認に基づいて人間の人倫的連帯を規定しようと試みる。こうした古典的な二者択一の選択肢─善の優位か正しさの優位か、両者の大きさの原理的同一性か原理的差異か─がどのように評価されうるとしても、倫理学の主題は二つであるが問題は一つであること、つまり倫理学の二つの根本主題がどのように相互に関わり合うかという問題である。

これらのことを前提としたうえで、私は差し当たり用語上の結論を下すことで満足しておきたい。私は「倫理的」という形容詞でもって今後「広い意味において道徳的」ということを、それに対して「道徳的」という表現でもって「厳密な意味で道徳的」ということを表わそうと考えている。そのように了解すれば、「倫理的」方向づけ・規則・洞察などは善き生あるいは成功している生の一般的な可能性に関わる。他方で「道徳的」方向づけ・規則・洞察などは社会的尊敬の普遍的な原則に関わる。

 

b.生活経験の範囲

自然美の道徳は倫理的な意味の道徳である、と今では言うことができる。美しい/崇高な自然は何人かの人にとってではなくあらゆる人にとって善き生の可能性なのである。それは、自然美が生き方の普遍主義の試金石として我々に役立ちうる、と主張している。生き方の普遍主義を実行するには実存的方向づけと倫理的方向づけとの関係をより詳しく解明する必要がある。ここに美的なものの内に倫理的なものを知覚する要点がある。

実存的経験とは、我々が行為の状況を自分自身の生の善い可能性あるいは悪い可能性、有望な可能性あるいは見込みのない可能性として知る経験である。問題となっているのは価値経験の一つの形式に他ならない。経験されるのは、我々が存在している状況あるいは存在した状況の主体的な価値である。この価値評価の観点は、問題になっているような状況のなかに居ることあるいは居続けることは自分の生にとって善いことかあるいは重要なことかという問いによってきわめて簡潔に特徴づけられる。その問いには、実存的な善について語ることは二つの根本的意味を持つということが含まれる。一方の意味で善いのは、喜ばしい生が可能になる状況である。他方の意味で善い状況は、その状況を経験することが自分自身の生の形成にとって重要であるような状況である。前者の状況は実存的で直接的な状況、後者の状況は実存的で間接的に善い状況と言いうる。実存的な経験とは、一言で言えば、行為状況の直接的価値を自分自身の方針に対する間接的価値において知ることである。自然美の臨在はこの意味において直接的かつ間接的に善く、それゆえ自然美の経験は肯定的な実存的経験である。

照応的な美的経験は、第一段階の実存的経験に対応している。そうした第一段階の実存的経験は、状況に巻き込まれた構想の─その直観化にかかわる─美的な変容である。それに対して想像的経験と観照的経験は、第二段階の生の経験であり、言い換えると、現実の実存状況のいかなる経験でもなく、またその実存状況のその都度の構想との対応・非対応のいかなる経験でもない。むしろ両者に対する反省的なあるいは厳格な距離の経験である。しかし、観照的な放心状態と想像的な投影の状況は遂行志向的な活動の機会としては直接的に善であり、自分自身の生をすでに選ばれた方向づけの範囲を超え出て方向づけることとしては間接的に善である。それらの経験の直接的遂行並びに間接的遂行の様相が同時に現実化されるならば、行為状況の開示が同時にこの状況の一次的解釈に対する活動の余地を開示を許すならば、直接的な(第一段階の)実存的経験並びに間接的な(第二段階の)実存的経験に対して強化された実存的経験が存在する。このタイプの経験において現実性は古いあるいは新しい必要ならびに理想との第一の照応の状態において経験されるだけでなく、現実性は人間的生の遂行の脆さ並びに自由との第二の照応の状態においても現われる。それに対応して自然美の風景における「充実した時間」とは我々のものの見方に対応するものであって我々の生の理念の直観的に高められた対応物であると同時に、またそうしたものの見方や生の理念を直観的に超え出ていくことでもある。

倫理的経験は相対的でない実存的経験と言えるかもしれない。倫理的経験は人格に相対的な構成要素を含んでいる。ただし、そうした構成要素のうちに埋没はしない。倫理的経験とは生の普遍的形式をそれぞれの人格に即して解明することなのである。

自然美は、相対的価値評価と相対的でない価値評価が倫理的経験において相互にかかわり合っているのを適切に示す事例を与える。自然美の非相対的価値というテーゼは傾向性の表明をも美的判断の許容力の広さをも拠り所にはできない。そこそこ自由な自然は、様々な好感のあり方に対してあまりにも寛大であり、きっぱりと特定された一つの─主観的あるいは相互主観的な─好感が最も強い普遍性をあてにすることはできない。美的自然の倫理的要点は、あの美やこの美がではなく、あれこれの美に関係なく自然美一般の経験が事例として取り上げられる時に、ようやく姿を現わすのである。そのとき以下のことが見えてくる。すべての人々にとって善いのは必ずしもこの状態ではなく、この種の状況であろう。この種の状況においては肯定的な照応・成功する想像・我を忘れた観照が自由に共存している。私がこの状況を経験することは同時に、私がそもそも善いと言える生の状況を知っていることである。生の善い状況を知っていることの意識は、そうした状況の経験を本性的な構成要素ですらないのであって、むしろそうした経験の内容を反省した結果なのである。

この種の状況はあらゆる人にとって善いのであって、各人がいかなる生の構想を懸命に追究しているかということには全く依存していない。ある人が自然美に遭遇している状況を価値評価する普遍性は、この状況において自然が照応している構想の普遍性ではない。善き生の相互主観的構想はいたるところに存在するし、それどころか厳密に考えれば生の経験の相互主観性は、私的な生のイメージの主観性に対して根本的な位置を占めているにもかかわらず、生き方の倫理的普遍性という仮定は生の構想の強い普遍性を拠り所にすることはできない。生の構想はいやおうなしに相対的である。個人・集団・階層・文化の特殊な現実存在の条件を生産的に考慮に入れることがまさに生の構想の意味である。それに対して生の形式は、その構成員あるいは代表者によって具体的な生のイメージと等置される必要はないし、したがって特殊な排他的共同体である必要もない。普遍的な生の形式の倫理的内容はそのような生の理想とも等置され得ない。普遍的な生の形式は普遍的な生の構想ではなく、むしろ自己自身と世界に対する実践的な関わりの原理的に様々な構想を持ちそれを展開する卓越した仕方なのである。

それとともに倫理的経験の概念にとっても第一段階と第二段階の経験の実存的差異に対応するものが見出される。強い倫理的経験はある生の構想を確証したり発見したりすることである。それゆえに、自然美の状況の倫理的な質は、その中で確証されあるいは拡張される厳密なあり方の実存的構想からは「一般的に」独立であると言われるはずであった。しかし、自然美の状況は実存的構想のあり方から完全に独立しているわけではない。自己自身との距離が構想されていない生の構想が存在する。そうした生の構想に対して自然全体の美的経験は閉ざされている。したがって、善き生の美的経験は特定の生の構想を前提にしてはいないとしても、自然を事例として獲得される善き生の美的概念は生のいかなる構想に対しても中立的なのではない。自然美は善き生のある状況である。その状況に対して我々の生のイメージは─我々に都合の良いことには─開かれているが、また─われわれにとって都合のわるいことには─閉ざされている可能性もあるのだ。

自然美の美的-倫理的経験は強化された実存的経験の形式として「生の構想を横断して」いる。自然美の美的-倫理的経験は─多次元的かつ積極的に自由な生であるがゆえに─善き生の形式の強い倫理的経験をともに含んでいる。強化された実存的経験はつねに強い倫理的経験、言い換えると実存的で倫理的な自由の経験であり、ある実存の仕方の経験でもある。その経験において私にとってだけでなく一般的に現実存在が実り豊かである余地が与えられているのである。

2014年5月28日 (水)

マルティン・ゼール「自然美学」(41)

b.第二の照応

美的自然は結局のところつねに人間に「照応している」自然であるかもしれず、「照応」概念はたんに他の中心概念の中の一つではなくて、これまでの考察全体の隠れた根本概念かもしれない。そうすると、観照と想像は、自然との美的な照応の特殊なヴァリエーションかもしれない。それに関連して、実存的関心は照応へと方向づけられた観察においてだけでなく、観照的ならびに想像的な観察にも含まれているということも十分に正しい。しかしながら、こうした事情があるからといって、美的観照や美的想像が狭い意味における実存的な美的関心の具体的事例になるわけではない。観照も想像も、自然を目下の実存的状況の空間と見なさないという関心に導かれている。照応的関係においてのみ、われわれは自然を現実的な実存空間として知覚する。それゆえに自然は簡略に「実存的」な美的知覚の対象だと見なすことができたのである。しかし、観照的ならびに想像的態度における自然が今現在の生の状況として知覚されないということからは決して、こうした美的知覚の可能性がいかなる生の可能性でもないということは帰結しない。自然美における生の可能性は、自然との意味豊かな照応の内部にも外部にも存在する。こうした自然関係の意味とはまさに、そうした関係が、状況に条件づけられた意味の直観においてのみ、ならびに意味を志向する直観においてのみ存在するのではないということである。自然は実用的に与えられた意味及び想像的に表象し得る意味さえもが凌駕されることに対する我々の感覚を繰り返し突破する。それにもかかわらず、自然美の意味付随的であると同時に意味疎隔的であり、また生き生きとして画像的でもある魅惑を、その魅惑の現実性全体との照応の状態と解釈することは、全く正当である。その時に限り、もうひとつの照応、第二の照応が問題となる。第二の照応とは、照応的な知覚の性質にも反照応的な知覚の性質も同じ程度でかつ同時に包括している自然との照応ということである。そうした照応においてのみ偶発的な自然は、それがあらゆる内容的な意味期待にもそれどころか意味期待そのものにさえ繰り返し対応しないという無制限な美的意味に「対応」する。自然の自由には、我々自身の構想のための、また我々自身の構想による我々の自由が対応する。こうして、そうした自由の実現という決定的な意味を獲得するのは、自然現象の全体ではなく、自然が現出する仕方の多様性との我々の出会いなのである。様々な美的魅惑が相互に影響しあっている状況は、「第二の照応」という状態における一つの現実性なのである。

自然美の現実性は、それが魅力的な生の状況の表現に富んだ現前と、その現前との美的同一化に対する直観的(観照的あるいは想像的な)距離とを両方ともに現前させることによって際立たせられる。これらの状況が明らかに同時に起こるときに第二の照応が生じる。第二の照応は第一の照応のように構想と世界の間に在るのではなく、人間における方向づけの自由と現象的世界との間にある。自然美の魅力には、どのように人生を紡ぐのかという我々の生構想を強化拡大することによってむしろその生構想そのものを自然美が超えてゆくことが含まれている。自然美の現実性は超概念的である。従って、自然美が善き生の範例的な状況であるという言明でもって考えられているのは、照応的な範例性ではなくて、自然全体の超概念的な範例性である。我々の美的分析の継続である倫理的分析が目標とするような自然美は─特定の生の構想に結びつかず、むしろそれらの構想において顧慮されることも見過ごされることもありうるような─善き生の形式の模範的な所与である。自然美がこうした生の形式の事例であるのは、自然美が多次元的な遂行志向的活動の積極的自由を示す状況でもあるからである。しかし、こうした推測が有望であるのは、美しい/崇高な自然において自由が見出されるという診断が個人の充実した美的自由にだけでなく、個人の美的に充実した自由にも該当する場合だけである。言い換えると、美的経験の倫理的範例性が与えられるのは、美的自由が他の自由と並ぶ自由の形式であるのではなく、むしろ積極的に特徴的である構造の変様である場合だけである。その場合にのみ、基本的な生の遂行に対する美的態度の─自然美において与えられている─相互作用を行為のあらゆるコンテクストにおける際立った余地の事例と解釈することが可能である。その場合にのみ美的自由は倫理的自由のヴァージョンとして把握されてもよい。これから示されるように、美的自由はたしかに倫理的自由の肯定として了解される必要はない。

観照は生活世界に参加する行為に対して「禁欲的」態度を取り、想像は「超越的」態度を取るが、照応的知覚は行為の地平に「内在的に」かかわることが述べられた。観照はあらゆる活動的存在の意味から隔たりを取り、想像はそうした存在への関与から隔たりを取る。照応だけがこうした関与そのものの方から近づくことができる。したがって、観照と想像は活動的な生の実践と並ぶ特殊な実践であるが、照応的知覚と照応的産出はその実践の内側で少し距離を取って遂行される。その際「活動的生活」・「日常的実践」・「実用的関与」は常に、ある状況を志向する行為を、すなわち、個人的構想と価値に応じてたしかに多様であるが、相互主観的な文化の解釈と慣習によって支えられている世界地平における行為を意味している。そけは、目的と遂行において深められた行為であり、その行為にとってはその行為の意味の限界は超えることができないものである。それに対して多次元的な美的直観においてはこのような超越的意識は生活世界的な地平の内在的直観とともに与えられているのである。

2014年5月26日 (月)

マルティン・ゼール「自然美学」(40)

第6章 自然美の道徳

1.自然美学から自然倫理学へ

自然美の道徳とは自然に対する充実した美的態度の倫理的価値を意味する。私は、自然美にはそのような価値があると主張する。そのような価値が現前していることは善き生の一つの卓越した状況であり、したがって、自然に対する美的態度はうまくいって成功している生き方の重要な構成要素である。しかし、美的な自然直観は成功している生き方の重要な構成要素であるだけではない。美的な自然直観の分析は同時に、成功している実存の普遍的構造の優れたモデルを提供する。したがって、美的な自然知覚は、一方では美的でない実践を倫理的に修正する手段であり、他方ではうまくいって成功している実践を説明する理論的モデルなのである。

a.美的なもののうちなる倫理的なもの

美的なものに内在する倫理的なものへの問いは、「意味に対する」我々の美的「感覚」の意味への問いである。そこで問われているのは、美的直観が他の価値あるものとの関係においていかに価値あるものなのかということである、何ものにも囚われない美的な態度で自由な自然に遭遇することが善であることを我々の考察は示した。しかし、そうした考察がいかなる意味を持っているのかということは、また別の問題なのであり、そして今や我々の問題である。私の答えは、そうした善が美的な意味のうちに倫理的な意味を持っているということになるであろう。

疑いもなく善い多くのものがそれだけで─しかも、「倫理的」という言葉をもっとも広い意味に用いても─すでに倫理的に善いわけではない。例えば、冷えたビールは喉の渇きにとって明らかに善いが、倫理的に善いわけではない。それ自体で善いものすべてのものも、それだからといってはじめから倫理的に善いわけではない。ビールの美味さと心地好さは倫理的な善には含まれない。倫理的に善であるのは、生活世界の状況のあり方だけである。倫理的に善であるのは、それ自体において実り豊かな生の状態であるか、あるいはそうした生の遂行であるような状況ならびに行為である。したがって、自然に対する美的関心が内包するのは、そうした美的関心が善き生の任意ではない状況に関わるからなのだ、と我々はここで仮定しておきたい。そうすると、「美的なものの内なる倫理的なもの」は、美的性質によって開示され普遍的に価値ある生の形式のうちに見出されることになろう。「美的自然の相互主観性」は、同時に倫理的な相互主観性であることになろう。そのうえ、自然美の事例において美的なもののこうした倫理的関連が強い形式において与えられているということを私は示すつもりである。自然美は、善き生に不可欠な形式を明示してくれる普遍的可能性である。自然美学から善き生の倫理学への歩みは、以下の二つの想定に基づいて進められる。

.自然美は任意の善ではなくて、倫理的な善である、すなわち、うまくいって成功している生の普遍的状況である。

.自然美は何らかの倫理的な善というようなものではなく、生の成功の形式にとってパラダイム的な状況である。

この二つのテーゼが指し示す方向は、美学と倫理学の関係に関する他の理論を視野に入れる時により明らかになる。

ショーペンハウエルにおいて美的直観は、諦念によるあらゆる悪からの救済の前段階、いわば生への意志による錯覚を防ぐという本来の目的への途上における一時的非難である。美的直観は一見それ自体のために行われているように思われるが、第二の倫理的考察においては真の赦免へ到達する最も適切な手段であることが明らかになるのである。しかし、そうした手段が禁欲的な機能化を求めるのとは異なり、自然美は善の前段階でも代替物でもなく、善の現前である。もちろんこの場合「善」はまったく道徳の前段階としての意味しか持たない。それは特定の生の可能性を示しており、その質の現前が自己充足的な現実存在という充実した時間を提供してくれるがゆえに、それらの生の可能性は追求に値するものとなるのである。

キルケゴールの美的/倫理的なものについての論考において、あれこれの局面下で生を享受するための美的選択肢に対して、自分自身の生に対する不断の責任において生きるという、個人による倫理的-絶対的選択を対置させる。この倫理的主体は美的主体がするようにあれやこれやの生を選択するのではなく、そうした生に対する自由を、そしてその自由とともにそうした生に対する道徳的な責任を選択するのである。倫理的選択が行われている場合に、そして勿論その時にのみ「美的なもの」も倫理的な善の構成要素でありうるのである。倫理的な選択が行われるならば、美的な生は善き生の一部分でありうる、とキルケゴールは述べている。私が展開したい解釈はキルケゴールとは異なっている。美的な意味において人間の真なる生の可能性が示されるとするならば、そうした生の可能性への道徳的配慮には、こうした実存形式を承認する義務が課せられる。倫理的なものが美的なもののうちで知覚されるならば、倫理的なものが同時に美的なものではない場合でも、倫理的なものはよりよく了解されるのである。

ニーチェは私は反対に、倫理的なものを美的なものへと還元した。善は、もっぱら価値を産み出す意志、あるいは価値を選択する意志の力のうちに見出される。善あるいは正しさのあらゆる規範は非凡なものを好むエリート的な趣味から引き出される。ニーチェにおいては、美的な決断を選択する意志があらゆる倫理的態度の基礎となっているのである。美的な選択が超然と為されている場合に、倫理的なものも繰り返し生に奉仕する要素でありうるのである。しかし、美的態度があらゆる文化的態度の基礎であるとしたら、美的態度は美的態度ではなくなるだろう。なぜなら、美的態度とは、差異化された態度連関の内部における個別の態度であり、言い換えれば、美的でない実践への関係と隔たりに基づいてのみ魅力を保持するからである。我々は、美的なものを美的でない実践から孤立させることなく、美的なものの均一化を避けるよう努めなければならない。

 

2014年5月25日 (日)

マルティン・ゼール「自然美学」(39)

5.美的自然の相互主観性

客体化された自然と審美化された自然との間の可能的な結びつきは、揺れ動く地盤の上に成立している。それは分岐的な立場によって担われており、たしかに互いに接して近づくのであるが、しかし互いに混じり合って現れることはできない。

美的な芸術判断は、客体的な構成要素を伴う相互主観的な判断である。すなわち、その想像的な分節化の力によって、高度な照応的エネルギーあるいは高度な観照的感性を具備している芸術作品は成功している。この判断は相互主観的である。三つの美的な自然関係に属する判断形式は、他の結末を許さない。自然についての照応的判断だけがまた客体的な判断として記述されえた。けれどもの客体性は自然が打ち開き、自然が対応しあるいは衝突する実存的な投企に依存していることが明らかとなった。観照的な判断は、純粋に相互主観的であり、それはその美を確定する漸進的な段階以外には、その対象について基準となるものを何も語ることができない。想像的な判断は、たしかに芸術形式的な特性を自然のものと死、また自然がその特性をより濃密に発展させればさせるほど、それだけより高いものとして自然にその価値を認める。我々はここで美的自然と美的芸術とのあいだのいっそう広い相違に行き当たるが、その美的芸術は、作品構造への自然の位置と関連しているのである。

そもそも自然美が存在し得るためには、自由な自然美が存在しなくてはならない。自由な自然の概念はしかしそれ自身一つの規範的な概念である。理性的な技術や政治は自然に対してこの規範を一貫して担っているのであろう。その規範の定式化は、個々の優位な特徴を拠り所とするのではなく、自由な自然が自然美の可能性の前提条件であるという実証において、それは根拠づけられている。自然の保護や愛護の強い概念は、美的に基礎づけられうるが、それは一定の内容評価を必ずしも要求するものではない。技術的に取り扱われた自然が、それぞれの自然美に対する個々人の意向を実現しているかは、それほど重要なことではない。技術的に取り扱われた自然は、自由な自然の保護や育成の美的な委託を実現するであろうし、また自然に対する個々の人の意向を遅かれ早かれ実現するであろう。したがって、自然の自律性の基準が個々の態度決定の相互主観性をどんなに僅かしか保証しないとしても、それは美的自然の自由と言う事柄に関する相互主観性をそれだけに強く保証することができるだろう。美的自然の可能性としての相互主観性は、自由な自然の美の諸形式に対する異なった関心の内における自由な自然への共通の関心に該当するのである。

2014年5月24日 (土)

子供はデカイ夢をもつのがいいのか

小さなころ、幼稚園の卒園式とか小学校の卒業式のような大きな節目のとき、「大きくなったなら何になりたい?」ということをよくきかれた記憶があります。それだけでなく、家に来客があったり、逆にお出かけした先で、大人に紹介されると、よくそういうことを聞かれました。いわゆる将来の夢というものです。

先日、あるSNSのお友達の発言で、こういうのがありました。その人は、お寺でカフェをやっている人なのですが、たまたま小学生の女の子が一人で来店(というより、お寺に来たついでに寄った)し、そのときは店内は閑散としていたので、興味をもってその小学生にはなしかけたそうで、お寺に参詣して、何を祈ったのかという話から、その小学生は就職できますように祈ったということで、以下その会話を抜粋します。

「小学生だよね、早すぎない?」

「いい大学行って、いい会社入って、お給料もらってたまに贅沢するのがいい。大学行かなくて、バイトしかできない人が周囲にいて、そうなりたくはなくて」

「夢とか、やりたいことないの?就職って手段だよ。今そんなことを考えるひつようないよ」

「夢を見るより現実をみないといけないと思うので」

というものでした。このお友達は、この閉塞的な考えに怖さを感じたと言っていました。

 

こんなことを取り上げて、ことさらに大袈裟なことをいうのは不謹慎かもしれませんので、あらかじめお断りしておきます。これから大風呂敷広げます。

私が、これから書きたいのは次の2点、夢はそれほどのものか、それと子供の話す言葉ほそのまま字面とおりにうけとっていいのか。ということです。その背後には、言葉とか考えとかをスタティックに捉えすぎていないかということも含まれています。どうですか、かなり大言壮語でしょう?ですので、うっとおしい議論をします。ここから先です。引き返すなら今です()

 

さて、最初に2点目からいきたいとおもいます。まず、この小学生の言葉を真に受けていいのかということです。私の場合、子供としてはひねていたのか、屈折していたのか、人見知りする性格だったせいもあって、とくに大人と話をする時は、相手によって態度を変えていました。(多分、私だけではなくて、誰でも多かれ少なかれやっていたのでないかと思います)だから、私は基本的に子どもの言うことは信用しません。最初に少し書いた、私が子どもの頃受けた、将来の夢、という質問に対して、極端なことをいうと、相手によって変わっていました。子どもにこういう質問をするような大人はたいていの場合、こどもから受ける答えを決めつけている、穏やかな言葉言えば期待しているものです。だから、その期待を前提に、ある一定の範囲内で答えを取り繕っていたと思います。その相手の期待なんて分かるのかと、不思議に思われるかもしれませんが、だいたいそういう質問が出会い頭に唐突に出てくることはなく、いろいろやり取りの後で出てくるし、その大人に紹介される前に、大人同士でやりとりしているのを見たり聞いたりしているので、そういうことは直観的になんとなくわかっていたと思います。ずいぶん生意気な子供だったと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、子供だって家族だったり近所だったりと大人に囲まれた中で生きて行かなければならなかったという説明で十分だと思います。そんなことを老人に近くなった私が話すのもおかしいことですが。上の例の場合、その小学生や場の雰囲気、そして小学生たちが相手をどう見ていたかによって、答えが決まってくる部分も結構あると思うので、これだけで閉塞的とは、私には即断でません。書かれた文章を読むように表層の言葉の記号的内容だけで見る、一種の静止状態のような抽象化してしまうからではないか、と思います。

さて、戻って、1点目に行きたいと思います。そもそも、夢とはそんなに重要なものなのか、ということです。そこから派生して、この会話の場合の相手の人の考えの優先順位、夢という目標があって就職という手段が続くというのは、普遍的なのかということです。フランクルの「夜と霧」に書かれた強制収容所で死を待つしかなかったユダヤ人の人々といった極限状態では、希望をもてるか否かが生き抜くことにいかに不可欠だったかということが分かりますが、今の日本の普通の社会ではそれほどの極限状況にあるとは思えません。夢という目標をもって、その実現にむけて努力するというのはたしかに一つの生き方です。しかし、人の生き方とはそれだけなのか、ということも考えていいのではないか。たとえば、そういう生き方では、目標に向けて努力する毎日の生活が目標に対する手段ということなってしまって、目標達成の我慢ということになります。これをそうだと受け入れるかどうかは人によって議論が、というよりは姿勢が分かれるでしょう。ここでは、それ以上追及しません。(ただし、外的な事情で持ちたくても夢を持たせてもらえないというのは別の話です。)これだけで1年以上語ることができそうなものですから。もうひとつ、この場合の手段と目標のプライオリティは決まっているのか、ということです。例えば、大学受験は、この伝でいえば、夢を達成するための手段ということになりますが、大学に入って夢を見つける人もいるというわけです。就職の場合もそうです。べつに夢というのは若いうちに持たなければいけないというのはなくて、老人になって夢を持ててもいいはずです。その時その時のシチュエィションから新たな夢を見つけることもありうると思います。これは、夢をもつということを固定的に静止した状態のように考えてしまうことで、私は、それを否定するつもりはありませんが、もっと常に動くものとして捉えてもいいのではないかと思います。

この場合は、小学生にからかわれたというのが真相に近いのではないか、と思います。

2014年5月23日 (金)

マルティン・ゼール「自然美学」(38)

4.技術的芸術の時間

技術もまた自然の修正であり、おそらくすべてのうちで最も効果的なものである。芸術とは違って、技術は自然的所与それ自身の一連の変化において人間の自然に対する関係を変えていく。技術的な関係において、その現象的な相違ではなく、実践的な可変性が問題となる。自然への技術的な関係は、それゆえに美的な自然関係と対照をなす。美的な自然関係においては、自然が偶然にあるそのようなあり方で自然を存在させることが問題となる。今日自然が如何に偶然的なものであるとしても、自然はしかし自然だけによって存在するのではなく、自然への技術的介入によって再び存在するのである。

a.自然支配の技術

技術的な行為は、道具的な行為の一形式である。狭い意味における道具的な行為は、明確な目的を達成する上での諸手段の使用である。広い意味における道具的な行為は、たんに概略的、暫定的に定められた目的を実現するための諸手段の発見と諸手段の使用である。この後者の場合、目的実現それ自身は、目的決定の一形式であり、たとえば芸術的な手段使用はこの種のものである。しかしたいていの場合、道具的な行為は、はっきりと切り取られた目的の獲得あるいは実現に関係づけられている。狭い意味における道具的な行為の多くは、広い意味における道具的な行為から成立したのであり、広い意味における道具的な行為の多くは狭い意味におけるそのような行為を準備するものなのである。

因果的な作用の連関が存在する─これは自然の近代的概念であった。技術的自然とは─自然の合法則的な振る舞いについての知識や計算から─因果的な戦略によって処理され、また実現可能性に応じて支配された自然である。このような関係のうちに日常的-感覚的な周囲の自然空間は、諸客体領域を人間の立場から自由に処理する空間、規定された法則に従う空間へと変化するのである。このような事象はまた距離化の事象としても記述されうる。すなわち、人間がそれとともに存在する人間を取り囲む自然は、人間がそれを操作する所与的な自然になる。自然のこの中性化された対象領域は、生活世界的に開かれた自然の内部において展開し得るのと同様に、全体としては自然の代わりになることができる。この意味において自然に適用される技術は、自然支配の技術である。道具的な支配─搾取、利用、機能化─が、自然の技術的な取り扱いの唯一の目的となっているところで、我々は初めて─狭い意味における自然支配の─強い概念を獲得する。すべての─広い意味に解された─技術は自然支配であるということのたんなる確認だけでは、すべての技術は自然支配を目指しているということ、不可逆的に客体化された自然を産み出すということが技術というものの意味や本質の内にあるのだということが、なお語られていない。その反対が正しいのである。技術的行為が成し遂げることができるために、自然は客体化されねばならない。概念的に見ると、美的自然を成立させることが、技術的な行為の意味であるのかもしれない。技術的な自然は、美的自然の絶対的な反対物ではなく、きわめてしばしば実際に美的自然でありえる。

 

b.自然展開の技術

自然界における技術的行為は、自然の材料にかかわる遂行的行為である。この行為が何かをやり遂げることができる前には、それは自然の材料に向けられた自然の変化、すなわち、算定されうる対象物や出来事に向けられた自然の変化を遂行しなくてはならない。自然は対象領域とならねばならないし、それとともに「対立する」物の計算可能な空間とならねばならない。技術的態度においては、自然は、自然の生活世界的分節から多かれ少なかれ強力に取り出される生活空間の構成としてではなく、その生活空間における客体の領域として姿を現す。技術的自然の時間は直線的な時間である。

この時間形式から、私は美的自然の別の時間を区別したが、その時間とは、生きられた世界に対してそれとは相反する諸立場の同時的な経験としての時間のことである。これは、多次元に遂行を方向づけられた活動の時間であり、簡略化のためにわれわれはそれを「同時的時間」と名付ける。たしかに技術的行為はけっして直線的な時間の唯一の形式を構成するのではないが、しかしその傑出した諸形式の一つではある。自然の美的直観は、この空間の内部にだけ働くのではなく、それはその意味疎隔的・意味付随的・画像充満的所与の交替のうちにその空間を空間として現出させるのである。それは、その空間を生起する空間として生じさせる。この空間における事物は、このような生起を引き起こす媒介物となるのであり、使用のための道具的なよそよそしさをもった客体となるのではない。

技術的な自然支配の時間は、意図の枠内で計算され、目的を実現する途上で過ごされ消費される時間である。それに対して自然における美的実践の時間は、道具的活動とは反対に、人が「ゆっくりとする」時間である。同時的時間のために直線的時間関係から離れることができるように、我々は直線的時間関係を意のままに処理しなくてはならない。

自然美の別の時間が成立するかといえば、純粋に遂行される行為からの充実した隔たりの内に成立するのである。この隔たりは、たんに技術的行為からの隔たりばかりではなく、あらゆる種類の道具的方向付けからの隔たりでもある。それは、自然の中で特別な可能性と出会う、自己目的的行為のための隔たりである。

自然保全の技術、また場合によってはさらに自然獲得の技術─我々はそれを自然展開の技術と言おう─は、第一に非技術的な目標を持たねばならないであろうし、また第二にはその遂行においてこの目標の知覚が可能でなければならないであろう。先行する考察が説得力あるものであったならば、少なくともこのことは可能である。この控え目な技術もまた自然支配の技術であるかもしれないが、しかしそれは単に弱い意味においてである。自然のこの寛大な技術は、それ自身一つの美的技術でなくてはならないであろう。けれども非芸術的美的技術、それはそれが目標とする自然を、その技術の作品として成立させることを試みてはならないであろう。

自然の美的技術は生産され得ないものを生産することを試みねばならない。その生産は、成し遂げられた目標状態に感知しない生成でなくてはならないであろう。それは自然と結びついた始まりの状態の生産でなければならないであろう。もちろん一番簡単なのは、これが現にあるように、そのような自然の領域を放置しておくことである。どのような自然保全の形式がふさわしいものであるのかということが、その時々の自然環境において問題となる。自由な自然が必ずしも手つかずの自然ではないように、放っておかれた自然は必ずしもより魅力ある自然ではない。手つかずの自然あるいは相対的に自由な自然を、是が非でも技術的に手つかずのままにさせることの美的根拠は何もない。自然の美的技術は、どこまでも自然の修正、いずれにせよ現に在る自然状態の修正であってもかまわない。けれども自然の美的技術がとりわけ修正しなくてはならないことがあるとすれば、それは自然の制御されない活動であるよりは、むしろ制御されていない技術的制御によってもたらされる自由なる自然の抹殺である。自然の美的技術とは、同時的時間を産出する技術のことであるだろう。それは、完遂された人間的実践を可能とする場所を確保する試みであり、また再びそれを成立させる試みであるだろう。

 

2014年5月22日 (木)

マルティン・ゼール「自然美学」(37)

.二重の原像性

美的自然と美的芸術は多くのものを共有してはいるが、両者はカテゴリーとして区別される。それゆえ、自然に対する芸術の美的優位、あるいは芸術に対する自然の美的優位についての問いは、その問い一般が新たに立てられる前にすでに解決されているように思われるに違いない。この対置的な概観は両者を同等の現象として現出させた。芸術に対しても自然に対しても、美的優位を認めることは相応しくない。両者一般に認められている差異において、芸術と自然は、相互的強化という意味において、互いに「原像」でありうるからである。自然と芸術は、意図的に互いのために存在するのではないけれども、それでも美的に互いに対して存在するのである。

自然と芸術の美的統一形式は、互いにとって手本ではあり得ない。芸術は、それが芸術にとどまろうとするならば、自然の統一性に到達することはできないし、自然は、それが自然にとどまるべきならば、芸術の統一性に到達することはできない。

全体としての芸術は、あらゆる自然を制限なしに美的にただ経験するのであるということの記憶。自然の美的統一性ではなく、あらゆる美的自然の可変性と同時性は、成功した芸術作品の産出と受容の修正である。つまり、一回限りの構成の分節可能性が、作品内的な分節契機の過程といかに強く結びついているかということの記憶のことである。美的自然は、芸術的に創作された形式の過程的独自性の創造と知覚に対する手本であり、美的芸術は、自然においてもまた美的次元の多元性と差異の知覚に対する原像である。自然の偶然的な美しさに対する激情は、いかに逆の事態であろうとも、芸術の裂け目の入った光景に対する激情に属している。

十全な意味で美しい自然が存在できるためには、成功した芸術作品への関連がなくてはならない。成功した芸術が存在できるためには、自然や自然美との内容的な関連は必ずしも必要ない。芸術と自然の二重の手本性の命題は、この叙述的な言明を規範的原則によって支持する。すなわち、十全な意味で美しい自然が存在出来るためには成功した芸術に対する感受性がなくてはならず、成功した芸術が存在できるためには自然美に対する感受性がなくてはならない。芸術が成功するためには、たしかに自然との内容的関連はなくてもよいし、自然が芸術の中に何らかの方法で現われなくてもよい。しかし自然の肯定的な偶然性や芸術作品におけるその反映に対する美的な感知能力は、どこまでも芸術の成功の条件である。

これは、芸術と美的自然は歴史におけるそれらの異なる立場にもかかわらず、なおまた共通の歴史を持っているということを示している。それは芸術と自然の美的差異化の歴史である。この芸術と自然の共通の歴史は、両者の相互的な優位を遅ればせながら承認した歴史として、すなわち、両者の美的同等性の歴史として記述されうるであろう。その主眼は、芸術と自然の間の美的差異は芸術の発明に属するものだということであろう。美的芸術は、美的芸術の正反対のものとしての自然美を発展した存在を産み出したのである。多くの芸術作品が干渉的なものとなり、またそれらとともに芸術が全体として強い意味において多元的なものとなった後にようやく、自然は美的諸次元の相互作用的過程となることができたのである。芸術の可変性と同時性の発見と共に種類の異なる自然の可変性と同時性の発見に至ったのである。自然の美的芸術が全体として統合的描写の理想へと帰ることができないように、芸術によって破壊された美的自然の全体性を、芸術によって再び樹立することはできないのである。その時以来、歴史的に芸術によって解放された自然美の空間は、芸術によってもはや破壊されることはないのである。

 

2014年5月21日 (水)

マルティン・ゼール「自然美学」(36)

3.美的自然と美的芸術

芸術は自然の原像であり、また自然は芸術の原像である。自然は、芸術的に作り出された形態が有する過程的な個的生命の産出と知覚のための手本であり、芸術は、自然のなかの美的次元の多様性と差異とを知覚するための原像である。

a.七つの相違

美的自然と美的芸術は、それら両者が美的なものの「統一的現象」であるということを共有している。それらは、一つの美的次元からでなく、色々なまたあらゆる美的諸次元からのみ了解される。自然と芸術は、美的な知覚に向けられた唯一の統一性現象というわけではない。しかしそれは、その概念がこのような統一性の概念について以外には理解され得ないようなそういった美的な客体であるのだ。自然と芸術にとっては、美的な統一性の可能性は構成的である。私は自然空間を、美的エネルギーの統合的な集束あるいは干渉的な集束に成功する芸術作品に対照させる。単純化して、強くあるいは弱く包含的な芸術作品を、比較の継続のために、仮に勘に芸術と呼んで、自然の包含的な空間をたんに自然と呼んで、七つの互いに説明し合う命題のうちにその主要な相違を総括する。

.すべての自然は芸術への関係を包含しているが、しかしすべての芸術が自然への関係を包含しているわけではない。

芸術作品の概念は、その限りにおいて自然美の概念より基礎的である。論理的な意味においてのみ、美的自然は美的芸術にたいして派生的である。芸術は自然よりも「より本質的」であるとか、あるいは芸術は自然の方向付けなしでも同じように上手くやって行けるというようなことは、そこからは結論づけられない。

.自然は包含的であり、芸術はおおかたそうである。

自然美が常に強く法官゛的な現象である一方、芸術的作品はたいてい強くあるいは弱く包含的な、時にはそれどころか排他的に想像的な客体である。芸術が芸術としてその統一性を探求することにおいて原則的である一方、自然空間にうける美的総体性が常に求められている。その現出方式の多様性のなかにあって、自然はきわめて変化しやすく、すべての芸術よりもずっと可変的である。だが自然はその美的統一性の形式においては永続的であり、すべての芸術よりもずっと永続的である。

.自然は第一次的なものであり、芸術は美的なものの強められた統一性現象である。自然美は、「第一次的な」統一性現象である。なぜなら、自然美は常に包含的であり、またいつも芸術の想像力との関係を包含しているからである。自然は常に芸術との対話を誘導し、芸術作品はつねに自分自身とのまたは他の芸術作品との対話を─そして十分にしばしば自然との対話を誘導する。

.自然にとって作品存在は偶然的であるが、芸術にとってそれ(作品存在)は必然的である。

芸術的な作品の論理は、美的な様々な取り扱いや美的な諸機能の統合的あるいは干渉的な結合の内に成立する。それに対して、自然美はこのような論理の外にある美的な統一性である。この相違は自然あるいは芸術の包含的な結合における美的な様々の魅惑の関係を変化させる。自然においてそれらはともに与えられており、芸術作品においてそれらは互いに結び付けられている。例えば、自然の観照は自由な観照であり、自然の観照が望む方向に向きを変えることができるし、自然の観照が引き続き持続するために、照応的把握や想像的把握へと交替する必要はない。それに対して芸術作品の観照は、結合された観照である。それは作品の現象上の構成と結合しており、その作品の感性的エネルギーの知覚として、その作品の観照が想像的あるいはまた照応的な把捉から生じ、またそこへと再び逆戻りされうる時に自らをただ保持することができる。

.自然の統一性は偶然的であり、芸術の統一性は構造的である。

自然空間における美的諸次元の「相互作用」は、芸術の構造におけるその「統合」あるいは「干渉」とは、何か根本的に別のものである。自然の統一性は、自然の時間-感覚のうちにあり、それに対して芸術作品の統一性は、芸術作品の感覚-時間のうちにある。自然美がその観察の機会において─時間に対して意味疎隔的で意味付随的であって生き生きとした画像的な現出の変化に富んだ魅惑を示すということが、自然美の統一性ということである。それに対して、芸術作品は、一つまたはいくつかの美的作用を計算して生み出されたものであり、その人工的な構成の力によって、それは統合的あるいは干渉的な、また包含的あるいは排他的な、想像力に富んだ感覚を持つ構造物である。芸術作品のこの感覚は、芸術内部的な手段の過程において付与される。この感覚は、作品の感覚-時間のうちに付与されるが、作品知覚の時間はこの作品の感覚-時間に関心を抱く。一つの包含的な芸術作品が、如何にそれが統合的あるいは干渉的なものであるとしても、それが自然に投射されるとき、その想像的な特性だけが残される。自然の一時的な共存において、芸術作品の構造上の共存は、美的な構成要素の自由な相互作用へと解消される。その作品全体は自然全部へ転写可能となるわけではない。自然の芸術的仮象とともに、その自然のむきだしの出現もその自然の価値ある存在自体も一つの仮象になることはない。自然全部が芸術の投影ではないのである。

 ⅵ.芸術は了解されることを欲するが、自然は了解されるためにあるのではない。

芸術作品の了解とはその構成ないしその計算の了解である。構成も計算も与えられていない場合、あるいは構成と計算が美的に本質的なものでない場合、そり知覚遂行は了解遂行ですらありえない。それにもかかわらず美的な自然知覚は、またともに了解を含んでいる。実存的に表出と結びついた自然知覚も、了解の一形式ではあるが、しかし、自然の一形式ではない。了解はここではまず、固有の生活状況に向けられており、他方では芸術の想像的な可能性に向けられている。両方の次元において自然美は人間的感覚とその了解を打ち開きまた変化させる。芸術の知覚において遂行される了解は、それに対して芸術としてのその構成の了解である。

.自然は一つの生命連関であり、芸術は生命の諸連関を越えたところにまた生命の諸連関のうちに存在する。

自然もまた、いかに美的関係の中で現実性の符合になるとしても、自然は生活の独立した領域の要素にとどまる。芸術もまた、いかに美的関係の中で現実性の符合になるとしても、自然は生活の独立した領域の要素にとどまる。芸術もまた、いかに生活現実の一部分となることができるとしても、芸術は生活の現実性がそれに触れて屈折する媒体にとどまる。自然美は生活世界的な現実性の特別の根拠であり、芸術は歴史への両者の立場で明らかとなる。美的観察の対象となる自然は、特に美的立場から成立したのではない。自然は自分から変化し、また人間の物質的な介入によって変えられる。芸術作品は成立し、持続し、その了解ある解釈の歴史の中でのみ生き残る。美的自然もまたひとつの歴史的関係であるが、しかしひとまとめにした歴史的客体への関係ではない。それに対して芸術作品は、一つの歴史的関係における歴史的客体である。歴史的なまた伝記的な照応の観点において、たしかに美的自然も歴史の場所になるけれども、しかし美的自然の独立性と可変性は、自然を歴史からつねにまた遠ざけており、解釈から生じまた解釈のために自主的な生活連関としてのその存在は、自然を歴史から常に遠ざけており、解釈から生じまた解釈のために持続する生活から自然を際立たせる。

 

2014年5月20日 (火)

マルティン・ゼール「自然美学」(35)

c.干渉的芸術対統合的芸術

私の第三の命題は、それゆえ、美的に包含的な芸術の二つの形式を区別することを提案する。すなわち「統合的」な芸術と「干渉的」な芸術とである。芸術の客体は本質的に包含的美的客体であるということが正しいとするならば、これらは芸術的な統一性の二つの根本形式である。統合的な芸術作品は、三つの美的機能をそれらが区別できなくなるまでに一致させ、美的統一性の状況を定式化する。干渉的な芸術作品は、その美的知覚の諸形式間の溶け合うことのできない過程をあおりたて、美的差異の状況を定式化する。統合的な芸術作品の統一性は一つの全体を形成するが、干渉的な作品の統一性は、全体なき統一性である。

ジョットのフレスコ画は、疑いなく包含的な芸術作品である。キリスト教救済史からの一連の画像の仕上げと配置において、またその装飾的で空間充足的な縁取りと寓意的注釈において、それは照応的美的知覚にも感傷的美的知覚にも呼びかける。しかもそれは単に時間的同一的にまた同じようなバランスで呼びかけるだけではなく、そのうえ同じ意味で語りかける。知覚の一方の形式を制限なく実行することは、ここではすでに知覚の他の形式を制限なく実行することである。このフレスコ画はたんに包含的であるだけではなく、それはそのうえ統合的でもある。それらの画像は一つの特別な空間を構成し、その儀式的な用途にはっきりと形態を付与しているが、それはそれらが一つの宗教的な世界観を定式化し劇化すること、したがって想像的に現在化させること、またそのさいに形と色彩と動きの戯れを舞台にあげることによってそのようにするのであるが、その戯れは再び他の二つの分節化方式を担うのである。それらは他方によって一方を成し、また一方によって他方をなすのである。例えば礼拝堂の半円筒ヴォールトの星空は、全空間を覆う鮮やかな青に保たれており、その青はそれぞれの出来事のための画を繋ぎ、ジョットが人物の行状を際立たせる手段として使用した赤褐色の色彩と共に、描写される出来事のための画像空間を開くものであるが、その青は一方では観照者から画面を遠ざけ、他方では観照者のほうへと画面を引き寄せる。この二つの色彩のように、他の画像材料もそれ自体だけでは決して感覚的エネルギーとしては成立しない。それらは、個々の画像物語の伝承されている意味に、それぞれの画像がその色彩と形態との生命のなかにのみ持つ明瞭な意味を付与するのである。この内面画像意味は他方では礼拝堂を一つの場所となす、つまり、そこでは描出された光景はたんなる描出ではなく、それ自身地平に富む現実となるような一つの場所となす。描かれた天国の青を観照的に眺めることは、ここでは天国の領域を想像的に心に銘記することであり、またこのことは他方で画像的に現実化された意味連関との照応のうちに在ることである。美的知覚方式のそれぞれは、ここにおいて他のものを包み込み、他のものを突き放すことなく、すべてのものがキリスト教的世界の可視的な活性化において同時に起こるのである。

まさに、この同時発生の破棄において芸術作品の統一性を獲得する芸術作品との経験を持つ者だけが、この同時発生の力をそのようなのとして経験することができ、また同時発生としてその力を分析することができる。

統合的である包含的芸術は、その作品秩序の構想において、同時に世界秩序の再現あるいは構想である。その意味は、結局は作品としてそれらの上位にある秩序の例解、現実化あるいは祈りにある。それに対して干渉的な態度をとる包含的芸術は、この関係を逆さまにする。すなわちその芸術は、厳密な意味において秩序外的な構造としてその構成を提出する。この作品の統一性は、あらゆる芸術外的な秩序を超えたところにある秩序として了解されうるかもしれない。干渉的作品とは、他の言葉で言えば、もはや世界の解明された解釈の代表者や代理人ではなく、世界の実験的解釈の代理人である。統合的芸術は、その芸術によって創作されたり更新されたりする事物の眺望への確信を必要とし、干渉的芸術は、事情に応じて確信を必要とする。すなわち、自分自身と世界について成立しているあらゆる解釈に対する主観の有力あるいは無力への確信を必要とする。

 

2014年5月19日 (月)

マルティン・ゼール「自然美学」(34)

2.芸術作品の統一性

自然美学と同様に、芸術の美学も想像・照応・観照の分析を包括しなくてはならない。芸術の想像的概念だけでは、多くの芸術作品の統一性を理解できるようにするにはあまりにも狭い。それは、同時にまた、芸術家から、自然の美的統一性に対する新たな眼差しを獲得するためにあまりにも狭い。われわれの当初の排他的─排他的に想像的─な芸術概念を、芸術および(多くの)芸術作品の、美的に包含的な概念へと拡張する必要がある。敢えて推測するならば、芸術作品の統一性は、美的統一性であると思われる。

 

a.いくつかの芸術

以下のスケッチは、「排他的」芸術と「包含的」芸術との区別を契機として、芸術理論の側からわれわれの三つのカテゴリーの真価を試そうとするものである。いくつかの決着は既についている。排他的に観照的な芸術というものは、すでに見たように、ありえない。排他的に照応的な芸術は、たしかに何処にでもある─それは日常的な生の(職業的あるいは個人的な)様式化の芸術であり、したがってはるかに広げられた芸術である─、しかしそれだけでは、狭い意味で芸術が話題となる場合に、そこで考えられているような芸術について何の事例も提供しない。観照的で照応的な美的客体は、私が思うには、同時に想像的客体が問題とされるときに、はじめて狭い意味で芸術作品として了解されうるのである。それゆえ、芸術の想像的概念というものが、第三章ですでに述べたように、芸術の基本的な概念である。したがって、ただ純粋に想像的な芸術だけが排他的芸術の事例を与えることができるであろう。包含的芸術に対しては、美的機能のうちにどれがそれぞれの場合に主要機能であるのかということが、さらに問題となる。一次元以上で分節化されるすべての芸術ジャンルが、著しく分節化されるわけではない。

造形芸術は、弱い意味においてではなく強い意味において包含的であるということが、造形芸術の特質をはっきりと示しているのである。たとえば絵画は、観照的で照応的な芸術の想像的で包含的な統一性である。そこでは、─規範的にではなく、歴史的に了解された─通常の事例において、想像的に世界を提供する契機が主要機能を果たすのである。

このことが正しいとするならば、我々は絵画の生を完全に縛り付けたりしてはならないのである。美術館における画像は、しばしばその全き画像ではない。美術館というものは照応的に中立な、いやむしろ反-照応的な空間であることが往々にしてあり、そこではすべての画像は全くそれ自身があるいはそり人工的な文脈に投げ返され、したがってその実存的なコンテクストへの輻射から切り離されているのである。もちろん、その照応的次元のためにその画像の余分な点を切り落とすことも可能であり、そうすることによって、その画像としての力はたしかに低減されるが、しかもおそらく破壊されることはなく、再びまた画像としてのそのあり方について何かを語るのである。すなわち必要とあれば、画像は自己と観察者とのあいだの空虚な空間とも何とか折り合いをつけるのである。このことは彫刻には当てはまらない。彫刻は展開するために空間を必要とするだけでなく、自らそれを展開できる空間を必要とする。彫刻は強い意味において包含的芸術であり、そこでは空間形成機能が、前面に出ているのである。

 

b.芸術の規範的概念

芸術の論理のためのこの断章は、きわめて不完全なものであるが、それは芸術の統一性についての二つの命題の定式化を可能にし、それらは美的芸術と美的自然との比較のための基盤を準備するものである。いくつかの芸術のあいだの質的な相違の記述自体は何らの評価を含むものではなかったが、─「包含的」芸術は「排他的」芸術よりもそれ自体でより良いとか悪いということはないし、いかなる作品もそれが美的ジャンルの根本形式を満たすかあるいは破るかによって良いか悪いかということはないが─そこから結論づけられる芸術作品の規定には規範的な内実がある。もちろんこの評価は、どれが良い作品でどれが悪い作品かということには関わらないし、成功のための何らかの一般的基準を提供することもない─そのようなものはありえないのである。芸術の規範的概念は、意味深い仕方で、芸術の真正なる(自然によっても他の人工物によっても置き換えることのできない)可能性に照らして、芸術と見なされうるものを確定する。美学は以前からずっとそのように振る舞ってきたのであり、美学は芸術に何を期待すべきかを言うことを試みるものであるが、それはそれが芸術からだけ期待できるからに他ならない。

いくつかの芸術を通した歩みにおいて、芸術の統一性とは美的な統一性であるというトリヴィアルな推測が、それほどトリヴィアルなものではないということが明らかになった。その原理は、それを三つの美的次元の分離可能性の意識において読み取るとき、トリヴィアルなものではなくなる。次の二つの命題はこれまでの考察の立場を要約するものである。すなわち、

第一の命題は言う、芸術作品は、それが想像的構築物である限り、特有な観照的あるいは照応的な特質を持つことができる。「芸術の想像についての補説」においてその概要が述べられた芸術概念は、そしてこれだけが、芸術の基本的あるいは第一の概念を定式化する。したがって私は、次のような美的な客体だけを芸術作品と呼ぶことを提案する。すなわち世界形成的な見方の新たなる表現(投影的使用におけるように)であるように思われるばかりでなく、実際にそうである美的な客体をそう呼ぶのである。第二の命題は言う、その作品を意味地平の提示と解するこの第一の芸術概念は、たしかに芸術作品の必然的な概念を定式化するが、しかし十分な概念を定式化しない。つまり、排他的な─すなわちもっぱら想像的な─芸術作品の極端な場合に対して、想像的な構築物として本質的に観照的かつ/あるいは照応的な客体でもある(直あるいは弱く)包含的な芸術作品のパラダイム的ケースが対立する。芸術理論の中心概念は包含的な芸術作品の概念であるだろう。

われわれはある一つの客体、芸術作品に出会うが、それはその客体と我々との出会いの認知へと我々を誘うのであり、それは、その客体にそこから出発する生活世界の図像記号を、複雑な美的状況の芸術的記号へと変化させ、その状況において我々はありふれたものや崇高なものの同時的な肯定へと促されるのである。芸術作品のこうした「第一の」概念はもちろん、芸術作品の美的統一性という概念にほかならない。この統一性は、その処理方法の総体において確立される表現連関あるいは提示連関において成立する。それは作品内の美的意味の統一性である。とりわけこの想像的統一性によって、第一の命題はこれをしっかりと保持するのであるが、芸術作品は他の種類のあらゆる美的な諸客体から自らを区別するのである。芸術作品とは常に世界に「ついて」の感覚的に分節化された客体なのである。芸術作品とは、たんなる照応の客体のような、生きられた世界の地平の内側での、作り上げている強調・富ませている形態・飾られた身振り・意味ある形式などでは決してない。芸術作品とは常に、世界の意味形成的でそれゆえ意義深い諸地平を直観させる表情豊かな媒介物である。その名に値するすべての芸術は、世界への通路の生動的な描写を成し遂げることによって、世界への通路を創り出すのである。

絵画の照応的また想像的な力は、その絵画がそれ以外に、最初の解釈において絵画にとって尊重すべきすべての意味からさらに我々の目を逸らせる観照的な魔術を持たないならば、すぐに枯渇してしまうであろう。この魔術的な力によって、色彩や形態の動的な関係は、慣習的な象徴におけるそれらの定まった位置から外に歩み出るばかりでなく、芸術的手段の想像的で照応的な活動からみ外に歩み出てくる。その二重の画像感覚は、純粋な画像感覚性へと解消する。形式連関的な反射性、美的道徳、画像の実存的身振りは消え去る。そこには感覚的な物質的諸関係以外のものは何も存在せず、感覚的理解以外のものは何も求められない。しかしまた、作品の月並みな意味や提示的意味、遂行的な意味は、次の瞬間にはただちに再びそこに在る。まさにそれは、観照的な画像現出の瞬間をそれだけ刺激的なものたらしめているものであり、同時的意味機能からの離脱であるのだ。まさにそれは、多重の画像感覚に枯渇することのない生命を付与することである。すなわちその画像感覚は、突然の不在の諸状態からつねに新たに成立するものなのである。そしてまたそれは、想像的な画像把握や照応的な画像把握を、つねに新たに観照的な例外状態へと追い立てるものである。つまり、画像感覚の消滅において、物質と結びついているこの感覚の個体性を確かめ、また同時に発見的な感覚形成への画像把握の自由を確かめようとする。その三種の美的分節化のこの過程を作品へと措定することは、我々の画像の本来的な芸術に属する。

全ての芸術は、想像的な分節化という針の穴を通られねばならない。しかし、芸術の領域は、人間という世界内存在が作り出している演目の領域のみではなく、それは同じ程度においてまたきわめてしばしば時間同一的に、生活の直観的形成の領域であり、また現象世界との無関心的な出会いの領域でもある。さらに観照的な意味-空虚と照応的な意味-充溢は、作品の想像的な分節化の比較変化形であることが明らかであるが、この想像的分節化は、芸術へと高められた美的諸現象の世界-疎遠性と世界-開放性とのそれらの側での制約である。芸術の作品は、まさにそれが無比の提示媒体であるということにおいて、実存的照応を直観的に産出する特別な手段であり、またまさにその同じ意味において、観照的不在の傑出した媒介物であるのだ。芸術作品とは、その想像的分節化のおかげで、たいていの場合、高められた照応的なまた/あるいは観照的なエネルギーを有するところの美的な客体である。

 

2014年5月18日 (日)

マルティン・ゼール「自然美学」(33)

b.照応

しばしば芸術作品は、生の状況の表現であるばかりでなく、しばしそのような状況を具体化している部分でもある。さらに芸術作品の想像は世界内存在の一定の状況を描写するだけでなく、この病者の力で生の一定の状況を生産しているのである。芸術作品は外的な表現のおかげで、内的な美的表現を獲得している。視覚芸術は一般に、その直観に照応してその実存的空間を変化させたり変更したりする力を持っている。

芸術的仮象における世界知覚がそうであるように、照応的知覚にもまた直接的構成要素と間接的な構成要素がある。たとかに照応的知覚にとってそれらの関係は総括的に構成的である。照応的な知覚は、対象ないし空間の形態と表現に直接的にかかわっており、知覚する者の生の構想には間接的にかかわっている。両者は互いに結びついているのである。両者が一つに出会うことが、照応である。それらの受容的あるいは否定的現出であったりする。照応的に美しい形態とは、分割的あるいは分割可能な生の構想の表現でありまたそれらの形態の内に実際に生成した構想の表現のことである。照応的に醜い形態とは、分割的あるいは分割可能ではない実存的理想の表現や実在物のことであり、またそのために自分自身の生に対して著しく不適合な関係にあるもののことである。

「不適合」の代わりに「不均斉」と言うこともできるであろう。実存的投企に対して明らかに不均斉であるものが照応的に醜いのに応じて、自分自身の生に対して明らかに適合し均斉が取れている関係にあるものは、照応的に美しい。類義語の「整合的」と同じく、「均斉」という語は独特の言葉である。あるものがあるものに対して均斉が取れているということは、すなわちそのものと調和しているということ、あるいは簡単にそれ自身均斉が取れている、すなわち自足した良い形をしているということである。これら二つ観点の照応的符合は、まさに自動詞的使用の意味を了解しやすいものにしている。それ自身で均斉的であるか整合的であるものは、他のものとは適合せず、それは「私に」あるいは「我々に」、我々の感情や行為に、最終的に、すなわち我々の生の流儀に適するのである。自動詞的な均斉性は、直観的な実存的整合性である。異なったものが他動詞的に互いに適合するということのうちにこの自動詞的均斉が幾重にも実現するのであるかぎり、この適合の美的感覚を説明するのは自動詞的意味である。この種の純粋な整合性は、さしあたっては何ら芸術のカテゴリーではなく、生の事物に対する前芸術的な好感のカテゴリーである。芸地が照応的形態の想像的形成としてしばしば了解されねばならないとするならば、美的照応は、あらゆる芸術から独立に与えられうる美の本来の形式である。

いまや美的照応は一般に、簡単に見つけられるものではなく、人によって作り出されるものである。照応的な現前化とは、本質的に形成的な産出の実践であり、そこでは生の事物や環境を、それが何とか我慢のできる生の形式になるように整えることが重要なのである。この形成作用においては、形成的な諸形式の獲得が問題となる。ここでは実際に、すべての人間は芸術家であるか、あるいはそうでありうるのである。仕事場や住居の調整・服装のあり方・食事の支度・髪型や車種の選択などは、もっとも日常的な種類の照応的行為である。それらは個々にきわめて名人芸的・熟練的・高価なものでありうるのであり、照応的産出は日常的な美的芸術であるのだ。観照てもなく、想像でもなく、照応こそが、個人的および社会的な趣味の第一の専門領域なのである。

志向的な照応生産の活動は、実存を様式化する行為である。その意味は、固有の生に形式を与えることであり、その形式においてこの生の望まれた形式は一目瞭然のものとなり、またそのことによって(より)現実的になることができる。しかし、照応的知覚と照応的好感の様式が現にそうであるところのものは、必ずしもすべてが意図的あるいは慣習的な様式化に基づいているわけではない。従って何ら意図的な形成作用にもとづくものではない。照応はしたがって、たんに作られるばかりではなくて、見つけ出されるものでもあるのだ。まさに自然は、目標を定めない照応の空間であるのだ。自然は、それが人間の目標を定めた努力の表現であるような場所に、それ自身存在するのである。すべての整合的なものが我々によって産み出されものではないという点で我々が一致することなしには、自然の形成作用と我々とは決して一致しないのである。

 

c.観照

自然と関係する照応経験から観照的な態度への移行が、様式的な統一のある人工物に対する好感から観照的態度への移行よりもはるかに容易であるということは、自然と関係する照応経験の特性に属することである。私のタイプライター・私の万年筆・私のティーカップ・私の室内観賞用椰子と私は、毎日のように照応的コンタクトを取っている。それらの内で鑑賞用椰子は特別の役割を果たしている。私がその椰子を眺めると、椰子はそのいつもの表情で「応答する」だけではなく、同時にこの応答を撤回して、その親しげな身振りを差し控え、─その成長のこの段階におけるその生存を、葉の揺れ動きとともに観察するようにおびき寄せているのである。タイプライターや万年筆や茶碗は、同じ一瞬の知覚で直観されうるけれども、素直な観葉植物の観照的魔力はそれらに当てはまらない。私の直観がそれらの純粋な現存に固着している時、椰子の場合はことさらに一つの偶然である。それは、それらが日用品であるということから来るのである。それらはたんに観察のために存在するのではなく、また単なる考察のために作り出されたのでは全くなく、それらは使用されるためにそこにあるのである。この使用のために製作者タイプライターや万年筆や茶碗を考案したのではあるが、しかしまたただの使用のためだけではないのである。すなわちそれらは、その使用者たちにこころから愛好されるはずである。器具はそれを使用することの喜びのために作られるのである。私の日用品が持っているこの照応的感覚から、観照的直観はまず離れなくてはならない。それゆえ、純粋な観察にはかなり高い敷居があるのである。植物とその表情との結びつきは、人間によって作られた物と表情豊かなその形態との結びつきと同じではない。

観照的実践は、美的意味もまた美的に抽象することである。意味から感覚を観照的に浄化することは、それにもかかわらず、感覚および感覚による了解を破壊することではない。それはまた感覚の批判でもない。それは感覚に対する方向づけのある種の断念であるが、この断念が場合によってはその結果として意味の変容を引き起こすことがあるとしても、本来いかなる種類の意味の変容をも目指すものではない。観照的注意は、この断念によって感覚及び感覚に対する信頼に生じることを何も保証することはない。それは、現出を戯れさせるために、感覚と存在をあるがままにしておく。それは、実践とのあらゆるかかわりから距離を取る実践である。

第一章の記述は、その意味で何も付け足す必要はない。しかし観照的注意には、産出ないし、形成という固有の実践は何ら当てはまらないであろうという主張には、解説の必要がある。たんに他よりも多くではなく、独占的に観照に相応しいであろう対象を産出することが可能なはずだと、ともかく考えることができるであろう。まさに自然はそのような創造活動によって凌駕されるのであろう。なぜなら自然は、特別にそれが観照へと誤り導く場合に、決して純粋な観照的客体を提供することはなく、つねにまた照応的及び想像的に魅了するからである。自律的芸術の任務は、時にこのような純粋主義において見られてきたのである。成功した芸術殺品は、つねにそれ自身以上のものである。マルセル・デュシャン以上にこのことを天才的に示した者はいなかった。「レディー・メイド」の作品は、排他的な観照的生産の実現化を通じて、同時にその不可能性についての証明である。純粋な美的構成であるべき客体はそうであるからこそ逆にますますもって美的な意図から作られてはならない。彼は、事物を、それがまさに現に有るに受け取らなくてはならない。もし彼が客体に一定の形を貸し与えるのであろうなら、それはもはやその事物の現出だけが規定されていることではないであろう。そこで彼は瓶乾燥機を展示するのである。ここでは極めて実用的な器具が扱われているのであるから、画廊の空間におけるその美的隔離は、「目的なき合目的性」に対する実に効果的な事例であるのだ。その対象は(瓶乾燥のためには)合目的的である。しかしもここでは美的な文脈において、あらゆるそのような目的なしにそれは存在している。それは──いまや、観察のため以外の何もののためにもそこにあるのではない。その観察は、実用的あるいは芸術的あるいき美術工芸的に形成された形態に対するものではなく、この対象の純粋な事物存在にその注意を注ぐものである。なぜなら、画廊のなかの瓶乾燥機は、レストランの中のそれと違って、我々を目の前へと導く。その結果、美的な知覚が止みはせず、ようやく美的な知覚が正当に始まるのである。そのことによって、演出された瓶乾燥機は、一つの意味を、たんなる瓶乾燥機が持っていなかった想像的な意味を獲得するのである。芸術的な操作は、月並みな器具にその美的月並みその有する高貴さについて語らしめるのである。観照的な反-人工物は、観照的視覚の標識となり、さらにまた非-代理的芸術の前兆となる。この意味においてそれは─純粋な観照的対象とは違って─了解されねばならない。

2014年5月17日 (土)

ちょっと気づいた

Fc2a405a69e0c3afcd5b3d8d7109486f 日曜の夜、NHKで始まった。海外ドラマ『ダウントン・アビー』。舞台となった20世紀初頭の英国貴族の三姉妹。その顔つきの感じとか、三人が並んだたたずまいの印象が、ラファエル前派の画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ描く女性の半身像にそっくりです。わたしの思い違いかもしれませんが。二つの画像を見比べてみて下さい。

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2014年5月16日 (金)

マルティン・ゼール「自然美学」(32)

第5章 芸術の偉大さ

1.美的なものの三つの次元

自然美の分析は一般美学への導入でもあった。自然が実際に包括的な美的現象であるならば、そうであるほかはない。美的知覚の基本的可能性は、自然美を例として言い表され─またそのようにして最初の諸考察は理解することが可能だったのである。自然への美的連関を了解するためには、三つの知覚方式が説かれねばならなかったが、それらは必ずしも自然とのみ関係した知覚方式ではない。強烈な美意識を燃え上がらせるのは常にまた自然であるに違いないということは、その裏面として、目指されるものは自然である必要はないということもある。観照、照応経験、投影的に想像企図のきっかけとなるのは自然である必要はない。それにもかかわらず自然は特別な仕方でこれらの諸直観のそれぞれを実現する。自然の美的知覚は、美的観察が有する基本的可能性のまがうことなき変種である。それはより弱い意味においても、また強い意味においても、変種なのである。自然は、観照的・照応的・想像的な知覚のその度ごとの特殊な活動領域であり、非-自然的な対象の場合との相違はここでは程度の問題である。その統一体における自然美は、これら三つの次元の無比の結合であることが明らかであり、非-自然的な現実性との相違はここでは原理的性質のものである。まさに包括的なものとして、自然美はきわめて特殊なものであり、またまさに特殊なものとしてきわめて包括的なものなのである。

このことは、我々がしばらくの間、その目線を変えて、一般的な美的観察の導きの糸として、自然ではなく芸術を選び取るならば、より明確になる。芸術の諸表現形式もまた、美学への範例的な導入の出発点でありえただろう。美的なものの統一性は美的なものの統一的現象のうちに埋没しまうことはない。美的知覚は、自然からもまた芸術によっても提供されることのない様々な対象や様々な機会において、知様に発火することができる。美的なものは、言い換えるならば、決して統一性のうちに埋没してしまうことはない。美的なものは、その根本的な知覚形式の分離と結合、無差別と相互作用とにおいて存立するのである。それゆえに美的なものは、その導入時においては、行動の方向づけのさいにその対象の感性的及び/あるいは感覚的な存在性と含蓄性を頼りにするような知覚は美的なものである、とするような切り詰めた規定で済ませる他はなかったのである。

自然に対する美的な関係を、これらの諸関係のうちに位置づけること。この目的のために私は美的実践の三つの次元について手短に新しい説明をすることにする。美的実践はこれまでもっぱら知覚の実践として語られ、ごく周縁的に産出の実践として語られるということが、自然美の方向づけにはつきものであった。美的実践について一般化しようとする新たな記述は、この一面性を正さねばならないただしこの修正は人が期待するほど大きな意味を持つものではない。というのも多くの活動領域において美的な製作というものは、極めて重要なものではあるが、あらゆる美的な産出はそれに反して、産出されるものとの知覚的出会いのために生じるのであるから、産出という観点は、理念的には二次的なものに止まるのである。美的な産出における特殊なものは、美的形成作用がそれに向けて生起する知覚方式への回帰によってのみ捉えられるのである。美的経験は従って、産出の実践をしばしば前提とし、また同時に産出の実践であることが稀でないような知覚実践として了解されなくてはならない。

従って美的実践の三つの次元は、美的対象の三つの基本的次元がそれに対応しているのであるが、それらは、観照的注意、照応的現在化及び生動的想像である。観照的注意は空間内-事物に関係しており、そこで人間の身体的-感性的な知覚能力は、このことへ専念することによって顕著なものとなる。照応的現在化は、個人的及び集団的生の可能性に関係しており、そこでその可能性の意味はこの生の連関の内に直観されるものとなる。生き生きとした生動的想像は、人間の視形式と世界との出会いに関係しており、そこでその働きによって新しく描き出される提示物の実現可能性が同時に意識されることになる。観照的態度が何ら固有の産出実践とは言えないのに対し、照応的知覚と想像的知覚はともに産み出す行為でありえるし、あるいはそのようなものを含みえる。照応的知覚は、また同時に行為世界の決定的な形式であり、しばしばこのような形式の人為構造に当て嵌められる。想像的知覚は、また同時に世界像を形成する視形式の建設的な分節化であり、何れの場合にもそのような人工物にあてはめられる。美的なものの第二、第三の機能にとって、活動的な形成作用の本質的な構成要素は、「現前化」や「想像」という表現それ自体のうちに含まれているようなものだから、(両者は、生産的行為と同様に受容的行為にも、また為すことにも為されることにも関係し得る)再びまた次のように簡略に言うことができる。美的実践は、観照的注意であるか照応的現前化であるか、あるいは生き生きとした生動的想像であるか、あるいは同時にそのいくつかである。

 

a.想像

想像という概念は、芸術とのかかわりあいなしには成り立たない。我々は美的実践という包括的な概念から芸術ではなく自然を取り去ることができる。別の言い方をすると、制約のない美的実践というものは、芸術なしには考えられないが、自然はなくても考えられる。美的芸術というものは、おそらく今後さらに詳しく規定されることになるような意味において、美的自然というものより基本的なものであろう。このことは、想像的美的能力の一般的主題化から導き出される第一の帰結である。

美的想像は、芸術との関わりなしには成り立たないけれども、しかし一定の芸術作品の現前がなくても十分に展開することができる。この意味において、美的想像は芸術なしでも成立し得る。想像的な美的知覚は、必ずしも直接ではないにせよ、少なくとも間接的には芸術作品とかかわりがある。我々は、かろうじて可能な芸術の場合でさえもそうなのであるが、世界を芸術の様式において観察することができるに過ぎない。なぜなら、世界の側における芸術の想像的な諸構成というものが、我々にはすでに与えられているからである。投影的で美的な想像の受容を前提としているのである。

しかし同時に、芸術の生産的想像は(芸術家の側も芸術鑑賞者の側も)、世界の諸現出─とりわけ自然に対して芸術が戯れながら投影する能力に依存しているのである。投影的な即興が芸術作品なしでは成立し得ないように、芸術作品の新種の構成は、既知あるいはなお未知の芸術様式における世界の知覚なしには成り立たない。しかしそれは、芸術的想像の美的機能が、直截的及び間接的な芸術知覚によってだけ規定されうるのではなく、両者に共通なものによって規定されうるということである。想像的美的知覚は、芸術作品に間接的ないし直接的に関連しており、それは、そうした関連において諸状況や諸対象が人間にとって親しみ易い意味地平で生じる生き生きとした生動的知覚に他ならない。このような視形式の知覚は、意味深長な世界内存在の描写の知覚としてたんに可能であるにすぎない。芸術はこのような提示物を産出し、また芸術の(様式における)あらゆる知覚は、二つのものに、すなわち、この提示物としての芸術およびそのように解放された視形式とに関連しているのである。

このような共通性にもかかわらず、私が一つの芸術作品を知覚するのか、あるいはあたかも芸術であるかのような何らかのものを知覚するのかということの間には、非常に大きな違いがある。芸術の永続的な諸作品への関係は、その束の間の仮象への関係とは全く別物である。芸術形式のうちに世界を知覚することに価値があるかどうかということは、たしかに芸術作品の意味にとっての試金石であり、芸術によって公表された視形式との立ち入った対決は、芸術作品の厳密な構成と最終的にはたしかに関係しているに違いない。そしてさらに、すなわち芸術が世界形成的な視形式の表現として成功すればするほど、それだけ芸術は、通常、生の形態としてあるいは観照の対象としてもより成功するのである。観照的かつ/あるいは照応的な諸々の長所の展開によって芸術的想像の仕事を成し遂げることは、芸術的想像の多くの諸形式の論理にかなったことである。想像的描写によって果たされた描写の超越のこの論理は、しかしたんに何かをではなくてそこにおいて自己をも描写にもたらすところの諸客観に即してだけ発展することができるのである。すなわちこの論理は、それが示すものばかりではなく、同時にそれが現にそうであるところのものを示す。芸術作品のこの性質は、その投影的現実化において必然的に失われる。それゆえに自由な美的想像は、芸術との直接的な出会いに較べてつねにまた貧弱である。

2014年5月15日 (木)

マルティン・ゼール「自然美学」(31)

4.風景の自然の回顧

自然美は人間の持つ卓越した生の可能性である。なぜなら、自然美はその可能性との出会いの傑出した一形式だからである。こうした可能性の全体性が風景としての自然との出会いである。美しい自然と崇高な自然を分析した時、つねにすでに風景経験という観点が言及されていた。

a.全体なき統一

美的自然の空間は、外部から直観されるような「表側の空間」だけでは決してない。これは想像的な観点についてどうにか妥当する。また、想像が視覚像に関係する場合にのみ妥当しもする。そして本来的にはその場合でさえ妥当しない。なぜなら想像的状況それ自体の分割と二重化が依然として、想像で生まれた自然劇場がきわだたせられる空間内での関係の経験だからである。自然のより大きな空間はいかなる直観された空間でもない。それは直観空間であり、しかも直観の最も広い意味でのことである。このような空間が、感覚的に聞きとりを行う、つまり形態の意味疎隔的観点と意味付随的観点とに対して、その画像的観点に対してと同様に感受性を持つ主体の身体をとりまいている。主体は自然の空間を、表出を伴う形式と表出を伴わない形式との概観不可能な出来事として経験される。多かれ少なかれ自立的な生命連関として知覚する。風景の空間は、自然改造的な空間である。加えて、この美的関心の対象が生活世界的に経験可能な自然でしかありえないことを想起するとき、我々は以下の想起を手に入れる。すなわち、風景とは美的自然によって変形された人間生活の現実そのものである。

風景的自然も大の両義性と小の両義性の生起の内にある。風景的自然の美しさは崇高と接触しており、風景的自然の崇高性は美と接触している。風景的自然の美/崇高の現前は決して保障されず、かろうじて供与される魅惑を遠ざけることに転化できるにすぎない。風景が自然空間として─そして自然空間が風景として─考えられうるには、時間がこうした空間の中で考えられねばならない。風景の魅惑や直観方式が満たされたり遠ざけられたりする相互作用の可変的時間こそが風景の統一性をもたらすものである。風景の統一性は過程的な統一性である。包括的な意味で美しい風景が重要である場合に特にそうである。これでトリヴィアルな規定─自然のより大きな空間として風景─がそれほどトリヴィアルではない結果に至る。風景としての自然の統一性は内容的に大きなことではない。その統一性は、自然の中での時間統一性であって、自然との意味-統一性ではない。自由な自然を取り巻く大きな空間での美的状態は、自然と感情的もしくは精神的に一体であることではない。美的風景とは、風景全体として把握されたり形態化されたりはできず、系列にもたらされえないような全体性である。全体性が、把捉しうる全体もしくは感じ得る全体と同一視されるとき、美的風景は、遠ざけられた全体性の空間である。れこそ、自ら意味付随的ではないような自然との近代的出会いの空間である。これは自然における近代的自由の空間でもある。これは、あらゆる完結的自己了解を超え出て行けることに自らの自己存在を見出すような主体にとっても、自然の魅了にほかならない。風景的直観の統一性は、全体なき統一である。

自然の還元されざる美的な直観が全体との一体性を知っていること、それは確かである。しかしこの直観がそうした一体性であるのではなんらない。それを超え出てさえおり、自然との意味付随的な同一化の可能性に拘束されるものではない。全体を見出すために風景的自然の経験を整える者は誰でもが、風景を美の照応の空間へと還元させる。このような美の照応については、それが包み込むような種類のものであり、知覚においては、主体がそこで揚棄され、それにより自分が持ちこたえると感じるような一つの全体に溶け込んでいくようなものだと言った。しかしこれだけが風景なのではない。それは風景の本質的状態の一つである。それらの状態のあいだにとどまらない者は誰でも、風景の現前を避けている。そしてまた風景の諸情態が固有の世界内部的遊隙であるので、その人は自分自身から逃れている。自然との美しい同一化にありながらもこの同一化の状態に固執しないこと、これこそが自由な自然における人間的な自然における人間的自由をなすものである。善美の風景が、我々の事物の見方や我々の生の構想の直観的強化にとどまらず、いわばその直観的呈示にして直観的一時停止であるような当該現実であるのは、こういう理由からである。 

 

 

5.自然風景・文化風景・都市風景

 

風景の経験にはより純粋な自然区域が存在するが、その一方で文化風景の美的現存はというと、それ以外の所与存在のある特定の位相であるに過ぎない。要するにそれは、われわれが美的経験の方に顔を向けながら存在しているということでもある。要するにそれは、文化風景において我々が美的経験の方に顔を向けながら存在しているということでもある。強い意味で自由であるような自然が、我々を無防備な仕方で自然の風景と直面させる。なぜなら、この場合、自然の生活世界的な所与存在が我々にとっては風景的な所与存在であるからである。このとき総括的自然は日常世界の中の対立世界ではなく、この世界に対する対立世界である。形態化されていない風景の自然は、形態化された風景の自由の極端なものである。ここでは、プラグマティズム的に捉えられた自然との数多くの些細な差異が、社会的および文化的統合との大きな差異の内で消失する。しかしそれはすなわち、美的な自然風景の分析的パラダイムが文化風景であり、かつ、文化風景でしかありえない、ということである。文化風景が存在する場合は、より厳密な自然風景が生成発展し得る。つまり、開発された風景のなかでの自由の高まりとして、すべての自然風景が「文化に対する距離の文化」─その出自は都市の文化─にその源を発するものならば、可能な限り自由なかぎり自由な文化を探すことは、この文化の拡大形式である。

 

都市がいつ風景として現出し得るかということに、よく注意することが重要である。綜合に向かおうとする知覚には近寄りがたいような解放的で分散的な空間においてのみ、都市は風景として現出し得る。自然に向かって開いていること、そして、自然そのもののように見えること─これが都市を風景として経験する条件である。風景は自由な自然という単なる仮象かも知れないとする、自然風景の美学に拒まれたこの思想が、都市風景の美学に当てはまるのである。風景の非正規な空間が企図されたものや計画されたもの、作成されたものの中で開示されること、これが総括的都市の醸し出す物議である。自由な自然全体の中で風景を一つの都市のように経験することは不可能なのに、都市の風景はそれがあたかも自然であるかのようだという一つの出来事となる。自然は風景の自然である。しかし、そうであるが故に、美的なものの自然は風景ではない。

 

2014年5月14日 (水)

マルティン・ゼール「自然美学」(30)

b.人間が持つ自然の美しさについての補説

自然美としての自然の現前が可能であるような自然の自律に対する美的関心は、人間の自律に対する人間の関心である。自然美の空間の別な時間は人間的実存の特殊な時間である。自然に対する人間の感覚は自然における独自な可能性に対する感覚である。しかし、この感覚は直接的にも人間に関係し得る。そしてその感覚は人間固有の自然に外的自然に向けられる。その時感覚は、事物と空間のありうべき自然の美しさには向けられず、人間における自然の美しさに向けられる。

人間の美しさを「自然の美しさ」として表象することはトリヴィアルであると同時に訝しい。我々が人間の自由な自然美を開墾された自然の自由と突き合わせてみれば、このトリヴィアルさと訝しさは際立ってくる。個人がその独自の形態において現出し得るということ─これが人間の美しさの最も基礎的な規定である。ただし、このとき当該の転換は、野性的自然もしくは手なずけられた自然にこの規定を適用する時とはカテゴリーという点で少し別のものを意味する。このような美しさの主体は、分節化された客体であるだけでなく、分節化する主体でもある。主体は分節化された自然を有するだけではない。その主体の自然の現出及び提示において、つまり同胞に対しても自己自身に対しても、主体は分節化される。自然の場合に美の条件に過ぎないこと、すなわち自然の形象と区域が独自の形態で現出すること、これが、人間の場合はすでに美の基礎的実現である。つまり、身体を人格の反映たらしめるのである。

以上の話は、特定の文化や時代、人物の美しさの理想とはほとんど関係ない。誰かがすべての標準に照らして醜でも、顔としぐさでその人自身として自由と現出することはありうる。ここでは美しさの理想はまったく重要でなく、その美の理想をそのときまとう人間の美的魅惑の観点、これが重要である。このような魅惑のより強い概念を定式化するために我々が三つの美的カテゴリーを用いるのは、それほど困難でない。照応的な観点では、我々は別の人たちを美しいと思う。つまりそれは、我々がその人たちを見て、我々がその彼またはその彼女を─一緒にいるのがどんなに楽しいか─一緒にいたいこと、もしくは、その人たちのそばに入れたらなあ、その人たちのようであれたらいいなあと、そう思うようなときである。ここには既に想像の観点がある。それによって魅力的なのは、その人格を介して我々を想像に誘うような人間たちである。これは─反感と憎悪の、それ程強烈でない想像とは異なって─美しい想像だが、ただしそれは個人の顔や声・容姿・仕草が、共通の現前の現実的または非現実的な瞬間にある時である。欲求を駆り立てる身体は。何かあるものや私や世界に対する、彼やある人や私の反応を扱う画像や劇や舞踏となる。欲求が真剣になるとき、他社の容姿がその状況のアウラの彼方からこれらへ歩み出てくる。その姿は、皮膚や頭髪のついた意味付随的な自己に取って代わって感性的な自己に接するような現存の磁力の中に立ち入る。このような他者的自己の身体的現前の身体的痕跡は、観照における役割や画像すべての度外視とほとんど違いがないが、完全に観照的であるのではない。芸術家の冷たい観照は、純粋な欲望の灼熱の観照よりも純粋である。その灼熱の観照は、その立場からすればさらに長い歴史の中で保たれた愛の観照より純粋なのだが。─以上のように、美しさはここでもやはり美の諸次元の共在である。ここでもまた、このような共在を踏み越えて、美の両義性だけでなく美の中での両義性が決定的に重要な成分である。信頼すべき魅惑はたちどころにもはや魅惑ではない。つねに美しい人など誰ひとりとして確実に存在しない。人間の美しさの諸契機が繰り広げる戯れは、それがその人の美しさの時間の中で知覚されうるには、醜悪・滑稽・倦怠・凡俗・溶解というような色合いを帯びうるのでなければならない。

今記述した最も強い形式では、人間の美しさの概念が同時にエロチックな主体の概念である。エロチックな魅力と性的な相互作用にあっては自然の美しさの概念が同時にエロチックな主体の概念である。エロチックな魅力と性的な相互作用にあっては自然の美しさの特徴がさらに一つの意味を獲得する。ここで自然は、他者の美しさの基礎あるだけでなく、身体的要求の目標でもある。性的状況は、他社の身体との出会いにおける自分の身体の交互的な事実性暴露に関わっている。わしは恋人を生と愛の職務と尊厳において熟知し、人格として所有しようとするだけではない。私は恋人の自然と、恋人の非人物的で言語外的な現存在と出会おうとする─そして私は自分を恋人と対立させることを欲求し、そうしたいと思う。誰かと共に自然であること─誰かとそうなるのをためらうこと、そして誰かとそうなることをためらうことで自然であること─がこの行為の美的意味である。ここでわれわれはついに「自然との対話」をする。それはすなわち、幸福と不幸とが持つ二つの自然の出会いを対話的に欲求しうることである。もしそうでなかったとしたら、我々はそれをお喋りの祝福に放置するかもしれない。

外的自然における美的状況は、我々の自然とのエロティックな対話を延長するものなどではない。その状況は、自己意識的でない生との出会いである。その生は、自己意識的ではないがゆえにいかなる意味付随的な自己存在からも出現し得ないようなものである。人間たちのエロティックな出会いがもたらすような、ともに居合わせるものや自己の外に出てくるもののシンメトリーな鏡映はここには存在しない。美的自然とは、人間の自己既知性を裁く非人間的なフォーラムである。もちろん、この既知性に関心を寄せるのは、それ自身が自然であり、それ自身が偶発性に支配される諸個人、自然美の経験において自然をほめたたえる諸個人のみである。しかしその諸個人が自分との類比を見出すのは自然に即してではない。自然に即してだとしたら、たとえばそれは、自然が分節化を欲するものであり、それゆえにたまたま、その自然を賛美する諸個人と同様、分節化に飽き飽きしていたというような場合であろう。外的自然との出会いにおいてその諸個人は自らの自己存在の複雑な諸可能性を目の当たりにする。自然の疎遠さにあってはこのような自然がそれらの可能性そのものに至る機会である。このような自然の美しさがそれ自身の美しさとは別の美しさだという意味でのみ、外的自然もまた「人間の美しさ」である。

2014年5月13日 (火)

マルティン・ゼール「自然美学」(29)

3.自然の規範的概念 我々は自然の二つの両義性を学んだ。つまり、自然の小の両義性と大の両義性である。小の両義性は、自然の個々の魅惑の美/崇高の両極性が該当する。大の両義性は、それらの魅惑の相互作用の美/崇高の両義性が該当する。恐るべきものの両義性はこの大の両義性が変化したものである。自然が両義的であるのは、危うい両義性や解放的で危うくない両義性、息詰まるようで危うくない両義性においてである。文芸で、そもそも芸術において、美的自然を主題として扱うことは、自然の小の両義性と大の両義性とを扱っているのである。 この発見により、自然の概念は新たな方式で了解されねばならない。我々の最初の定義によれば、美的自然とは、自然の中で自然を探すという、自然との関係そのものである。しかし、この関係がつねに見出されるわけではない。まったく見出されないままの可能性もある。美的態度においても問題提起的な自然だけが、自然美の現前でありうる。問いはこうである。自然に対する美的関心の内にある自然の非美的状態とはどのような状態か。回答はこうである。それは「自由な」自然状態である。しかし自由であるのは、自然の全両義性が姿を現しうる当該の自然のみである。自然美の名の下に、自然美が自然関係のただ一つの規範であってはならない。 a.自律の条件 美的自然は一般に、自然の美徳の同時間性ではなく、自然の美徳の悪徳との同時間性であるとされた。とりわけ消極的照応の例がこれをはっきりさせた。全く同様に、たしかに照応的に美にして善であるが、あらゆる想像に対して無感動的な地域が考えられる。それに対して、純粋な美的知覚に特別な刺激を何ら提供しない対象や土地が存在するにもかかわらず、観照的な「悪徳」は何ら存在しない。この少なくとも弱の観照的魅惑は、自然が美的感覚にまるっきり否定的には決して現出しないよう配慮する。美的自然は、その悪徳のみの時間同一性では決してない。美的に把握される時、自然は、よそよそしかったり、人をうっとりとさせたり、恐ろしかったり、残酷だったりするかもしれない。それどころかそういう自然を観察することが、その観察者を残酷に見せるかもしれない。そもそも自然が美的に知覚されうる限り、自然はつねにその魅惑に対しても開かれており、全体において恐怖で残酷とは感じとられていない。しかし、美的自然が全体においては否定的でありえないということは、自然が否定的であり得ないことでは決してない。ラウーやフローベール、コンラッドの直観には、こういう否定性が留保なしに現われ出ている。この作家たちの主題は自然の肯定的偶発性と否定的偶発性との両立なのである。この両立には、人を狼狽させるような自然の両義性がある。自然によって人がうろたえさせられうるという文脈にあってこそ、全体において解放的な自然の両義性のセンセーションは申し分なくよく分る。自然美をまとう自由の領野は、本質的に否定的な自然の両義性という背景の前にある、全体において肯定的な自然の両義性である。美的自然一般でなく、自然美だけが、工程された偶然性の領域である。 別の面から言えば、我々が自然美を受容できるのは、我々が自然の美的な両義性をも受容するときだけである。自然に対する美的感覚を育むことは、肯定に値する自然の偶然性に対する感覚も人を脅かすような自然の偶然性に対する感覚とともに育むことである。したがって、自然の自立性と可変性を肯定できない、両義性と破壊の可能性を解消しようと欲することはできない。というのも、それが、自然の包括的な美しさの可能性でもあるからだ。肯定された自然の偶然性だけを肯定することは、美的には不可能である。自然の偶発性の事実それ自体が、その否定的な潜在能力の意識においてすでに肯定されねばならない。自然の偶発的な美しさのとりなしは、自然の偶発的な諸経過の特定の帰結の克服と必ずや調和するだろう。 こけはほとんどトリヴィアルである。美の概念は対照概念である。美と崇高の間の緊張それ自体がすでに、美的な自然対象と非美的な自然対象に対する両方の緊張はなおのこと、これを保証するものである。もし我々が、醜との相違において美が何であり、非常に美しいものとの相違においてそれ程美しくないものが何であるかを知らなかったとしたら、我々は美について何も知らなかったことだろう。自然が最良の例である。その満たされた現存と満たされざる現存との両極の間で自然が変異し得ることが、自然の可変的現出の美的現前の総体である。きわめて持続的な照応の美しさでさえ、自然によっては断絶されうるし、場合によっては解消されうる。地震や嵐と言えば十分である。確実に美しい自然は、確実に自然では─自然に対する美的感覚が向けられるというあの自然の意味での自然は─ない。そのような自然には、その「固有の形態」と動きで現出する「のびのびとした自由」などないだろう。「意のままにされていない形」で生きることなどないだろう。あらゆる自律を奪われるだろう。自然美、すなわち、「自由な」自然の規範的に最上級の現出は、その規範的に最上級のあり方から距離をとっている自然の「自由」を抜きにしては、不可能である。自由な自然はただちに美しい自然ではない。しかし自然美は自然の領域内にしか存在しない。 緒論からこれまで、私は自然の自由という広い概念を駆使してきた。自由な自然は「野生の」自然である必要も「純粋な」自然である必要もない。自然は「純粋」では全くあり得ない。自然が美的に観察される場合、自然は人の手に触れられている。「野生の」、すなわち人間によって決定的に形態化されていない自然の美的発見は、歴史的にはほとんどつねに、それでもすでにして人の手が触れた自然の発見である。形態化されていない自然と同様に、目に見えて人間によって形態化された自然もまた、人間による手入れや手直しなしに多かれ少なかれ不変な循環において存続しうるような、人間の意のままにならない生命連関を形成する限りでは、自由である。その範囲では、自然の自律の強概念が問題である。これに対して弱い了解では、自然は、人間の意のままになる生命連関である。これは能動的形態化なしにはそういう風には存続しない、あるいはそもそも存続しないだろう。そのようには庭園は存続しないだろう。にもかかわらず、ほかならぬ自然が目に見えて人間の意のままにならない諸形式の連関であるかぎり、ここでも自律がまた問題となりうる。このとき自然は、もはや現実として自律的ではない。つまり自然は、人間の行為から独立して存在する一領域ではもはやない。そうは言っても、全体的もしくは部分的に自然の諸形象は存在し得る。 自由な自然という概念は、私が冒頭から子理論河野基礎に据えて来たものだが、それは自然の自律の強の意味と弱の意味とを包括する広い概念であった。その理由は、形態化されない自然と意のままにならない自然と設えられた自然との境界線─それらが確定的には何であるか─はしばしば簡単には引きえないからでなく、自然美学理論がこれらの境界線を引くこと自体が全く必要としないからである。美的直観にとって、自然が強い意味で自由であること、つまり自律的な生命連関であること、およびそうか否かは必ずしも重要でない。自然が弱い意味で自由であること、つまり自律的な生命連関であること、およびそうか否かは必ずしも重要でない。自然が弱い意味でしかそうした連関でないのにもかかわらず、そのような連関であるかのように見せることで、美的直観には十分でありうる─しばしば自然にはそれで十分でなければならない─。これが、美的自然は今日では一般的に反-目的論的な仮象の国だという、第二章第四節で大袈裟に拒絶された表象の真理である。美的自然において許容しうる仮象は、自然の自由一般に該当するのではなく、たんに弱体化するだけである。美的自然関係において許容しうる仮象は、自然の自由一般に該当するのではなく、人間的影響の欠如の度合いにのみ該当する。ここで肝心なのは根源的存在ではない。ここで肝心なのは自然諸形式の非強制的な現出である。ここでいう仮象の許容しうる要素は、自然自体の力動性に関係するものとは違う。それは、自然の目に見える作用のなかもしくは背後で行われていることの規模に関係するものである。美的自然は、人間による連続的影響がなくても、存在もしくは映現せねばならない。人間によって連続的には為されない、当該の現実においてのみ、自然美の時間が現実となりうる。 以上が自然の美的な最少条件である。このような自然の弱い美的規範は、より強い規範を決して排除しない。この規範は、自然が、人間に形態化を付与されてはいても、人間によって意のままにされていないような生命連関である場合でのみ、包括的な自然の美しさが可能であるということを認識させる。たしかに自然に対する美的関心は広範囲に人間の意のままにされた自然に対してもかきたてられるが、自然美に対する関心には、強い意味で自由な自然にも出会いうることが含まれる。そうだとしても、あらん限りに野生的な自然の状態をただ一つの自然理想にまで高めてしまうのは盲目的であろう。そんなものは、第一につねに野性的であるのではない自然のさらなる凌辱、第二には、つねに野性や辺境を探すわけではなく、同様に「家から外へ出るように」木があるのを見ようとするような自然との文化的美的連関のさらなる凌辱でしかないだろう。第二に、つねに野性や辺境を探すわけではなく、同様に「家から外へ出るように」木があるのを見ようとするような自然との文化的美的連関のさらなる凌辱でしかないだろう、別の面から言えば、人間による支配を免れた自然を最大限要求することは、仮にその要求がもはや満たされないということに現実になったとしたら、そのときにこそ妥当性を持つことだろう。庭園の美的理想は制限付きの理想であり、かつ、それにとどまる。付言すれば、幻影的理想である。つまり、人間による情愛の籠った育成の下での自然の美しい設置が全体において成功を収めることができ、そこに氷や石、海、砂漠がある─眼前に天がある─ということである。

2014年5月11日 (日)

マルティン・ゼール「自然美学」(28)

2.両義的経験

美的自然の統一性の概念的分析はその統一性の自然美としての現出に方向づけられているが、それは、あたかも自然の満たされた現前の実現の中でしかこの統一性が与えられないと見えるかもしれないほどである。この印象は欺瞞に満ちていると思われる。満たされた自然知覚の時間は、美的自然の統一性の卓抜な一形式にすぎない。たしかに自然美の時間は、美的な自然統一性の完全な概念を与えることができるが、自然における美的共存の諸形式の完全な記述を与えることは決してできない。もしそれが可能なら、美的自然の統一性は包括的に美しい自然の所与性のなかでしか見られないだろう。何かきわめて決定的なことが、またもや偶発的で厄介で信用できない統一性が─またもや自然が美的自然の中で─見逃されていることだろう。美的自然は美的に両義的な自然である。

a.「美」と「崇高」の彼岸

自然美の最初の定義とは異なって、第二の詳細な定義では美と崇高の差異が出てこない。最初の定義の時に述べように自然美とは、事物の見方や生の構造の直観的宙吊りであると同時に直観的強化にして直観的呈示として提供される生活世界的現実である。たしかに、この規定に両方の美的充実様態を取り入れるのは困難でない。我々は観照的一時停止をもっぱら意味連関の点的もしくは状況的な無力化として記述せねばならず、照応的強化をもっぱら目下の生の構想の充実もしくは超過として、想像的呈示をもっぱら芸術の変奏もしくは刷新として記述せねばならない。それでも、自然美のあり方をこの二分法の彼岸で名指すような規定を行うのには長所がある。なぜなら、適切な自然美理論とは、美しい自然の理論か崇高な自然の理論化ではいけないからであり、また美しい自然の理論でもあるし崇高な自然の理論でもあるというだけでもいけないからである。適切な自然美理論が美しい自然と崇高な自然の区別を考慮するのは、他でもなく、その理論がまずもって自然の美しい所与性のために構築された仕方で自然美を存在させているのでもないというそうした仕方でのことである。美と崇高の原則的分離しどれもが、美的自然のさらなるイデオロギーの一つでしかないだろう。というのも、美的自然がこれらの役割の一つに縛り付けられていることはないからである。

ここで重要なのは、美的自然の個々の次元での変更ではなく、これらの次元の相互作用二重の様態である。そのように理解するとき、美と崇高は自然美の両極的な同時性の特性として区別される。

美の自然統一性概念と崇高の自然統一性概念もまた相互依存的である。結局我々は一方を他方との関連でしか規定できない─つまり崇高を並外れた美として規定でき、美を今にも壊れそうな秩序の内で保たれた崇高として規定できる。我々の多義的な定式に立ち戻ってこうも言えよう。自然は、それが我々の感覚に対する感覚を完全に満足させるとき、全体において美しいのであり、自然は、それがこの感覚をその満足のまどろみから完全に覚醒させるとき、全体において崇高である。しかし、自然美の統一性は後者の全体でも前者の全体でもなく、一回性が後者で次が前者だというのでもない。自然美は満足の切望を満足させるのでも、極度の切望を満足させるのでもない。自然美は、一つの閉じた全体への瞑想的憧憬を満足させるのでも、その全体への忘我的憧憬を満足させるのでもない。自然の真の美しさは、自然の総括的に美しい現存とその総括的に崇高なる現存との二者択一の彼岸に、その時間的統一性の外部で内容的統一性をそれに対して提供することなしに、存在する。自然知覚の時間は、絶対的に連続的な時間でも、絶対的に不連続な時間でもなく、それらの間に存在し、相対的に不連続な時間である。自然美の美的に重要なことは、それが我々の美的感動の重要なことすべての間を動いていることである。

b.火山の下

全体において魅力的な自然は、極度の魅了でこそ両義的誘惑である。自然の美もしくは崇高の魅惑の小の両義性に対応するのは、自然の美もしくは崇高の大の同時性である。しかし、両義的であるのは満たされた美的自然の同時性だけでなく、満たされざる美的自然の同時性もやはり両義的である。自然の知覚が自然の基本的な美的観点の相互作用に向けられるのは、この相互作用が肯定的な全体印象に結びつくときもある。自然の無制限な経験は、自然の無制限の美しさの経験内には決して存在しない。自然美の解放的な両義性と対立するのは、部分的に攻撃的で拒絶的で感受性を欠く自然の息詰まるような両義性である。これが、美的自然の概念と自然美の概念の分岐する点である。自然美はたしかに包括的な美的自然の最高の形式ではあるが、それでもその可能的な形式でしかない。諸々の美的次元の「上昇」ないし「下降」の発生、それらの次元の平和的もしくは非平和的な共存、対照しあうことによる重荷の背負わせ合い─これら全てが、幸福にも与った自由の美しい/崇高な国ではなく、危険をはらんだ自由のひどい衝撃をうけるような地域として自然が呈示されるときでさえ起きる。そのとき自然は、他方に対して一方というだけでなく個々を─あるいは各々を─肯定的なものから否定的なものに転回させることで、魅惑を与え、そして剥奪する。自然は想像にとって無感動的となり、積極的照応を消極的照応に転化し、観照的余暇には息を呑ませる。このとき美的自然は、その美徳の時間同一性ではなく、その美徳と悪徳との時間同一性である。我々は美的自然の統一性を開放的統一性としてだけ理解してはいけないのであり、人をうろたえさせるような統一性としてもまた理解しなければならない。我々は、美的自然の開放的現前と人をうろたえさせるような現前との間を延びる稜線がどれほど幅狭いものでありうるかを理解せねばならない。

2014年5月10日 (土)

マルティン・ゼール「自然美学」(27)

c.別の時間

初めの三つの章は、美的自然の通常の事例を語ったのではなく、それぞれ単独に例外的事例を論じたものである。例外的事例でしか自然は観照的もしくは照応的、想像的に興味をひかれない。しかしこれら極限概念は、自然美の総体に至るようなものである。自然は、観照の空間と照応の場所と想像の舞台が時間的同一的に開かれている領域である。この時間同一性には二つの面がある。すなわち、一つには諸々の美的魅惑の共存、もう一つにはそれらの美的魅惑の間で交互に起こる知覚遂行である。自然美の「相互作用」現前は、時間的同一的に現存する自然美の諸々の魅惑に対する交互的注意の中で生起する。これらの魅惑が時を同じくして与えられ、時間同一的に存続すると把握される時、自然それ自体が美的な相互作用の状態にある。自然の現象は、意味疎隔的形態・意味付随的形態・意味画像的(象徴的)形態の間でめまぐるしく変化する。

我々が見たように、自然の照応的現出だけがある特定の感覚において自然知覚の時間に依存せずに与えられるが、逆に自然の観照的現出と自然想像的現出はそうでない。つまり、照応知覚だけが、ある土地やある対象のある一定の度合いまで客観的かつ持続的な属性であるような質を発見する。それとは対照的に、観照的知覚と想像的知覚はこの持続情態をその雰囲気的与件もろとも突破し変化される。照応的知覚は、あらゆる雰囲気的潤色にもかかわらず残存し、あらゆる雰囲気にもっぱら駆り立てられる特性の発見もしくは現前化である。それに対して観照的知覚は、現象の瞬間的与件を不純物なしに現出させるものである。最後に投影的知覚は、任意の時間での即興的仮象を産み出すものである。照応的に解釈された時間の内部では、照応は自然の純粋な時間を目立たせ、それに対して投影は自然の虚構的な時間を目立たせる─これが一つのありうべき記述である。観照を通じて接近できる純粋な出来事を、存続物に方向づけられた照応知覚は覆い隠し、その恣意的時間で方向づけられた想像は戯れて巧みに隠す─これが第三のありうべき記述である。照応の持続と観照の純粋主義とは、想像が戯れる時間を失効させる─これが第三のありうべき記述である。これらの記述のどれもが自分以外のものと同程度に好ましいこと、自然に対する美的な相関について語られる時、これらの記述のどれも自分以外のものを欠いてはならないこと、自然に対する美的な相関について語られる時、これらの記述のどれもが自分以外のものを欠いてはならないこと、これが自然の全体の洞察である。三重の記述は、諸々の美的次元の相互作用が自然の中でどのように行われるかを今一度明らかにする。つまり、それらの美的次元と結合した態度の相互交替的な変転のなかでどのように行われるかである。たとえ自然知覚の三つの可能性が同一的に前面に出られはしないとしても、それらの可能性は自然において同程度に明らかであり、包括的に美しい自然においてはそれらがただちに満たされている。しかし、自然美学的な魅惑の時間同一性をその魅惑の意味疎隔的・意味付随的・意味画像的という分節化の同一性から区別することに全てはかかっている。美的自然の本来的魅惑は、相互依存的であるにもかかわらず通約不可能な美的自然の魅惑同士の同時存在のうちにある。その目印が、同一性なき同時性である。

美的自然の時間-統一性の分析は、それと同時に自然美の特殊な現前の記述である。この現前はその他の時間形式とは区別された時間である。美的自然の時間は、直線的に計画される時間でもなければ神秘的に揚棄された時間でもない。たしかに個々の自然の可変性は、計測される時間のなかでの変化として─ある瞬間から別の瞬間へと生起する何かとして─記述されうる。しかし、この可変性は自然の美的状態を満たすものでは全くないことが分かった。そのとき自然の可変性は時間の中での直線的経過ではなくて、統覚による多方式遂行の等価物である。自然の中でこの遂行が目のあたりにするのは移ろいゆく所与の充満であり、それは一般には計測不可能で、直観的に追跡されるしかない。美的自然の時間は、この知覚遂行への固執であり、滞留であり、「没頭」である。このことのうちに、自然の瞬間とは、世界が脱時間的状態で経験される神秘的で忘我的、突発的な瞬間にほど遠いものであることが既に含まれている。自然、とりわけ観照的に直観された自然が、強い意味での「瞬間」の卓抜な場所であるにせよ、それでは自然の特殊な美しさは捉えきれない。ラディカルな美的感覚は自然の中に、時間の外に出る道を探すのではなく、別の時間へ至る道を探す。つまり、生きられた世界に対する相反する諸立場を同時的に経験するような時間に至る道を探すのである。「永遠の相のもとで」でなく、つまり永遠性の観点からでなく、「はかなさの相のもとで」、つまり生きられた世界の有限性に払われる注意から、自然の美的資産は開陳される。

時間経験の両極端の比較だけでなく、自伝的時間と社会的時間の比較においても、自然の美的資産は開陳される。時間経験の両極端の比較だけでなく、自伝的時間と社会的時間の比較においても、自然美の現前は一つの「別な時間」の現前である。したがって美的自然の統一性の時間-規定は第一章の中心的空間-規定をも要約的に再定式化するものである。自然美は時間同一的に、照応の饒舌な空間であり、想像の分断的な空間であり、観照の空虚な空間である。(したがって自然美を帯びる事物は時間同一的に、意味付随的な意思表示であり、意味画像的な記号であり、意味疎隔的な現出である)。しかしこれは、何はともあれ自然美の意識が、独自の生の形式の現前や拡大への照応的関心には決して制約されないような比類ない生の可能性でもあるということである。自然に対する美的関心を了解するには、こうした第二の秩序の実存的関心が了解されねばならない。自然は美の照応もしくは崇高の照応における没意図的な照応の領域と見なされるだけでなく、同じように美もしくは崇高の想像における芸術の予期せぬ変異の領野と見なされ、まさしく同様に美もしくは崇高の観照における外的ならびに内的な表出形式の履行の区域と見なされる。これと対応するのが以下の自然美の詳しい定義である。

自然美とは、我々の事物の見方や我々の生の構想の直観的増強であると同時にその直観的呈示にして直観的一時停止であるような、当該の生活世界的現実である。

今はじめて、自然の肯定的な偶発性が全体として理解可能となる。自然の美的な首肯は、人間的自由の首肯の一形式である。我々は三つの次元の共存において、ある何かのために自由であると同時にある何かのなかで自由であるようなある何かの自由と言う三重から成る自由の状態に関わる。自然美の知覚が解放されるのは、思考と行動の強制からである。思考と行動の強制が何のために解放を行うかと言えば、それは、これらの強制の彼岸にある遂行志向的な活動存在のためである。我々は、肯定的に照応する自然において、我々の物的及び心的な欲求と対立する外的な生の現実の抵抗から自由である。自然は、独自の生命表象が知覚によって豊穣になるさい、生命遂行の自由を開示する。特定の見方というものは自分の生や歴史的世界や想像によって生み出された芸術作品それ自体に備わるものだが、想像的に魅力的な自然の内にいるとき、我々は、その特定の見方に束縛された状態から自由である。自然は、意味付随的に体験された現実の表現範型の変容や違反の自由を開示する。観照的に観察された自然において、我々は了解の方向づけの強制すべてから自由である─自然は、忌の捕捉から諸感覚そのものを解放し、これにより、まったく目標を持たない存在であるがゆえに全面的に遂行志向的な存在の自由を開示する。解放と開示の関係は、美的に構成された三つの生の可能性それ自体にも当てはまる。これらの可能性の各々が自分以外の可能性による制約強制から解放され、自分以外の可能性との緊張において、世界に対する根本的に異なる立場同士の自己充足的な相互作用の時間を開示する。以上によりも美しい自然とは自由な活動存在で満たされた時間の空間であることが判明する。

2014年5月 9日 (金)

マルティン・ゼール「自然美学」(中休み)

途中でラファエル前派展の感想で中断して、間があいてしまったので、これまでのあらすじを簡単にまとめてみました。

美学は、それを目的とした知覚作用の可能性及びその形式を主題化するが、このとき「それ自体を目的として」に対応するのが「美しい」という言葉の意味する内実に他ならないとされる。したがって「それ自体を目的として」気に入るもの、換言すれば、「それ自体のために」気に入るすべてのものが「美しい」のであり、しかもこの「それ自体を目的として」ないし「それ自体のために」はそれ以外の目的のための手段とはならないことであるわけだから、「それ自体のために」気にいるものはすでに道具的連関を離脱して「非道具的」な固有価値を持つということになる。それゆえ、「それ自体のために」気に入っている当のものを知覚すること、別言すれば、「美しい」対象を知覚することは同時にそうした対象の持つ固有価値を尊重して承認することでもある。

こうした知覚が「意味疎隔的」知覚であり、それはまた「観照」にほかならない。つまり、「観照」はそり対象の概念的把握や道具的有用性への関心を度外視してこの知覚の遂行そのものに集中する感覚作用であり、対象として現れてくるすべてのものをありのまま受け取る美的態度である。この「観照」は「無関心性」を特徴としており、その対象は何かに限定される必要はなく、人工物でも何であっても論理的にはかまわないはずである。ところが、「自然」が意図を持たず意味にもなじまないという「非道具的」な意味での「目的自体」であってそれだけで満足を与えるがゆえに、あるいはさらに「自然」が自立的に変化して我々の感受性には制御しきれないほどの自由さと豊かさを「偶然性」として提示するがゆえにまさに「無関心的」な「観照」へと我々を誘うという理由で、そうした対象を「自然」に限定する。この地点で「観照」における「自然美」の優位が確立され、「自然の美的感覚」が、「美的知覚一般」にとって根源的であり範例的となって自然美学は美学であるとともに、何よりも自然を対象とする自然の美学でなければならないことになる。

こうした「自然の美的観照」が「自然の美的承認」にほかならない。「観照」は「承認」なのである。この「美的承認」としての「美的観照」において美的経験が成立して、自由で豊かな自然と出会うことになる。しかも、自然が提供するこの自由さと豊かさは人間の制御を超えているので、自然の現象は人間の感官には処理できないほどの多様で馴染みのない偶発的な現象として、それゆえに「戯れ」として現出する。しかし、自由で豊かな自然を観照によって戯れとして美的に経験することには、自然の一部分として自然と連続的である身体に基づく自然経験と自然の異質性の経験とが含まれることになる。

2014年5月 8日 (木)

マルティン・ゼール「自然美学」(26)

b.距離の弁証法

二重の距離は、美的自然知覚の地盤であるが、必ずしも喪失として経験される必要はなく、獲得して経験されることもある。この距離による獲得の所在は、日常的実践と美的自然知覚形式の連関からもっとも明瞭に読み取れる。この連関は二つの面から記述されうる。つまり、自然に対する我々の態度の面から、そして魅力的自然がこの態度に提供する質の面からである。

「感覚に対する感覚」─ほぼこれが美的距離の一つの基本定式である。この定式のはじめの語句で言われる美的な「感覚」とは、何かを聞き分ける感覚であり、諸感覚と一体になって何かに熟達する感覚である。しかしこれは、観照の探求でわれわれが学んだように、つねに何かを了解する感覚であるわけではない。従って、この定式の後ろの方の語句言われる「感覚」、つまり美的感覚がそこに差し向けられる「感覚」とは、つねに了解可能な意味連関であるわけではなく、場合によっては諸感覚の束縛されない活動に存在に過ぎないかもしれない。想像の分析では以下のことが明らかになった。つまり、特定の芸術作品の投影において美的感覚は全面的に自己自身へ差し向けられる。そのとき美的感覚は美的感覚のための感覚となる。たいていの場合、美的感覚は、ただちにもしくはとりわけ、世界を形成する意味地平の知覚へと向けられているのである。それとは対照的に照応的知覚では美的感覚は、実存的に現前する感覚に向けられている。またしてもすでにこれが、生活世界的実践に対して美的直観がとる三重の距離─禁欲的・超越的・内在的─である。自然の疎遠さは各々で別様に出現する。

観照的自然直観は生活世界的実践の方向づけから手を引く。観照的自然直観は自然の疎遠さをこの実践の組織立てに対する抵抗力として経験する。このことによって観照的自然直観は─我々の世界の見方の刻印を帯びた現象をしばらくの間我々の事物の見方の外部に見ようとする試みにおいて─感覚的予期すべてに対して禁欲的に振る舞うことができるようになる。─その逆に照応的自然直観は、自然との出会いにおいて生活世界的方向づけを強めようとする。照応的自然直観は自然の疎遠さを独自の生の形式の拡大や越境、損壊として経験する。このとき自然の疎遠さは自分の実存に対する肯定的もしくは否定的な反響のうちにある。ここで美的距離は生活世界的方向づけそれ自体への距離ではなく、たんに参加者を意識したり直観したりする余地を人間に許さないような実践の遂行対する距離でしかない。─このような内部的状況知覚とは対照的に、自然の想像は、世界のありうべき状況やありうべき見方を外部的に直観するものである。ここで自然の疎遠さは、芸術の未知の視点や形式に対する反響として現れる。自然の現実性は美的な世界解釈との「超現実的」な戯れだと判明する。

自然との観照的出会いでは生活世界的実践に対する最大の距離が支配的であり、照応的出会いではその最小の距離が、想像的出会いでは中間の距離が支配的である。美的直観に自然が、ある時は意味疎隔的に、ある時は意味付随的に、ある時は意味画像的に供与されるというのはもっともな話である。想像と照応の両方は自然の行為空間から後退し、不断の行為空間では現象に至れない何か─世界の見方を差し引いた世界の事物─に向かう。従って照応的内在と比較すれば、想像と観照は、全く共犯─しかしそれらの間に乗り越えがたい不信が支配するような共犯─である。だからここでもやはり、照応と想像の間や観照と照応の間同様に、第三の大きなこととの比較で与えられた並行性が交互的な反発と結合されている。自然の完全な美的知覚に必要な距離は、非-美的な実践にだけ該当するのではなく、美的な知覚実践それ自体にも該当する。美的距離のあらゆる形式は自分以外の諸形式に対してとる距離から生命力を得ている。

観照的自然知覚に属するのは、この自然知覚もまた、観照にかかわる美的な意味造形(象徴化)の形式と想像にかかわる美的な意味造形(象徴化)の形式とを隔離し得ることである。照応的知覚にあるのは、それが観照的な隔たりと想像的な隔たりから隔てられることである。投影的自然知覚には、それが観照的中立化の隔離と同様に実存的包含存在の隔離をも行うことが含まれる。これらの新規に定められた規定には肯定的な裏面がある。これらの規定は、自然との美的な出会いとの対立の各三方式の同一性の条件を定式化するものである。これらの出会いは各々、自分以外の出会いとの対立においてはじめてそのあるところのものである。美的自然の各三視点は自分以外の視点との違いではじめて完全な照度を獲得する。自然と美的に向き合うことの各形式において─自然の魅惑それぞれにおいて─自分以外の形式が無言で待ち伏せているというのはそのためである。我々が自然に直面してなしうる直観方式の一つだけにとどまることがめったにないのはそのためである。ボーデン湖を観照すること、優美な土地としてボーデン湖を享受すること、芸術を介して与えられた知覚方式の鏡映としてボーデン湖を観察すること、これらが合わさって湖水風景の魅惑のための注意を表わす。これらの知覚方式の交互作用の内にあってはじめて自然の現存全体が具体的に示される。自然の諸々の美的次元は還元不可能であるのに応じて、それだけ相互依存的でもある。美的距離の弁証法は美的自然の基本法則である。これが、美的自然の構成的な自立性と可変性の美的意味を名指すものでもある。自然は、我々が美的態度において自然にあてがう役割の一つに縛り付けられる必要は決してない。自然の可変性に美的に対応するものとは、自然の観照的・照応的・想像的な現存の相互作用である。

美的知覚方式の相互作用においてのみ、我々は自然の過程性の下に制限なく存在することができる。多方式での美的距離のみが疎遠さへの接近を可能とし、人間以外の自然の出来事の承認を可能にする。従って、自然の所与性の相異なる仕方に戻って美的自然の統一性を探し求めるのを我々が避けて通らなかったことは少しも不思議ではない。というのも、この相違が統一性だからである。自然の自立性と自然の可変性の共通な連関点かせ、それ自体はいかなる共通項にも至らないような一つの統一性を作り出すのだ。なぜなら、その統一性だけが相異なるものの共存にあるからに他ならない。自然の統一性は、自然の魅惑の同一性を我々に恒常的に拒むことにその本質がある。この恒常的なことが肯定的なこと、すなわち、われわれの「感覚のための感覚」の自由な解放である。

2014年5月 7日 (水)

マルティン・ゼール「自然美学」(25)

第4章 自然知覚の時間

自然はその現出の戯れや生の形態や芸術の画像として、美または崇高である。我々は我々が自然によせる美的関心を三度考察し、そのつど別の自然が我々の前に姿を現した。いつ我々が美的自然に出会っても、そのたびに真の自然がわれわれからすり抜けていった。しかし、三つの自然知覚の基本形式だけでは自然の魅力を充分に解明することはできない。三つの自然知覚の基本形式だけでは自然の魅力を充分に解明することはできない。三つの美的次元かが自然の領域で重なり合う仕方、それらが自然との出会いで共存する力、これが、我々の体験に対する自然の本来的魅惑をなすものである。

はじめに自然の統一性の問題がある。この統一性は、これまで論究してきた視点に優位する何かとしては了解され得ず、それらの視点の相互作用の内にある。美的自然の統一性の規定は時間規定としてしか与えられない。それらの基本様相は、制約のない自然知覚の時間では時間的同一性に現前する。他方また、この同時性は、どちらかと言えば美の共存の特性もしくは崇高の共存の特性を持ちうる。しかし、最高の形式の自然美は、この二者択一の彼岸に存在するものであるから、この自然美の状態は両義的でありつづける。自然の美しさは自然の美的両義性からのみ了解されなければならない。美か崇高かではなく、このように自由である自然のみが、自然の美しい/崇高な現前の舞台でありうる。このような自由の概念が、我々がこれまで長いこと避けてきた現象の適切な記述を可能にするのである。その現象とは、美的風景のことである。

1.美的自然の統一性

a.肯定的偶発性

この統一性の手がかりをつかむ一番簡単なやり方は、三つの基本的魅惑の記述の根底に共通して存在する諸規定を拾い集めることである。その諸規定は見るも明らかである。三つの端緒的考察のどれにおいてでも、自然らしい現出の変化可能性や自立性、その美的受容に必須な特定の距離が話題であった。

自然美に対する感覚が必要とする隔たりは、文化と同様に自然にも当てはまる。ある文化に対して隔たりがあるということは、その文化において既に自然に対してある一定の隔たりが与えられているということである。つまり、「問題提起的」自然を持つ文化に対する隔たりとかねその文化への実際的関わりに対する隔たりである。しかし、隔たりに代えてこう言ってもいい。つまり、疎遠さである。美的な自然知覚の第三の条件とは自然及び自文化によせる根源的もしくは日常的な信頼であろう。自然美に対する好感とは二重の疎遠さの好感であろう。

自然美とは自然の肯定的偶然性である。しかしすぐさま、そしてまさしくこの点で、一方で(肯定もしくは否定)形而上学の道と他方で自然美の卑俗な分析の道とが分かれる。つまり、この美的肯定の三形式が区別されねばならないのである。第一の場合、一見偶然的としか見えないが、美的直観では意図にあふれていると開示されるものを首肯することから、自然の魅惑は了解される。これが肯定形而上学的なヴァリエーションである。第二の場合、自然美は、その偶然性を(それが偶然的なものとして意識されているにもかかわらず)美的直観において克服するように見えるものを肯定することから了解される。これが否定形而上学的なヴァリエーションである。第三の場合、偶発的であれ、かつ、この偶然性から自らの特質を展開するものの是認から、自然の魅惑は了解される。これが、我々の分析から判明するポスト形而上学的な立場である。自然の美しさが明らかにするといった有意味な幻影もしくは仮象等は必要でない。

対照的に、自然の疎遠さは自然の美的な楽しみを引き上げる。目的従属や意味了解から距離をとった立場から自然が偶発的な出来事として直観されること、それが、自然の疎遠さを自然として承認することである。疎遠さの契機が、相異なる三つの次元の何れにおいても決定的役割を果たしていることが思い起こされねばならない。自然の純粋な観照では、なかでもない意味疎隔的な自然現出の充実が重要である。崇高の照応では自然の疎隔さが独自の生の誘惑的可能性として出てくる。そして、自然との一体感や自然への信頼感が実際にそこで与えられる美の照応こそ、その特殊性が自然照応として忘却されたままと言わないまでも、「歓迎すべき」疎遠さの状態として把握されねばならない。自然との宥和は、自然とのかかわりなしでの宥和ではなく、現存する自然と直面しての宥和であって、率直に言えば、達成された偶発性と疎外の状態での宥和だと言える。照応的に美しい自然において我々は上述のような二重の偶発性や二重の疎遠さと宥和している。

疎遠さが美的自然の本質をなすというテーゼは、形而上学的な自然美理論の重要な洞察の一つである。すべての伝統的な理論、そもそも真剣に受けとめられるべき理論すべては、自然美を、人間の自覚的にして自己統御的な実践の肯定的限界と見ている。しかしも近代における美的な自然経験の意味とは、本質的観点ではいかなる意図からも発しない何かと対面するということである。自然それ自体にはいかなる意味もない。だからこそ美的観察の時間を自然に捧げることは、我々にとって意味がある。

2014年5月 6日 (火)

ラファエル前派展 英国ヴィクトリア絵画の夢(9)~6.美 Beauty

ラファエル前派のシンボルのひとつが最初に見たミレイの「オフィーリア」であり、もうひとつシンボルが、ここで展示されているロセッティの女性を描いた作品だと思います。その二つのシンボルは、ラファエル前派の両極端で反対に対峙していると思います。1860年ごろから芸術のための芸術という唯美主義的な風潮が広がり、ロセッティは水彩画から油絵に復帰し、女性の上半身に官能的な肉付けを添え、宝飾品と花とで美しく飾った姿をクローズアップした多数の作品を制作しました。濃厚で深い緑、青、濃い赤といった色彩がめくるめくように鮮烈に使われ、ラファエル以前の初期ルネサンスというより、もっと派手にバロックとかヴェネチア派の作品のような絢爛さに近くなってきます。私の場合には、ロセッティといえば、このような女性を官能的に装飾豊かに描いた作品、ひいてはラファエル前派のイメージもそのようなものがあります。また、唯美主義の風潮の中でオスカー・ワイルドのような世紀末の退廃的な傾向を体現した人達がサロメに象徴されるファム・ファタールという官能的な女性のシンボルを作り出し、その影響を受けながらロセッティの描く女性のイメージが様々に受け入れられ、付加価値を高めていくことに伴い、性的な魅力として人々に衝撃を与えるものとなっていったと思います。このようなこともあって、ラファエル前派が世紀末のヨーロッパ各地で勃興した象徴主義的な絵画芸術運動の先駆けとして、見られることもあると思います。

Preraffaros5 「モンナ・ヴァンナ」という作品。この作品を見れば、禁欲主義とは正反対のものであることは明らかだろうと思います。タイトルが虚栄の女という意味らしい「モンナ・ヴァンナ」ということで、多少は警句てきなこともあるのかもしれませんが、むしろその煌びやかさを描いているようにしか見えません。贅沢に金糸の刺繍をあしらった白地のドレスに身を包み、雷鳥の羽根製の扇を気だるげに片手に持ち、もう一方の手で太い首にかけたサンゴのネックレスを弄びながら、冷ややかな眼差しを送っている。実際のところ女性の顔の表情は無表情のように見える、内面の感情を推し測れない。それが、外面的な装飾を引き立てているという解釈もあると解説されています。アクセサリーに目を向ければ、怪獣の頭をモチーフにした金の腕輪や緑色の葉をかたどった指輪と耳から下がるイヤリング、のど元に巻きつくように下がるハート形のクリスタルのペンダントなどが彩りを添えています。このような外面的な装飾という目で見れば、アクセサリーや衣装だけでなく、この女性自体についても、そのように見ることができるでしょう。官能的な肉体として女性を見るという視点です。この作品でモデルを務めた女性は特定できるとのことですが、顔の特徴をみれば、尖った感じの顎に肉厚の唇に濃い紅を塗って強調し大きめで被さるような鼻の上にはキツメでつり上がり気味の眉があり、意志的で強い光を帯びた黒目がちの目が光っている。その上には波打つような豊かな金髪がある。肉体は肉付きがよく、それは首の太さから窺い知ることができる。ここにロセッティの描く女性の特徴てきな顔や肉体のパターンが表われているといえます。そういうパターンに目が行くということは、この女性の表情とか内面の感情とかいうものよりも、視線は女性の外面である肉体へと向かいます。それが、この絵に対しての官能的な見方に誘われることになります。ロセッティの他の女性を描いた作品を見ると分かるのですが、このようなロセッティの描く女性の顔というのは特徴的で、一目でロセッティの作品と分かる差別化できるものです。そこには、多分外観としての女性の顔というところでユニークな突出をして差別化した一種のブランドのようなものとして確立させていたと思います。この女性の顔つきはロセッティのもので、それは官能的というイメージを促進させ、ブランドとしての付加価値を煽っていく。その相乗効果でロセッティの描く女性のイコール官能的というイメージが定着していった。そして、個々の作品にいては様々な意匠を凝らすことによって、個々の作品の違いを際立たせる。言うなれば着せ替え人形のようなものです。着せ替え人形に内面を匂わす表情とか感情を込めてしまうと、方向性が限定されて着せ替え人形としては意匠の幅が狭くなってしまいます。そのため、顔は徹頭徹尾外面的でなければなりません。

Preraffaros6 そのような中で「ベアタ・ベアトリクス」は異質です。全体的に輪郭を曖昧にしてぼんやりとした感じにして、特に顔にたいしては他の作品とはアングルを明らかに変えていて、しかも顔のセールスポイントである目を閉じさせています。全体の色遣いについても鮮やかな色を際立たせる派手な効果もなく、むしろ色を混ぜて全体として鈍い感じになっています。方向生々として、他の作品では差別化というのか違いを際立たせて目立たせるというのは、反対に、同質化というのか混ぜて一緒くたにした、その混ぜ合わさっている境界があいまいになってぼんやりとした、という方向性です。そこでは、彼我の区別も曖昧となり、現実とも非現実とも分けられないゆめうつつの夢幻的な雰囲気です。解説などでは、亡くなった妻と、ダンテの『新生』のベアトリーチェのイメージを重ねて、様々な象徴的な意匠をほどこしてシンボリックな作品になっている、ということがよく言われているようです。しかし、同時期のロセッティの女性を描いた作品に比べて、薄暗く、薄ぼんやりとした画面で、のけぞるように上向き加減の顔で、口を半開きにして目を閉じている様は、恍惚としているように見えます。それは、性的な隠喩と考えれば、まさにエクスタシーの瞬間と見えなくもありません。ここで描かれている女性の顔にも手にも肌の色等に生気が希薄な鈍い色になっているところで、その象徴性をさらに強くしています。つまり、性的なものというのは生と死のせめぎ合いでもあるからです。フロイトがエロスとタナトスといって生と死を対にして扱ったこともそうですし、性的な行為はしばしば生と死の隠喩で語られるものです。その結果の最たるものが受精という新たな生に関わるものでもあります。その意味で、決してあからさまにではないけれど、そういう見方もできるわけですし、あからさまではないということから、この作品を部屋に飾ることも気兼ねなくできる、というものになっていると思います。また、解説に説明されている通りに、神秘主義的で象徴主義的な作品として見ることも当然できるわけです。一般には、ほとんどの人は、そう見るでしょうけれど。いずれにせよ、この作品はロセッティの特徴を突き詰めたものとして、このラファエル前派展の前半がミレイの「オフィーリア」が代表していたとすれば、後半はこの「ペアタ・ペアトリクス」が代表していると思います。

Preraffaros7 「プロセルピナ」という作品です。この展覧会ポスターにも使われた作品です。黒い髪の毛が印象的で、衣装の濃い紺色で、肌の色との対比、そして唇とザクロの赤が強く目立つ作品です。ギリシャ神話に題材をとったタイトルで、それらしい意匠になっているといいますが、黒髪と濃い色の衣装の隙間にほの見える肌の首と背中のラインは豊満で官能的な肉体を暗示しています。「ベアタ・ベアトリクス」のぼんやりとした夢幻的な画面に比べると、こちらはくっきりとしています。むしろ、色を対立的に扱って緊張感をあたえ、顔や首などの肌の白を際立たせ、視線をそこに集めるようになっています。その特徴的な顔こそがロセッティのロセッティたるゆえんとなっている。

 

ラファエル前派展 英国ヴィクトリア絵画の夢(8)~5.詩的な絵画 Poetic Painting

Preraffaros3 展示は、ここで休憩のようなロビーがあって、後半にはいります。このロビーのようなところでラファエル前派の画家や関係者の人物紹介や複雑な人間関係の相関図のようなものがパネルに展示されていました。私には、邪魔という目障りで、この程度のものにそれほどスペースを割く必要があるのかと疑問に思いました。それなら人気のある作品に人だかりがしているのだから、作品を展示するスペースをゆったりとってほしい。最初にも少し話しましたが、受付窓口といい、ロッカーといい、入口に立っている案内者の態度といい、来館者への配慮がなされていないと思われる点が多いと感じました。あまり、美術作品をゆっくり鑑賞するための居心地のいい環境ではないことは確かだと思います。

後半に入って、ラファエル前派の大看板、ロセッティの作品が多くなってきます。2.宗教のところでのルネサンス初期の画家に倣ったような簡素な画風から、変化をしていきます。1850年代後半、主に水彩画で中世を彷彿とさせる装飾豊かで彩り鮮やかな室内の描写と、長身、蒼白、痩身の鮮やかな衣装を着た女性を描いたものが目立ちます。そして、この動きに触発されるように、若い第二世代の画家たちが、創設者世代を乗り越えて装飾美術に踏み込み、より神秘的で論議を呼びそうな主題を取り上げていくようなっていくと言います。

Preraffaros32_3 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの「青い小部屋」という水彩画です。サイズは約35×25㎝と小さな作品です。背景の壁面の青いタイルはアラビア建築でよく用いられるものでしょうか、中世スペインの建築でよく見られるものですが、その中世風の景色を精緻を極めるように細かく描いています。そして、その印象的なアラビアン・ブルーとの色彩のハーモニーを考えて、4人の女性の衣装の色がそれぞれ鮮やかに引き立てています。全体としての構図は、クリュニー美術館展にあったタピスリー「聴覚」によく似ているようです。ロセッティがこれを見たとは思えませんが、中世には、聴覚とか音楽についての図案の一つとしてあったのかもしれません。2人の女性が楽器を奏で後ろの2人侍女が歌っていというる象徴的な図柄が、音楽という目に見えないで、感情を掻き立てる神秘的で官能性に富んだものの暗示として、ロセッティの幻想への指向に適合した、ということでしょうか。ここでの4人の女性は音楽に酔っているかのよう虚ろで、右手前の金冠を載せている女性の横顔は楽器に寄りかかっている風情は、どこか後の「ペアタ・ペアトリクス」の表情を想わせるところがあるようにも見えます。ちょっと、こじつけかもしれませんが。以前の宗教のところで見た、マリアが感情がわかるような明確な表情が見て取れたのに対して、ここでは、そういう人間的な明確が曖昧になり、逆に、手前の植物を精緻に描いたりと、象徴的な小道具を強調していくことで、リアルっぽく描いているように見えて、実は現実的でなく象徴性に富んだものとなっているものになってきていると思います。

Preraffaros4 「薔薇物語」という水彩の小品です。背景の模様と薔薇の生垣、そして天使や人物の衣装の模様が細かくて、似ているので目にチラチラするようです。それが平面的で、かつ幻想的な画面作りに貢献しているようです。13世紀フランスの寓話をもとにしているということですが、夢の中で主人公は美しい庭園を訪ね、薔薇の蕾を目にしたところで、キューピッドの矢に射抜かれるという話だそうです。「青い小部屋」以上に細かな模様や生け垣の薔薇が精緻に描かれ目立ちます。そして、他方では、人物の描き方に厚み、立体性が加わってきて、肉体を備えた人間になってきています。そのような肉体を持った人間の接吻には、中世的な愛の寓意だけに留まらない、肉体的な官能性が感じられるものとになってきているのではないかと思います。男女のポーズもそうですし、二人の指を絡めるようなところを細かく描き込んで、その仕草によって官能を匂わせていると私には見えます。そして、二人の背後で見守る天使の顔は、後年の官能的な女性の肖像の顔を想わせるのです。下あごとか厚い唇とか尖り気味の鼻といった特徴が見え始めているように見えます。結果としてということでしょうか、ロセッティの中世とか初期ルネサンス指向というのは、もともとそういうものを指向し倣ったというよりも、ロセッティ自身の絵画世界の指向するものが、本人が気づいていたかどうかは別として、もともと存在していて、それに本人が気が付くプロセス、そのための手段としてあったというのではないか、と思います。

Preraffasolo シメオン・ソロモンの「ミティリニの庭園のサッフォーとエリンナ」という作品。ロセッティの「薔薇物語」と似た構図です。ロセッティに比べると構成の弱さというのか、ガッチリしていない感じがします。抱擁する2人のポーズはロセッティよりも柔らかな感じはしますが、構図として決まっていない。そこに一種の退廃を見ることは可能かもしれません。ロセッティに比べて異教的な色合いが濃くなってきていることと、身体の輪郭を匂わせる一種のチラリズムが見て取れます。その一方で、背景の草や鳥、鹿や象徴的なアプロディテの彫像が細かくは描かれているのですが、浮いているというのか、目だって来ません。ロセッティの場合には、背景の存在の主張が強かったことから画面に対立的な緊張感が生まれていたのですが、ここには、それはなく弱弱しい感じがします。その弱弱しい感じが、耽美的で、退廃的なムードを醸し出していると言えるでしょうか。その中で、左側の人物の物憂げな表情は、官能性を強調しています。これを初期のラファエル前派の作品と比べてみると、異質なのは明らかと言えるかもしれません。

Preraffajones エドワード・バーン=ジョーンズの「クララ・フォン・ボルク1560年」と「シドニア・フォン・ボルク1560年」という水彩画です。人物の、とくに顔に描き方などでは、後年の彼らしい特徴てきな顔になっていませんが、多少、ここで見たロセッティの描く顔の影響から脱しきれていないようにも見えます。解説では、七宝細工的な文様は素材の枠を越えた作品作りとしてバーン=ジョーンズの作品の特徴と説明されています。それよりも、描いたものを一つのまとまった作品、というよりも商品とか製品として高い品質で仕上げるということについては、ロセッティに比べてはるかに巧みであったということが、このような未だ画家として発展途上にあるときから、見て取ることができると思います。それは、ラファエル前派の創始者の世代の画家たちの中のミレイと、彼以外には、見られない特徴であのではないかと思います。そしてまた、ラファエル前派が登場した時に批判したラファエル主義という芸術家というよりは絵画職人という画家のあり方に、彼こそはむしろ近いものではなかったのではないか、と思ったりしています。

2014年5月 4日 (日)

ラファエル前派展 英国ヴィクトリア絵画の夢(7)~4.近代生活 Modern Life

Preraffahant ラファエル前派兄弟団が結成された1840年代には、イギリスの知識人の中で、経済や社会の進歩に対する信頼に疑問を持つ人が現れ始めたといいます。産業化以前の世の中の方が、より健康的で、平和で、精神性が高く、美しかったのではないだろうか。機械時代のもたらす物質的な豊かさを得るための代償として大切なものを失ってしまったのではないか。そこで、ノスタルジックな色合いを含めて中世の宗教に根差した文化や社会のあり方をひとつの理想を見出していく議論が生まれたと言います。それは、ルネサンス初期以前の絵画技法を指向するラファエル前派にも共鳴する部分があったと思われます。

その影響からか、ラファエル前派は風俗画に生真面目な倫理性を添え、近代生活に取材した挑発的な主題を取り上げて作品に鋭い批評性を与える試みをしていると言います。世間の習俗を描く作品は、福音主義の立場から堕落した人間の生き方と救済の必要性を説き、同時に義務と自助努力の重要性を訴えた寓話の形をとったといいます。これはブルジョワジーの信仰であるプロテスタンティズムが禁欲的な倫理を課していたことに適うことであったので、ブルジョワの家庭の居間に飾るということには格好のテーマだったかもしれません。

しかし、もともと、産業社会を強力に推し進めた資本家や企業家といったブルジョワジーの人々こそが、ラファエル前派の作品を支持し、購入する主な担い手であったと思われるわけです。そのブルジョワジーのなし得た産業化社会という成果に対する疑問を投げかけるということに、ラファエル前派の人たちは、自分たちの地盤を批判することにもなりかねない、そういう自覚はなかったのかもしれません。ヴィクトリア朝の道徳倫理というと後世からは表面的で、体裁を取り繕うものといった批判がありますが、社会にたいして倫理的なことを説く一方で、当の自分の立場については蚊帳の外において、とぼけている。そういうことになれば、説いている倫理とやらは薄っぺらなものになってしまうわけです。実際、ウィリアム・ホルマン・ハントの「良心の目覚め」という作品は、ブルジョワの愛人の女性の良心の目覚めを描いたもので、女性の虐げられた社会風俗に批判的な意味合いで描いた作品だったにもかかわらず、娼婦を描いたという見当違いの批判を受けることになってしまったといいます。そこには、画家ハント自身の倫理的な前提が中途半端だったために、タテマエを表面的に表わし、その底には、批判される対象と変わらぬ心情が流れていることを見る人が敏感に気付いたかもしれない、と思われるのです。

実際に、「良心の目覚め」を見てみましょう。とくに先入観とか、こういうテーマで描いているというような情報もなく、虚心坦懐に作品を表面的に眺めてみれば、軽薄な男女がいちゃついていると見える作品です。それは、描かれている男女ふたりの表情が、そういう印象を持たせるものだからです。とくに、女性については良心に目覚めた姿に見えるかというと、私にはそこまで描き込まれているとは思えません。「良心の目覚め」という題名と、この絵のテーマはこうだという説明を受けて、そういう絵だからという視点で見て。漸く、女性については、そのような良心に目覚めたところかもしれないと、そういえば、男性から離れようとしているし、目は遠いところを見ているようにも映ると、想像を逞しくしてはじめて、そう見えるかもしれない、という程度です。

全体として、ハントという画家は細かく精緻に、小道具を描き込んでいます。そこで、どうして女性の表情が中途半端なのか疑問に思いますが。男性は流行の服装に身を固め、女性の指にはことごとく指輪がはまっているが、結婚指輪をはめる指にだけははまっていないと言います。男性に対して女性の服装は着替えの途中のようなありあわせの服装で、愛人という立場の弱さを示している。室内はけばけばしい品で埋め尽くされ、そのことが、男の愛の皮相さを際立たせ。それらをハントは執拗なまでに細かく描いています。また、小鳥を弄ぶ猫、脱ぎ捨てられた手袋、女性の刺繍のもつれた糸などのディテールが女性の囲われ者の立場の危うさを暗示しているといいます。このような、細部に凝りに凝ったように細かな情報を詰め込みながら、当の女性の姿に、そういうものを感じさせる圧倒的なものが見られない。また、全体の雰囲気にも、そういう空気が感じられない。たとえば、この室内については空間性が感じられませんが、それだからこそ、狭い閉塞した空間として描くこともできたはずです。だからこそ、この作品にたいして倫理的に深刻なものというよりも、現代風俗を描いたと見られるか、倫理的なテーマであると見られたとしても深刻に受け止められるほどではなかったのではないか、と思われるのです。ラファエル前の主要顧客であるブルジョワジーの中には愛人を囲っている人も多かったのではないか、そのような人も、とくに気に咎めることもなく、この作品を眺めることができたのではないか。それだからこそ、この作品は受け入れられ、ハント自身の作品としても代表作として見られていると言えると思います。

2014年5月 1日 (木)

ラファエル前派展 英国ヴィクトリア絵画の夢(6)~3.風景 Landscape

Preraffacolins ラファエル前派の画家たちは独立した風景画をそれ程には制作していないと思います。あったとしても、スケッチとか習作とか、そういうものではないでしょうか。展示作品も、それほど多くありませんでした。しかし、自然の描き方には特徴があったと言います。批評家ラスキンの著述にも触発され、画家たちは緻密な観察とモチーフとの息の長い関わり合いを通じて、自然界を油彩で描く独自の斬新で正確な手法を確立した。ラファエル前派の自然の見方はほぼ例外なくパノラマ的な景観を避け、近くと遠くを一つにまとめ、すべての要素を等しく正確に描出する。1839年に写真が静止画として完成の域に達しても、画家たちはなお風景を顕微鏡で覗いたように精緻に描こうとする意欲は失わず、かえってさらに細やかな描写を求める傾向に拍車がかかる。これは、例えば、ミレイの「両親の家のキリスト」における窓の向こうの風景や「マリアナ」における窓に映る風景などに当てはまると思います。とにかく、眼の前に映るものを片端からできる限り克明に描いてしまおうというものだと思います。そのときに、風景を空間がひろがるとか奥行が延びるとか、そういうパースペクティブで捉えることをしなかったゆえに風景そのものを単独で取り出して描いて提示するということが、あまりなかったのではないかと思います。空間としてとらえるということには、そこに見る人の尺度が加わり、風景を構成するものに軽重の評価をして描かれた画面はその価値判断によって構成されることが、かれらの考え方にはそぐわなかったということが言えると思います。しかし、目に映るものをすべて描くといっても、目を向けるという制限が自ずとあるので、どうしても風景を限定して切り取ったようなものとならざるを得ません。人間の視野は限られています。だから、それを忠実に描こうとしたら画面と言う制約もあるのですから、言ってみれば箱庭のようなものにならざるを得ません。

チャールズ・オールストン・コリンズの「5月、リージェンツ・パークにて」という作品です。画面に空間を構成させるというのではなくて、風景を切り取って、その切り取ったものを忠実に描いたと思われる作品です。しかし、ある視点で風景を切り取って来るというところに、選択が働くわけで、その切り取り方について、画家に認識があったのか分かりません。しかし、その結果として出来上がったものは、まるで建設現場の建物の完成予想図のような、整理されたものになっています。人気のない公園は、短く刈り込まれた芝生をベースに、花壇、園路、道路、垣根、池が水平の列になって並んでいるのに対して、人物、柵の杭、木の幹の黒い垂直線とで図形のような秩序を形づくっています。それは、たしかに見方によっては、ルネサンス初期以前の遠近法が大きく導入される前の、神の秩序というような現実の空間とは違った平面的に整理整頓して事物を並べたような画面に通じるところがあります。ここにあるのは、現実の風景を描写するということをタテマエとして、手法として掲げながら、その現実とは何かというと、その現実を見る目にフィルターをかけていることに気づいていないか、そのことを見ようとしていない、ということです。ミレイやロセッティといったラファエル前派の有名な画家たちは風景だけを描いた作品というのは、ほとんどなく、人物を思い思いの設定で描いているため、いくらでも好きな衣装を着せたり、背景を意図的に設定したりということができました。しかし、このような風景画では、風景自体を人物のようにいじることはできないため、ラファエル前派の矛盾とまではいかないまでも、どこかチグハグしているところが綻びとして表われているのではないか、そういう作品として、この作品を見ることができると思います。

それはまた、ラファエル前派の作品を購入してくれる主なターゲットである、産業革命や海洋進出で勃興してきた新興のブルジョワジーにとっては、写実的な技法で描かれているので、何が描かれているのかを特別な教養がなくても理解できる分かり易いもので、描かれているものが、秩序正しい、いうなれば品行方正、お上品っぽいもので、しかも熟練度が高い、いかにも高品質というのが識別できるというものであれば、高い評価を獲得できるものであったと思います。

 

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