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2014年5月31日 (土)

マルティン・ゼール「自然美学」(44)

c.照応的生

虚構の知覚と同じように照応を意識した知覚もまた善き生の契機ではない。否定的な美的照応においては誤った自己自身の生の直観あるいは実現しなかった自己自身の生の直観が与えられている。この知覚の意味はそれ自身のうちに在るのではなくて、むしろ質の悪い生が居心地のよい生だと自分を欺かない努力のうちに見出される。それだけ一層、肯定的な照応の知覚の自己目的的特性は明らかである。この場合、美的直観は安寧の充実した表象あるいは開示された表象に向けられる。この知覚における注意が目指しているのは、この注意がなければ成り立たないもの、この注意がなければ実効性を持ち得ないものである。美的照応はしばしば、私だけに、そして短い時間だけ与えられているのではなく、同時に他者にも、そして持続的に与えられている。たしかに、特異で一時的な照応も存在するが、しかし、その表われは、一方では持続的であり他方では相互主観的にアクセスできる表現形式に由来の点で対立している。

全ての照応意識が純粋に主観的な感覚になるところでは、照応の破壊的な弁証法が起こっている。そうなると、美的照応手はもはや、実存的な存在の反照ではなく、もはや実存的な仮象の存立である。美的に産み出された照応をはじめから生と見なす危険である。この照応は生を虚構的に反映しているに過ぎないのである。照応的な生と虚構的な生との渾然一体化は実存のこの二つの様相の倒錯である。照応的な趣味感覚のもう一つの誤りは、自己に固有の状況を練り上げて完成させる試みのうちにある。相互主観的に照応関係もまたそのように倒錯する可能性がある。

コミュニケーション的照応と美的照応とは、うまくゆく生のなかで等しい重さを持った観点ではない。コミュニケーション的な生に参加することは自由な美的照応感覚の基礎であるが、しかし、その反対は成り立たない。美的照応に留まることが生の唯一の理想として完全に無意味であるならば、たんにコミュニケーション的な生の理想は端的に制限される。照応的な生のうちにコミュニケーション的な部分的理想は、照応的な生を思ったより貧しいものにするが、それに対して照応的な生のたんにコミュニケーション的な部分的理想は、照応的な生を不可能にしてしまうであろう。なぜなら、成功するコミュニケーションがなければ、うまくゆく生は存在しないからである。ここには、相互主体的な生の形式への美的でない参加は、成功する実践のその他の五つの基本的な観点に比べて、倫理的に優位であることが示されている。こうした非対称性は、倫理的なものの内部で美と善との非対称性が開示される地点である。

 

d.美と善の非対称性

このことを解明する前に、三つの美的次元の倫理的な記述からいくつかの帰結を引き出しておきたい。第一の帰結は、美的知覚の根本次元はそれ自体としても倫理的な方向づけの次元として理解されうるということである。観照的・想像的・照応的活動の美的意味のうちには、観照・想像・照応の何らかの美的ではない遂行のヴァリエーションが存在する。うまくゆくことを目指して遂行されるがゆえに善き生は、けっしてたんに美的な生ではない。第二の帰結も、最初に美的関係に即して見て取られた関係の普遍化を含んでいる。第四章で論じた風景理論の要点は、三つの美的魅惑のいずれも部分的価値としてのみ自然「全体」のなかでそもそも価値を持つ、と言い表すことも出来たであろう。本章でここまで通して論じてきたことの要点は、考察された善き生の六つの観点のうち五つは、部分的理想としてのみ全体としての善き生にとってそもそも価値を持つということである。第四章の結論は、自然との出会いにおいて美的に非相対的な価値を持つものは、差別化された魅惑との相互作用の─美しく崇高な─構造である、ということであった。ここでの結論は、人間の個人的生において非相対的な価値を持つものは、世界に対する差別化された位置と世界における遂行志向的な活動との相互作用─幸福主義的な─構造である。

こうして平行関係にしてみると、美と善との非対称性が明らかになる。それが露わになるのは、我々が、自然美という事例に触発されて出発点とした善き生の包括的な美的概念を、新たに記述するなかで手に入れた善の包括的な倫理概念と対比するときである。善き生の美的概念は、ここで明らかなように、善についての限定された倫理的概念である。しかし、善の美的了解と(完全な)倫理的了解との差異は、前者の美的了解から重要な観点が抜け落ちるという点にあるだけではない。さらに、美的評価においてはうまくゆく生の三つの次元が同等の権利を持っているのに対して、包括的な倫理的評価においてはそうではないという点にもある。包括的な倫理的態度は、コミュニケーション的な生の優位を承認する。つまり、そうした態度は、生に距離を取る形式に対してもコミューン的な生の優位を承認する。つまり、そうした態度、生に距離を取る形式に対してもコミューン的な生の門戸を開放しておくことが生き方の目標だと了解している。それに対して、美的価値の諸観点─ならびにそれらの相互作用─に制限されている生の理想は、想像的生や観照的生に対するコミューン的な生の優位を承認しない。なぜなら、美的価値に制限されている生の理想がそもそも何らかの優位を承認したならば、その理想は想像的生ならびに観照的生の観点のうちの一つであるだろうからである。善き生の包括的な倫理的理念は、うまくゆくコミュニケーション的関係の支持されている生の理念である。それに対して、善き生のたんに美的な理念は、生きられた世界の内部での態度の間で任意に行われる交換という理念である。このことは、包括的な倫理的態度の極端な変様として把握できる。しかし、こうした規定をほんの少しだけ精確にして、善き生の美的理念は生きられた世界の内部での態度どうしのあいだで一般的に(単に偶然にではなく)任意に行われる交換という理念である、と言うや否や、美的なものと倫理的なもののあいだの裂け目は決定的なものとなる。そうすると、美的なものは、もはや倫理的なものの内部での選択肢ではなく、倫理的なものの地平の外部における選択肢となる。そうなると(美的なものと倫理的なものの間に)厳密なあれか-これかが、しかも倫理的な生のすべての強い道徳的解釈に先立って妥当しているのである。

 

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