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2014年5月 9日 (金)

マルティン・ゼール「自然美学」(中休み)

途中でラファエル前派展の感想で中断して、間があいてしまったので、これまでのあらすじを簡単にまとめてみました。

美学は、それを目的とした知覚作用の可能性及びその形式を主題化するが、このとき「それ自体を目的として」に対応するのが「美しい」という言葉の意味する内実に他ならないとされる。したがって「それ自体を目的として」気に入るもの、換言すれば、「それ自体のために」気に入るすべてのものが「美しい」のであり、しかもこの「それ自体を目的として」ないし「それ自体のために」はそれ以外の目的のための手段とはならないことであるわけだから、「それ自体のために」気にいるものはすでに道具的連関を離脱して「非道具的」な固有価値を持つということになる。それゆえ、「それ自体のために」気に入っている当のものを知覚すること、別言すれば、「美しい」対象を知覚することは同時にそうした対象の持つ固有価値を尊重して承認することでもある。

こうした知覚が「意味疎隔的」知覚であり、それはまた「観照」にほかならない。つまり、「観照」はそり対象の概念的把握や道具的有用性への関心を度外視してこの知覚の遂行そのものに集中する感覚作用であり、対象として現れてくるすべてのものをありのまま受け取る美的態度である。この「観照」は「無関心性」を特徴としており、その対象は何かに限定される必要はなく、人工物でも何であっても論理的にはかまわないはずである。ところが、「自然」が意図を持たず意味にもなじまないという「非道具的」な意味での「目的自体」であってそれだけで満足を与えるがゆえに、あるいはさらに「自然」が自立的に変化して我々の感受性には制御しきれないほどの自由さと豊かさを「偶然性」として提示するがゆえにまさに「無関心的」な「観照」へと我々を誘うという理由で、そうした対象を「自然」に限定する。この地点で「観照」における「自然美」の優位が確立され、「自然の美的感覚」が、「美的知覚一般」にとって根源的であり範例的となって自然美学は美学であるとともに、何よりも自然を対象とする自然の美学でなければならないことになる。

こうした「自然の美的観照」が「自然の美的承認」にほかならない。「観照」は「承認」なのである。この「美的承認」としての「美的観照」において美的経験が成立して、自由で豊かな自然と出会うことになる。しかも、自然が提供するこの自由さと豊かさは人間の制御を超えているので、自然の現象は人間の感官には処理できないほどの多様で馴染みのない偶発的な現象として、それゆえに「戯れ」として現出する。しかし、自由で豊かな自然を観照によって戯れとして美的に経験することには、自然の一部分として自然と連続的である身体に基づく自然経験と自然の異質性の経験とが含まれることになる。

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