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2014年5月21日 (水)

マルティン・ゼール「自然美学」(36)

3.美的自然と美的芸術

芸術は自然の原像であり、また自然は芸術の原像である。自然は、芸術的に作り出された形態が有する過程的な個的生命の産出と知覚のための手本であり、芸術は、自然のなかの美的次元の多様性と差異とを知覚するための原像である。

a.七つの相違

美的自然と美的芸術は、それら両者が美的なものの「統一的現象」であるということを共有している。それらは、一つの美的次元からでなく、色々なまたあらゆる美的諸次元からのみ了解される。自然と芸術は、美的な知覚に向けられた唯一の統一性現象というわけではない。しかしそれは、その概念がこのような統一性の概念について以外には理解され得ないようなそういった美的な客体であるのだ。自然と芸術にとっては、美的な統一性の可能性は構成的である。私は自然空間を、美的エネルギーの統合的な集束あるいは干渉的な集束に成功する芸術作品に対照させる。単純化して、強くあるいは弱く包含的な芸術作品を、比較の継続のために、仮に勘に芸術と呼んで、自然の包含的な空間をたんに自然と呼んで、七つの互いに説明し合う命題のうちにその主要な相違を総括する。

.すべての自然は芸術への関係を包含しているが、しかしすべての芸術が自然への関係を包含しているわけではない。

芸術作品の概念は、その限りにおいて自然美の概念より基礎的である。論理的な意味においてのみ、美的自然は美的芸術にたいして派生的である。芸術は自然よりも「より本質的」であるとか、あるいは芸術は自然の方向付けなしでも同じように上手くやって行けるというようなことは、そこからは結論づけられない。

.自然は包含的であり、芸術はおおかたそうである。

自然美が常に強く法官゛的な現象である一方、芸術的作品はたいてい強くあるいは弱く包含的な、時にはそれどころか排他的に想像的な客体である。芸術が芸術としてその統一性を探求することにおいて原則的である一方、自然空間にうける美的総体性が常に求められている。その現出方式の多様性のなかにあって、自然はきわめて変化しやすく、すべての芸術よりもずっと可変的である。だが自然はその美的統一性の形式においては永続的であり、すべての芸術よりもずっと永続的である。

.自然は第一次的なものであり、芸術は美的なものの強められた統一性現象である。自然美は、「第一次的な」統一性現象である。なぜなら、自然美は常に包含的であり、またいつも芸術の想像力との関係を包含しているからである。自然は常に芸術との対話を誘導し、芸術作品はつねに自分自身とのまたは他の芸術作品との対話を─そして十分にしばしば自然との対話を誘導する。

.自然にとって作品存在は偶然的であるが、芸術にとってそれ(作品存在)は必然的である。

芸術的な作品の論理は、美的な様々な取り扱いや美的な諸機能の統合的あるいは干渉的な結合の内に成立する。それに対して、自然美はこのような論理の外にある美的な統一性である。この相違は自然あるいは芸術の包含的な結合における美的な様々の魅惑の関係を変化させる。自然においてそれらはともに与えられており、芸術作品においてそれらは互いに結び付けられている。例えば、自然の観照は自由な観照であり、自然の観照が望む方向に向きを変えることができるし、自然の観照が引き続き持続するために、照応的把握や想像的把握へと交替する必要はない。それに対して芸術作品の観照は、結合された観照である。それは作品の現象上の構成と結合しており、その作品の感性的エネルギーの知覚として、その作品の観照が想像的あるいはまた照応的な把捉から生じ、またそこへと再び逆戻りされうる時に自らをただ保持することができる。

.自然の統一性は偶然的であり、芸術の統一性は構造的である。

自然空間における美的諸次元の「相互作用」は、芸術の構造におけるその「統合」あるいは「干渉」とは、何か根本的に別のものである。自然の統一性は、自然の時間-感覚のうちにあり、それに対して芸術作品の統一性は、芸術作品の感覚-時間のうちにある。自然美がその観察の機会において─時間に対して意味疎隔的で意味付随的であって生き生きとした画像的な現出の変化に富んだ魅惑を示すということが、自然美の統一性ということである。それに対して、芸術作品は、一つまたはいくつかの美的作用を計算して生み出されたものであり、その人工的な構成の力によって、それは統合的あるいは干渉的な、また包含的あるいは排他的な、想像力に富んだ感覚を持つ構造物である。芸術作品のこの感覚は、芸術内部的な手段の過程において付与される。この感覚は、作品の感覚-時間のうちに付与されるが、作品知覚の時間はこの作品の感覚-時間に関心を抱く。一つの包含的な芸術作品が、如何にそれが統合的あるいは干渉的なものであるとしても、それが自然に投射されるとき、その想像的な特性だけが残される。自然の一時的な共存において、芸術作品の構造上の共存は、美的な構成要素の自由な相互作用へと解消される。その作品全体は自然全部へ転写可能となるわけではない。自然の芸術的仮象とともに、その自然のむきだしの出現もその自然の価値ある存在自体も一つの仮象になることはない。自然全部が芸術の投影ではないのである。

 ⅵ.芸術は了解されることを欲するが、自然は了解されるためにあるのではない。

芸術作品の了解とはその構成ないしその計算の了解である。構成も計算も与えられていない場合、あるいは構成と計算が美的に本質的なものでない場合、そり知覚遂行は了解遂行ですらありえない。それにもかかわらず美的な自然知覚は、またともに了解を含んでいる。実存的に表出と結びついた自然知覚も、了解の一形式ではあるが、しかし、自然の一形式ではない。了解はここではまず、固有の生活状況に向けられており、他方では芸術の想像的な可能性に向けられている。両方の次元において自然美は人間的感覚とその了解を打ち開きまた変化させる。芸術の知覚において遂行される了解は、それに対して芸術としてのその構成の了解である。

.自然は一つの生命連関であり、芸術は生命の諸連関を越えたところにまた生命の諸連関のうちに存在する。

自然もまた、いかに美的関係の中で現実性の符合になるとしても、自然は生活の独立した領域の要素にとどまる。芸術もまた、いかに美的関係の中で現実性の符合になるとしても、自然は生活の独立した領域の要素にとどまる。芸術もまた、いかに生活現実の一部分となることができるとしても、芸術は生活の現実性がそれに触れて屈折する媒体にとどまる。自然美は生活世界的な現実性の特別の根拠であり、芸術は歴史への両者の立場で明らかとなる。美的観察の対象となる自然は、特に美的立場から成立したのではない。自然は自分から変化し、また人間の物質的な介入によって変えられる。芸術作品は成立し、持続し、その了解ある解釈の歴史の中でのみ生き残る。美的自然もまたひとつの歴史的関係であるが、しかしひとまとめにした歴史的客体への関係ではない。それに対して芸術作品は、一つの歴史的関係における歴史的客体である。歴史的なまた伝記的な照応の観点において、たしかに美的自然も歴史の場所になるけれども、しかし美的自然の独立性と可変性は、自然を歴史からつねにまた遠ざけており、解釈から生じまた解釈のために自主的な生活連関としてのその存在は、自然を歴史から常に遠ざけており、解釈から生じまた解釈のために持続する生活から自然を際立たせる。

 

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