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2014年5月23日 (金)

マルティン・ゼール「自然美学」(38)

4.技術的芸術の時間

技術もまた自然の修正であり、おそらくすべてのうちで最も効果的なものである。芸術とは違って、技術は自然的所与それ自身の一連の変化において人間の自然に対する関係を変えていく。技術的な関係において、その現象的な相違ではなく、実践的な可変性が問題となる。自然への技術的な関係は、それゆえに美的な自然関係と対照をなす。美的な自然関係においては、自然が偶然にあるそのようなあり方で自然を存在させることが問題となる。今日自然が如何に偶然的なものであるとしても、自然はしかし自然だけによって存在するのではなく、自然への技術的介入によって再び存在するのである。

a.自然支配の技術

技術的な行為は、道具的な行為の一形式である。狭い意味における道具的な行為は、明確な目的を達成する上での諸手段の使用である。広い意味における道具的な行為は、たんに概略的、暫定的に定められた目的を実現するための諸手段の発見と諸手段の使用である。この後者の場合、目的実現それ自身は、目的決定の一形式であり、たとえば芸術的な手段使用はこの種のものである。しかしたいていの場合、道具的な行為は、はっきりと切り取られた目的の獲得あるいは実現に関係づけられている。狭い意味における道具的な行為の多くは、広い意味における道具的な行為から成立したのであり、広い意味における道具的な行為の多くは狭い意味におけるそのような行為を準備するものなのである。

因果的な作用の連関が存在する─これは自然の近代的概念であった。技術的自然とは─自然の合法則的な振る舞いについての知識や計算から─因果的な戦略によって処理され、また実現可能性に応じて支配された自然である。このような関係のうちに日常的-感覚的な周囲の自然空間は、諸客体領域を人間の立場から自由に処理する空間、規定された法則に従う空間へと変化するのである。このような事象はまた距離化の事象としても記述されうる。すなわち、人間がそれとともに存在する人間を取り囲む自然は、人間がそれを操作する所与的な自然になる。自然のこの中性化された対象領域は、生活世界的に開かれた自然の内部において展開し得るのと同様に、全体としては自然の代わりになることができる。この意味において自然に適用される技術は、自然支配の技術である。道具的な支配─搾取、利用、機能化─が、自然の技術的な取り扱いの唯一の目的となっているところで、我々は初めて─狭い意味における自然支配の─強い概念を獲得する。すべての─広い意味に解された─技術は自然支配であるということのたんなる確認だけでは、すべての技術は自然支配を目指しているということ、不可逆的に客体化された自然を産み出すということが技術というものの意味や本質の内にあるのだということが、なお語られていない。その反対が正しいのである。技術的行為が成し遂げることができるために、自然は客体化されねばならない。概念的に見ると、美的自然を成立させることが、技術的な行為の意味であるのかもしれない。技術的な自然は、美的自然の絶対的な反対物ではなく、きわめてしばしば実際に美的自然でありえる。

 

b.自然展開の技術

自然界における技術的行為は、自然の材料にかかわる遂行的行為である。この行為が何かをやり遂げることができる前には、それは自然の材料に向けられた自然の変化、すなわち、算定されうる対象物や出来事に向けられた自然の変化を遂行しなくてはならない。自然は対象領域とならねばならないし、それとともに「対立する」物の計算可能な空間とならねばならない。技術的態度においては、自然は、自然の生活世界的分節から多かれ少なかれ強力に取り出される生活空間の構成としてではなく、その生活空間における客体の領域として姿を現す。技術的自然の時間は直線的な時間である。

この時間形式から、私は美的自然の別の時間を区別したが、その時間とは、生きられた世界に対してそれとは相反する諸立場の同時的な経験としての時間のことである。これは、多次元に遂行を方向づけられた活動の時間であり、簡略化のためにわれわれはそれを「同時的時間」と名付ける。たしかに技術的行為はけっして直線的な時間の唯一の形式を構成するのではないが、しかしその傑出した諸形式の一つではある。自然の美的直観は、この空間の内部にだけ働くのではなく、それはその意味疎隔的・意味付随的・画像充満的所与の交替のうちにその空間を空間として現出させるのである。それは、その空間を生起する空間として生じさせる。この空間における事物は、このような生起を引き起こす媒介物となるのであり、使用のための道具的なよそよそしさをもった客体となるのではない。

技術的な自然支配の時間は、意図の枠内で計算され、目的を実現する途上で過ごされ消費される時間である。それに対して自然における美的実践の時間は、道具的活動とは反対に、人が「ゆっくりとする」時間である。同時的時間のために直線的時間関係から離れることができるように、我々は直線的時間関係を意のままに処理しなくてはならない。

自然美の別の時間が成立するかといえば、純粋に遂行される行為からの充実した隔たりの内に成立するのである。この隔たりは、たんに技術的行為からの隔たりばかりではなく、あらゆる種類の道具的方向付けからの隔たりでもある。それは、自然の中で特別な可能性と出会う、自己目的的行為のための隔たりである。

自然保全の技術、また場合によってはさらに自然獲得の技術─我々はそれを自然展開の技術と言おう─は、第一に非技術的な目標を持たねばならないであろうし、また第二にはその遂行においてこの目標の知覚が可能でなければならないであろう。先行する考察が説得力あるものであったならば、少なくともこのことは可能である。この控え目な技術もまた自然支配の技術であるかもしれないが、しかしそれは単に弱い意味においてである。自然のこの寛大な技術は、それ自身一つの美的技術でなくてはならないであろう。けれども非芸術的美的技術、それはそれが目標とする自然を、その技術の作品として成立させることを試みてはならないであろう。

自然の美的技術は生産され得ないものを生産することを試みねばならない。その生産は、成し遂げられた目標状態に感知しない生成でなくてはならないであろう。それは自然と結びついた始まりの状態の生産でなければならないであろう。もちろん一番簡単なのは、これが現にあるように、そのような自然の領域を放置しておくことである。どのような自然保全の形式がふさわしいものであるのかということが、その時々の自然環境において問題となる。自由な自然が必ずしも手つかずの自然ではないように、放っておかれた自然は必ずしもより魅力ある自然ではない。手つかずの自然あるいは相対的に自由な自然を、是が非でも技術的に手つかずのままにさせることの美的根拠は何もない。自然の美的技術は、どこまでも自然の修正、いずれにせよ現に在る自然状態の修正であってもかまわない。けれども自然の美的技術がとりわけ修正しなくてはならないことがあるとすれば、それは自然の制御されない活動であるよりは、むしろ制御されていない技術的制御によってもたらされる自由なる自然の抹殺である。自然の美的技術とは、同時的時間を産出する技術のことであるだろう。それは、完遂された人間的実践を可能とする場所を確保する試みであり、また再びそれを成立させる試みであるだろう。

 

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コメント

今回は多少わかりやすい(ほとんど分かりませんが)気がします。世界をこんな言葉で認識していたら疲れるでしょうね。

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