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2014年5月10日 (土)

マルティン・ゼール「自然美学」(27)

c.別の時間

初めの三つの章は、美的自然の通常の事例を語ったのではなく、それぞれ単独に例外的事例を論じたものである。例外的事例でしか自然は観照的もしくは照応的、想像的に興味をひかれない。しかしこれら極限概念は、自然美の総体に至るようなものである。自然は、観照の空間と照応の場所と想像の舞台が時間的同一的に開かれている領域である。この時間同一性には二つの面がある。すなわち、一つには諸々の美的魅惑の共存、もう一つにはそれらの美的魅惑の間で交互に起こる知覚遂行である。自然美の「相互作用」現前は、時間的同一的に現存する自然美の諸々の魅惑に対する交互的注意の中で生起する。これらの魅惑が時を同じくして与えられ、時間同一的に存続すると把握される時、自然それ自体が美的な相互作用の状態にある。自然の現象は、意味疎隔的形態・意味付随的形態・意味画像的(象徴的)形態の間でめまぐるしく変化する。

我々が見たように、自然の照応的現出だけがある特定の感覚において自然知覚の時間に依存せずに与えられるが、逆に自然の観照的現出と自然想像的現出はそうでない。つまり、照応知覚だけが、ある土地やある対象のある一定の度合いまで客観的かつ持続的な属性であるような質を発見する。それとは対照的に、観照的知覚と想像的知覚はこの持続情態をその雰囲気的与件もろとも突破し変化される。照応的知覚は、あらゆる雰囲気的潤色にもかかわらず残存し、あらゆる雰囲気にもっぱら駆り立てられる特性の発見もしくは現前化である。それに対して観照的知覚は、現象の瞬間的与件を不純物なしに現出させるものである。最後に投影的知覚は、任意の時間での即興的仮象を産み出すものである。照応的に解釈された時間の内部では、照応は自然の純粋な時間を目立たせ、それに対して投影は自然の虚構的な時間を目立たせる─これが一つのありうべき記述である。観照を通じて接近できる純粋な出来事を、存続物に方向づけられた照応知覚は覆い隠し、その恣意的時間で方向づけられた想像は戯れて巧みに隠す─これが第三のありうべき記述である。照応の持続と観照の純粋主義とは、想像が戯れる時間を失効させる─これが第三のありうべき記述である。これらの記述のどれもが自分以外のものと同程度に好ましいこと、自然に対する美的な相関について語られる時、これらの記述のどれも自分以外のものを欠いてはならないこと、自然に対する美的な相関について語られる時、これらの記述のどれもが自分以外のものを欠いてはならないこと、これが自然の全体の洞察である。三重の記述は、諸々の美的次元の相互作用が自然の中でどのように行われるかを今一度明らかにする。つまり、それらの美的次元と結合した態度の相互交替的な変転のなかでどのように行われるかである。たとえ自然知覚の三つの可能性が同一的に前面に出られはしないとしても、それらの可能性は自然において同程度に明らかであり、包括的に美しい自然においてはそれらがただちに満たされている。しかし、自然美学的な魅惑の時間同一性をその魅惑の意味疎隔的・意味付随的・意味画像的という分節化の同一性から区別することに全てはかかっている。美的自然の本来的魅惑は、相互依存的であるにもかかわらず通約不可能な美的自然の魅惑同士の同時存在のうちにある。その目印が、同一性なき同時性である。

美的自然の時間-統一性の分析は、それと同時に自然美の特殊な現前の記述である。この現前はその他の時間形式とは区別された時間である。美的自然の時間は、直線的に計画される時間でもなければ神秘的に揚棄された時間でもない。たしかに個々の自然の可変性は、計測される時間のなかでの変化として─ある瞬間から別の瞬間へと生起する何かとして─記述されうる。しかし、この可変性は自然の美的状態を満たすものでは全くないことが分かった。そのとき自然の可変性は時間の中での直線的経過ではなくて、統覚による多方式遂行の等価物である。自然の中でこの遂行が目のあたりにするのは移ろいゆく所与の充満であり、それは一般には計測不可能で、直観的に追跡されるしかない。美的自然の時間は、この知覚遂行への固執であり、滞留であり、「没頭」である。このことのうちに、自然の瞬間とは、世界が脱時間的状態で経験される神秘的で忘我的、突発的な瞬間にほど遠いものであることが既に含まれている。自然、とりわけ観照的に直観された自然が、強い意味での「瞬間」の卓抜な場所であるにせよ、それでは自然の特殊な美しさは捉えきれない。ラディカルな美的感覚は自然の中に、時間の外に出る道を探すのではなく、別の時間へ至る道を探す。つまり、生きられた世界に対する相反する諸立場を同時的に経験するような時間に至る道を探すのである。「永遠の相のもとで」でなく、つまり永遠性の観点からでなく、「はかなさの相のもとで」、つまり生きられた世界の有限性に払われる注意から、自然の美的資産は開陳される。

時間経験の両極端の比較だけでなく、自伝的時間と社会的時間の比較においても、自然の美的資産は開陳される。時間経験の両極端の比較だけでなく、自伝的時間と社会的時間の比較においても、自然美の現前は一つの「別な時間」の現前である。したがって美的自然の統一性の時間-規定は第一章の中心的空間-規定をも要約的に再定式化するものである。自然美は時間同一的に、照応の饒舌な空間であり、想像の分断的な空間であり、観照の空虚な空間である。(したがって自然美を帯びる事物は時間同一的に、意味付随的な意思表示であり、意味画像的な記号であり、意味疎隔的な現出である)。しかしこれは、何はともあれ自然美の意識が、独自の生の形式の現前や拡大への照応的関心には決して制約されないような比類ない生の可能性でもあるということである。自然に対する美的関心を了解するには、こうした第二の秩序の実存的関心が了解されねばならない。自然は美の照応もしくは崇高の照応における没意図的な照応の領域と見なされるだけでなく、同じように美もしくは崇高の想像における芸術の予期せぬ変異の領野と見なされ、まさしく同様に美もしくは崇高の観照における外的ならびに内的な表出形式の履行の区域と見なされる。これと対応するのが以下の自然美の詳しい定義である。

自然美とは、我々の事物の見方や我々の生の構想の直観的増強であると同時にその直観的呈示にして直観的一時停止であるような、当該の生活世界的現実である。

今はじめて、自然の肯定的な偶発性が全体として理解可能となる。自然の美的な首肯は、人間的自由の首肯の一形式である。我々は三つの次元の共存において、ある何かのために自由であると同時にある何かのなかで自由であるようなある何かの自由と言う三重から成る自由の状態に関わる。自然美の知覚が解放されるのは、思考と行動の強制からである。思考と行動の強制が何のために解放を行うかと言えば、それは、これらの強制の彼岸にある遂行志向的な活動存在のためである。我々は、肯定的に照応する自然において、我々の物的及び心的な欲求と対立する外的な生の現実の抵抗から自由である。自然は、独自の生命表象が知覚によって豊穣になるさい、生命遂行の自由を開示する。特定の見方というものは自分の生や歴史的世界や想像によって生み出された芸術作品それ自体に備わるものだが、想像的に魅力的な自然の内にいるとき、我々は、その特定の見方に束縛された状態から自由である。自然は、意味付随的に体験された現実の表現範型の変容や違反の自由を開示する。観照的に観察された自然において、我々は了解の方向づけの強制すべてから自由である─自然は、忌の捕捉から諸感覚そのものを解放し、これにより、まったく目標を持たない存在であるがゆえに全面的に遂行志向的な存在の自由を開示する。解放と開示の関係は、美的に構成された三つの生の可能性それ自体にも当てはまる。これらの可能性の各々が自分以外の可能性による制約強制から解放され、自分以外の可能性との緊張において、世界に対する根本的に異なる立場同士の自己充足的な相互作用の時間を開示する。以上によりも美しい自然とは自由な活動存在で満たされた時間の空間であることが判明する。

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