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2014年5月26日 (月)

マルティン・ゼール「自然美学」(40)

第6章 自然美の道徳

1.自然美学から自然倫理学へ

自然美の道徳とは自然に対する充実した美的態度の倫理的価値を意味する。私は、自然美にはそのような価値があると主張する。そのような価値が現前していることは善き生の一つの卓越した状況であり、したがって、自然に対する美的態度はうまくいって成功している生き方の重要な構成要素である。しかし、美的な自然直観は成功している生き方の重要な構成要素であるだけではない。美的な自然直観の分析は同時に、成功している実存の普遍的構造の優れたモデルを提供する。したがって、美的な自然知覚は、一方では美的でない実践を倫理的に修正する手段であり、他方ではうまくいって成功している実践を説明する理論的モデルなのである。

a.美的なもののうちなる倫理的なもの

美的なものに内在する倫理的なものへの問いは、「意味に対する」我々の美的「感覚」の意味への問いである。そこで問われているのは、美的直観が他の価値あるものとの関係においていかに価値あるものなのかということである、何ものにも囚われない美的な態度で自由な自然に遭遇することが善であることを我々の考察は示した。しかし、そうした考察がいかなる意味を持っているのかということは、また別の問題なのであり、そして今や我々の問題である。私の答えは、そうした善が美的な意味のうちに倫理的な意味を持っているということになるであろう。

疑いもなく善い多くのものがそれだけで─しかも、「倫理的」という言葉をもっとも広い意味に用いても─すでに倫理的に善いわけではない。例えば、冷えたビールは喉の渇きにとって明らかに善いが、倫理的に善いわけではない。それ自体で善いものすべてのものも、それだからといってはじめから倫理的に善いわけではない。ビールの美味さと心地好さは倫理的な善には含まれない。倫理的に善であるのは、生活世界の状況のあり方だけである。倫理的に善であるのは、それ自体において実り豊かな生の状態であるか、あるいはそうした生の遂行であるような状況ならびに行為である。したがって、自然に対する美的関心が内包するのは、そうした美的関心が善き生の任意ではない状況に関わるからなのだ、と我々はここで仮定しておきたい。そうすると、「美的なものの内なる倫理的なもの」は、美的性質によって開示され普遍的に価値ある生の形式のうちに見出されることになろう。「美的自然の相互主観性」は、同時に倫理的な相互主観性であることになろう。そのうえ、自然美の事例において美的なもののこうした倫理的関連が強い形式において与えられているということを私は示すつもりである。自然美は、善き生に不可欠な形式を明示してくれる普遍的可能性である。自然美学から善き生の倫理学への歩みは、以下の二つの想定に基づいて進められる。

.自然美は任意の善ではなくて、倫理的な善である、すなわち、うまくいって成功している生の普遍的状況である。

.自然美は何らかの倫理的な善というようなものではなく、生の成功の形式にとってパラダイム的な状況である。

この二つのテーゼが指し示す方向は、美学と倫理学の関係に関する他の理論を視野に入れる時により明らかになる。

ショーペンハウエルにおいて美的直観は、諦念によるあらゆる悪からの救済の前段階、いわば生への意志による錯覚を防ぐという本来の目的への途上における一時的非難である。美的直観は一見それ自体のために行われているように思われるが、第二の倫理的考察においては真の赦免へ到達する最も適切な手段であることが明らかになるのである。しかし、そうした手段が禁欲的な機能化を求めるのとは異なり、自然美は善の前段階でも代替物でもなく、善の現前である。もちろんこの場合「善」はまったく道徳の前段階としての意味しか持たない。それは特定の生の可能性を示しており、その質の現前が自己充足的な現実存在という充実した時間を提供してくれるがゆえに、それらの生の可能性は追求に値するものとなるのである。

キルケゴールの美的/倫理的なものについての論考において、あれこれの局面下で生を享受するための美的選択肢に対して、自分自身の生に対する不断の責任において生きるという、個人による倫理的-絶対的選択を対置させる。この倫理的主体は美的主体がするようにあれやこれやの生を選択するのではなく、そうした生に対する自由を、そしてその自由とともにそうした生に対する道徳的な責任を選択するのである。倫理的選択が行われている場合に、そして勿論その時にのみ「美的なもの」も倫理的な善の構成要素でありうるのである。倫理的な選択が行われるならば、美的な生は善き生の一部分でありうる、とキルケゴールは述べている。私が展開したい解釈はキルケゴールとは異なっている。美的な意味において人間の真なる生の可能性が示されるとするならば、そうした生の可能性への道徳的配慮には、こうした実存形式を承認する義務が課せられる。倫理的なものが美的なもののうちで知覚されるならば、倫理的なものが同時に美的なものではない場合でも、倫理的なものはよりよく了解されるのである。

ニーチェは私は反対に、倫理的なものを美的なものへと還元した。善は、もっぱら価値を産み出す意志、あるいは価値を選択する意志の力のうちに見出される。善あるいは正しさのあらゆる規範は非凡なものを好むエリート的な趣味から引き出される。ニーチェにおいては、美的な決断を選択する意志があらゆる倫理的態度の基礎となっているのである。美的な選択が超然と為されている場合に、倫理的なものも繰り返し生に奉仕する要素でありうるのである。しかし、美的態度があらゆる文化的態度の基礎であるとしたら、美的態度は美的態度ではなくなるだろう。なぜなら、美的態度とは、差異化された態度連関の内部における個別の態度であり、言い換えれば、美的でない実践への関係と隔たりに基づいてのみ魅力を保持するからである。我々は、美的なものを美的でない実践から孤立させることなく、美的なものの均一化を避けるよう努めなければならない。

 

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