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2014年5月13日 (火)

マルティン・ゼール「自然美学」(29)

3.自然の規範的概念 我々は自然の二つの両義性を学んだ。つまり、自然の小の両義性と大の両義性である。小の両義性は、自然の個々の魅惑の美/崇高の両極性が該当する。大の両義性は、それらの魅惑の相互作用の美/崇高の両義性が該当する。恐るべきものの両義性はこの大の両義性が変化したものである。自然が両義的であるのは、危うい両義性や解放的で危うくない両義性、息詰まるようで危うくない両義性においてである。文芸で、そもそも芸術において、美的自然を主題として扱うことは、自然の小の両義性と大の両義性とを扱っているのである。 この発見により、自然の概念は新たな方式で了解されねばならない。我々の最初の定義によれば、美的自然とは、自然の中で自然を探すという、自然との関係そのものである。しかし、この関係がつねに見出されるわけではない。まったく見出されないままの可能性もある。美的態度においても問題提起的な自然だけが、自然美の現前でありうる。問いはこうである。自然に対する美的関心の内にある自然の非美的状態とはどのような状態か。回答はこうである。それは「自由な」自然状態である。しかし自由であるのは、自然の全両義性が姿を現しうる当該の自然のみである。自然美の名の下に、自然美が自然関係のただ一つの規範であってはならない。 a.自律の条件 美的自然は一般に、自然の美徳の同時間性ではなく、自然の美徳の悪徳との同時間性であるとされた。とりわけ消極的照応の例がこれをはっきりさせた。全く同様に、たしかに照応的に美にして善であるが、あらゆる想像に対して無感動的な地域が考えられる。それに対して、純粋な美的知覚に特別な刺激を何ら提供しない対象や土地が存在するにもかかわらず、観照的な「悪徳」は何ら存在しない。この少なくとも弱の観照的魅惑は、自然が美的感覚にまるっきり否定的には決して現出しないよう配慮する。美的自然は、その悪徳のみの時間同一性では決してない。美的に把握される時、自然は、よそよそしかったり、人をうっとりとさせたり、恐ろしかったり、残酷だったりするかもしれない。それどころかそういう自然を観察することが、その観察者を残酷に見せるかもしれない。そもそも自然が美的に知覚されうる限り、自然はつねにその魅惑に対しても開かれており、全体において恐怖で残酷とは感じとられていない。しかし、美的自然が全体においては否定的でありえないということは、自然が否定的であり得ないことでは決してない。ラウーやフローベール、コンラッドの直観には、こういう否定性が留保なしに現われ出ている。この作家たちの主題は自然の肯定的偶発性と否定的偶発性との両立なのである。この両立には、人を狼狽させるような自然の両義性がある。自然によって人がうろたえさせられうるという文脈にあってこそ、全体において解放的な自然の両義性のセンセーションは申し分なくよく分る。自然美をまとう自由の領野は、本質的に否定的な自然の両義性という背景の前にある、全体において肯定的な自然の両義性である。美的自然一般でなく、自然美だけが、工程された偶然性の領域である。 別の面から言えば、我々が自然美を受容できるのは、我々が自然の美的な両義性をも受容するときだけである。自然に対する美的感覚を育むことは、肯定に値する自然の偶然性に対する感覚も人を脅かすような自然の偶然性に対する感覚とともに育むことである。したがって、自然の自立性と可変性を肯定できない、両義性と破壊の可能性を解消しようと欲することはできない。というのも、それが、自然の包括的な美しさの可能性でもあるからだ。肯定された自然の偶然性だけを肯定することは、美的には不可能である。自然の偶発性の事実それ自体が、その否定的な潜在能力の意識においてすでに肯定されねばならない。自然の偶発的な美しさのとりなしは、自然の偶発的な諸経過の特定の帰結の克服と必ずや調和するだろう。 こけはほとんどトリヴィアルである。美の概念は対照概念である。美と崇高の間の緊張それ自体がすでに、美的な自然対象と非美的な自然対象に対する両方の緊張はなおのこと、これを保証するものである。もし我々が、醜との相違において美が何であり、非常に美しいものとの相違においてそれ程美しくないものが何であるかを知らなかったとしたら、我々は美について何も知らなかったことだろう。自然が最良の例である。その満たされた現存と満たされざる現存との両極の間で自然が変異し得ることが、自然の可変的現出の美的現前の総体である。きわめて持続的な照応の美しさでさえ、自然によっては断絶されうるし、場合によっては解消されうる。地震や嵐と言えば十分である。確実に美しい自然は、確実に自然では─自然に対する美的感覚が向けられるというあの自然の意味での自然は─ない。そのような自然には、その「固有の形態」と動きで現出する「のびのびとした自由」などないだろう。「意のままにされていない形」で生きることなどないだろう。あらゆる自律を奪われるだろう。自然美、すなわち、「自由な」自然の規範的に最上級の現出は、その規範的に最上級のあり方から距離をとっている自然の「自由」を抜きにしては、不可能である。自由な自然はただちに美しい自然ではない。しかし自然美は自然の領域内にしか存在しない。 緒論からこれまで、私は自然の自由という広い概念を駆使してきた。自由な自然は「野生の」自然である必要も「純粋な」自然である必要もない。自然は「純粋」では全くあり得ない。自然が美的に観察される場合、自然は人の手に触れられている。「野生の」、すなわち人間によって決定的に形態化されていない自然の美的発見は、歴史的にはほとんどつねに、それでもすでにして人の手が触れた自然の発見である。形態化されていない自然と同様に、目に見えて人間によって形態化された自然もまた、人間による手入れや手直しなしに多かれ少なかれ不変な循環において存続しうるような、人間の意のままにならない生命連関を形成する限りでは、自由である。その範囲では、自然の自律の強概念が問題である。これに対して弱い了解では、自然は、人間の意のままになる生命連関である。これは能動的形態化なしにはそういう風には存続しない、あるいはそもそも存続しないだろう。そのようには庭園は存続しないだろう。にもかかわらず、ほかならぬ自然が目に見えて人間の意のままにならない諸形式の連関であるかぎり、ここでも自律がまた問題となりうる。このとき自然は、もはや現実として自律的ではない。つまり自然は、人間の行為から独立して存在する一領域ではもはやない。そうは言っても、全体的もしくは部分的に自然の諸形象は存在し得る。 自由な自然という概念は、私が冒頭から子理論河野基礎に据えて来たものだが、それは自然の自律の強の意味と弱の意味とを包括する広い概念であった。その理由は、形態化されない自然と意のままにならない自然と設えられた自然との境界線─それらが確定的には何であるか─はしばしば簡単には引きえないからでなく、自然美学理論がこれらの境界線を引くこと自体が全く必要としないからである。美的直観にとって、自然が強い意味で自由であること、つまり自律的な生命連関であること、およびそうか否かは必ずしも重要でない。自然が弱い意味で自由であること、つまり自律的な生命連関であること、およびそうか否かは必ずしも重要でない。自然が弱い意味でしかそうした連関でないのにもかかわらず、そのような連関であるかのように見せることで、美的直観には十分でありうる─しばしば自然にはそれで十分でなければならない─。これが、美的自然は今日では一般的に反-目的論的な仮象の国だという、第二章第四節で大袈裟に拒絶された表象の真理である。美的自然において許容しうる仮象は、自然の自由一般に該当するのではなく、たんに弱体化するだけである。美的自然関係において許容しうる仮象は、自然の自由一般に該当するのではなく、人間的影響の欠如の度合いにのみ該当する。ここで肝心なのは根源的存在ではない。ここで肝心なのは自然諸形式の非強制的な現出である。ここでいう仮象の許容しうる要素は、自然自体の力動性に関係するものとは違う。それは、自然の目に見える作用のなかもしくは背後で行われていることの規模に関係するものである。美的自然は、人間による連続的影響がなくても、存在もしくは映現せねばならない。人間によって連続的には為されない、当該の現実においてのみ、自然美の時間が現実となりうる。 以上が自然の美的な最少条件である。このような自然の弱い美的規範は、より強い規範を決して排除しない。この規範は、自然が、人間に形態化を付与されてはいても、人間によって意のままにされていないような生命連関である場合でのみ、包括的な自然の美しさが可能であるということを認識させる。たしかに自然に対する美的関心は広範囲に人間の意のままにされた自然に対してもかきたてられるが、自然美に対する関心には、強い意味で自由な自然にも出会いうることが含まれる。そうだとしても、あらん限りに野生的な自然の状態をただ一つの自然理想にまで高めてしまうのは盲目的であろう。そんなものは、第一につねに野性的であるのではない自然のさらなる凌辱、第二には、つねに野性や辺境を探すわけではなく、同様に「家から外へ出るように」木があるのを見ようとするような自然との文化的美的連関のさらなる凌辱でしかないだろう。第二に、つねに野性や辺境を探すわけではなく、同様に「家から外へ出るように」木があるのを見ようとするような自然との文化的美的連関のさらなる凌辱でしかないだろう、別の面から言えば、人間による支配を免れた自然を最大限要求することは、仮にその要求がもはや満たされないということに現実になったとしたら、そのときにこそ妥当性を持つことだろう。庭園の美的理想は制限付きの理想であり、かつ、それにとどまる。付言すれば、幻影的理想である。つまり、人間による情愛の籠った育成の下での自然の美しい設置が全体において成功を収めることができ、そこに氷や石、海、砂漠がある─眼前に天がある─ということである。

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