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2014年5月19日 (月)

マルティン・ゼール「自然美学」(34)

2.芸術作品の統一性

自然美学と同様に、芸術の美学も想像・照応・観照の分析を包括しなくてはならない。芸術の想像的概念だけでは、多くの芸術作品の統一性を理解できるようにするにはあまりにも狭い。それは、同時にまた、芸術家から、自然の美的統一性に対する新たな眼差しを獲得するためにあまりにも狭い。われわれの当初の排他的─排他的に想像的─な芸術概念を、芸術および(多くの)芸術作品の、美的に包含的な概念へと拡張する必要がある。敢えて推測するならば、芸術作品の統一性は、美的統一性であると思われる。

 

a.いくつかの芸術

以下のスケッチは、「排他的」芸術と「包含的」芸術との区別を契機として、芸術理論の側からわれわれの三つのカテゴリーの真価を試そうとするものである。いくつかの決着は既についている。排他的に観照的な芸術というものは、すでに見たように、ありえない。排他的に照応的な芸術は、たしかに何処にでもある─それは日常的な生の(職業的あるいは個人的な)様式化の芸術であり、したがってはるかに広げられた芸術である─、しかしそれだけでは、狭い意味で芸術が話題となる場合に、そこで考えられているような芸術について何の事例も提供しない。観照的で照応的な美的客体は、私が思うには、同時に想像的客体が問題とされるときに、はじめて狭い意味で芸術作品として了解されうるのである。それゆえ、芸術の想像的概念というものが、第三章ですでに述べたように、芸術の基本的な概念である。したがって、ただ純粋に想像的な芸術だけが排他的芸術の事例を与えることができるであろう。包含的芸術に対しては、美的機能のうちにどれがそれぞれの場合に主要機能であるのかということが、さらに問題となる。一次元以上で分節化されるすべての芸術ジャンルが、著しく分節化されるわけではない。

造形芸術は、弱い意味においてではなく強い意味において包含的であるということが、造形芸術の特質をはっきりと示しているのである。たとえば絵画は、観照的で照応的な芸術の想像的で包含的な統一性である。そこでは、─規範的にではなく、歴史的に了解された─通常の事例において、想像的に世界を提供する契機が主要機能を果たすのである。

このことが正しいとするならば、我々は絵画の生を完全に縛り付けたりしてはならないのである。美術館における画像は、しばしばその全き画像ではない。美術館というものは照応的に中立な、いやむしろ反-照応的な空間であることが往々にしてあり、そこではすべての画像は全くそれ自身があるいはそり人工的な文脈に投げ返され、したがってその実存的なコンテクストへの輻射から切り離されているのである。もちろん、その照応的次元のためにその画像の余分な点を切り落とすことも可能であり、そうすることによって、その画像としての力はたしかに低減されるが、しかもおそらく破壊されることはなく、再びまた画像としてのそのあり方について何かを語るのである。すなわち必要とあれば、画像は自己と観察者とのあいだの空虚な空間とも何とか折り合いをつけるのである。このことは彫刻には当てはまらない。彫刻は展開するために空間を必要とするだけでなく、自らそれを展開できる空間を必要とする。彫刻は強い意味において包含的芸術であり、そこでは空間形成機能が、前面に出ているのである。

 

b.芸術の規範的概念

芸術の論理のためのこの断章は、きわめて不完全なものであるが、それは芸術の統一性についての二つの命題の定式化を可能にし、それらは美的芸術と美的自然との比較のための基盤を準備するものである。いくつかの芸術のあいだの質的な相違の記述自体は何らの評価を含むものではなかったが、─「包含的」芸術は「排他的」芸術よりもそれ自体でより良いとか悪いということはないし、いかなる作品もそれが美的ジャンルの根本形式を満たすかあるいは破るかによって良いか悪いかということはないが─そこから結論づけられる芸術作品の規定には規範的な内実がある。もちろんこの評価は、どれが良い作品でどれが悪い作品かということには関わらないし、成功のための何らかの一般的基準を提供することもない─そのようなものはありえないのである。芸術の規範的概念は、意味深い仕方で、芸術の真正なる(自然によっても他の人工物によっても置き換えることのできない)可能性に照らして、芸術と見なされうるものを確定する。美学は以前からずっとそのように振る舞ってきたのであり、美学は芸術に何を期待すべきかを言うことを試みるものであるが、それはそれが芸術からだけ期待できるからに他ならない。

いくつかの芸術を通した歩みにおいて、芸術の統一性とは美的な統一性であるというトリヴィアルな推測が、それほどトリヴィアルなものではないということが明らかになった。その原理は、それを三つの美的次元の分離可能性の意識において読み取るとき、トリヴィアルなものではなくなる。次の二つの命題はこれまでの考察の立場を要約するものである。すなわち、

第一の命題は言う、芸術作品は、それが想像的構築物である限り、特有な観照的あるいは照応的な特質を持つことができる。「芸術の想像についての補説」においてその概要が述べられた芸術概念は、そしてこれだけが、芸術の基本的あるいは第一の概念を定式化する。したがって私は、次のような美的な客体だけを芸術作品と呼ぶことを提案する。すなわち世界形成的な見方の新たなる表現(投影的使用におけるように)であるように思われるばかりでなく、実際にそうである美的な客体をそう呼ぶのである。第二の命題は言う、その作品を意味地平の提示と解するこの第一の芸術概念は、たしかに芸術作品の必然的な概念を定式化するが、しかし十分な概念を定式化しない。つまり、排他的な─すなわちもっぱら想像的な─芸術作品の極端な場合に対して、想像的な構築物として本質的に観照的かつ/あるいは照応的な客体でもある(直あるいは弱く)包含的な芸術作品のパラダイム的ケースが対立する。芸術理論の中心概念は包含的な芸術作品の概念であるだろう。

われわれはある一つの客体、芸術作品に出会うが、それはその客体と我々との出会いの認知へと我々を誘うのであり、それは、その客体にそこから出発する生活世界の図像記号を、複雑な美的状況の芸術的記号へと変化させ、その状況において我々はありふれたものや崇高なものの同時的な肯定へと促されるのである。芸術作品のこうした「第一の」概念はもちろん、芸術作品の美的統一性という概念にほかならない。この統一性は、その処理方法の総体において確立される表現連関あるいは提示連関において成立する。それは作品内の美的意味の統一性である。とりわけこの想像的統一性によって、第一の命題はこれをしっかりと保持するのであるが、芸術作品は他の種類のあらゆる美的な諸客体から自らを区別するのである。芸術作品とは常に世界に「ついて」の感覚的に分節化された客体なのである。芸術作品とは、たんなる照応の客体のような、生きられた世界の地平の内側での、作り上げている強調・富ませている形態・飾られた身振り・意味ある形式などでは決してない。芸術作品とは常に、世界の意味形成的でそれゆえ意義深い諸地平を直観させる表情豊かな媒介物である。その名に値するすべての芸術は、世界への通路の生動的な描写を成し遂げることによって、世界への通路を創り出すのである。

絵画の照応的また想像的な力は、その絵画がそれ以外に、最初の解釈において絵画にとって尊重すべきすべての意味からさらに我々の目を逸らせる観照的な魔術を持たないならば、すぐに枯渇してしまうであろう。この魔術的な力によって、色彩や形態の動的な関係は、慣習的な象徴におけるそれらの定まった位置から外に歩み出るばかりでなく、芸術的手段の想像的で照応的な活動からみ外に歩み出てくる。その二重の画像感覚は、純粋な画像感覚性へと解消する。形式連関的な反射性、美的道徳、画像の実存的身振りは消え去る。そこには感覚的な物質的諸関係以外のものは何も存在せず、感覚的理解以外のものは何も求められない。しかしまた、作品の月並みな意味や提示的意味、遂行的な意味は、次の瞬間にはただちに再びそこに在る。まさにそれは、観照的な画像現出の瞬間をそれだけ刺激的なものたらしめているものであり、同時的意味機能からの離脱であるのだ。まさにそれは、多重の画像感覚に枯渇することのない生命を付与することである。すなわちその画像感覚は、突然の不在の諸状態からつねに新たに成立するものなのである。そしてまたそれは、想像的な画像把握や照応的な画像把握を、つねに新たに観照的な例外状態へと追い立てるものである。つまり、画像感覚の消滅において、物質と結びついているこの感覚の個体性を確かめ、また同時に発見的な感覚形成への画像把握の自由を確かめようとする。その三種の美的分節化のこの過程を作品へと措定することは、我々の画像の本来的な芸術に属する。

全ての芸術は、想像的な分節化という針の穴を通られねばならない。しかし、芸術の領域は、人間という世界内存在が作り出している演目の領域のみではなく、それは同じ程度においてまたきわめてしばしば時間同一的に、生活の直観的形成の領域であり、また現象世界との無関心的な出会いの領域でもある。さらに観照的な意味-空虚と照応的な意味-充溢は、作品の想像的な分節化の比較変化形であることが明らかであるが、この想像的分節化は、芸術へと高められた美的諸現象の世界-疎遠性と世界-開放性とのそれらの側での制約である。芸術の作品は、まさにそれが無比の提示媒体であるということにおいて、実存的照応を直観的に産出する特別な手段であり、またまさにその同じ意味において、観照的不在の傑出した媒介物であるのだ。芸術作品とは、その想像的分節化のおかげで、たいていの場合、高められた照応的なまた/あるいは観照的なエネルギーを有するところの美的な客体である。

 

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