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2014年5月14日 (水)

マルティン・ゼール「自然美学」(30)

b.人間が持つ自然の美しさについての補説

自然美としての自然の現前が可能であるような自然の自律に対する美的関心は、人間の自律に対する人間の関心である。自然美の空間の別な時間は人間的実存の特殊な時間である。自然に対する人間の感覚は自然における独自な可能性に対する感覚である。しかし、この感覚は直接的にも人間に関係し得る。そしてその感覚は人間固有の自然に外的自然に向けられる。その時感覚は、事物と空間のありうべき自然の美しさには向けられず、人間における自然の美しさに向けられる。

人間の美しさを「自然の美しさ」として表象することはトリヴィアルであると同時に訝しい。我々が人間の自由な自然美を開墾された自然の自由と突き合わせてみれば、このトリヴィアルさと訝しさは際立ってくる。個人がその独自の形態において現出し得るということ─これが人間の美しさの最も基礎的な規定である。ただし、このとき当該の転換は、野性的自然もしくは手なずけられた自然にこの規定を適用する時とはカテゴリーという点で少し別のものを意味する。このような美しさの主体は、分節化された客体であるだけでなく、分節化する主体でもある。主体は分節化された自然を有するだけではない。その主体の自然の現出及び提示において、つまり同胞に対しても自己自身に対しても、主体は分節化される。自然の場合に美の条件に過ぎないこと、すなわち自然の形象と区域が独自の形態で現出すること、これが、人間の場合はすでに美の基礎的実現である。つまり、身体を人格の反映たらしめるのである。

以上の話は、特定の文化や時代、人物の美しさの理想とはほとんど関係ない。誰かがすべての標準に照らして醜でも、顔としぐさでその人自身として自由と現出することはありうる。ここでは美しさの理想はまったく重要でなく、その美の理想をそのときまとう人間の美的魅惑の観点、これが重要である。このような魅惑のより強い概念を定式化するために我々が三つの美的カテゴリーを用いるのは、それほど困難でない。照応的な観点では、我々は別の人たちを美しいと思う。つまりそれは、我々がその人たちを見て、我々がその彼またはその彼女を─一緒にいるのがどんなに楽しいか─一緒にいたいこと、もしくは、その人たちのそばに入れたらなあ、その人たちのようであれたらいいなあと、そう思うようなときである。ここには既に想像の観点がある。それによって魅力的なのは、その人格を介して我々を想像に誘うような人間たちである。これは─反感と憎悪の、それ程強烈でない想像とは異なって─美しい想像だが、ただしそれは個人の顔や声・容姿・仕草が、共通の現前の現実的または非現実的な瞬間にある時である。欲求を駆り立てる身体は。何かあるものや私や世界に対する、彼やある人や私の反応を扱う画像や劇や舞踏となる。欲求が真剣になるとき、他社の容姿がその状況のアウラの彼方からこれらへ歩み出てくる。その姿は、皮膚や頭髪のついた意味付随的な自己に取って代わって感性的な自己に接するような現存の磁力の中に立ち入る。このような他者的自己の身体的現前の身体的痕跡は、観照における役割や画像すべての度外視とほとんど違いがないが、完全に観照的であるのではない。芸術家の冷たい観照は、純粋な欲望の灼熱の観照よりも純粋である。その灼熱の観照は、その立場からすればさらに長い歴史の中で保たれた愛の観照より純粋なのだが。─以上のように、美しさはここでもやはり美の諸次元の共在である。ここでもまた、このような共在を踏み越えて、美の両義性だけでなく美の中での両義性が決定的に重要な成分である。信頼すべき魅惑はたちどころにもはや魅惑ではない。つねに美しい人など誰ひとりとして確実に存在しない。人間の美しさの諸契機が繰り広げる戯れは、それがその人の美しさの時間の中で知覚されうるには、醜悪・滑稽・倦怠・凡俗・溶解というような色合いを帯びうるのでなければならない。

今記述した最も強い形式では、人間の美しさの概念が同時にエロチックな主体の概念である。エロチックな魅力と性的な相互作用にあっては自然の美しさの概念が同時にエロチックな主体の概念である。エロチックな魅力と性的な相互作用にあっては自然の美しさの特徴がさらに一つの意味を獲得する。ここで自然は、他者の美しさの基礎あるだけでなく、身体的要求の目標でもある。性的状況は、他社の身体との出会いにおける自分の身体の交互的な事実性暴露に関わっている。わしは恋人を生と愛の職務と尊厳において熟知し、人格として所有しようとするだけではない。私は恋人の自然と、恋人の非人物的で言語外的な現存在と出会おうとする─そして私は自分を恋人と対立させることを欲求し、そうしたいと思う。誰かと共に自然であること─誰かとそうなるのをためらうこと、そして誰かとそうなることをためらうことで自然であること─がこの行為の美的意味である。ここでわれわれはついに「自然との対話」をする。それはすなわち、幸福と不幸とが持つ二つの自然の出会いを対話的に欲求しうることである。もしそうでなかったとしたら、我々はそれをお喋りの祝福に放置するかもしれない。

外的自然における美的状況は、我々の自然とのエロティックな対話を延長するものなどではない。その状況は、自己意識的でない生との出会いである。その生は、自己意識的ではないがゆえにいかなる意味付随的な自己存在からも出現し得ないようなものである。人間たちのエロティックな出会いがもたらすような、ともに居合わせるものや自己の外に出てくるもののシンメトリーな鏡映はここには存在しない。美的自然とは、人間の自己既知性を裁く非人間的なフォーラムである。もちろん、この既知性に関心を寄せるのは、それ自身が自然であり、それ自身が偶発性に支配される諸個人、自然美の経験において自然をほめたたえる諸個人のみである。しかしその諸個人が自分との類比を見出すのは自然に即してではない。自然に即してだとしたら、たとえばそれは、自然が分節化を欲するものであり、それゆえにたまたま、その自然を賛美する諸個人と同様、分節化に飽き飽きしていたというような場合であろう。外的自然との出会いにおいてその諸個人は自らの自己存在の複雑な諸可能性を目の当たりにする。自然の疎遠さにあってはこのような自然がそれらの可能性そのものに至る機会である。このような自然の美しさがそれ自身の美しさとは別の美しさだという意味でのみ、外的自然もまた「人間の美しさ」である。

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