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2014年5月25日 (日)

マルティン・ゼール「自然美学」(39)

5.美的自然の相互主観性

客体化された自然と審美化された自然との間の可能的な結びつきは、揺れ動く地盤の上に成立している。それは分岐的な立場によって担われており、たしかに互いに接して近づくのであるが、しかし互いに混じり合って現れることはできない。

美的な芸術判断は、客体的な構成要素を伴う相互主観的な判断である。すなわち、その想像的な分節化の力によって、高度な照応的エネルギーあるいは高度な観照的感性を具備している芸術作品は成功している。この判断は相互主観的である。三つの美的な自然関係に属する判断形式は、他の結末を許さない。自然についての照応的判断だけがまた客体的な判断として記述されえた。けれどもの客体性は自然が打ち開き、自然が対応しあるいは衝突する実存的な投企に依存していることが明らかとなった。観照的な判断は、純粋に相互主観的であり、それはその美を確定する漸進的な段階以外には、その対象について基準となるものを何も語ることができない。想像的な判断は、たしかに芸術形式的な特性を自然のものと死、また自然がその特性をより濃密に発展させればさせるほど、それだけより高いものとして自然にその価値を認める。我々はここで美的自然と美的芸術とのあいだのいっそう広い相違に行き当たるが、その美的芸術は、作品構造への自然の位置と関連しているのである。

そもそも自然美が存在し得るためには、自由な自然美が存在しなくてはならない。自由な自然の概念はしかしそれ自身一つの規範的な概念である。理性的な技術や政治は自然に対してこの規範を一貫して担っているのであろう。その規範の定式化は、個々の優位な特徴を拠り所とするのではなく、自由な自然が自然美の可能性の前提条件であるという実証において、それは根拠づけられている。自然の保護や愛護の強い概念は、美的に基礎づけられうるが、それは一定の内容評価を必ずしも要求するものではない。技術的に取り扱われた自然が、それぞれの自然美に対する個々人の意向を実現しているかは、それほど重要なことではない。技術的に取り扱われた自然は、自由な自然の保護や育成の美的な委託を実現するであろうし、また自然に対する個々の人の意向を遅かれ早かれ実現するであろう。したがって、自然の自律性の基準が個々の態度決定の相互主観性をどんなに僅かしか保証しないとしても、それは美的自然の自由と言う事柄に関する相互主観性をそれだけに強く保証することができるだろう。美的自然の可能性としての相互主観性は、自由な自然の美の諸形式に対する異なった関心の内における自由な自然への共通の関心に該当するのである。

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