無料ブログはココログ

« マルティン・ゼール「自然美学」(25) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(中休み) »

2014年5月 8日 (木)

マルティン・ゼール「自然美学」(26)

b.距離の弁証法

二重の距離は、美的自然知覚の地盤であるが、必ずしも喪失として経験される必要はなく、獲得して経験されることもある。この距離による獲得の所在は、日常的実践と美的自然知覚形式の連関からもっとも明瞭に読み取れる。この連関は二つの面から記述されうる。つまり、自然に対する我々の態度の面から、そして魅力的自然がこの態度に提供する質の面からである。

「感覚に対する感覚」─ほぼこれが美的距離の一つの基本定式である。この定式のはじめの語句で言われる美的な「感覚」とは、何かを聞き分ける感覚であり、諸感覚と一体になって何かに熟達する感覚である。しかしこれは、観照の探求でわれわれが学んだように、つねに何かを了解する感覚であるわけではない。従って、この定式の後ろの方の語句言われる「感覚」、つまり美的感覚がそこに差し向けられる「感覚」とは、つねに了解可能な意味連関であるわけではなく、場合によっては諸感覚の束縛されない活動に存在に過ぎないかもしれない。想像の分析では以下のことが明らかになった。つまり、特定の芸術作品の投影において美的感覚は全面的に自己自身へ差し向けられる。そのとき美的感覚は美的感覚のための感覚となる。たいていの場合、美的感覚は、ただちにもしくはとりわけ、世界を形成する意味地平の知覚へと向けられているのである。それとは対照的に照応的知覚では美的感覚は、実存的に現前する感覚に向けられている。またしてもすでにこれが、生活世界的実践に対して美的直観がとる三重の距離─禁欲的・超越的・内在的─である。自然の疎遠さは各々で別様に出現する。

観照的自然直観は生活世界的実践の方向づけから手を引く。観照的自然直観は自然の疎遠さをこの実践の組織立てに対する抵抗力として経験する。このことによって観照的自然直観は─我々の世界の見方の刻印を帯びた現象をしばらくの間我々の事物の見方の外部に見ようとする試みにおいて─感覚的予期すべてに対して禁欲的に振る舞うことができるようになる。─その逆に照応的自然直観は、自然との出会いにおいて生活世界的方向づけを強めようとする。照応的自然直観は自然の疎遠さを独自の生の形式の拡大や越境、損壊として経験する。このとき自然の疎遠さは自分の実存に対する肯定的もしくは否定的な反響のうちにある。ここで美的距離は生活世界的方向づけそれ自体への距離ではなく、たんに参加者を意識したり直観したりする余地を人間に許さないような実践の遂行対する距離でしかない。─このような内部的状況知覚とは対照的に、自然の想像は、世界のありうべき状況やありうべき見方を外部的に直観するものである。ここで自然の疎遠さは、芸術の未知の視点や形式に対する反響として現れる。自然の現実性は美的な世界解釈との「超現実的」な戯れだと判明する。

自然との観照的出会いでは生活世界的実践に対する最大の距離が支配的であり、照応的出会いではその最小の距離が、想像的出会いでは中間の距離が支配的である。美的直観に自然が、ある時は意味疎隔的に、ある時は意味付随的に、ある時は意味画像的に供与されるというのはもっともな話である。想像と照応の両方は自然の行為空間から後退し、不断の行為空間では現象に至れない何か─世界の見方を差し引いた世界の事物─に向かう。従って照応的内在と比較すれば、想像と観照は、全く共犯─しかしそれらの間に乗り越えがたい不信が支配するような共犯─である。だからここでもやはり、照応と想像の間や観照と照応の間同様に、第三の大きなこととの比較で与えられた並行性が交互的な反発と結合されている。自然の完全な美的知覚に必要な距離は、非-美的な実践にだけ該当するのではなく、美的な知覚実践それ自体にも該当する。美的距離のあらゆる形式は自分以外の諸形式に対してとる距離から生命力を得ている。

観照的自然知覚に属するのは、この自然知覚もまた、観照にかかわる美的な意味造形(象徴化)の形式と想像にかかわる美的な意味造形(象徴化)の形式とを隔離し得ることである。照応的知覚にあるのは、それが観照的な隔たりと想像的な隔たりから隔てられることである。投影的自然知覚には、それが観照的中立化の隔離と同様に実存的包含存在の隔離をも行うことが含まれる。これらの新規に定められた規定には肯定的な裏面がある。これらの規定は、自然との美的な出会いとの対立の各三方式の同一性の条件を定式化するものである。これらの出会いは各々、自分以外の出会いとの対立においてはじめてそのあるところのものである。美的自然の各三視点は自分以外の視点との違いではじめて完全な照度を獲得する。自然と美的に向き合うことの各形式において─自然の魅惑それぞれにおいて─自分以外の形式が無言で待ち伏せているというのはそのためである。我々が自然に直面してなしうる直観方式の一つだけにとどまることがめったにないのはそのためである。ボーデン湖を観照すること、優美な土地としてボーデン湖を享受すること、芸術を介して与えられた知覚方式の鏡映としてボーデン湖を観察すること、これらが合わさって湖水風景の魅惑のための注意を表わす。これらの知覚方式の交互作用の内にあってはじめて自然の現存全体が具体的に示される。自然の諸々の美的次元は還元不可能であるのに応じて、それだけ相互依存的でもある。美的距離の弁証法は美的自然の基本法則である。これが、美的自然の構成的な自立性と可変性の美的意味を名指すものでもある。自然は、我々が美的態度において自然にあてがう役割の一つに縛り付けられる必要は決してない。自然の可変性に美的に対応するものとは、自然の観照的・照応的・想像的な現存の相互作用である。

美的知覚方式の相互作用においてのみ、我々は自然の過程性の下に制限なく存在することができる。多方式での美的距離のみが疎遠さへの接近を可能とし、人間以外の自然の出来事の承認を可能にする。従って、自然の所与性の相異なる仕方に戻って美的自然の統一性を探し求めるのを我々が避けて通らなかったことは少しも不思議ではない。というのも、この相違が統一性だからである。自然の自立性と自然の可変性の共通な連関点かせ、それ自体はいかなる共通項にも至らないような一つの統一性を作り出すのだ。なぜなら、その統一性だけが相異なるものの共存にあるからに他ならない。自然の統一性は、自然の魅惑の同一性を我々に恒常的に拒むことにその本質がある。この恒常的なことが肯定的なこと、すなわち、われわれの「感覚のための感覚」の自由な解放である。

« マルティン・ゼール「自然美学」(25) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(中休み) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マルティン・ゼール「自然美学」(26):

« マルティン・ゼール「自然美学」(25) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(中休み) »