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2014年5月18日 (日)

マルティン・ゼール「自然美学」(33)

b.照応

しばしば芸術作品は、生の状況の表現であるばかりでなく、しばしそのような状況を具体化している部分でもある。さらに芸術作品の想像は世界内存在の一定の状況を描写するだけでなく、この病者の力で生の一定の状況を生産しているのである。芸術作品は外的な表現のおかげで、内的な美的表現を獲得している。視覚芸術は一般に、その直観に照応してその実存的空間を変化させたり変更したりする力を持っている。

芸術的仮象における世界知覚がそうであるように、照応的知覚にもまた直接的構成要素と間接的な構成要素がある。たとかに照応的知覚にとってそれらの関係は総括的に構成的である。照応的な知覚は、対象ないし空間の形態と表現に直接的にかかわっており、知覚する者の生の構想には間接的にかかわっている。両者は互いに結びついているのである。両者が一つに出会うことが、照応である。それらの受容的あるいは否定的現出であったりする。照応的に美しい形態とは、分割的あるいは分割可能な生の構想の表現でありまたそれらの形態の内に実際に生成した構想の表現のことである。照応的に醜い形態とは、分割的あるいは分割可能ではない実存的理想の表現や実在物のことであり、またそのために自分自身の生に対して著しく不適合な関係にあるもののことである。

「不適合」の代わりに「不均斉」と言うこともできるであろう。実存的投企に対して明らかに不均斉であるものが照応的に醜いのに応じて、自分自身の生に対して明らかに適合し均斉が取れている関係にあるものは、照応的に美しい。類義語の「整合的」と同じく、「均斉」という語は独特の言葉である。あるものがあるものに対して均斉が取れているということは、すなわちそのものと調和しているということ、あるいは簡単にそれ自身均斉が取れている、すなわち自足した良い形をしているということである。これら二つ観点の照応的符合は、まさに自動詞的使用の意味を了解しやすいものにしている。それ自身で均斉的であるか整合的であるものは、他のものとは適合せず、それは「私に」あるいは「我々に」、我々の感情や行為に、最終的に、すなわち我々の生の流儀に適するのである。自動詞的な均斉性は、直観的な実存的整合性である。異なったものが他動詞的に互いに適合するということのうちにこの自動詞的均斉が幾重にも実現するのであるかぎり、この適合の美的感覚を説明するのは自動詞的意味である。この種の純粋な整合性は、さしあたっては何ら芸術のカテゴリーではなく、生の事物に対する前芸術的な好感のカテゴリーである。芸地が照応的形態の想像的形成としてしばしば了解されねばならないとするならば、美的照応は、あらゆる芸術から独立に与えられうる美の本来の形式である。

いまや美的照応は一般に、簡単に見つけられるものではなく、人によって作り出されるものである。照応的な現前化とは、本質的に形成的な産出の実践であり、そこでは生の事物や環境を、それが何とか我慢のできる生の形式になるように整えることが重要なのである。この形成作用においては、形成的な諸形式の獲得が問題となる。ここでは実際に、すべての人間は芸術家であるか、あるいはそうでありうるのである。仕事場や住居の調整・服装のあり方・食事の支度・髪型や車種の選択などは、もっとも日常的な種類の照応的行為である。それらは個々にきわめて名人芸的・熟練的・高価なものでありうるのであり、照応的産出は日常的な美的芸術であるのだ。観照てもなく、想像でもなく、照応こそが、個人的および社会的な趣味の第一の専門領域なのである。

志向的な照応生産の活動は、実存を様式化する行為である。その意味は、固有の生に形式を与えることであり、その形式においてこの生の望まれた形式は一目瞭然のものとなり、またそのことによって(より)現実的になることができる。しかし、照応的知覚と照応的好感の様式が現にそうであるところのものは、必ずしもすべてが意図的あるいは慣習的な様式化に基づいているわけではない。従って何ら意図的な形成作用にもとづくものではない。照応はしたがって、たんに作られるばかりではなくて、見つけ出されるものでもあるのだ。まさに自然は、目標を定めない照応の空間であるのだ。自然は、それが人間の目標を定めた努力の表現であるような場所に、それ自身存在するのである。すべての整合的なものが我々によって産み出されものではないという点で我々が一致することなしには、自然の形成作用と我々とは決して一致しないのである。

 

c.観照

自然と関係する照応経験から観照的な態度への移行が、様式的な統一のある人工物に対する好感から観照的態度への移行よりもはるかに容易であるということは、自然と関係する照応経験の特性に属することである。私のタイプライター・私の万年筆・私のティーカップ・私の室内観賞用椰子と私は、毎日のように照応的コンタクトを取っている。それらの内で鑑賞用椰子は特別の役割を果たしている。私がその椰子を眺めると、椰子はそのいつもの表情で「応答する」だけではなく、同時にこの応答を撤回して、その親しげな身振りを差し控え、─その成長のこの段階におけるその生存を、葉の揺れ動きとともに観察するようにおびき寄せているのである。タイプライターや万年筆や茶碗は、同じ一瞬の知覚で直観されうるけれども、素直な観葉植物の観照的魔力はそれらに当てはまらない。私の直観がそれらの純粋な現存に固着している時、椰子の場合はことさらに一つの偶然である。それは、それらが日用品であるということから来るのである。それらはたんに観察のために存在するのではなく、また単なる考察のために作り出されたのでは全くなく、それらは使用されるためにそこにあるのである。この使用のために製作者タイプライターや万年筆や茶碗を考案したのではあるが、しかしまたただの使用のためだけではないのである。すなわちそれらは、その使用者たちにこころから愛好されるはずである。器具はそれを使用することの喜びのために作られるのである。私の日用品が持っているこの照応的感覚から、観照的直観はまず離れなくてはならない。それゆえ、純粋な観察にはかなり高い敷居があるのである。植物とその表情との結びつきは、人間によって作られた物と表情豊かなその形態との結びつきと同じではない。

観照的実践は、美的意味もまた美的に抽象することである。意味から感覚を観照的に浄化することは、それにもかかわらず、感覚および感覚による了解を破壊することではない。それはまた感覚の批判でもない。それは感覚に対する方向づけのある種の断念であるが、この断念が場合によってはその結果として意味の変容を引き起こすことがあるとしても、本来いかなる種類の意味の変容をも目指すものではない。観照的注意は、この断念によって感覚及び感覚に対する信頼に生じることを何も保証することはない。それは、現出を戯れさせるために、感覚と存在をあるがままにしておく。それは、実践とのあらゆるかかわりから距離を取る実践である。

第一章の記述は、その意味で何も付け足す必要はない。しかし観照的注意には、産出ないし、形成という固有の実践は何ら当てはまらないであろうという主張には、解説の必要がある。たんに他よりも多くではなく、独占的に観照に相応しいであろう対象を産出することが可能なはずだと、ともかく考えることができるであろう。まさに自然はそのような創造活動によって凌駕されるのであろう。なぜなら自然は、特別にそれが観照へと誤り導く場合に、決して純粋な観照的客体を提供することはなく、つねにまた照応的及び想像的に魅了するからである。自律的芸術の任務は、時にこのような純粋主義において見られてきたのである。成功した芸術殺品は、つねにそれ自身以上のものである。マルセル・デュシャン以上にこのことを天才的に示した者はいなかった。「レディー・メイド」の作品は、排他的な観照的生産の実現化を通じて、同時にその不可能性についての証明である。純粋な美的構成であるべき客体はそうであるからこそ逆にますますもって美的な意図から作られてはならない。彼は、事物を、それがまさに現に有るに受け取らなくてはならない。もし彼が客体に一定の形を貸し与えるのであろうなら、それはもはやその事物の現出だけが規定されていることではないであろう。そこで彼は瓶乾燥機を展示するのである。ここでは極めて実用的な器具が扱われているのであるから、画廊の空間におけるその美的隔離は、「目的なき合目的性」に対する実に効果的な事例であるのだ。その対象は(瓶乾燥のためには)合目的的である。しかしもここでは美的な文脈において、あらゆるそのような目的なしにそれは存在している。それは──いまや、観察のため以外の何もののためにもそこにあるのではない。その観察は、実用的あるいは芸術的あるいき美術工芸的に形成された形態に対するものではなく、この対象の純粋な事物存在にその注意を注ぐものである。なぜなら、画廊のなかの瓶乾燥機は、レストランの中のそれと違って、我々を目の前へと導く。その結果、美的な知覚が止みはせず、ようやく美的な知覚が正当に始まるのである。そのことによって、演出された瓶乾燥機は、一つの意味を、たんなる瓶乾燥機が持っていなかった想像的な意味を獲得するのである。芸術的な操作は、月並みな器具にその美的月並みその有する高貴さについて語らしめるのである。観照的な反-人工物は、観照的視覚の標識となり、さらにまた非-代理的芸術の前兆となる。この意味においてそれは─純粋な観照的対象とは違って─了解されねばならない。

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