無料ブログはココログ

« マルティン・ゼール「自然美学」(30) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(32) »

2014年5月15日 (木)

マルティン・ゼール「自然美学」(31)

4.風景の自然の回顧

自然美は人間の持つ卓越した生の可能性である。なぜなら、自然美はその可能性との出会いの傑出した一形式だからである。こうした可能性の全体性が風景としての自然との出会いである。美しい自然と崇高な自然を分析した時、つねにすでに風景経験という観点が言及されていた。

a.全体なき統一

美的自然の空間は、外部から直観されるような「表側の空間」だけでは決してない。これは想像的な観点についてどうにか妥当する。また、想像が視覚像に関係する場合にのみ妥当しもする。そして本来的にはその場合でさえ妥当しない。なぜなら想像的状況それ自体の分割と二重化が依然として、想像で生まれた自然劇場がきわだたせられる空間内での関係の経験だからである。自然のより大きな空間はいかなる直観された空間でもない。それは直観空間であり、しかも直観の最も広い意味でのことである。このような空間が、感覚的に聞きとりを行う、つまり形態の意味疎隔的観点と意味付随的観点とに対して、その画像的観点に対してと同様に感受性を持つ主体の身体をとりまいている。主体は自然の空間を、表出を伴う形式と表出を伴わない形式との概観不可能な出来事として経験される。多かれ少なかれ自立的な生命連関として知覚する。風景の空間は、自然改造的な空間である。加えて、この美的関心の対象が生活世界的に経験可能な自然でしかありえないことを想起するとき、我々は以下の想起を手に入れる。すなわち、風景とは美的自然によって変形された人間生活の現実そのものである。

風景的自然も大の両義性と小の両義性の生起の内にある。風景的自然の美しさは崇高と接触しており、風景的自然の崇高性は美と接触している。風景的自然の美/崇高の現前は決して保障されず、かろうじて供与される魅惑を遠ざけることに転化できるにすぎない。風景が自然空間として─そして自然空間が風景として─考えられうるには、時間がこうした空間の中で考えられねばならない。風景の魅惑や直観方式が満たされたり遠ざけられたりする相互作用の可変的時間こそが風景の統一性をもたらすものである。風景の統一性は過程的な統一性である。包括的な意味で美しい風景が重要である場合に特にそうである。これでトリヴィアルな規定─自然のより大きな空間として風景─がそれほどトリヴィアルではない結果に至る。風景としての自然の統一性は内容的に大きなことではない。その統一性は、自然の中での時間統一性であって、自然との意味-統一性ではない。自由な自然を取り巻く大きな空間での美的状態は、自然と感情的もしくは精神的に一体であることではない。美的風景とは、風景全体として把握されたり形態化されたりはできず、系列にもたらされえないような全体性である。全体性が、把捉しうる全体もしくは感じ得る全体と同一視されるとき、美的風景は、遠ざけられた全体性の空間である。れこそ、自ら意味付随的ではないような自然との近代的出会いの空間である。これは自然における近代的自由の空間でもある。これは、あらゆる完結的自己了解を超え出て行けることに自らの自己存在を見出すような主体にとっても、自然の魅了にほかならない。風景的直観の統一性は、全体なき統一である。

自然の還元されざる美的な直観が全体との一体性を知っていること、それは確かである。しかしこの直観がそうした一体性であるのではなんらない。それを超え出てさえおり、自然との意味付随的な同一化の可能性に拘束されるものではない。全体を見出すために風景的自然の経験を整える者は誰でもが、風景を美の照応の空間へと還元させる。このような美の照応については、それが包み込むような種類のものであり、知覚においては、主体がそこで揚棄され、それにより自分が持ちこたえると感じるような一つの全体に溶け込んでいくようなものだと言った。しかしこれだけが風景なのではない。それは風景の本質的状態の一つである。それらの状態のあいだにとどまらない者は誰でも、風景の現前を避けている。そしてまた風景の諸情態が固有の世界内部的遊隙であるので、その人は自分自身から逃れている。自然との美しい同一化にありながらもこの同一化の状態に固執しないこと、これこそが自由な自然における人間的な自然における人間的自由をなすものである。善美の風景が、我々の事物の見方や我々の生の構想の直観的強化にとどまらず、いわばその直観的呈示にして直観的一時停止であるような当該現実であるのは、こういう理由からである。 

 

 

5.自然風景・文化風景・都市風景

 

風景の経験にはより純粋な自然区域が存在するが、その一方で文化風景の美的現存はというと、それ以外の所与存在のある特定の位相であるに過ぎない。要するにそれは、われわれが美的経験の方に顔を向けながら存在しているということでもある。要するにそれは、文化風景において我々が美的経験の方に顔を向けながら存在しているということでもある。強い意味で自由であるような自然が、我々を無防備な仕方で自然の風景と直面させる。なぜなら、この場合、自然の生活世界的な所与存在が我々にとっては風景的な所与存在であるからである。このとき総括的自然は日常世界の中の対立世界ではなく、この世界に対する対立世界である。形態化されていない風景の自然は、形態化された風景の自由の極端なものである。ここでは、プラグマティズム的に捉えられた自然との数多くの些細な差異が、社会的および文化的統合との大きな差異の内で消失する。しかしそれはすなわち、美的な自然風景の分析的パラダイムが文化風景であり、かつ、文化風景でしかありえない、ということである。文化風景が存在する場合は、より厳密な自然風景が生成発展し得る。つまり、開発された風景のなかでの自由の高まりとして、すべての自然風景が「文化に対する距離の文化」─その出自は都市の文化─にその源を発するものならば、可能な限り自由なかぎり自由な文化を探すことは、この文化の拡大形式である。

 

都市がいつ風景として現出し得るかということに、よく注意することが重要である。綜合に向かおうとする知覚には近寄りがたいような解放的で分散的な空間においてのみ、都市は風景として現出し得る。自然に向かって開いていること、そして、自然そのもののように見えること─これが都市を風景として経験する条件である。風景は自由な自然という単なる仮象かも知れないとする、自然風景の美学に拒まれたこの思想が、都市風景の美学に当てはまるのである。風景の非正規な空間が企図されたものや計画されたもの、作成されたものの中で開示されること、これが総括的都市の醸し出す物議である。自由な自然全体の中で風景を一つの都市のように経験することは不可能なのに、都市の風景はそれがあたかも自然であるかのようだという一つの出来事となる。自然は風景の自然である。しかし、そうであるが故に、美的なものの自然は風景ではない。

 

« マルティン・ゼール「自然美学」(30) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(32) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マルティン・ゼール「自然美学」(31):

« マルティン・ゼール「自然美学」(30) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(32) »