無料ブログはココログ

« マルティン・ゼール「自然美学」(34) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(36) »

2014年5月20日 (火)

マルティン・ゼール「自然美学」(35)

c.干渉的芸術対統合的芸術

私の第三の命題は、それゆえ、美的に包含的な芸術の二つの形式を区別することを提案する。すなわち「統合的」な芸術と「干渉的」な芸術とである。芸術の客体は本質的に包含的美的客体であるということが正しいとするならば、これらは芸術的な統一性の二つの根本形式である。統合的な芸術作品は、三つの美的機能をそれらが区別できなくなるまでに一致させ、美的統一性の状況を定式化する。干渉的な芸術作品は、その美的知覚の諸形式間の溶け合うことのできない過程をあおりたて、美的差異の状況を定式化する。統合的な芸術作品の統一性は一つの全体を形成するが、干渉的な作品の統一性は、全体なき統一性である。

ジョットのフレスコ画は、疑いなく包含的な芸術作品である。キリスト教救済史からの一連の画像の仕上げと配置において、またその装飾的で空間充足的な縁取りと寓意的注釈において、それは照応的美的知覚にも感傷的美的知覚にも呼びかける。しかもそれは単に時間的同一的にまた同じようなバランスで呼びかけるだけではなく、そのうえ同じ意味で語りかける。知覚の一方の形式を制限なく実行することは、ここではすでに知覚の他の形式を制限なく実行することである。このフレスコ画はたんに包含的であるだけではなく、それはそのうえ統合的でもある。それらの画像は一つの特別な空間を構成し、その儀式的な用途にはっきりと形態を付与しているが、それはそれらが一つの宗教的な世界観を定式化し劇化すること、したがって想像的に現在化させること、またそのさいに形と色彩と動きの戯れを舞台にあげることによってそのようにするのであるが、その戯れは再び他の二つの分節化方式を担うのである。それらは他方によって一方を成し、また一方によって他方をなすのである。例えば礼拝堂の半円筒ヴォールトの星空は、全空間を覆う鮮やかな青に保たれており、その青はそれぞれの出来事のための画を繋ぎ、ジョットが人物の行状を際立たせる手段として使用した赤褐色の色彩と共に、描写される出来事のための画像空間を開くものであるが、その青は一方では観照者から画面を遠ざけ、他方では観照者のほうへと画面を引き寄せる。この二つの色彩のように、他の画像材料もそれ自体だけでは決して感覚的エネルギーとしては成立しない。それらは、個々の画像物語の伝承されている意味に、それぞれの画像がその色彩と形態との生命のなかにのみ持つ明瞭な意味を付与するのである。この内面画像意味は他方では礼拝堂を一つの場所となす、つまり、そこでは描出された光景はたんなる描出ではなく、それ自身地平に富む現実となるような一つの場所となす。描かれた天国の青を観照的に眺めることは、ここでは天国の領域を想像的に心に銘記することであり、またこのことは他方で画像的に現実化された意味連関との照応のうちに在ることである。美的知覚方式のそれぞれは、ここにおいて他のものを包み込み、他のものを突き放すことなく、すべてのものがキリスト教的世界の可視的な活性化において同時に起こるのである。

まさに、この同時発生の破棄において芸術作品の統一性を獲得する芸術作品との経験を持つ者だけが、この同時発生の力をそのようなのとして経験することができ、また同時発生としてその力を分析することができる。

統合的である包含的芸術は、その作品秩序の構想において、同時に世界秩序の再現あるいは構想である。その意味は、結局は作品としてそれらの上位にある秩序の例解、現実化あるいは祈りにある。それに対して干渉的な態度をとる包含的芸術は、この関係を逆さまにする。すなわちその芸術は、厳密な意味において秩序外的な構造としてその構成を提出する。この作品の統一性は、あらゆる芸術外的な秩序を超えたところにある秩序として了解されうるかもしれない。干渉的作品とは、他の言葉で言えば、もはや世界の解明された解釈の代表者や代理人ではなく、世界の実験的解釈の代理人である。統合的芸術は、その芸術によって創作されたり更新されたりする事物の眺望への確信を必要とし、干渉的芸術は、事情に応じて確信を必要とする。すなわち、自分自身と世界について成立しているあらゆる解釈に対する主観の有力あるいは無力への確信を必要とする。

 

« マルティン・ゼール「自然美学」(34) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(36) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マルティン・ゼール「自然美学」(35):

« マルティン・ゼール「自然美学」(34) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(36) »