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2014年5月29日 (木)

マルティン・ゼール「自然美学」(42)

2.倫理に関する区別

a.二通りの「道徳」

「道徳」という言葉には二つの根本的な意味がある。広い意味で了解された道徳という言葉は生き方の道徳を意味し、それに対して狭い意味においては他者に対する配慮の道徳を意味している。生き方の道徳は他者に対する配慮の道徳を含むことをも含まないこともできる。他者に対する配慮の道徳は生き方の様々な道徳の中へ組み込まれるかその道徳に基づいている。生き方の道徳は、それらが他者の配慮の諸原理をともに含んでいるとしても、個人の善き生の形式に関わる。生き方の道徳にとって重要である善はすべての人にとって善である。道徳的方向付けは、一言で言えば、(広い意味では)個人的な善に関係し得るか、あるいは(狭い意味では)社会的な正しさにかかわりうる。

「道徳」の二つの意味には哲学的倫理学の二つの意味が対応する。哲学的倫理学の第一の主題は人間の善き生でありうるのかあるいは人間の正しい共生でありうる。そうすると哲学的倫理学は目的論的倫理学であるのか義務論的倫理学、または「努力倫理学」あるいは「当為利理学」であることになる。道徳的なものの理論は、個人的な善あるいは社会的な正しさという二つの次元のどちらを根本概念として選ぶかに従って区別できる。古代の倫理学は「善の倫理学」であった。古典古代の倫理学は成功している生活の理論から相互主体的に有意義かつ正当なものと言う規範を展開しようとした。それに対してカントの伝統に基づく近代の倫理学は「正しさの倫理学」である。その倫理学にとっては社会的に正しい行為という規範が成功している生活の活動の余地を確定する。善の倫理学は価値評価的に解釈された人間の生の形式の共通性に基づいて人間の人倫的連帯を規定しようと試みる。それに対して正しさの倫理学は、人間の生の形式のさらなる価値評価からは独立に人間の自律の相互承認に基づいて人間の人倫的連帯を規定しようと試みる。こうした古典的な二者択一の選択肢─善の優位か正しさの優位か、両者の大きさの原理的同一性か原理的差異か─がどのように評価されうるとしても、倫理学の主題は二つであるが問題は一つであること、つまり倫理学の二つの根本主題がどのように相互に関わり合うかという問題である。

これらのことを前提としたうえで、私は差し当たり用語上の結論を下すことで満足しておきたい。私は「倫理的」という形容詞でもって今後「広い意味において道徳的」ということを、それに対して「道徳的」という表現でもって「厳密な意味で道徳的」ということを表わそうと考えている。そのように了解すれば、「倫理的」方向づけ・規則・洞察などは善き生あるいは成功している生の一般的な可能性に関わる。他方で「道徳的」方向づけ・規則・洞察などは社会的尊敬の普遍的な原則に関わる。

 

b.生活経験の範囲

自然美の道徳は倫理的な意味の道徳である、と今では言うことができる。美しい/崇高な自然は何人かの人にとってではなくあらゆる人にとって善き生の可能性なのである。それは、自然美が生き方の普遍主義の試金石として我々に役立ちうる、と主張している。生き方の普遍主義を実行するには実存的方向づけと倫理的方向づけとの関係をより詳しく解明する必要がある。ここに美的なものの内に倫理的なものを知覚する要点がある。

実存的経験とは、我々が行為の状況を自分自身の生の善い可能性あるいは悪い可能性、有望な可能性あるいは見込みのない可能性として知る経験である。問題となっているのは価値経験の一つの形式に他ならない。経験されるのは、我々が存在している状況あるいは存在した状況の主体的な価値である。この価値評価の観点は、問題になっているような状況のなかに居ることあるいは居続けることは自分の生にとって善いことかあるいは重要なことかという問いによってきわめて簡潔に特徴づけられる。その問いには、実存的な善について語ることは二つの根本的意味を持つということが含まれる。一方の意味で善いのは、喜ばしい生が可能になる状況である。他方の意味で善い状況は、その状況を経験することが自分自身の生の形成にとって重要であるような状況である。前者の状況は実存的で直接的な状況、後者の状況は実存的で間接的に善い状況と言いうる。実存的な経験とは、一言で言えば、行為状況の直接的価値を自分自身の方針に対する間接的価値において知ることである。自然美の臨在はこの意味において直接的かつ間接的に善く、それゆえ自然美の経験は肯定的な実存的経験である。

照応的な美的経験は、第一段階の実存的経験に対応している。そうした第一段階の実存的経験は、状況に巻き込まれた構想の─その直観化にかかわる─美的な変容である。それに対して想像的経験と観照的経験は、第二段階の生の経験であり、言い換えると、現実の実存状況のいかなる経験でもなく、またその実存状況のその都度の構想との対応・非対応のいかなる経験でもない。むしろ両者に対する反省的なあるいは厳格な距離の経験である。しかし、観照的な放心状態と想像的な投影の状況は遂行志向的な活動の機会としては直接的に善であり、自分自身の生をすでに選ばれた方向づけの範囲を超え出て方向づけることとしては間接的に善である。それらの経験の直接的遂行並びに間接的遂行の様相が同時に現実化されるならば、行為状況の開示が同時にこの状況の一次的解釈に対する活動の余地を開示を許すならば、直接的な(第一段階の)実存的経験並びに間接的な(第二段階の)実存的経験に対して強化された実存的経験が存在する。このタイプの経験において現実性は古いあるいは新しい必要ならびに理想との第一の照応の状態において経験されるだけでなく、現実性は人間的生の遂行の脆さ並びに自由との第二の照応の状態においても現われる。それに対応して自然美の風景における「充実した時間」とは我々のものの見方に対応するものであって我々の生の理念の直観的に高められた対応物であると同時に、またそうしたものの見方や生の理念を直観的に超え出ていくことでもある。

倫理的経験は相対的でない実存的経験と言えるかもしれない。倫理的経験は人格に相対的な構成要素を含んでいる。ただし、そうした構成要素のうちに埋没はしない。倫理的経験とは生の普遍的形式をそれぞれの人格に即して解明することなのである。

自然美は、相対的価値評価と相対的でない価値評価が倫理的経験において相互にかかわり合っているのを適切に示す事例を与える。自然美の非相対的価値というテーゼは傾向性の表明をも美的判断の許容力の広さをも拠り所にはできない。そこそこ自由な自然は、様々な好感のあり方に対してあまりにも寛大であり、きっぱりと特定された一つの─主観的あるいは相互主観的な─好感が最も強い普遍性をあてにすることはできない。美的自然の倫理的要点は、あの美やこの美がではなく、あれこれの美に関係なく自然美一般の経験が事例として取り上げられる時に、ようやく姿を現わすのである。そのとき以下のことが見えてくる。すべての人々にとって善いのは必ずしもこの状態ではなく、この種の状況であろう。この種の状況においては肯定的な照応・成功する想像・我を忘れた観照が自由に共存している。私がこの状況を経験することは同時に、私がそもそも善いと言える生の状況を知っていることである。生の善い状況を知っていることの意識は、そうした状況の経験を本性的な構成要素ですらないのであって、むしろそうした経験の内容を反省した結果なのである。

この種の状況はあらゆる人にとって善いのであって、各人がいかなる生の構想を懸命に追究しているかということには全く依存していない。ある人が自然美に遭遇している状況を価値評価する普遍性は、この状況において自然が照応している構想の普遍性ではない。善き生の相互主観的構想はいたるところに存在するし、それどころか厳密に考えれば生の経験の相互主観性は、私的な生のイメージの主観性に対して根本的な位置を占めているにもかかわらず、生き方の倫理的普遍性という仮定は生の構想の強い普遍性を拠り所にすることはできない。生の構想はいやおうなしに相対的である。個人・集団・階層・文化の特殊な現実存在の条件を生産的に考慮に入れることがまさに生の構想の意味である。それに対して生の形式は、その構成員あるいは代表者によって具体的な生のイメージと等置される必要はないし、したがって特殊な排他的共同体である必要もない。普遍的な生の形式の倫理的内容はそのような生の理想とも等置され得ない。普遍的な生の形式は普遍的な生の構想ではなく、むしろ自己自身と世界に対する実践的な関わりの原理的に様々な構想を持ちそれを展開する卓越した仕方なのである。

それとともに倫理的経験の概念にとっても第一段階と第二段階の経験の実存的差異に対応するものが見出される。強い倫理的経験はある生の構想を確証したり発見したりすることである。それゆえに、自然美の状況の倫理的な質は、その中で確証されあるいは拡張される厳密なあり方の実存的構想からは「一般的に」独立であると言われるはずであった。しかし、自然美の状況は実存的構想のあり方から完全に独立しているわけではない。自己自身との距離が構想されていない生の構想が存在する。そうした生の構想に対して自然全体の美的経験は閉ざされている。したがって、善き生の美的経験は特定の生の構想を前提にしてはいないとしても、自然を事例として獲得される善き生の美的概念は生のいかなる構想に対しても中立的なのではない。自然美は善き生のある状況である。その状況に対して我々の生のイメージは─我々に都合の良いことには─開かれているが、また─われわれにとって都合のわるいことには─閉ざされている可能性もあるのだ。

自然美の美的-倫理的経験は強化された実存的経験の形式として「生の構想を横断して」いる。自然美の美的-倫理的経験は─多次元的かつ積極的に自由な生であるがゆえに─善き生の形式の強い倫理的経験をともに含んでいる。強化された実存的経験はつねに強い倫理的経験、言い換えると実存的で倫理的な自由の経験であり、ある実存の仕方の経験でもある。その経験において私にとってだけでなく一般的に現実存在が実り豊かである余地が与えられているのである。

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