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2014年5月 7日 (水)

マルティン・ゼール「自然美学」(25)

第4章 自然知覚の時間

自然はその現出の戯れや生の形態や芸術の画像として、美または崇高である。我々は我々が自然によせる美的関心を三度考察し、そのつど別の自然が我々の前に姿を現した。いつ我々が美的自然に出会っても、そのたびに真の自然がわれわれからすり抜けていった。しかし、三つの自然知覚の基本形式だけでは自然の魅力を充分に解明することはできない。三つの自然知覚の基本形式だけでは自然の魅力を充分に解明することはできない。三つの美的次元かが自然の領域で重なり合う仕方、それらが自然との出会いで共存する力、これが、我々の体験に対する自然の本来的魅惑をなすものである。

はじめに自然の統一性の問題がある。この統一性は、これまで論究してきた視点に優位する何かとしては了解され得ず、それらの視点の相互作用の内にある。美的自然の統一性の規定は時間規定としてしか与えられない。それらの基本様相は、制約のない自然知覚の時間では時間的同一性に現前する。他方また、この同時性は、どちらかと言えば美の共存の特性もしくは崇高の共存の特性を持ちうる。しかし、最高の形式の自然美は、この二者択一の彼岸に存在するものであるから、この自然美の状態は両義的でありつづける。自然の美しさは自然の美的両義性からのみ了解されなければならない。美か崇高かではなく、このように自由である自然のみが、自然の美しい/崇高な現前の舞台でありうる。このような自由の概念が、我々がこれまで長いこと避けてきた現象の適切な記述を可能にするのである。その現象とは、美的風景のことである。

1.美的自然の統一性

a.肯定的偶発性

この統一性の手がかりをつかむ一番簡単なやり方は、三つの基本的魅惑の記述の根底に共通して存在する諸規定を拾い集めることである。その諸規定は見るも明らかである。三つの端緒的考察のどれにおいてでも、自然らしい現出の変化可能性や自立性、その美的受容に必須な特定の距離が話題であった。

自然美に対する感覚が必要とする隔たりは、文化と同様に自然にも当てはまる。ある文化に対して隔たりがあるということは、その文化において既に自然に対してある一定の隔たりが与えられているということである。つまり、「問題提起的」自然を持つ文化に対する隔たりとかねその文化への実際的関わりに対する隔たりである。しかし、隔たりに代えてこう言ってもいい。つまり、疎遠さである。美的な自然知覚の第三の条件とは自然及び自文化によせる根源的もしくは日常的な信頼であろう。自然美に対する好感とは二重の疎遠さの好感であろう。

自然美とは自然の肯定的偶然性である。しかしすぐさま、そしてまさしくこの点で、一方で(肯定もしくは否定)形而上学の道と他方で自然美の卑俗な分析の道とが分かれる。つまり、この美的肯定の三形式が区別されねばならないのである。第一の場合、一見偶然的としか見えないが、美的直観では意図にあふれていると開示されるものを首肯することから、自然の魅惑は了解される。これが肯定形而上学的なヴァリエーションである。第二の場合、自然美は、その偶然性を(それが偶然的なものとして意識されているにもかかわらず)美的直観において克服するように見えるものを肯定することから了解される。これが否定形而上学的なヴァリエーションである。第三の場合、偶発的であれ、かつ、この偶然性から自らの特質を展開するものの是認から、自然の魅惑は了解される。これが、我々の分析から判明するポスト形而上学的な立場である。自然の美しさが明らかにするといった有意味な幻影もしくは仮象等は必要でない。

対照的に、自然の疎遠さは自然の美的な楽しみを引き上げる。目的従属や意味了解から距離をとった立場から自然が偶発的な出来事として直観されること、それが、自然の疎遠さを自然として承認することである。疎遠さの契機が、相異なる三つの次元の何れにおいても決定的役割を果たしていることが思い起こされねばならない。自然の純粋な観照では、なかでもない意味疎隔的な自然現出の充実が重要である。崇高の照応では自然の疎隔さが独自の生の誘惑的可能性として出てくる。そして、自然との一体感や自然への信頼感が実際にそこで与えられる美の照応こそ、その特殊性が自然照応として忘却されたままと言わないまでも、「歓迎すべき」疎遠さの状態として把握されねばならない。自然との宥和は、自然とのかかわりなしでの宥和ではなく、現存する自然と直面しての宥和であって、率直に言えば、達成された偶発性と疎外の状態での宥和だと言える。照応的に美しい自然において我々は上述のような二重の偶発性や二重の疎遠さと宥和している。

疎遠さが美的自然の本質をなすというテーゼは、形而上学的な自然美理論の重要な洞察の一つである。すべての伝統的な理論、そもそも真剣に受けとめられるべき理論すべては、自然美を、人間の自覚的にして自己統御的な実践の肯定的限界と見ている。しかしも近代における美的な自然経験の意味とは、本質的観点ではいかなる意図からも発しない何かと対面するということである。自然それ自体にはいかなる意味もない。だからこそ美的観察の時間を自然に捧げることは、我々にとって意味がある。

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コメント

この美学論は難解で断片的にしか理解出来ません。でもたまにちらっと解ったりすると嬉しいものです。CZTさんがこの文章を掲載する意味、どう受け取っているのか、それを簡単で良いから書いてくれると有難いです。
ところでCZTさんはかな漢字変換ですか?私がそうなので、ある理由からそう感じたのですが。

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