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2014年5月24日 (土)

子供はデカイ夢をもつのがいいのか

小さなころ、幼稚園の卒園式とか小学校の卒業式のような大きな節目のとき、「大きくなったなら何になりたい?」ということをよくきかれた記憶があります。それだけでなく、家に来客があったり、逆にお出かけした先で、大人に紹介されると、よくそういうことを聞かれました。いわゆる将来の夢というものです。

先日、あるSNSのお友達の発言で、こういうのがありました。その人は、お寺でカフェをやっている人なのですが、たまたま小学生の女の子が一人で来店(というより、お寺に来たついでに寄った)し、そのときは店内は閑散としていたので、興味をもってその小学生にはなしかけたそうで、お寺に参詣して、何を祈ったのかという話から、その小学生は就職できますように祈ったということで、以下その会話を抜粋します。

「小学生だよね、早すぎない?」

「いい大学行って、いい会社入って、お給料もらってたまに贅沢するのがいい。大学行かなくて、バイトしかできない人が周囲にいて、そうなりたくはなくて」

「夢とか、やりたいことないの?就職って手段だよ。今そんなことを考えるひつようないよ」

「夢を見るより現実をみないといけないと思うので」

というものでした。このお友達は、この閉塞的な考えに怖さを感じたと言っていました。

 

こんなことを取り上げて、ことさらに大袈裟なことをいうのは不謹慎かもしれませんので、あらかじめお断りしておきます。これから大風呂敷広げます。

私が、これから書きたいのは次の2点、夢はそれほどのものか、それと子供の話す言葉ほそのまま字面とおりにうけとっていいのか。ということです。その背後には、言葉とか考えとかをスタティックに捉えすぎていないかということも含まれています。どうですか、かなり大言壮語でしょう?ですので、うっとおしい議論をします。ここから先です。引き返すなら今です()

 

さて、最初に2点目からいきたいとおもいます。まず、この小学生の言葉を真に受けていいのかということです。私の場合、子供としてはひねていたのか、屈折していたのか、人見知りする性格だったせいもあって、とくに大人と話をする時は、相手によって態度を変えていました。(多分、私だけではなくて、誰でも多かれ少なかれやっていたのでないかと思います)だから、私は基本的に子どもの言うことは信用しません。最初に少し書いた、私が子どもの頃受けた、将来の夢、という質問に対して、極端なことをいうと、相手によって変わっていました。子どもにこういう質問をするような大人はたいていの場合、こどもから受ける答えを決めつけている、穏やかな言葉言えば期待しているものです。だから、その期待を前提に、ある一定の範囲内で答えを取り繕っていたと思います。その相手の期待なんて分かるのかと、不思議に思われるかもしれませんが、だいたいそういう質問が出会い頭に唐突に出てくることはなく、いろいろやり取りの後で出てくるし、その大人に紹介される前に、大人同士でやりとりしているのを見たり聞いたりしているので、そういうことは直観的になんとなくわかっていたと思います。ずいぶん生意気な子供だったと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、子供だって家族だったり近所だったりと大人に囲まれた中で生きて行かなければならなかったという説明で十分だと思います。そんなことを老人に近くなった私が話すのもおかしいことですが。上の例の場合、その小学生や場の雰囲気、そして小学生たちが相手をどう見ていたかによって、答えが決まってくる部分も結構あると思うので、これだけで閉塞的とは、私には即断でません。書かれた文章を読むように表層の言葉の記号的内容だけで見る、一種の静止状態のような抽象化してしまうからではないか、と思います。

さて、戻って、1点目に行きたいと思います。そもそも、夢とはそんなに重要なものなのか、ということです。そこから派生して、この会話の場合の相手の人の考えの優先順位、夢という目標があって就職という手段が続くというのは、普遍的なのかということです。フランクルの「夜と霧」に書かれた強制収容所で死を待つしかなかったユダヤ人の人々といった極限状態では、希望をもてるか否かが生き抜くことにいかに不可欠だったかということが分かりますが、今の日本の普通の社会ではそれほどの極限状況にあるとは思えません。夢という目標をもって、その実現にむけて努力するというのはたしかに一つの生き方です。しかし、人の生き方とはそれだけなのか、ということも考えていいのではないか。たとえば、そういう生き方では、目標に向けて努力する毎日の生活が目標に対する手段ということなってしまって、目標達成の我慢ということになります。これをそうだと受け入れるかどうかは人によって議論が、というよりは姿勢が分かれるでしょう。ここでは、それ以上追及しません。(ただし、外的な事情で持ちたくても夢を持たせてもらえないというのは別の話です。)これだけで1年以上語ることができそうなものですから。もうひとつ、この場合の手段と目標のプライオリティは決まっているのか、ということです。例えば、大学受験は、この伝でいえば、夢を達成するための手段ということになりますが、大学に入って夢を見つける人もいるというわけです。就職の場合もそうです。べつに夢というのは若いうちに持たなければいけないというのはなくて、老人になって夢を持ててもいいはずです。その時その時のシチュエィションから新たな夢を見つけることもありうると思います。これは、夢をもつということを固定的に静止した状態のように考えてしまうことで、私は、それを否定するつもりはありませんが、もっと常に動くものとして捉えてもいいのではないかと思います。

この場合は、小学生にからかわれたというのが真相に近いのではないか、と思います。

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あるIR担当者の雑感」カテゴリの記事

コメント

大半が親からの受け売りでしょう。

OKCHANさんコメントありがとうございました。たしかにそうではありますが、この場合も親との距離感をもっていると思います。

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