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2014年5月22日 (木)

マルティン・ゼール「自然美学」(37)

.二重の原像性

美的自然と美的芸術は多くのものを共有してはいるが、両者はカテゴリーとして区別される。それゆえ、自然に対する芸術の美的優位、あるいは芸術に対する自然の美的優位についての問いは、その問い一般が新たに立てられる前にすでに解決されているように思われるに違いない。この対置的な概観は両者を同等の現象として現出させた。芸術に対しても自然に対しても、美的優位を認めることは相応しくない。両者一般に認められている差異において、芸術と自然は、相互的強化という意味において、互いに「原像」でありうるからである。自然と芸術は、意図的に互いのために存在するのではないけれども、それでも美的に互いに対して存在するのである。

自然と芸術の美的統一形式は、互いにとって手本ではあり得ない。芸術は、それが芸術にとどまろうとするならば、自然の統一性に到達することはできないし、自然は、それが自然にとどまるべきならば、芸術の統一性に到達することはできない。

全体としての芸術は、あらゆる自然を制限なしに美的にただ経験するのであるということの記憶。自然の美的統一性ではなく、あらゆる美的自然の可変性と同時性は、成功した芸術作品の産出と受容の修正である。つまり、一回限りの構成の分節可能性が、作品内的な分節契機の過程といかに強く結びついているかということの記憶のことである。美的自然は、芸術的に創作された形式の過程的独自性の創造と知覚に対する手本であり、美的芸術は、自然においてもまた美的次元の多元性と差異の知覚に対する原像である。自然の偶然的な美しさに対する激情は、いかに逆の事態であろうとも、芸術の裂け目の入った光景に対する激情に属している。

十全な意味で美しい自然が存在できるためには、成功した芸術作品への関連がなくてはならない。成功した芸術が存在できるためには、自然や自然美との内容的な関連は必ずしも必要ない。芸術と自然の二重の手本性の命題は、この叙述的な言明を規範的原則によって支持する。すなわち、十全な意味で美しい自然が存在出来るためには成功した芸術に対する感受性がなくてはならず、成功した芸術が存在できるためには自然美に対する感受性がなくてはならない。芸術が成功するためには、たしかに自然との内容的関連はなくてもよいし、自然が芸術の中に何らかの方法で現われなくてもよい。しかし自然の肯定的な偶然性や芸術作品におけるその反映に対する美的な感知能力は、どこまでも芸術の成功の条件である。

これは、芸術と美的自然は歴史におけるそれらの異なる立場にもかかわらず、なおまた共通の歴史を持っているということを示している。それは芸術と自然の美的差異化の歴史である。この芸術と自然の共通の歴史は、両者の相互的な優位を遅ればせながら承認した歴史として、すなわち、両者の美的同等性の歴史として記述されうるであろう。その主眼は、芸術と自然の間の美的差異は芸術の発明に属するものだということであろう。美的芸術は、美的芸術の正反対のものとしての自然美を発展した存在を産み出したのである。多くの芸術作品が干渉的なものとなり、またそれらとともに芸術が全体として強い意味において多元的なものとなった後にようやく、自然は美的諸次元の相互作用的過程となることができたのである。芸術の可変性と同時性の発見と共に種類の異なる自然の可変性と同時性の発見に至ったのである。自然の美的芸術が全体として統合的描写の理想へと帰ることができないように、芸術によって破壊された美的自然の全体性を、芸術によって再び樹立することはできないのである。その時以来、歴史的に芸術によって解放された自然美の空間は、芸術によってもはや破壊されることはないのである。

 

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