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2014年5月11日 (日)

マルティン・ゼール「自然美学」(28)

2.両義的経験

美的自然の統一性の概念的分析はその統一性の自然美としての現出に方向づけられているが、それは、あたかも自然の満たされた現前の実現の中でしかこの統一性が与えられないと見えるかもしれないほどである。この印象は欺瞞に満ちていると思われる。満たされた自然知覚の時間は、美的自然の統一性の卓抜な一形式にすぎない。たしかに自然美の時間は、美的な自然統一性の完全な概念を与えることができるが、自然における美的共存の諸形式の完全な記述を与えることは決してできない。もしそれが可能なら、美的自然の統一性は包括的に美しい自然の所与性のなかでしか見られないだろう。何かきわめて決定的なことが、またもや偶発的で厄介で信用できない統一性が─またもや自然が美的自然の中で─見逃されていることだろう。美的自然は美的に両義的な自然である。

a.「美」と「崇高」の彼岸

自然美の最初の定義とは異なって、第二の詳細な定義では美と崇高の差異が出てこない。最初の定義の時に述べように自然美とは、事物の見方や生の構造の直観的宙吊りであると同時に直観的強化にして直観的呈示として提供される生活世界的現実である。たしかに、この規定に両方の美的充実様態を取り入れるのは困難でない。我々は観照的一時停止をもっぱら意味連関の点的もしくは状況的な無力化として記述せねばならず、照応的強化をもっぱら目下の生の構想の充実もしくは超過として、想像的呈示をもっぱら芸術の変奏もしくは刷新として記述せねばならない。それでも、自然美のあり方をこの二分法の彼岸で名指すような規定を行うのには長所がある。なぜなら、適切な自然美理論とは、美しい自然の理論か崇高な自然の理論化ではいけないからであり、また美しい自然の理論でもあるし崇高な自然の理論でもあるというだけでもいけないからである。適切な自然美理論が美しい自然と崇高な自然の区別を考慮するのは、他でもなく、その理論がまずもって自然の美しい所与性のために構築された仕方で自然美を存在させているのでもないというそうした仕方でのことである。美と崇高の原則的分離しどれもが、美的自然のさらなるイデオロギーの一つでしかないだろう。というのも、美的自然がこれらの役割の一つに縛り付けられていることはないからである。

ここで重要なのは、美的自然の個々の次元での変更ではなく、これらの次元の相互作用二重の様態である。そのように理解するとき、美と崇高は自然美の両極的な同時性の特性として区別される。

美の自然統一性概念と崇高の自然統一性概念もまた相互依存的である。結局我々は一方を他方との関連でしか規定できない─つまり崇高を並外れた美として規定でき、美を今にも壊れそうな秩序の内で保たれた崇高として規定できる。我々の多義的な定式に立ち戻ってこうも言えよう。自然は、それが我々の感覚に対する感覚を完全に満足させるとき、全体において美しいのであり、自然は、それがこの感覚をその満足のまどろみから完全に覚醒させるとき、全体において崇高である。しかし、自然美の統一性は後者の全体でも前者の全体でもなく、一回性が後者で次が前者だというのでもない。自然美は満足の切望を満足させるのでも、極度の切望を満足させるのでもない。自然美は、一つの閉じた全体への瞑想的憧憬を満足させるのでも、その全体への忘我的憧憬を満足させるのでもない。自然の真の美しさは、自然の総括的に美しい現存とその総括的に崇高なる現存との二者択一の彼岸に、その時間的統一性の外部で内容的統一性をそれに対して提供することなしに、存在する。自然知覚の時間は、絶対的に連続的な時間でも、絶対的に不連続な時間でもなく、それらの間に存在し、相対的に不連続な時間である。自然美の美的に重要なことは、それが我々の美的感動の重要なことすべての間を動いていることである。

b.火山の下

全体において魅力的な自然は、極度の魅了でこそ両義的誘惑である。自然の美もしくは崇高の魅惑の小の両義性に対応するのは、自然の美もしくは崇高の大の同時性である。しかし、両義的であるのは満たされた美的自然の同時性だけでなく、満たされざる美的自然の同時性もやはり両義的である。自然の知覚が自然の基本的な美的観点の相互作用に向けられるのは、この相互作用が肯定的な全体印象に結びつくときもある。自然の無制限な経験は、自然の無制限の美しさの経験内には決して存在しない。自然美の解放的な両義性と対立するのは、部分的に攻撃的で拒絶的で感受性を欠く自然の息詰まるような両義性である。これが、美的自然の概念と自然美の概念の分岐する点である。自然美はたしかに包括的な美的自然の最高の形式ではあるが、それでもその可能的な形式でしかない。諸々の美的次元の「上昇」ないし「下降」の発生、それらの次元の平和的もしくは非平和的な共存、対照しあうことによる重荷の背負わせ合い─これら全てが、幸福にも与った自由の美しい/崇高な国ではなく、危険をはらんだ自由のひどい衝撃をうけるような地域として自然が呈示されるときでさえ起きる。そのとき自然は、他方に対して一方というだけでなく個々を─あるいは各々を─肯定的なものから否定的なものに転回させることで、魅惑を与え、そして剥奪する。自然は想像にとって無感動的となり、積極的照応を消極的照応に転化し、観照的余暇には息を呑ませる。このとき美的自然は、その美徳の時間同一性ではなく、その美徳と悪徳との時間同一性である。我々は美的自然の統一性を開放的統一性としてだけ理解してはいけないのであり、人をうろたえさせるような統一性としてもまた理解しなければならない。我々は、美的自然の開放的現前と人をうろたえさせるような現前との間を延びる稜線がどれほど幅狭いものでありうるかを理解せねばならない。

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