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2014年5月28日 (水)

マルティン・ゼール「自然美学」(41)

b.第二の照応

美的自然は結局のところつねに人間に「照応している」自然であるかもしれず、「照応」概念はたんに他の中心概念の中の一つではなくて、これまでの考察全体の隠れた根本概念かもしれない。そうすると、観照と想像は、自然との美的な照応の特殊なヴァリエーションかもしれない。それに関連して、実存的関心は照応へと方向づけられた観察においてだけでなく、観照的ならびに想像的な観察にも含まれているということも十分に正しい。しかしながら、こうした事情があるからといって、美的観照や美的想像が狭い意味における実存的な美的関心の具体的事例になるわけではない。観照も想像も、自然を目下の実存的状況の空間と見なさないという関心に導かれている。照応的関係においてのみ、われわれは自然を現実的な実存空間として知覚する。それゆえに自然は簡略に「実存的」な美的知覚の対象だと見なすことができたのである。しかし、観照的ならびに想像的態度における自然が今現在の生の状況として知覚されないということからは決して、こうした美的知覚の可能性がいかなる生の可能性でもないということは帰結しない。自然美における生の可能性は、自然との意味豊かな照応の内部にも外部にも存在する。こうした自然関係の意味とはまさに、そうした関係が、状況に条件づけられた意味の直観においてのみ、ならびに意味を志向する直観においてのみ存在するのではないということである。自然は実用的に与えられた意味及び想像的に表象し得る意味さえもが凌駕されることに対する我々の感覚を繰り返し突破する。それにもかかわらず、自然美の意味付随的であると同時に意味疎隔的であり、また生き生きとして画像的でもある魅惑を、その魅惑の現実性全体との照応の状態と解釈することは、全く正当である。その時に限り、もうひとつの照応、第二の照応が問題となる。第二の照応とは、照応的な知覚の性質にも反照応的な知覚の性質も同じ程度でかつ同時に包括している自然との照応ということである。そうした照応においてのみ偶発的な自然は、それがあらゆる内容的な意味期待にもそれどころか意味期待そのものにさえ繰り返し対応しないという無制限な美的意味に「対応」する。自然の自由には、我々自身の構想のための、また我々自身の構想による我々の自由が対応する。こうして、そうした自由の実現という決定的な意味を獲得するのは、自然現象の全体ではなく、自然が現出する仕方の多様性との我々の出会いなのである。様々な美的魅惑が相互に影響しあっている状況は、「第二の照応」という状態における一つの現実性なのである。

自然美の現実性は、それが魅力的な生の状況の表現に富んだ現前と、その現前との美的同一化に対する直観的(観照的あるいは想像的な)距離とを両方ともに現前させることによって際立たせられる。これらの状況が明らかに同時に起こるときに第二の照応が生じる。第二の照応は第一の照応のように構想と世界の間に在るのではなく、人間における方向づけの自由と現象的世界との間にある。自然美の魅力には、どのように人生を紡ぐのかという我々の生構想を強化拡大することによってむしろその生構想そのものを自然美が超えてゆくことが含まれている。自然美の現実性は超概念的である。従って、自然美が善き生の範例的な状況であるという言明でもって考えられているのは、照応的な範例性ではなくて、自然全体の超概念的な範例性である。我々の美的分析の継続である倫理的分析が目標とするような自然美は─特定の生の構想に結びつかず、むしろそれらの構想において顧慮されることも見過ごされることもありうるような─善き生の形式の模範的な所与である。自然美がこうした生の形式の事例であるのは、自然美が多次元的な遂行志向的活動の積極的自由を示す状況でもあるからである。しかし、こうした推測が有望であるのは、美しい/崇高な自然において自由が見出されるという診断が個人の充実した美的自由にだけでなく、個人の美的に充実した自由にも該当する場合だけである。言い換えると、美的経験の倫理的範例性が与えられるのは、美的自由が他の自由と並ぶ自由の形式であるのではなく、むしろ積極的に特徴的である構造の変様である場合だけである。その場合にのみ、基本的な生の遂行に対する美的態度の─自然美において与えられている─相互作用を行為のあらゆるコンテクストにおける際立った余地の事例と解釈することが可能である。その場合にのみ美的自由は倫理的自由のヴァージョンとして把握されてもよい。これから示されるように、美的自由はたしかに倫理的自由の肯定として了解される必要はない。

観照は生活世界に参加する行為に対して「禁欲的」態度を取り、想像は「超越的」態度を取るが、照応的知覚は行為の地平に「内在的に」かかわることが述べられた。観照はあらゆる活動的存在の意味から隔たりを取り、想像はそうした存在への関与から隔たりを取る。照応だけがこうした関与そのものの方から近づくことができる。したがって、観照と想像は活動的な生の実践と並ぶ特殊な実践であるが、照応的知覚と照応的産出はその実践の内側で少し距離を取って遂行される。その際「活動的生活」・「日常的実践」・「実用的関与」は常に、ある状況を志向する行為を、すなわち、個人的構想と価値に応じてたしかに多様であるが、相互主観的な文化の解釈と慣習によって支えられている世界地平における行為を意味している。そけは、目的と遂行において深められた行為であり、その行為にとってはその行為の意味の限界は超えることができないものである。それに対して多次元的な美的直観においてはこのような超越的意識は生活世界的な地平の内在的直観とともに与えられているのである。

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