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2014年5月30日 (金)

マルティン・ゼール「自然美学」(43)

3.善き生の三つの観点

a.観照的生

観照が周縁的な知覚形式であるだけでなく一つの生の形式でもありうるということは古くから考えられてきた。古代の倫理学やキリスト教倫理学にとって観照的現実存在は、数ある生の理想の中の一つとしてではなく、むしろ充実した善き生の最高の段階と見なされた。たとえば、アリストテレスにとって善き生とは、何か他の事のためにではなく、それ自身のために行われる行為の連続性のなかにある。そうした─数ある─活動の中では理論的観照が抜きんでている。なぜなら、第一に理論的観照は純粋にその遂行を志向する行為であるからであり、第二に理性的、つまり人間の最高能力に対応している看取であるだけでなく、理性自身の根拠に向けられた看取でもあるからである。

ここで語られているのは理論的な観照であって美的な観照ではないが、肉体を離れているというメルクマールはどちらの観照にも共通している。純粋に美的な観照は、理論的な観察が所与の現象を解釈しつつ把握することを差し控えることによってあらゆる実用的な実践に対して保持している隔たりを深めてくれる。そのことによって自由な理性的活動の幸福は、拘束されていない自己関係的な感覚的聴取の幸福に変化する。こうした美的な注視はけっして、純粋に理論的な注意のように、獲得された洞察の成果については感知しないので、テオリアという思考活動よりも純粋な自己目的的な活動でさえある。そうしたテオリアについてアリストテレスは、神だけがそれを完全に支配することができると語っている。それどころかこうした感覚を悦ばせる注視はもっぱら人間の幸福であり、身体組織が我々とは異なる存在者と我々が共有しうるかもしれないような一にして全なるもののいかなる理論よりも人間的である。美的観照の時間は人間的な努力の必然的な目的からたんに可能的な目的になっている。美的な世俗化とともに観照は、それ自体で考察すれば、絶対的な善から相対的な善になったのである。

理論的な作業は、それが成功している生の要素であるためには、自律的で内的な意味が付与されるかあるいは少なくとも付与されうる実践形式それ自体を概念的に把握することのうちに含まれていなければならない。理論が自己目的として可能であるのは、それが唯一可能な自己目的ではない場合だけである。理論の幸福は原理的に付随的な幸福である。理論の幸福は他のあらゆる行為への関与から隔たりを取り、それらの行為に反省的に向き合うのである。そのことのうちにまたもや理論的観照と美的観照との差異が現れる。どちらもそれ以外の実践に対してはそれぞれ異なる隔たりを取る。哲学的理論の禁欲は多かれ少なかれ極端な反省による禁欲であるが、それに対して美的観照の禁欲は極端な直観による禁欲である。哲学的な反省は何かに関与する生から生じて、その生について語る。純粋な美的直観はたんに生じるだけである。

 

b.想像的生

ニーチェは『悦ばしき知識』において、観照の弁証法を語っている。ニーチェが観照的理想をたしなめるのは日常的現実の名においてではなくて、想像的世界創作の名においてである。そもそも価値を持つものはすべて創造的な精神の創作にその源を持つ。したがって想像的に活動していることが実存の最高形式なのである。「作られた」画像の─たいていは気づかれることなく行われる─投影が人間の形式の生活世界の本質なのであるから、投影可能な作品や画像、あるいは概念を判断を「形成すること」は、文字通り卓越した行為なのである。それを手がかりにすれば、観照を視野に入れて、解釈された世界ならびにふさわしい解釈による現実作成の力が美的直観と理論的直観の一つの前提であることも少なくとも同じ程度に真である。観照的人間の迷妄とは、自分たちにのみ真の世界あるいは世界の真の価値が手に入ると思っていることである。しかしまた、ニーチェの立場において納得できるのはこれだけである。というのも、絶対化された観照に対するニーチェの批判はその代償として想像を絶対化してしまっている。想像によってはじめて世界あるいは世界の真の価値が作られるというのは、かえって想像の迷妄である。世界─客観化されたあるいは生きられた世界─がわれわれの世界像から生まれた廃棄物に過ぎないという信念がすでに不適切である。人間にとって価値を持つものは─人間を顧みない自然の観点からではなく─人間にとってのみ価値を持つという事実から、すべての価値─真理価値でさえ─が「もともと」恣意的な定立による生産物だということは帰結しない。それは言語記号の記号的性格から、この記号が使用されている時には「文字通り」任意の約束事が語り出されているに過ぎないということが帰結しないのと同じことである。

しかし、想像を中心とした生は美的な生である必要はない。それは、美的なものあるいは「創造的なもの」の概念をニーチェがしたように拡張しすぎるときにも、そうである。そうした生はたんに虚構の生でありうるだけである。そうした生が夢想された別の可能性に逃避することは悪い生に数えられるとしても、その生が夢想された世界に夢中になることは善い生に含まれる。虚構の生は、芸術と並んで、実際に生きられた現実を想像的に変更する一つの形式である。虚構の生の空想も─芸術作品とその生産的現実化のように─実存の時間の中に一つの空間を、実存の時間の中の一つの時間を造り出す。どれほど想像的な生と虚構の生とが相互的に無関係に営まれようと、映画館や長編小説の読書、その他の多くの機会にこの二つの生はよく同時に生じる。虚構の生が唯一の重要な生になるならば、それは想像的な生よりも有意義な生の喪失に直接つながることは説明するまでもない。それにもかかわらず虚構の生はうまくゆく生の本来的な観点を表わしている。美的でかつ芸術に関わる想像と自由に夢想する想像とはありうる善き生の観点として同等の重みを持っているのではない。美的な想像のほうがより重要である。なぜなら第一に、美的な想像は相互主観的な直観媒体に向けられているからであり、第二に美的であるより前の想像作用は美的にあらかじめ作られた形式のうちで遂行されるからである。いずれにせよ芸術の想像に身を捧げることは、それを虚構の生と同一視するのと同じくらい、唯一の倫理的理想としては無価値である。芸術とかかわるだけのあるいは虚構であるだけの善き生の部分的理想は、かえって善き生を思っているよりも貧しくしてしまう。そうした部分的理想は原理的に公共的な想像を前の活動空間から排除してしまうか、あるいは原理的に私的な想像を善の活動空間から排除してしまうかのどちらかである。

 

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