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2014年6月

2014年6月30日 (月)

岡本隆司「近代中国史」(8)

2.明朝の成立と中国経済

10世紀の分裂争乱期をはさむ唐から宋への王朝交代は、中国史上、前近代最大の社会変革期として位置付けられる。江南デルタの水田化、米穀及び茶・生糸・磁器など特産品の増産、穀倉地帯の江南と最大消費地の首都を結びつける大運河の整備、交通・流通の発達、鉱山採掘と金属量産、エネルギーの転換、金融の発達、人口の増加、都市化の進行など、そのめぼしいものをあげるだけで、数々の技術革新を伴う大きな経済の発展だったことが確認できる。それらを一言で括るならば、社会の商業化に他ならず、「商業革命」と称せられるのも、故なきことではない。但し、そうした革新が中国全体にまんべんなく生じていたわけではない。江南デルタから大運河沿いの幹線地方を中核とした経済の発展は、あまりに突出、孤立していた。それ以外の地方、就中内陸の山間部に広大な未開地が残っており、恒常的な開発は及ばず、大きな発展も見られない。中国の王朝は、それらを一元的な経済圏とすることは不可能だった。対内的な遠隔地の商業網すら、十分に発達していなかったからである。優れた中国産品は、たしかに海外の市場を獲得しつつあった。けれども取引の恒常性・定着性・数量規模には、まだまだ限界があった。なお内地に後進地ものこっていたからである。しかも中国をめぐる対外貿易のヘゲモニーは、西方のムスリムが掌握しており、華人の進出は顕著ではなかった。

ムスリムの商業資本と提携して、ユーラシア全域を制覇したのが、13世紀のモンゴル帝国である。中国経済はその支配下で、開かれた全ユーラシアの市場と先進地・西アジアのノウハウを得て、いっそう商業化の様相を深めてきた。それまでに使われてきた紙幣の普及は、その典型に他ならない。準備に銀を用いて、中国全土の財政経済の運営を一本化したモンゴル政権の通貨政策は、すこぶる先進的で、以後の中国経済の帰趨にも、大きな影響を与える。しかし、世界的な「14世紀の危機」でモンゴル帝国が倒れ、中央ユーラシアの経済的な地盤沈下がおこり、15世紀に陸から海への転換を始めていた。中国経済も再出発を余儀なくされる。

モンゴル政権に代わって、中国を支配したのが明朝である。明の太祖朱元璋は、南京を本拠として、長江流域に割拠した群雄勢力との争覇戦に勝ち抜き、モンゴル政権を長城の北に駆逐して、華北をも政治的軍事的に併合することに成功した。朱元璋は異種族のモンゴルに代わって君臨するため、「中華」と「外夷」の区別、漢人の自尊という朱子学的イデオロギーを自らの正統性のあかしとして、内外に宣告した。ここまでなら、多かれ少なかれ、他の王朝でも思い当たる話ではある。朱元璋・明朝に特徴的なのは、それを建前だけに終わらせず、制度と政策で実現しようとし、またそれを継続したことにあった。その際朱元璋の念頭にあったのは、おそらく南北の経済格差であろう。華北はモンゴル帝国以前から久しく、江南と事実上の分離状態にあった。モンゴル帝国も、華北と江南で同一の統治を行っていない。そのため華北は、江南よりもむしろ北林の遊牧民族と結びつきやすくなっていた。そこで自らを「中華」と表明するためには、その範囲が一つにまとまっていなくてはならない。そのためには、ずっと分離してきた華北を、自らが拠った江南と統合する必要がある。その経済的表現が現物主義であった。

現物主義とは、なるべく貨幣を介在させずに、政府の財政経済活動を実現しようとする原則を指している。穀物なら穀物、飼料なら飼料というように、税を現物で人民から徴収して、政府当局もそれをそのまま消費した。明朝枷こんな現物主義をとったのは、当時の経済的な条件と政策上の志向が作用している。朱元璋の政権は戦乱に明け暮れ、勝ち抜いた軍事集団だったから、糧秣・兵器・衣料など、現物の調達をもっとも緊要としていた。しかもそれにモンゴル政権が実施してきた紙幣制度の崩壊が加わる。政府発行の紙幣は14世紀後半の騒乱で信用を喪失し、その裏付けをなした金銀などの貴金属や銅銭は、流出し、あるいは退蔵され、流通から逃避、払拭してしまった。しかし、それを新たに投入できるだけの資源にも乏しかった。こうして始まった現物主義を以後も継続したのは、「中華」の統合という目的による。明朝は政治的・軍事的に江南と華北を統合したものの、その成果を持続してゆくには、経済的にも南北の一体化を目指さなくてはならない。モンゴル政権の通貨制度崩壊の影響は、とりわけ華北で深刻だった。生産力に恵まれなかったため、民間に貴金属のストックも少なく、流通を紙幣に依存していたからである。主としてこの地方で時代の進行に逆行するかのような物々交換が出現した。これに対して江南では、なお金銀の蓄積は少なくなく、戦乱の影響で現物のやりとりがあったとしても、それはごく一時的で異例な現象だったはずである。こうした格差を解消するには、南北いずれかの一方を、他方に合わせればよい。後進的経済状態をいきなり、先進的なそれに合致させるのは、到底無理である。しかし逆は、容易でないにしても、不可能ではない。そう判断して、華北の状況を基準とする現物主義を、江南も含む中国全土に適用、施行したのであろう。江南に対する明初政権の苛酷な弾圧も、こうした経済政策の遂行・強制という点から説明できる。

この現物主義を実施に移すには、第一に、物資・労力を直接取り立てるのであめから、その対象となる土地・人を、逐一個別に把握管理しておかなくてはならない。第二に、現物徴収を妨げかねない商業・流通を、厳重な制限統制のもとにおく必要がある。ともに戦乱で荒廃した農地・農業の復興をも、兼ねて目指すものだった。まず第一。土地・人民を調査し、台帳に登録する。こうした台帳・帳簿の記録は、米ならば石、生糸なら斤というように現物の単位による。徴税で特徴的なのは、税率が地方によって著しく違ったことにある。弾圧した江南デルタの地主からは他より遥かに高い額を納税させた。取り立てた税収は、それを消費する場所・官庁に運ばなくてはならない。さらには、各官庁で雑用に任じる人々も必要である。そこで中産以上の人民が輪番制で「里中正役」として労働奉仕を行わせられ、税収の取り立て・運搬、あるいはそれにまつわる紛争の調停に当たった。それ以外不定期・臨時の労役は、いっそう有力な人々が負担し、これを「雑徭」といった。この二つが明代独特の徭役制度だった。ついで第二。現物主義を円滑に運営するためには、商業・流通の管理を徹底し、貨幣をなるべく使用しないことが前提になる。それには、とりわけそれ自体で流通価値を持つ金銀など貴金属の使用を禁止しなくてはならない。いかに現物主義とは言っても明朝は貨幣を全廃してしまったわけではない。しかし、実際のところ、銅銭の鋳造発行量は、鉱産資源の枯渇もあって、経済規模に比してごくわずか、民間の広範な使用に供されるべきものではなかった。金銀の貨幣的使用が禁じられ、銅銭のストックも乏しくては、紙幣を発行しても準備のない不換紙幣になってしまった。銅銭にせよ紙幣にせよ、元来が商品流通・貨幣経済に備える目的ではなく、現物主義的経済推進の補完として発行されたものに過ぎなかった。

こうした禁令や幣制は、明朝独自のものだから、その権力・政治力の及ぶ範囲にしか通用しない。必然的にその範囲の内と外に、判然たる境界を画し、閉鎖的な姿勢を導き出す。例えば外国と貿易するには、内外共通の外貨的な価値を提供する金額の仲立ちが、当時は欠かせなかった。そのため金銀の禁令を徹底しようとすれば、外国との貿易も原則として禁止せざるを得なくなる。明朝はそこで、中国の対外的な交流は、「朝貢」を通じなくては出来ないことにした。こうした貿易・貨幣の制限を有効ならしめるには、人の出入りも厳重に規制しなければならない。沿海では、出航・来航に対し厳重な海禁が布かれた。これは当初、沿海の敵対勢力を平定し、外国との内通を防ぎ、治安を維持するためにはじめられたものだが、のちに経済統制の意味をより濃厚にしてくる。金銀のストックが豊富で、地勢上も海上交通の便利な江南は、これで海外と独自な商業行為ができなくなる。しかも紙幣はそれまで、多く華北で流通していたから、これを江南に強制することで、南北の統一化が図れる。中国内でしか適用しない紙幣の強制使用は、内外共通して流津しうる金銀の禁止と相俟って、江南を海外と切り離したうえで、華北と結びつける役割を担った。現物主義と不換紙幣が共に有効となる範囲。地理的に言えば、長城と海岸線が画した内側で、本書でいう中国にほぼ重なる。それが明朝の「中華」に他ならない。その外側を「外夷」として軽んじ、貿易を禁じ、朝貢と冊封で互いの上下関係を証拠づける。これで明朝のイデオロギーに合致した世界秩序となるわけで、それは対外政策にとどまらず、財政経済の体制にも深く関わっていた。

2014年6月29日 (日)

岡本隆司「近代中国史」(7)

Ⅲ.パフォーマンス─明清時代と伝統経済

1.思想と行為

中国史上の経済を論じるのが難しいのは、それに関する当時の思想言説がまとまっておらず、また今日の見地からして、正確でないことも、その一因である。例えば、今日の「社会主義市場経済」という改革開放政策のスローガンは、社会主義と市場経済という相容れない概念の組み合わせが、論理・学問的に矛盾したものだった。実際、ここでの「社会主義」計画経済は、イデオロギーと支配方式にほかならず、それが現実の経済活動に直結していなかった。こうしたことは、単に呼称に限らず、具体的な制度の面で言えば、単一の国民経済でありながら、20年前までは外貨兌換券と人民元の二重貨幣だったし、都市と農村の二重戸籍である。いずれにしても言行不一致であって、政治上の主張・政策と経済上の施策・実態が一致していないといってよい。

その多くは、ここまで論じてきた「国」と「民」の懸隔から説明できる。権力が社会の動きを把握できないがために、政府の発言・記録・主張も、中国全体の動向を十分に反映したものにならない。その典型的な例として「重農抑商」と「地大物博」という理念を見てみる。

中国は、歴史的に人口の大多数が農民であり、これを農業国・農業社会と見るのが普通だろう。観念上も、中国の統治理念は古来、「重農抑商」であった。文字通り、農業を重んじ、商業を抑えるという思想・論理である。農業にとどまらず、生産・ものづくりというように文脈を広げてみてもそうである。工業も中国史の過程では、その大部分は農民の副業としての手工業である。観念の上ばかりでなく、歴史事実の経過を見ても中国の生産力はすさまじい。量の多さは言わずもがな、生糸・絹製品、磁器や茶など、中国が開発創出した物産も少なくない。それらは長らく中国でしか生産できなかったし、またその間に、産品じたいが高度な発達も遂げた。

しかしそうした農業・工業の動向は、中国が一体となってのものだったかといえば、それは多分に疑わしい。政府は農業・工業を尊重し、奨励した。しかし実際の行為において、権力が農業や工業を産業として保護育成したり、その従事者たちを尊重したとは言えない。奨励は熱心でも、それは結局口先に過ぎなかった。食糧政策はたしかに存在した。だがその内容は、流通規制・倉儲政策・租税増減、あるいは飢饉時の救済というように、流通と徴税、あるいは災害にかかわる政策のみ、生産・民生そのものに切り込む施策を実行していたわけではない。むしろ逆だった。理念と現実がまるで逆だからこそ、却って声高にそれを言わねばならない、というところだろう。土地の経営にしても、物産の創出・量産にしても、それは一にかかって、生産者の才覚と労働によるものである。それは「ものづくり」にほとんど関わらない局外者からみれば、あたかも自然物のように発生、存在するもの、したがって単なる収奪の対象にほかならなかった。その局外者とは、特権を有し、純消費者階層をなしていた「士」、あるいは物産を流通させる「商」であり、生産者からほぼ隔絶して社会の上層を占める人々である。そのため、農業・工業に対し、実質ある国家的、あるいは社会的な尊重は生まれなかった。大土地所有の是正が史上、長らく政策上の課題となったのも、そこに原因がある。技術の革新もしかり、スキルの形成もしかり。現代の中国で、たとえば著作権の尊重に関心が薄いのも、ブランドが生まれにくいのも根は同じ、そこに由来する問題なのである。

また、「地大物博」について考えてみる。イギリスからの交易の申し入れに対して乾隆帝が表明したことで形となったものだが、その言わんとするところは、中国は「地が大きく物も博く」て自給自足できるから、まったく外国貿易を必要としないけれども、それでは他の国が困るであろうから、「中国」の恩恵として貿易をさせてやる、貿易を許してやるのだから、従順でなくてはならぬ、ということである。現代中国でも、貿易を政治と結びつけ、平等互恵の経済行為とはみなさない、こうした独善的、自己中心的な観念と論法は今なお息づいている。しかしこれは、中国の為政者・知識人たちが、対外貿易の価値を認めないほど、アウタルキー的な経済観念に染まっていた事実にある。

外国との貿易が、経済景況を大きく左右する客観情勢と、国内経済をアウタルキー・自給自足とみなして、貿易を軽んずる主観認識との乖離。これはまさしく、ここまで論じてきた社会と権力との懸隔に対応する事態だろう。「地大物博」・自給自足を誇るのは、豊かな生産力の誇示に等しい。だとすれば、さきに述べた「重農」観念とも通る一面をもち、「重農抑商」という伝統的な通念とも重なってくる。その農業尊重が、客観的に見れば、ほとんど行動を伴わない虚構だったことは述べた通り、それなら「抑商」、商業の抑圧・商人の軽視も、やはり虚偽なのだろうか。対外貿易はもとより、国内商業でも、あらゆる記録著述において、商人は賤しまれている。商業。流通はまぎれもなく「末」業であり、たしかに軽視・蔑視をうけていたのである。それにもかかわらず、商業は10世紀以降、中国経済の内外にわたって確乎不抜の地位を築く。だからこそ、貿易が経済景況を左右し得たのである。商人の練達も著しい。生産にせよ流通にせよ、記録に残る主観認識と史実の推移する客観情勢とに大きな開きがあった。それなら、歴史的な経済の実体・動向は、いかなるものであったか。また、このような権力と社会の乖離から生じる言行不一致は、そこにどのような影響を及ぼしたのか。

2014年6月28日 (土)

岡本隆司「近代中国史」(6)

3.民間社会

中国社会は、「士」と「庶」の階層に分れ、権力は民間から浮き上がっていた。にもかかわらず、王朝政権は数百年の安定を保ち、社会もばらばらに解体してしまうことはなかった。それは、この二者の間を、かろうじて接続する仕組みがあったからである。「士」と「庶」の社会的地位は、確かに隔たっている。けれども「士」に世襲はなく、庶民が科挙を通じて紳士となる以上、両者の関係が全く乖離し、分断されてしまうことはありえない。互いの貧富・貴賤がはっきり分かれてしまった後も、その距離が近接した時期や局面もあった。時代が下るとともに、分離分断を深めていったのは、「士」と「庶」よりもむしろ、「官」と「民」の関係だったと言うべきだろう。とくに14世紀末から19世紀まで明清時代に鮮明になる。

14世紀から三百年続いた明朝という政権は、中国史上異彩を放っている。その常軌を逸した強権ぶりは、その建設者である太祖朱元璋と息子の永楽帝という専制君主によるところが大きい。二人とも有力な官僚を迫害粛清し、万単位という夥しい人々を処刑した。その弾圧はとりわけ、経済先進地の江南の富裕層に加えられた。これは財源を確保する必要と同時に、反抗的な有力者に対する見せしめの企図もあった。政権に対する「士」のあからさまな抵抗は、こうした威嚇で消滅したかもしれない。しかし、その積極的な支持・忠誠心をも奪ってしまった。「士」の政府権力に対する態度は以後、愛想を尽かせた、ごく冷淡なものとなる。かくて「士」のうち、政権を構成する「官」になるのは、官界での出世・利権を主たる目的とする人、あるいは渡世を送るために、心ならずも任官する人々がほとんどであって、いずれにしても統治行政に無気力なことはかわりない。もっとも、そんな「士」ばかりではなかった。官僚になっても、あるポストで任期が終わると、次の地位に就くまでに時間があるので、その間は郷里で日を送る。引退すれば、なおさら故郷に引きこもるため、「士」と郷里とのつながりは、決して絶えることがなかった。あるいは途中で、官途に望みを絶った「士」もいる。彼らは郷里・住地に腰を落ち着け、いっそうその土地に愛着を持って、住民たちと苦楽を共にしようとした。こうした人々を「郷紳」という。

一定の土地に住みついた郷紳たちは、科挙に合格した学位や元官僚の肩書を有し、特権的な地位を認められていたので、自ずとそこの社会のリーダーになった。このような「士」が増加し、その下に「民」が結集して、地域社会が力を持ってきたのが、明代中国の特徴であり、その趨勢は清代にも継続する。郷紳は軍隊を背景に持つ官僚になるべく楯突かず、むしろ彼らに頼って、生命と財産の安全を保つのを得策とした。徴税・治安は彼らに任せ、それ以外は自分たちが掌握する。地元の事情に通じない官僚は、民衆を指導し把握する郷紳の機嫌をそこなわないようにつとめ、彼らに協力を求めて、徴税・治安の実効を上げた。郷紳の中には、私的に官僚のブレーンとなって、顧問にあずかり、実地の行政を補佐する者がおり、清代には一般化した。これを「幕友」といい、集合名詞的に言えば「幕僚」「幕府」となる。官僚と郷紳は、このように持ちつ持たれつの関係であった。そもそも郷紳は、官僚を輩出する「士」という同一母体から派生したものだったからである。その存在が、官僚制と民間社会をかろうじてつないでいた。

一方民間社会の組織は千差万別で、形態も名称も一定していなかった。しかしその条件と原理は、ほぼ共通しているから、ここでは中間団体と呼ぶことにする。西洋でいうところの具体的な行政は事実上、中間団体が担っていた。「郷党」「郷団」などいわれ、その「郷」とは、要するにローカルな狭い範囲で、つまり中間団体の自治的な行政機能は、地元・地縁の範囲にとどまり、その埒外に及ぶことはなかった。また、「宗族」という姓を同じくし祖先をおなじくし祭祀を共にする父系の欠運集団もある。この中にはいくつもの家族を含み、それだけでひとつの村落・聚落をなす規模があった。これらの中間団体のイメージできるローカルな社会とは、おおむね農村である。一方商工業を主要産業とする都市では、同郷同業の中間団体が根を張った。「幇」「行」「会」という。同郷だから地縁で結集するし、地縁は多くの場合、血縁と重なる。そして同郷はしばしば、同業と同義である。このように、血縁・地縁と生業を紐帯にしていた点、同郷同業団体も宗族とかけ離れたところではない。むしろ同質の集団と見た方が分かり易い。指導者が「士」であったところにも共通点がある。こうしてみると、都市でも農村でも、紳士が指導する中間団体に、庶民が結集していた、という同一の構造が浮かび上がってくる。官僚制はその上に乗っかり、郷紳・紳商を介して、農民・商人に統治を及ぼした。政府当局が普通に接触したのは、農村での郷紳と同様に、都市でも中間団体の上層に位置する紳商のみである。重大任務の徴税も、彼らだけを相手にして、その納税を通じて行っていた。それ以下、団体内部のことには、原則として関与しなかったのである。

明清時代の民間社会での中間団体の機能は看過できるものではなかった。実地の民政事業はほとんど中間団体が実行していた。逆に言えば、個々の庶民はそうした中間団体に属さなくては、生命・財産の保護を受ける当てがなく、秩序だった生活を送ることが不可能だった。もっとも、血縁・地縁・生業を基本的な紐帯とする以上、その範囲が一定の広がりを超えることはあり得ない。そのため中間団体の規模が、際限なく大きくなるはずはない。人口が増えたなら、それに応じて、各々の団体が拡張してゆくのではなく、団体の数が増えていくことになる。以前にも聚落形態のところであったように市鎮が明清時代を通じて夥しく増殖したのは、この結果なのであり、中間団体のリーダーたる郷紳は、多くこの市鎮に居住した。

人口の増加と並行して、沿海の交通も盛んになり、人々は商業に従事するため、あるいは労働力として海外へ移住する。いわゆる華僑とチャイナ・タウンの普及であって、その中核には必ず同郷同業団体が存在した。今でも世界各地の中華街には会館があるのはその名残である。海外ばかりではなく、中国内の移住も著しくなった。開港以後の上海は、その典型と言える。そこに中間団体も増える。

既成の社会・通常の秩序というのは、上で見てきたように、民衆が縁故を通じて、中間団体に結集すること、その指導者として、郷紳・紳商を戴くことにほかならない。いかに既成・通常とちがうといっても、その行動様式が特別にかけ離れていたわけではなかった。既成社会の秩序から逸脱した人々も、中間団体を設けて、そこに結集したのは同じである。異なるのは、指導者と、結束の紐帯だった。郷紳にせよ紳商にせよ、科挙合格者の「士」であることにかわりはない。その科挙は政府権力が実施する登用試験であり、その内容は体制教学の儒教である。それを身につけた「士」なればこそ、同質の「官」・政府権力と接合できて、中間団体・民間団体との統合が保たれた。ここでも中間団体が儒教を信奉せず、その指導者が「士」ではない場合、「官」・政府イデオロギー・価値観・風習が共有できず、良好な関係を保てない。つまり、既成秩序から逸脱し、政府権力に背こうとすれば、「士」に非ざる者を中間団体の指導者として戴き、体制教学の儒教とは異なるイデオロギーを奉ずればよいことになる。これが政府の言う「淫祀邪教」にほかならない。我々はこうした団体を秘密結社と称することが多い。秘密というのは、反政府的な色彩を帯び、地下組織となるため、その実態が知りがたいからである。団体の結束を維持するためには、経済的な裏付けがなくてはならない。通常の中間団体なら、政府権力も認める合法的な生業・産業が、それを担当する。秘密結社はそれに対し、当局がその存在自体を認容しないのだから、自ずと禁制品の取引や生産に従事せざるを得ない。この種の取引で有名なのは、専売品の塩を密売した私塩商人である。19世紀に入るとアヘンの密売集団が有力な秘密結社となる。

禁制品の売買が発覚すれば、もちろん官憲の弾圧にあう。それに対抗するため、秘密結社は団結を強め、大掛かりな武装をすることも少なくない。こうして反政府的な軍事力が形成され、それが局地的な騒擾を起こす。それに対抗して一般の中間団体も、自衛のため武装した。この両者は、容易に一方が他方に転化しえた。明末清初の17世紀、清末の19世紀で全国的に治安が悪化したのは、ここに根本的な原因が存する。局地的な騒擾が重なり、組み合わさったりすると、全国的な変乱に発展することもあった。太平天国や義和団などは秘密結社が中核となり、周囲の結社・団体をとりこんで大きくなったものである。

明清時代の民間社会はこのように、「官」「民」の乖離からできあがった中間団体の集積・複合で成り立っていた。の構造を抜きにして、中国の経済を語ることはできない。

2014年6月27日 (金)

岡本隆司「近代中国史」(5)

2.科挙と官僚制

「国計民生」という言い回しがある。その「国」は王朝・政府をさすが、更に引き伸ばして、その構成員で表わせば、「官」あるいは「士」と言い換えることができる。つまり「官」「民」、「士」「庶」なども、同様の対句表現である。前者は支配者・エリート、上流・搾取者、後者は被支配者・非エリート、下層・非搾取者である。そしてねこの四文字熟語はあくまでも「国計」と「民生」との複合語であって、一体をなしていない。実態として「国計」のカバーする範囲が「民生」全体に及ばないからであり、それが成語にも反映している。中国は歴史的に「国」と「民」が一体にならなかった。「国」と「民」とは、互いに領有の主体・対象となるべき外者、よそ者であった。「国民国家」といい、国民と国家が曲がりなりにも一つの共同体をなすのが、日本・欧米だとすれば、少なくとも史上の中国は、両者一体ならない二元的・重層的な社会構成だった。権力エリートと一般人民の距離が遥かに遠く、隔たっていたことを意味する。そうした二重構造は、言語から見て然りである。現代でも、書き言葉と話し言葉の間に、相当の隔たりがある。文章をきれいに書くのは、十分な教育を受けたエリートでなくてはかなわない芸当であり、他方で漢字も満足に書けない庶民の数は決して少なくない。過去は、もっとはなはだしい。文語文はエリートの占有物であり、一般庶民とは何のかかわりもなかった。その最たるものが古典、主として経書・史書の文章である。これは聖賢の説く真理を載せるものだから、その文章・文体を体得し、読んで解説でき、書いて表現できる者こそ、世の師表たりえた。そうしたごく一部のエリートを「士」と呼び、そうでない大多数の人々は、あくまで「庶」の範疇にあったのである。中国でも、はじめ「士」「民」の間に、さほどの隔たりはなかった。それが時代を下るにつれ両者の距離は拡がってゆき、雲泥ただならぬ懸隔ができ、観念の上でも根深い差別意識が生じた。この懸隔は隋唐の時代に定着し、牢固として抜きがたいものとなった。この永続に与って力があったのが、科挙制度である。

科挙というのは、隋の時代に始まった官吏登用試験である。試験で官吏を選抜登用する、エリートの社会的地位や役割を個人の才力で決定する、というコンセプトは近代西洋の高等文官試験にも影響を与えた。もっとも、高等文官試験と科挙を同一視してはならない。試験だから受験者の才力をはかる出題をするのは、当然である。けれども、その才力とは何を意味するのか、が問題であって、中国の場合、それは「士」たるに相応しい資質を有するかどうかにあった。具体的に言い換えれば、聖賢の説く真理を記載する古典を覚え、その真理を適切に表現できるか、という能力の有無をためすのである。それが「士」と「庶」を分かつ境界だったからであり、科挙はその測定を目的としていた。しかし、「士」と「民」という階層差別は、科挙に先んじて出来上がっていた。両者を分かつ契機・方法はもともと血統や家柄だったのである。これに対して、科挙により素養のある者が、名実ともに「士」となりうることになった。つまり、科挙というのは、「士」「庶」の階層差別・重層社会を前提として、それをより合理的に正当化するために生まれたものに他ならない。実地に政務を行う官僚に相応しい人材を選抜、登用するためのものではなかった。

科挙に合格して「士」として遇されるということは、中国史上のエリートととなり、特権階級になれるということだ。中国古来の通念によれば、政治の場には必ず、治める者と治められる者が存在し、前者は頭を使い、後者は体を使う。これが「士」と「庶」の区別に対応していた。実際の行政も、治める「士」の指示に従い、治められる「庶」が労力を出し合って、運営すべきものとされる。その義務時な労働奉仕を徭役と称した。これは財政のありようとも関わっている。庶民が労力を拠出すれば行政のコストは賄えるはずだから、なるべく租税の賦課はしない。これが古来の理想であって、財政構造が切り詰められたチープ・ガバメントになりがちなのも、こうした思想が作用していた。しかし、現実には切り詰めた少額の不足分を、庶民の労働が補っていたのと、事実上は同義である。その労働はしたがって、しばしば課税に転化したし、さらに税収が不足すれば、労働奉仕を再生産し、あらためて補わざるをえない。一般の人々にとっては、公式の租税よりも徭役は、重い負担で苦痛だった。租税は恒常的で率・額が決まっていたのに対して、徭役の負担は臨時的・恣意的で、しばしば際限がなくなり、しかも記録に残らなかったからである。「士」は治者の立場で頭を用いるから、肉体を用いた労働奉仕にあたるには及ばない。というのが「庶」と判然区別される「士」のステイタスのあかしである。

北宋時代に定着して以降、千年の長きにわたの科挙が続いてきたのは、一にかかって、こり特権に理由がある。何しろ科挙に合格すれば、免役・免税の特権を得て、本人の富貴が保証されるのはもとより、その一族・関係者にもその余沢が及ぶ。人々が争って科挙を受け、「士」となろうとしたのは、一身の利禄獲得と一家の財産保持という利己的、経済的な理由によるのであって、四書五経に記す高邁な聖賢の道を習得、実践するためではない。

「士」になれない人は、条件に恵まれない「庶」は、少しでも負担を回避するために、その家族・財産もろとも「士」のもとに身を寄せて、その特権に与ろうとした。自分が独立した財産を持っていれば、租税も納めなくてはならないし、労働奉仕も免れえない。ところがその財産を「士」に寄進し、自身も使用人としてその家の一員になれば、「士」の免役・免税の恩恵が及んで、負担が軽減される。そればかりか、その「士」の威を借りて、自分と同じ「庶」よりも有利な地歩を占め、上に立って見下すことも、不可能ではなかった。

優秀な子弟と教育コストのほとんどが、科挙の受験準備に投入された。科挙の準備教育は中国中に普及し、19世紀末の華北では、男子5人に1人という識字率であった。その教育とは、古典を叩き込み、その注釈書も含めて一言一句、丸暗記させ、固定的な様式の文章を綴らせることに他ならない。それで経典を諳んじ、史書に詳らかになり、詩文を作ることはできるだろう。しかし、実地の行政ができるかどうか、未知数である。実用実務はあくまで非公開の私的な領域で、徒弟的な習得を通じて体得するしかなかった。それを身につけた人も、社会的に決して尊重されない。経済であろうと、工芸であろうと、なべてスペシャリストは偏頗なものであって、それゆえに地位は低いのが、中国社会の歴史的な通念・原則であると同時に、実際のありようであった。要するに官僚とはいいながら、あらかじめ実地の行政を深く研究することはない。任官した後も、それは同じで、ほとんどの場合、政治の実務に熟練しようという気もなかった。行政はほとんどしない。その任務としてよく言われるのは、「銭穀」と「刑名」である。前者は徴税を、後者は刑罰を意味する。他に仕事はなかった。人の生命と財産を、強制的かつ合法的に奪いうる、という権力の最も権力らしい根幹の部分しか、統治。行政の実務が存在しなかったわけである。官僚の存在理由とは、プリミティブな権力しか体現、行使し得ない「自己の保存」。官僚制度末端の行政がこのような形態だったすれば、財政収支がチープ・ガバメントの構成になっていたのも納得できる。

いわゆる「銭穀」(徴税)も、今の税務とは違う。「自己の保存」を旨とする当局・官僚からみるなら、自分が必要とする額さえ、税収として入って来さえすれば、取り方はどうでもよかった。取りやすいところから取ればいいのである。だから直接の納税者は、ごく一握りの富裕層にしかならなかった。言い換えれば、最終的な税負担者が誰であろうと、あるいはいかほどの金額を負担していようとも、何らかまわない。逆に必要とする額が集まらねば、法律にどう定められていようと、収奪を辞さなかった。その必要な額とは、公私問わず、官吏たちが自分に必要だと判断すれば、際限なく使える。一方、官僚たちに支給される正規の俸給は、極めて少ない。そこで勢い、官僚たちは徴税を割り増すだけでは飽き足らず、賄賂・役得にも頼って、それを補うようになる。当時は「自己の保存」、生計の不足分を補うにとどまる限り、常識的な節度を大きく逸脱しない限り、咎められることはなかった。しかし、その節度・境界はきわめて曖昧、しょせん自制の問題であってタガは往々にして外れる。これが定着し、汚職を汚職と見ない感覚が出来上がり、確乎不抜の風習となってゆく。それはどうやら、現代の中国にまで及んでいる。税は取ったら取りっぱなし、もちろん民生に還元しない。くわえて汚職まがいの収奪も日常的、法外な搾取も少なくなかっただろう。民間が政府を信用し無くなって、権力から遠ざかっていったのも、そうした積み重ねの歴史的所産に他ならない。政府権力は、いわば乗っかっていただけで、とても社会を掌握していたとは言えない。民間社会に権力の占める地位が軽く、その掌握力も乏しく、頼るものは軍事力しかなかった。そのため、当局が社会に直接コントロールを及ぼそうとすると、逆にそれだけ煽動的・強権的・暴力的にならなくてはならぬ、というパラドクスに陥るわけである。

2014年6月25日 (水)

岡本隆司「近代中国史」(4)

Ⅱ.アクター─社会の編成

1.政府権力

中国の財政は、今の日本と比べると、その特徴が際立って見える。例えば支出の面で、軍事費と社会福祉費の比率の大小は両者で極端に正反対である。しかし、中国の特徴的な財政支出は今に始まったことではなく、歴史的にずっとそうだった。

例えば1766年の清朝の記録を見ると、歳出の50%以上は明らかに軍事費であり、その他の費目は文官の俸給に充てられていた。要するに軍事力・官僚制を維持する目的の財政的支出だった。本質的には軍隊・官僚という純消費者の権力集団を養うため、つまり政府権力が自己保存するためだけに、財政が存在していたといえる。言い換えれば、一般の民間社会に税収が直接還元されず、財政支出がカバーしていた社会とは一握りの支配層でしかなかった。また、当時の中国は、そうした軍隊と官僚組織が構成する権力で、社会全体を治めていた。その社会が二億以上の人口を擁する巨大なものだったことを考え合わせると財政支出の総額は、ごく小規模な額に過ぎない。驚くべき「小さな政府」だった。

他方、支出のほほすべてが軍隊と官僚の人件費だったといえども、財政規模の小ささは全員に十分生活できる額が行き渡るには程遠いものだった。つまり、軍人も官僚も政府の俸給だけでは生計を立てられなかった。そこで、文武いずれにも起こる事態が、今日の我々から見れば不正汚職にほかならぬ慣習であった。これは、ゆきすぎたチープ・ガバメントの弊害だと言ってよい。

現代中国の歳入規模はおよそ90兆円、税収が9割を占める。GDPに大差ない日本では、税収は37兆円くらい。納税負担は中国が倍以上に大きい。その内容を比較するといっそう対蹠的である。現在の日本では、所得税・法人税・消費税の割合に大きな差はない。額で言えば、個人が負担する所得税が最大、企業が負担する法人税が最少である。それと比べれば、中国の所得税収入は微々たるもので、税収全体の1割にも満たない。歳入の多くを占めるのは、法人税と種々の間接税である。しかも、ごく一握りの大企業や富裕層が大口の納税者となっている。大企業150社足らずで税収全体の半分を占め、所得税でも、納税者全体の3%で納税額の35%を占めるという。間接税収入もかれらの企業活動・消費活動で上がる部分が圧倒的に大きい。富裕層とはその大企業に勤める人々がほとんどである。したがってこの場合、税負担はひとくくりに大企業であると言ってもあながち間違いではない。極言してしまえば、中国では大企業の納める税が、財政収入を成り立たせているのである。

税収にかかるこうした事情は、財政支出と同じで、今に始まったことではない。財政支出の場合と同じように清代の事情を見てみると、歳入の75%を土地税が占めているが、土地は地主が所有していた。地主は小作人に土地をリースしてえた小作料で利益を上げる一種の企業体であった。政府はここから税を徴収していた。要するに産業部門の大企業だけから税を徴収していた。現代中国は納税の相手として大企業・富裕層を、清代では地主や大商人のみを補足していた。人にせよ企業にせよ個別に把捉して徴税を行おうとしていた日本の姿勢とは、歴史的な異なっていた。

以上から分かるのは、中国の政府権力が収支の対象とした「社会」は、今も昔もきわめて狭小な範囲に限られている、ということである。18世紀の清の事例は極端ながら、財政が関わる「社会」が狭小だったればこそ、あのように切り詰めたチープ・ガバメントの様態を取ることも可能だった。したがって、そのチープ・ガバメントを、我々の感覚で額面通り受け取ってはならない。その埒外に、厖大な社会が横たわっているからである。そこに暮らす人々は、たしかに権力から直接公式の収奪を受けることはなかった。しかし権力の手が及ばないところで、経済的な収奪が行われていることは、想像に難くない。地主と小作農はもとより、資本家と労働者、大商人と零細商人・消費者、いずれの間でも、前者が後者を搾取していた。中国はこのように、権力が相手にする社会とそうでない社会とに分かれていたことになる。

清朝の時代には、しばしば減税が行われた。それは善政を意味する。ことばは美しいが、これは一握りの納税者階層を潤すばかりの結果だった。その善政は一般庶民には届かない。政府権力にとっては、その存立を依存する納税階層から見放されないようにすることが問題だった。そうしたしくみと思考法が、財政の縮小と歳出の欠乏をもたらし、いよいよ文武官僚の俸給は薄くなって、不正汚職を再生産する。それが清代に限らず歴代の王朝で繰り返されたことだった。

現代中国でも同様である。国有企業が財政出動・公共事業で肥え太り、民間企業はそれによって、圧迫吸収されて没落する。財政収支はもっぱら国有企業を相手とし、民間はそこから切り捨てられる。それは、清代と変わらない。

2014年6月24日 (火)

岡本隆司「近代中国史」(3)

2.人口動態と聚落形態

おおよそのところ、中国の長期的な人口変動は、中国の伝統的な史観ていう王朝交代・「一治一乱」の現象に重なり合う。騒乱の中から、社会を安定させる力量を持つ勢力・政権・王朝が勝ち抜いて、中国を支配し、長期の平和を実現する。そこで人口が増加する。野外内外の矛盾が蓄積されて、王朝末期には騒乱が起こり、死亡率が急激に上昇、王朝政権が滅んでいく。つまり、王朝の消長のサイクルにシンクロするように人口の増減が起こっている。

しかし、そのサイクルを経るたびに、人口の規模が更新、拡大している。そこには社会経済的な要素が背景となっている。そのように見ると、中国の歴史は五つの時期に大別できる。

その第一は漢代から2世紀までで、華北が大きく経済成長をとげ、華北の生産が人口の大半を養っていた時代だ。これが3世紀の気象の寒冷化により、不作が続き既成の方式で従前の人口を養えなくなる。そこで、求められたのが江南の開発だった。この間10世紀に至るまで中国は分裂時代が続く。その後の統一政権は隋唐で、人口規模は漢代なみとなった。しかし、その内容は異なり、その人口を華北と江南が共に養うようになった。以後の中国経済は江南の比重が相対的に高まっていく。

第三期は唐から宋への王朝交代の時期に大きな社会変革が起こった。江南デルタで水田稲作が普及し、生産が爆発的に伸びる、多くの人口を養えるようになっていく。これが様々な社会変化を引き起こす。例えば軍隊。それまでの王朝政府は徴兵制のように、直接に兵役を課し、人民を徴発し軍事力を組織していた。ところが唐の後半期に寡兵性に改められた。職業的な傭兵を財力で養わなくてはならない、という意味である。技術革新も多くこの時期に起こっている。これに伴い商業が内外にまたがって勃興、発達した。貨幣経済の浸透が起こり、紙幣の流通が始まる。等である。この時期を商業革命と称することも可能だが、この動きは14世紀の危機を迎え、頓挫してしまう。

第四期には、再び気候が寒冷化し、疫病が蔓延する中で、元末明発の大混乱が起こり、経済はどん底に落ち込んだ。そこからの明清時代、経済の回復が海外の需要と相俟った江南の産業構造転換が進んだ。この海外の需要とは主として「倭寇」という名の海外貿易そして大航海時代のヨーロッパとの貿易にほかならない。その結果起こったのが18世紀の爆発的な人口増加で、当時の経済で収容しきれなくなっていく。

ではこうして増減した人口は、どのように暮らしていたのか。第一期から第二期にかけての10世紀までは城郭都市と村落の二本立てであった。それが第三期の唐宋変革の時期に、新たな聚落が出現する。従前は行政都市の一区画に押し込められていた商業区域が城郭の中から溢れ出したり、村落でも定期市を開くため、城郭都市と関係の薄い、独立の聚楽落が発達するようになった。こうした商業聚落は、それまで存在しなかった無城郭の都市にほかならない。これを「市」とか「鎮」と称する。この三本立ての形態は第四期になると、形態は変わらないが、量的な大変化が生じた。市や鎮が夥しく増殖したのである。この時期は人口の爆発的な増加が起こっていた時であり、増加した人口は増加した市や鎮に吸収されていく。この市や鎮は城郭を持たない、つまりは行政機能を持たない都市でもあった。これらの都市には行政機能がなかったため、権力のコントロールが行き届かない。これは、同時代の日本にもヨーロッパにも見られない、中国に特徴的なものだ。

2014年6月23日 (月)

岡本隆司「近代中国史」(2)

Ⅰ.ステージ─環境と経済

1.自然環境と開発の歴史

中国は巨大な大陸国家である。島国たる日本と同じではない。当たり前のことである。しかし経済を考える時、我々は案外、この当たり前の事を忘れがちではなかろうか。

その巨大な範囲内の地勢はいわば西高東低、だから河川はおおむね東流し、北の黄河と南の長江がそれを代表する。こんな巨大な川は、日本にもヨーロッパにも存在しない。この二大河川によってできた広大な平原こそ中国経済の主要舞台なのであり、逆に言えば、中国経済の展開は、あくまでもこの舞台が前提をなす。これだけでも、中国の経済を日本・西洋と同一の尺度で考えることはできない。同じ東方向に流れるから、同一河川の上流と下流は、同じ緯度帯、類似した気候に含まれる。河川が違えば、それも同じではなくなり、生態系も著しく異なる。北の黄河流域と、南の長江流域とでは、経済の環境・条件、そして動向がまるで違っていて、その中間を流れる淮水が、ほぼその境界をなす。

古代の歴代の王朝政府は黄河流域に興り、黄河の浚渫、堤防の構築、決壊の補修を繰り返し、莫大な労力と費用をつぎこんだけれど、人力では十分な対策は不可能だった。そもそも河北の平原が、黄河の度重なる氾濫の末にできた沖積平野なのであって、すこぶる厳しい自然だと言えよう。そんな黄河か運ぶ土砂が有名な黄土である。その成分は必ずしも肥沃ではなかった。黄土層の形成する大地は、人が居住し始めた時期には、鬱蒼とした森林に覆われていたとともに、より広大な草原もあった。この森林を切り開き、草原で家畜を飼育することで双方を施肥しつつ農地にしていった。肥沃な黄土とは、人為的に肥沃化されたものだったのである。そうした農地化が、森林の濫伐と草木の消尽をもたらし、黄河の氾濫を一層重大にした。黄河文明の昔から、連綿と続いたその歴史の結果が、現在の森林を蕩尽した景観である。

このように黄河本流をコントロールできない以上、人々が農耕を営んだ生活空間は、必然的に黄河に注ぎ込む支流の流域となる。そこで主要な支流とその分水嶺に沿った形で、経済的なまとまりが出来上がった。そうした土地で家畜を養いながら、黍・粟・麦・豆などを栽培収穫する、というのが、今も続く河北農民の暮らしである。もとより降水の少ない気候条件は、容易なものではない。酷寒の大地に降った雪を集め、春の発芽期に少しでも水分の足しにするなど、その忍耐強い労働は、こうした厳しい環境に由来する。そこで必要になるのが灌漑だった。典型的なのは関中盆地である。中心は長安という都市で、漢・唐という中国史上屈指の統一王朝がいずれも国都にした。そのため国都が抱える官僚・軍隊など厖大な人口を養わなくてはならない。御膝下の農地開発をゆるがせにできなかったのである。そのため権力の側も大規模な灌漑事業を可能にする労働力をすぐに編成できる体制を整えておかなければならなかった。このような事情から、漢から唐までの支配は人民から直接に労働力を徴発する制度を根幹としていた。しかし、いかに灌漑を施し、農地を広げようとも、またどれほど技術が向上し、生産が増えても、一度天候不順になれば、凶作は免れない。いな、生産性が高まって平時に多くの人口が養える分、有事に際してのダメージは、それだけいっそう大きくなってしまう。局地的に食糧困難になれば、流民が発生する。凶作地に大量の穀物を取り寄せるのは難しいからであり、むしろ人の方が、食を求めて移動した。庶民に限らない。王朝政府そのものが、周囲の食糧事情が悪化したために、移動することもしばしばだった。長安を抱える関中盆地は、もはや開発増産の限界に近づいていた。食糧を入手するために人が動くのではなく、穀物を取り寄せる。それを常時、円滑に実行するには、穀倉地帯の開発、交通・運輸の改善など、新たな条件が揃わなくてはならない。それが揃ったとき、中国の経済は次の段階に入る。端的にいえば、南方の開発進展と比重増大であり、黄河流域が経済の中心だった世界は、唐代にはもはや過去のものとなっていた。

これに対し、長江は黄河ほど氾濫したり、流域を変えたりしない。それは黄河と違って、流域の地形が複雑で、中渦流域に多くの湖沼が存在するからである。それらが天然ダムのように長江の水位を調節する機能をはたしてきた。そのために水位が安定し、本流と支流を組み合わせた交通路として水運を利用できるのも長江水系の特徴である。黄河流域が乾燥気候であるのに対して、こちらはモンスーン気候に属し高温多湿である。植生・生態系も、華北より日本に近い。こうした長江流域を江南と呼ぶ。江南の農耕は水稲栽培であった。中国の古代文明は黄河文明ばかりではない。しかし、この江南文明は黄河流域に政治力で圧倒され、従属の歴史を歩んできた。中華とは黄河流域の事であって、江南はその中華から見た一地方の名称に過ぎない。秦漢の統一に至る中国古代史は、そういう固定観念が出来上がるプロセスでもあった。

それは黄河流域の開発と経済の伸長が先んじ、長江流域のそれが遅れたことを意味する。しかし、黄河流域の開発は10世紀までに限界に近づき、以後の相対的に地位を後退させて、その間に開発が進んだ江南は、やがて経済力で華北を凌駕し、中国経済史の主役に躍り出る。

江南の中心は一貫して南京周辺、つまり三国時代の呉と六朝政権の首都がおかれた地であった。この時期では江南デルタと呼ばれる海に近い長江河口の低湿地の開発はあまり進まず、塩水の浸入を防いで湿地を水田にする技術が確立する10世紀以降本格化する。塩水の浸入を防ぐために護岸堤を築き、水路を開削し、クリークを縦横にめぐらせ、湿地の水と土を分離し稲作地を増やして行ったのである。江南の開発は拡大し、中流域や支流に開発の手が及んでいった。

隋の時代に大運河が開削され、江南の生産は華北の消費と結びついた。宋代の江南デルタは「蘇湖熟すれば天下足る」と言われ、中華の食糧供給を一手に担っていた。そこに商業が勃興する契機も潜んでいた。

華北と江南がメインストリームとすれば、その他の諸地方でも次第に商業が営まれるようになり、それが外界との接触と交渉も活発化し、外界との橋渡しをする外郭的な地方が勃興する。例えばシルクロードの出入り口にあたる甘粛回廊。それがなければ、例えば洛陽盆地に都が置かれた背景が分からなくなる。これは、西北部の遊牧民族との関係の重要性からと言える。中国、いや東洋史全体の中でも、遊牧世界と農耕世界の共生・相克が大きな部分を占める。遊牧社会は必要な牧草地と物質を求め、季節の変化に応じて移動を繰り返すから、隣接する農耕社会の華北にも、その影響が季節ごとに訪れる。平和時には貿易取引、さもなくば略奪・戦争という形で、遊牧民との関係を取り結んできた。北京が歴代王朝の首都となったのも、遊牧世界と隣接する、地政学的にも要衝の位置を占めていたからと言える。

これに対し、江南は長江の水系を利用した水運のやりとりが活発化する。また、長江流域から外れた地域は海に面し、海運が発達するとともに海洋を通じて諸外国との関係を深めた。つまり海上貿易が水運によって江南全体に波及していった。日本もそうした貿易相手のひとつであった。

このように考えると華北は江南よりも北の国境と、江南は華北よりも南の国境との結びつきが一層強い筈であり、華北と江南が一体であるべき中国というのはステロタイプで誤解を招きやすい先入観、さもなくば一種のイデオロギーということになる。中国の政治的・経済的に対内的統合の欲求・機運はつねにありながら、それがときに成就し、ときに挫折したのは、対外的な関係と相互作用がそれを促し、あるいは妨げる駆動力となって来たからである。それが中国史を通じた動向であり、20世紀に入っても、また目前の中国においても、やはり真理である。

2014年6月22日 (日)

岡本隆司「近代中国史」(1)

プロローグ─中国経済と近代中国史

経済史は社会科学の女王である。社会科学が不可解な人間事象を解きほぐすものだとすれば、グローバル経済史を語るこの命題は、なかんずく中国にこそふさわしい。中国の謎は経済に極まり、それを知る鍵が歴史にあるからである。

高度成長を続け、関係を深める中国経済関する著述は、実務から学問に至るまで、汗牛充棟ただならぬありさま。それだけ中国に対する関心が高いわけだが、それは、よく分からない、と言う意味である。中国経済は謎だらけである。

中国の経済成長には、外国資本の果たした役割が大きい。なぜ外資にそれほどのプレゼンスがあるのか。それはいつから始まり、どこに由来するのか。日本で経済成長と言えば「ものづくり」であり、技術開発である。「世界の工場」となった中国でも、もちろん製造業が盛んではあるけれども、創意工夫を旨とし、先端技術を競う「ものづくり」を中国で想像することはおよそできない。自前の技術だと言い張って運行を始めた高速鉄道は、その好例である。そこからすぐ連想するのは、技術やパテント、あるいは著作権を尊重しない態度であり、いわゆるパクリや海賊版が横行する現状も、その根源は同じだろう。それでどうして高度成長が可能だったのか。日本人の感覚では、どうにも分かりにくい。日本の経済成長は、いわゆる官民一体で進んだ。経済事業には政府が深くコミットし、企業も個人もお上を信じ、頼ってきた。法令規則にも従順である。いまもそれは変わらない。それに比べて、中国はどうか。中国共産党の「改革開放」路線が、官民一体だったであろうか。日本のように、民間の事業・生活を支援するのに、政府揚げて関わった、という事例は多くあるまい。民間の側もそうである。社会保障でいえば、最近の都市部は変わってきたが、病気も老後も自分で何とかする、という考え方が一般的だった。なればこそ、民間セーフティネットの発達が著しい。お上をあてにしないのが中国人なのである。お上に頼らない、とはお上のいうことを聴かない、法を遵守しないことをも意味する。そのため経済活動でもトラブル、犯罪が頻発してきた。日本で同じ現象はあっても、数・規模ははるかに中国がまさっており、因果関係や社会環境は、どうみても同一視できない。さらに日本人に想像しがたいのが、いわゆる格差の大きさであろう。日本で問題になっている格差など、中国に比べれば、およそ物の数ではない。日本と同じ格差といっては、誤解する恐れさえあるだろう。では、その根源はいったいどこにあるのだろうか。

経済というと何やら難しく聞こえるけれども、実は日々の暮らしで、我々自身も参加実践していることであって、要するに、社会の動きの一部をなす。だから経済の動き方を探るには、その社会の仕組みを知らなくてはならない。社会を知るには、その来歴を考える必要がある。つまり、中国経済の理解には、中国社会の歴史が前提として欠かせない。

2014年6月21日 (土)

ジャズを聴く(7)~ハンク・モブレー「ロール・コール」

ハンク・モブレーのスタイルの特徴は、おそらく彼の地域や時代という環境や彼自身のパーソナリティと不可分で、それらに強い制約を受けたものであったように思う。元来、音楽性とかプレイというものは、パーソナルな性格のもので、その制約を受けないものはない。しかし、大衆的な人気を獲得することやアーティステッィクな成果をあげていくプロセスで、普遍化とか抽象化されてくのが普通であろう。つまり、作品が作者の手を離れて一人歩きをするということが起こるわけだ。だからこそ、チャーリー・パーカーのプレイは時代を超えた天才の残したものとして現在でもミュージシャンやリスナーに清新な影響を与え続けている、ということが起こる。しかし、音楽はそういうものばかりではなくて、特定の集団やコミュニティや時代、あるいはその双方に特化した、そういう環境の中でのみしか生きられないものもある。それらは、時代やコミュニティとともに栄え、人知れず消えていってしまうような目立たないものであるけれど、それを支える人々にとっても切実でなくてはならないものだった。そして、モブレーのプレイというのは、どちらかというと後者の方に一歩か二歩ほど歩み寄ったものだったのではないか、と思う。それが、広い人気を獲得できなかったけれど、ジャズ・ミュージシャンという限られた人々や日本のジャズ喫茶で強い支持を受けたとか、比較的限られたところで支持されたことのひとつの原因ではなかったのか。

このようなことは、モブレーの1950年代の録音を聴いて強く感じられたことだ。モブレーは1950年代後半、ブルー・ノートの専属のような身分で、彼自身がリーダーとなったアルバムはもとより、サイド・マンとして多くの録音に参加している。その中には、名盤と評価されているものも少なくない。それらでのモブレーのプレイを聴いていると、共演しているプレイヤーの演奏をよく聴いて、自身はあまり出しゃばることなく、周囲と調和し、盛り立てて、自分のやるべきことはキッチリと演っている。どんなに全体が熱くなっても彼は自分勝手に走ってしまったりせず、常に全体とのハーモニーを崩すことなく、堅実に支えている。そこには自分が目立とうなどという野心とかエゴというものは、あまり感じられず、むしろ無私の奉仕に近いような印象すらある。モブレーと付き合いのあったミュージャンたちは口をそろえて、彼の性格の善さを言うのは、そういうところにも表われているのではないかと思う。ここでは、かなり強調した書き方をしているが、ハンク・モブレーという人にとって音楽をプレイするということは、表現するとか、金や名声を得るとかいうことよりも、まず第一に、気心の知れた仲間とプレイすることだったのではないか、と思える。

彼のプレイの特徴としてあげられる、太くマイルドなトーンや歌心溢れるフレーズで聴く人の心情に優しくシンクロすることや、しっかりした曲をつくることや、アップ・テンポでも正確にリズムをキープしながらも寛いだプレイができること、これらは、一緒にプレイするミュージシャンたちにとっても心地よいものだったのではないか、と思われる。かなり偏向した考え方かもしれないが、モブレーのプレイは、一緒にプレイするミュージャンや、その近くにいて空気を共有する人々と、まず気持ちよくハーモニーし、親密で心地よい空間や時間を共有することのために、まずあったのではないか、と思わせるものがある。だからこそ、1950年代の後半にジャズが、彼のよくプレイするニュー・ヨークなどのイースト・コーストにおいて、ビ・バップからハード・バップへと発展し、広く人気を集める時代環境のなかで、アート・ブレイキーをはじめとしてモブレーよりも経験を積んだプレイヤーに見守られながら、その雰囲気の中でモブレーは自身の、今言った資質を十二分に生かすことができたのではないか、と思われる。周囲の親しい人々に暖かく見守られながらインティメイトなプレイの中で自己の資質を十分に生かし、その結果が、ジャズ全体の興隆に乗って録音に残り、広く人々に受け入れられていく、そういう幸福な結果が、この時期のアルバムに結実されている。サイド・マンとして参加したアルバムを除けば、ブルー・ノートでリーダーとして録音した『Hank Mobley Quartet』や『Hank Mobley Quintet』、プレイティジでのセッションを集めた『Mobleys Message』が代表的作品であると思う。そして、モブレーのファンの中には、この後の洗練された作品やジャズ・ロックで人気の出た作品よりも、この時期のモブレーをこよなく愛する人も少なくはないと聞いている。

しかし、アマチュアのような趣味として音楽をプレイするわけではなく、プロであるからには人々に聴いてもらわなければならない。そのためには、同じようなプレイを繰り返すことはマンネリとして飽きられてしまうことがないように、絶えず音楽性を発展させていかなくてはならない。そこでは、周囲のミュージシャンといつも同じ方向を向いてられるとは限らない。さらにまた、ジャズという音楽ジャンルの人気も頂点に達し、翳りが見え始めてきた。少しずつ行き詰まりを迎えつつあった時に、モブレー自身も1958年中頃から1960年の初めまで、あれほど活発に録音をしていたものが、この時期に録音がぱったり途絶えてしまう。この時期のモブレーは、スランプという人もいるが、たしかに壁にぶち当たって足掻いていたと思う。それは、この時期を経て1960年に録音された『Soul Station』には、それまでの彼からの飛躍が見られたように思えるからだ。

ガイド・ブックなどでは、ハンク・モブレーが1960年から続けて制作した『Soul Station』『Roll Callそして『Workout』を三部作として、さらにこの後20年以上たって発表された『Another Soul Station』を加えて、代表作として紹介していることが多い。ファンの間でも、この後に発表された『Dippin』よりも評価が高いようだ。この三部作になって、モブレーは、プレイ・スタイルを大きく変えたのか、と言えば、そんなことはなく(そもそも、彼はそんなに器用なたちではない。それは、この後のジャズが不遇となっていく時代のモブレーの不器用な身の処し方を見れば明白だ)、相変わらずのフレーズやサウンドを続けている。

では、さきほど述べた三部作における飛躍とは何だったのか。まず、表面的なことから言うと、この三部作において、アート・ブレイキーは未だ参加しているものの、ジャズ・メッセンジャーズで一緒にプレイしていた、言わば先輩たちから、同世代のプレイヤーに替わったということ。『Roll Call』では、必ずしも彼と音楽性の相性が良いとは言えないハービー・ハンコックと共演している。これは、内輪からの脱却と見える面もある。ある程度、異質な才能にも門戸をあけ、より開かれた方向性でプレイをしようとしたのが形になったということだ。これは表面的なことで、肝心なのはプレイしている音楽の中身だ。例えば『Soul Station』の2曲目「This I Dig Of You」の冒頭でピアノとベースが掛け合うようにリズムが上昇していくような上に乗るようにモブレーのサックスが入ってくるところ、とても印象的なところだ。ここでは、ピアノとサックスが絡み合うアンサンブルで相乗効果というか、それぞれの楽器が前に出て他方がバックを務めるのではなくて、双方が前に出ることで2台の楽器が1+1=2におわらず、2が3や4に加算されるような効果を上げている。一種のインター・プレイであろう。この場合、互いに触発し合うことにより高度の演奏を実現するという言葉の上ではキレイに聞こえるが、その実は自己主張の鍔迫り合いも必要だろうし、楽しくセッションするだけでは、その要件を満たさない。性格の良いモブレーも時には鬼となって自己主張をしなければならなかっただろう。それが、ここの「This I Dig Of You」では印象的な成果を達成している。そして、モブレー本来のマイルドなトーンや歌うフレーズを損なうことなく、むしろその特徴を更に印象深くし、彼の個性として際立たせることに成功している。50年代の彼のプレイがあくまでも、バップの枠の中で控え目にフレーズに歌の要素を入れていたのに対して、60年代のモブレーはバップの枠を意識させず、歌うフレーズが前面に出ている。ただし、ベースにはバップの土台がしっかりとあるため、親しみ易いながら、奥深い世界を作り出したものとなっている。それが、60年代初頭の3部作といえる。この時期のモブレーの達成は、バップへの危機感と、それを背景に周囲のミュージャンの方向性が分岐していく状況と、モブレー自身のミュージシャンとして成長していく上で越えなければならない壁に直面した時期が重なって、一時的な停滞を克服して、達した境地だったのではないか。

しかしまた、モブレーは自身の原点とも言える、その志向性を終生にわたり持ち続けたのではないか。何の憂いもなく、環境の中で音楽を虚心坦懐に楽しむということは、60年代に入ると難しくなってくる。その中でもモブレーは、ある意味では理想として、もはや追いつくことの出来ない世界、しかし、以前はあったという理想的時代としての過去の牧歌的環境への憧れ、いわばノスタルジーにちかい心情が漂っている。それが、これ以降のモブレーのプレイに、そこはかとなく感じられるしみじみとしたところ、一抹の哀愁の香りは、そんなところに起因しているのではないか。とくに、日本では一時期のジャズ喫茶で根強いファンがいたというのは、地方から東京に出てきて、学校や職場でふるさとに帰れないところに来てしまって、普段は故郷を想うことなどできない人々の故郷を想う心情とシンクロするところがあったのではないかと思う。

しかし、その後バップの衰退は明白となり、モブレー自身の音楽的な土台が崩れていく事態に追い込まれ、周囲のミュージシャンたちとの関係も崩れていく状況に追い込まれていったと思われる。モブレー自身ジャズ・ロックに挑戦したり、本来の資質であるバップに回帰した録音をするなどを試みている。とはいっても、彼自身の拠って立つ環境やバップという土壌と切り離せないところで音楽をやっていたモブレーにとっては、それなりのプレイをしてはいるが、どこか浮ついた印象を否めない。その後の活動は、徐々に花がしぼんでいくようになって、残された録音についても、比べると50年代や60年代初頭のものの方を聴くことになってしまう体のものとなってしまっている。

 
Roll Call
    1960年11月13日録音

 

Jazmobley_roll_2Roll Call

My Groove Your Move

Take Your Pick

A Baptist Beat

The More I See You

The Breakdown

 

Art Blakey(ds)

Freddie Hubbard(tp)

Hank Mobley(ts)

Paul Chambers(b)

Wynton Kelly(p)

 

Soul Station』のメンバーにトランペットのフレディ・ハバードが加わり、二管のクインテットとなっただけのはずなのに、同じようなミディアム・テンポが基調でも、半年前の『Soul Station』とは全く印象がことなるアルバムとなっている。それは、モブレーというプレイヤーがマイ・ペースで他のミュージシャンがどうあろうともソロでグイグイ引っ張って自分の色に染めてしまうという行き方をするのではなく、他のミュージシャンと協力して全体のサウンドをつくって、その中で自分のソロを生かしていこうとするプレイの作り方をするタイプだということのあらわれであると言える。だから、共演のミュージシャンとの相性によって彼のプレイは生きたり死んだりする。

最初の曲の「Roll Call」は冒頭からドラムが煽るような短いソロから、二管のユニゾンが前のめりでテーマを吹くのが、『Soul Station』のリラックスした入りと違って、熱い。それに続くモブレーのアドリブは、やわらかい音色。次々湧いてくる途切れることのない官能的なメロディラインで、風景が流れるように切り替わる高速ドライブのようなスリル感がある。トランペットのフレディ・ハバードも、アドリブ途上で浴びせかけられる、アート・ブレイキーの滝のように強烈なドラムロールをハイノートで迎え撃ち、ウィントン・ケリーの簡素で効果的なバッキングも輝いている。アート・ブレイキーの轟音ドラム・ソロが終了し、テーマの合奏が始まると、その絶妙なスピード感に、再び背筋に電撃が走るようだ。ただ、前作『Soul Station』をよしとする人にとっては、モブレーが精一杯のプレイを見せているが、多少の無理が見え、ソロでもトランペットの方がテンションが高かったりと、好悪が分かれるところではある。

このハイテンションは、2曲目の「My Groove Your Move」で納まるものの、『Soul Station』の茫洋としたリラックスな感じはなく、緊張感のある中で、モブレーのサックスが歌うのが、ハード・バップが好きな人には聴きやすいかもしれない。モブレーという人は控え目な人なのか、サイドにつくと不用意に出しゃばることなく、リーダーを盛り立てるのだろうけれど、自分がリーダーとなった場合には、メンバーをぐいぐい引っ張っていく力には欠けるようで、このアルバムのように、共演者が無理してでも引っ張りあげてあげないと輝いてこない、という見方もあって、その方向を追求したのが、このアルバムと言える。

2014年6月20日 (金)

あるアイドルグループの投票をネタに世迷言(つづき)

さて、昨日の続きです。昨日のことをかいつまんで述べるのは面倒なので、省略します。もし、昨日のを読まず、これを読み始める方がいらっしゃるようでしたら、前日のものを読んでからの方が、こらからのは読み易いと思います。

AKBというのか、私にはその集団の呼び方も組織の形態もよくわからないのですが、そんなような名前で呼びならわされる集団の投票に関して、偏向した考えを述べましたが、今回は、投票が投票権を購入した人が、その権利で応援する人に投票するという投票のやり方がよく分からないことを書きます。

そもそも、にまた戻りますが、この投票の目的は、シングルとして発売するCDに録音するナンバーのメイン・ボーカルを選ぶと言うのが目的であったと思います。つまりはボーカルの選別です。それなのに、どうしてボーカルのオーデションがないのでしょうか。ボーカルを選ぶのであれば、その歌が選択の第一要因のはずです。しかし、投票のテレビ中継をみてもメンバーが個々に歌を競うところはやっていませんでした。また、ウェブ上に動画などで各人のボーカルが比較できるようにアップされていることもなかったようです。それでどうやって選べるのか。また、仮に歌がうまいとか優れたところがあるからと言って、それがグループの商品コンセプトや販売戦略に適合的であるとは限らないはずなので、それを明らかにしてあって当然だと思いますが、それも明らかになっていなかったようです。そういうところがなければ、単に集団の中の御贔屓の人を投票するだけということになってしまいます。それはそれでいいのかもしれません。そういう投票する人にとっては、それはそれでいいのかもしれません。

そんなものなのか、というのが私の疑問です。それについての考えた理由は次の二つです。ひとつは、そういう内輪の盛り上がりだけを考えているという場合です。つまり、御贔屓の人気投票で競わせるというのは、この集団の中での競争で、集団の外には発展しません。つまり、集団内での内輪の自己満足の世界なので、それで作られたCDの品質がたかいものでなければ内輪以外の対する販売拡大の可能性は少なくなります。しかし、内輪のファンの数がある程度の数があるので、その人たちを常連さんとして、今後はその人たちを差別化するようにして、一種の固定客として囲い込むための販売戦略としてやっているということです。これなら納得できます。集団の中で御贔屓同士をきそわせて、今度はという期待感をもたせて、CDを繰り返し購入させるというためには、有効です。ファンとなっている人たちですから、多少品質は落ちてもCDは買ってくれます。この場合は品質以外のところに購入動機をもっていくということです。しかし、これではファンを増やすという方向にはいかないので、やがてジリ貧になるのは火を見るより明らかです。

そして、もう一つの理由は、そもそも音楽CDは音楽を聴いてもらうための商品と考えていないという理由です。端的に言えばCDの中身である音楽は“グリコのおまけ”みたいなものでしかない、という考えでビジネスをしているということです。へんな喩えかもしれませんが、宗教的行為に似たようなものでお布施を納めるような行為として、ファンはCDやグッズを購う、とでも言った方がいいかもしれません。それは、実際に同じような内容のCDをパッケージや特典を変えて、限定版とか通常版とかいって何度も販売して、そのたびにファンに買わせようとしたり、投票権つきのCDをファンがまとめ買いしたり、ということにも象徴的にあらわれているように見えます。CDの内容(音楽)だけが目的ならば、一枚買えば十分ですから。

そういう意味でこんな風に、つらつら書き連ねてきたうちに生じてきた疑問です。このような投票(競争)をやっている当の本人たちは、それでいいのだろうか、という疑問です。そもそも(また、そもそもです)アイドルを目指そう等という人は、目立ちたがり屋でエゴの強い人です。これは偏見かもしれませんが、たくさんの人の前に出て、そこで自らを表現しようなどと思うような人は、そういう強いエゴでも持っていない限り続かないはずです。そんな人が、何十人も集まった団体のなかで、ドングリの背比べみたいな競争に満足できるのでしょうか。このような競争は、まるで企業の中でのサラリーマンの出世競争と同じように見えます。芸能界を目指すような人は、そういう枠ははまった堅苦しいものに収まりきれないから、そういう世界をえらんだのではないのでしょうか。そこで、サラリーマンの出世競争の縮図みたいなことを必死でやっているわけです。そこで、こんなことやってられないと、集団を退団して、独立して勝負して、一人でグループに勝ってやろう挑戦する人はどうして出てこないのでしょうか。集団の中で、トコロテン式に“卒業”するというのは、まるでサラリーマンの定年退職のようですが、そうやってやめるくらいしかないのでしょうか。

話はかわりますが、芸能界というものに対して、河原乞食という古い言い方があるように一種の賤民としてみていたわけで、そうである反面、そうであるから普通の人が世間とか規則とかに縛られている時に、その枠からはみ出ているからこその自由さというものへの憧れもあったと思います。ところが、サラリーマンのサバイバルゲームを公開でやっているような集団の各メンバーの振舞いを、時に目にすると、そういう自由さを感じることはどうしてもできないでいます。

投票についてもそうですが、この集団のことを目にするたびに、絶望とはいいませんが、閉塞感とでもいうようなものを、どうしても感じてしまいます。

今回は、あまり筋が通ったことを書けませんでした。

2014年6月19日 (木)

あるアイドルグループの投票をネタに世迷言

 

少し前にテレビ中継があったり、ニュースや新聞で取り上げられたり(老人サラリーマンは、この程度の情報ソースしかありません)していたアイドル集団の選挙(?)について、外野の無責任な放言をします。AKB48っていうのでしょうか。私はこの集団のことを把握しきれていないので、無知ゆえの暴言になってしまうかもしれませんが、何も知らない奴が無責任なことほざくと言われそうですが、これはこういう現象をネタに私自身の偏った考えを吐き出すのが主な目的なので、事実誤認などは目に余るほど酷いものでない限り、ご容赦願います。

まず、門外漢の私が、そもそも疑問に思うのが、なぜこんな選挙を行うのか?ということです。これには、二つの問いが含まれていて、なぜ選挙を行うのか、ということと、なぜこのような形の選挙をおこなうのか、ということです。聞くところによると、この選挙は、この集団が制作する音楽CDのシングルとして発売する楽曲のセンターボーカルを選抜するための選挙だということです。これが間違った情報であれば、この先の議論はすべて無意味となりますので、以下、そういうこととして進めます。これがまず疑問です。

そもそも、アイドルというビジネスは音楽CDをメインとしてキャラクターグッズなどの関連製品の販売が主要な収入源であるはずで、コンサートやテレビ出演は収益というよりは、知名度アップの方に寄与度が高いと聞いています。ということは、音楽CDの販売拡大がアイドルの主要事業であり、メインの商品といえると思います。そのCDをより多く販売するためには宣伝も重要でしょうが、要はCDそのものが商品としての品質が備わっていないと、いくら宣伝しても売れないということになるはずです。逆に品質が突出するほど優れていれば、それだけで売れることは可能性としてあり得ると言えます(過去にそういう事例は数えきれないほどあったと思います)。そのCDの中身はその集団が歌う楽曲であり、演奏であるはずです。そして、センター・ボーカルというのは、多分、集団がマスで歌を斉唱(多分、合唱でも輪唱でもないでしょう)するだけではなくて、サビの部分など一部のソロ・パートを任されるということなのでしょう。ということは、内容の品質を左右するキーとなる部分です。それを選挙で選ぶことに、まず疑問が生じます。

私は音楽を聴くことは好きで、ポップスもクラシックもジャズも長唄や常盤津のような邦楽も分け隔てなく長年聴いてきました。それらの演奏の録音の場合は、まず、技量の高いメンバーが集まってセッションや練習をした結果を演奏として録音するか、あるいはソロ・プレイヤーのためや固定したグループで、コンセプトが決まっていてそれとの兼ね合いの中で楽曲を新しく作り録音する、というような作り方をするケースがほとんどでした。この場合は、アイドルは歌謡ポップスとなるケースがほとんど全部なので、後者のパターンがほぼ全部当てはまることになると思います。これをもっと具体的に言うと、例えばビートルズというグルーブがありましたが、そこには、ジョン・レノン、ポール・マッカトニーというメインとなるボーカルがいて(ジョージ・ハリソンもリンゴ・スターもボーカルをとっていましたが、メインではなかったので)、この二人の声や歌い方などがこのバンドが他のバンドとの違いを際立たせる、つまりは差異化する大きな要素であったわけで、それを前提に楽曲が作られていたと言えると思います(それだけではないことは、もちろん承知しています)。そして、この二人のボーカルというのは他に替えがたいものであったはずです。もし、この二人のメンバーが他の人に替わってしまうということがあれば、ビートルズというバンド自体が変わってしまうことになることになります。だから、このようなメンバーが替わるということはバンドの存続に関わる大事件のはずです。それが証拠にビートルズ解散の理由のひとつとして、ポールが他のメンバーの加入を考えていたのを、他の3人が、そんなことになるのならバンドを解散させてしまえと考えたという説もあるくらいです。

だから、ポップスのグループでボーカルを選択するということは、それによってグループのコンセプトが決まってしまい、それによって作る楽曲も、そして最終的な音楽CDの品質をも決めてしまうことになるものです。その場合は、前述のビートルズの例のように他に替えがたいということになるのが、私の常識的な考えです。そもそも、素人のまねごとではなく聴き手を納得させるような、ある意味突出した個性とか技量とか音楽性等といったものがあってボーカル、歌としての存在感があり、それが聴き手にアピールする。それを前提に楽曲やアレンジを作り込んでいく、それがCDの品質として消費者に提示され、それを気に入って身銭を切って購入するというものなのではないか、というのが私の常識です。

そこで戻ります。そんなボーカルを選挙で選ぶことなど考えられるか、です。まず、それだけ突出した人はそうそういるものではなく、AKBというのは沢山のメンバーがいるようですが、それだけ突出した人がどれだけいるのか。ということです。もし、全員がそういう人たちだったら、そもそもそんな人々ひとつのグループに集まるなどということはあり得ない話です。テレビ等で見る限りでは、この集団のメンバーは数十人いるようですが、実際問題、この集団で演奏を成り立たせようとするならば、メインが一人あるいは2~3人であとはその他大勢にするくらいでないと演奏できないでしょう。そういう事実かすれば、メンバーの中で、ボーカルに値する突出した人というのは限られているはずです。そうでない人がメインのボーカルとなった場合には確実に質が落ちるはずです。

そして、従来ではそれを見出してきたのは専門家と言われる人々でしょう。その人たちは、その選択の前提にはその後の品質のコンセプトがあって、それとの兼ね合いもあって選ぶと言うことを、しかも、選ぶ対象をオーデションを繰り返して十分に比較した上で決めていたはずです。そこには独断があったでしょうけれど、それも一種のコンセプトとして商品の品質の一部でもあったはずです。

それを投票権を買ったファンの選挙で決めたとして、その決定のリスクは誰が負うのか。つまり、選挙によって選ばれた人がボーカルとなって録音したCDの品質がダウンして、それが売れ行きに影響した場合、その損害を投票した人々が負うわけではないのです。負うのはグループであり、そのビジネスを運営している人です。投票している人は無責任です。その点で、政治の選挙とは全く違います。だから、この投票を選挙ということは適当でないかもしれません。

そして、派生する疑問です。そのように投票で決められるということは、品質を決められる核であるボーカルが交換可能だというこが前提となるはずです。つまりは、AKBという集団のコンセプトはその程度のヤワなものなのか、ということ。そして、そこで選ばれた選ばれる人についても、その程度の交換可能な人々程度であるのか、ということです。多分、私はそういう事実を耳にした時点で、この集団はそんな程度なのかという先入観を持ってしまうでしょう。そう考える私は、偏屈な少数派なのか、分かりませんが。そして、投票に参加するする人々についても、多分投票に参加する人々は、応援する、ファンとなっているメンバーがいて、その人に投票するのでしょう。その時に、そのファンとなっている対象の人は、他に代わりのいない唯一の人であるはずです。そのメンバーが、他のメンバーと横並びになって、いわばどんぐりの背比べのような一種凡庸さをあからさまにしている。つまりは一山いくらのような値段競争をやっているわけです。それはファンの対象となっているひとを貶めること以外の何ものでもないわけで、そんなことに嬉々として参加していることも疑問です。

少し長くなったので、二つ目の疑問は別の機会に回したいと思います。

2014年6月18日 (水)

シャヴァンヌ展 水辺のアルカディア~ヒュヴィス・シャヴァンヌの神話世界(4)

.アルカディアの創造~リヨン美術館の壁画装飾へ(1870~80年代)

Chavannesmoriヨーロッパ近代の市民消費社会を積極的に推し進めたのはナポレオン3世の治下のフランスでしたが、普仏戦争により唐突に終わりを迎え、それまでの爛熟した文化が、占領下や共和制での混乱で、パリ市街は荒廃します。丁度その時期のシャヴァンヌは、復興における新たな建築の壁画制作の注文を受け、忙しい日々をおくったと言います。

「諸芸術とミューズたちの集う聖なる森」という作品は、リヨン美術館のために描いた壁画で、これはキャンバスに縮小して描き直したものですが、それでも横幅2mを越える大きな作品となっています。理想化された古代の牧歌的風景に神話上のミューズたちが集うという光景で、戦火やパリ・コミューンといった国内での戦争状態を経て、平和な理想世界への希求が切実だったという背景で、このような安穏さともいえる牧歌的な風景を意識的に描いたということなのでしょうか。その際に、前回で自らの進むべき道を見出したシャヴァンヌの特徴がいかんなく生かされた作品が生まれたということでしょうか。しかし、私が見る分には、そのようなことは関係なくなりますが、どう見ても退屈なのです。展示室はこの作品の前に長椅子が置いてあって、そこに座って見ることができようになっていたのですが、私は長椅子に座ると、何時に間にかうたた寝をしていました。音楽では、コンサートで眠くなる演奏は悪い演奏ではないと言います。眠れるほど心地よい音楽ということです。しかし、音楽を聴くということは、聞こえてくるという受け身の姿勢でもかのうです。これに対して絵画を見るということは、観るという積極的な働きかけをしないといけません。そうして観ようとして、眠気を抑えることができなかったのです。その理由(このような理由を、わざわざ考えるというのは馬鹿馬鹿しいと言ってしまえばそれまでですが)としては、画面全体に、刺激を抑えようという操作が為されていることです。刺激というよりは、画面を見ていて引っ掛かるところといった方がいいと思います。そういうものを作らないように、意識的に平板な描かれ方をしている、まるで自己主張がないかのようです。色調も、現在の言葉でいえば淡いパステル調というのか、眼に心地よいところはあるのですが、訴えかけるようなものではありません。描かれているニンフたちを見ると、表情が分からないように省略されているため、この人達の心情とか内面的なものを想像することはできず、感情移入するようなこともできません。すべてが表面を上滑りするだけ、というように描かれているのです。

展示スペースには、この作品が実際に美術館の壁面に飾られているのを再現する模型のようなものが作られていましたが、実際にリヨン美術館に赴いて、壁面に描かれているこの作品を注目して眺めるということは、私の場合には、たぶんあり得ないのではないか、と思います。多分は、視線を注ぐこともなく、通り過ぎてしまうことになるだろう。通り過ぎる人の足を止めさせて、壁画に注意を集めさせるような強いものは、この作品には認めることができません。逆に、作品としての存在感を限りなく希薄化させて、作品の独立した存在というよりも、そこに作品が

あることで、空間に環境とか雰囲気をかたちづくるような配慮が意図されているのではないか、と思われる、好意的に見れば、そういう意図を解釈として受け入れることも出来るでしょう。そうであれば、音楽であれば、自己主張を抑え、かといってBGMでもなく、ひとつの音楽空間を作ろうとする環境音楽のようなことを、この作品が考えていたと解釈することも可能でしょう。そのために、作品は色彩によって区画された面と区画の境界である線に還元されていくことに突き詰められていくことになるわけです。そこでは、リアルであるとか、物語や理念を想起させるアトリビュートとか、背後のストーリーなどといった伝統的な絵画の基盤は無用になっていくはずです。その反面、色彩が見るに与える心理的効果とか、その色彩を組み合わせて構成させることによる複合的効果とか、一種のイメージ喚起といった、インテリアデザインとかビジュアルのマーケティングのような発想でしょうか。前のところで、ポップアートのようなテイストを感じるといったのは、そんなところです。

そうであれば、この作品は観る人ひとりひとりの内面をもった個人に訴えかけることを意図しているのではなく、行動主義的に分析されたマスとしての一般的な人々にとって受け入れやすいということを計算して製作されたものと言うことができます。ポップアートが工業製品を転用してアートとして扱ったのと反対に、芸術作品を工業製品のように製造しようとしたものと言えるかもしれません。だからこそ、私が個人として見れば、退屈を感じてしまうのは、そういうところかもしれません。

 

2014年6月17日 (火)

シャヴァンヌ展 水辺のアルカディア~ヒュヴィス・シャヴァンヌの神話世界(3)

.公共建築の壁画装飾へ~アミアン・ピカルディ美術館(1860年代)

シャヴァンヌは兄の別荘の食堂の装飾を手がけると壁画という、自己の道を見出したといいます。公共建築の大壁画によって人々の目を自分に向け、批評家の注意を引き付け、注文を得て、その結果名声を得ていく、というビジネスモデルです。もともと“紋切型”の要素のあったその絵画手法を研ぎ澄まして壁画という不特定多数の人々に向けたものに特化していったのがこの時期の特徴といえます。

Chavannesrest「休息」という作品は、新設のアミアンのピカルディ美術館の壁画を後にキャンバスに縮小して描き直した作品です。ギリシャ神話の牧歌的な風景を想い起させるようなものとなっています。壁画を制作した美術館のあるアミアンはいわゆる地方都市で、有名なゴシックの大聖堂があるような歴史のある、言ってみれば保守的なうるさ方がいるような土地柄です。公共的な美術館ともなれば、監督するのは行政当局ですが、その担当の官僚もそうだし、地方議会には地方の名家、実業家、ブルジョワが名を連ねています。そういう人々を満足させるものでなければ、壁画の注文は獲得できないでしょう。そのための一つとして、牧歌的な風景は肥沃な土地柄で農業が盛んということを称揚することにつながります。また、古代を想起させる様式と図式をもちいることで歴史的伝統を強調し、さらには永続的な文化的価値を主張し、国家の継続と安定に関する安心感を主張していると受け取ることもできます。全体として古典様式は上品で教養高いという印象を与えるものでした。

さらには、大きな空間を占める建物の壁画は、キャンバスに描く絵画とは異なる手法が必要とされます。壁画が周囲の壁面の平面性をますます強固にするために作られていることを考慮して、シャヴァンヌは壁画の構図、立体表現の欠如、全体を覆うリズム、色彩、そして反射しない表面といった特徴を追求するようになっています。これは現場の建築家を満足させるものであったと言います。これはシャヴァンヌと建築家との共同作業を促し、建築家は他の建物でもシャヴァンヌが壁画を描くように運動し、描き易くするための建築上の配慮もするようになっていったと言います。

Chavannesfantasy_2当時の画家たちは作品を売ることで生計をたてていた一方で、芸術家としての自己主張をしていたわけですが、このようなシャヴァンヌの姿勢は芸術家というよりは請負の職人のようです。これは、キャンバスに描いた絵画作品のように、ある程度自由に作品を描いて、それを画廊に飾られて気に入られたものが買われていくというようにもの。つまりは、画家が「どうだ!」と出来上がったものをアピールして買ってもらう。壁画はそうものとは違い、注文を受けてから描くというものであるため、出来上がったものが注文主の意向に反するということが許されないものとなります。どちらかというと買主優位の関係となるため、ある程度迎合的な姿勢はやむを得ないということになるでしょう。すくなくとも、画家がリスクをより多く負うことになるわけです。シャヴァンヌの姿勢は、そういう状況からやむを得ない面もあったと思います。

この作品でも、前景と後景の風景を一つの大きな二次元のデザインに統合し、水面の明確な輪郭、遠くの山々や木々のボリュームある形等で仕切られた画面になっています。色調は、ぼかされくすんで、色彩の色分けで区切りをつけています。そして、木の葉を見れば分かりますが、装飾的な形態がディテールとして散りばめられています。まるでタピスリーのようだと言った人がいるとか。たしかに、共通している点が多いと思います。

しかし他方で、このような描き方そのままで、普通にキャンバスに絵画を描くと、当時の一般的に絵画作風とは異質な作品が生まれることになります。例えば「幻想」という作品。高い崖を背景にした森の中で、腰掛けた裸のニンフがペガサスを捕えようと葡萄の蔓を投げ、その近くでは裸の子供がリースを作っている。青白い色調で全体のトーンが統一されているのが特徴的な作品です。この特徴的な色調以外の点では、「休息」で見た壁画の特徴が、そのままここでも言えると思います。平面的で書き割り(塗り絵)のような画面構成で、立体空間の奥行きがないことや、人物などの構成要素が類型的であることなどです。ここで描かれているニンフや子供は彫像のようで、形態もギリシャ彫刻にようです、生命体としての生き生きとした感じや、動きが感じられません。ペガサスのポーズも静止している彫像のようです。それゆえに、女性のニンフが裸であっても官能性がなく、絵画としての自己主張が希薄で、絵画という画面そのものよりも、そこに象徴されているだろう寓意とか物語に思いを馳せる効果をあげていると思います。

Chavannesmed「瞑想」という作品では、中心に描かれている女性は肉体の厚みを感じさせるように描いていますが、やはり生身の肉体という感じはしません。「幻想」もそうですが、人物に表情というものがなく、何を思い考えているのか、意識がない人間の価値をした平面とか物体なのです。しかし、それは画家の技量のせいではなくて、あくまでも意図的です。そういう点では他の画家の写実的な絵画とは一線を画すものとなっていた。それは、たとえばスーラのような点描で写実とは違った絵画独自の空間を作ろうという志向の画家たちに通じる点もあった。結果的にそういうことになったのだと、私は思いますが。

これらの作品を見ていて、幻想的な絵画とか象徴主義とか解説されていましたが、むしろ私にはイラストとかポップアートに近いもののように思えました。何か、今回は絵画そのものよりも、理念的な議論が多くなってしまっているので、ここでは説明はしませんが。

2014年6月16日 (月)

シャヴァンヌ展 水辺のアルカディア~ヒュヴィス・シャヴァンヌの神話世界(2)

.最初の壁画装飾と初期作品(1850年代)

Chavannesallgシャヴァンヌの修業時代の習作的な作品が並べられています。そこに特徴的なものとか、個性とか何か突出したようなものは見られず、折衷的で、どちらかというと凡庸という印象のものが展示されています。凡庸という喩えは不適切かもしれませんが、蓮實重彦がギュスータヴ・フローヴェールの同時代人であるマクシム・デュ・カンのことを、そのように言った意味で凡庸という形容が当てはまると思います。蓮實は凡庸さを、「それはたんなる才能の欠如といったものではない。才能の有無にかかわらず凡庸さを定義しうるものは、言葉以前に存在を操作しうる距離の意識であり方向の感覚である。凡庸な芸術家とは、その距離の意識と方向の感覚とによって、自分が何かを代弁しつつ予言しうる例外的な非凡さだと確信する存在なのだ」と定義します。例えば、“紋切型”という表現は、個性とか創造性を重んずる芸術では、避けるべきものということになります。とくに19世紀後半から大衆が出現し、それに伴い消費社会がうまれ一部の教養豊かな貴族やブルジョワを相手に深淵だった芸術も大衆を相手にひろく分かり易いものであることに変質してくると、どうしても分かり易さを追求するあまり“紋切型”に陥ってしまう。このとき、“紋切型”を免ようとする。しかし、考えてみれば、“紋切型”がいけないというのは単なる先入観にすぎず、みんなそう思っている、このこと自体がじつは“紋切型”なのです。従って、“紋切型”を免れようという行為そのものが、広い視点で見ると“紋切型”そのものなのです。凡庸というのは、そういうものとして考えると、少しは分かり易いのではないかと思います。ちなみに、ギュスターヴ・フローヴェール晩年の未完の作品『ブヴァールとペキュシェ』の中で紋切型辞典が出てきます。フローヴェールは紋切型と戯れることで、紋切型≠芸術という先入観を笑い飛ばそうとした、とも言えるかもしれません。しかし、マクシム・デュ・カンと真面目に紋切型を追求していった。

「アレゴリー」という作品を観てみましょう。3人の男性が描かれている人物画です。「アレゴリー」というタイトルや3人の人物が僧服を着ていたり、図面を持っていたり、ポーズがいわくありげで、意味深な作品に見えます。まずは、そのようなことを考えずに表面的に画面だけを見てみましょう。画面全体がルネサンス絵画のようです。古典派やロマン派を経過して、リアリズムの風潮がでてきたフランスの絵画世界では、復古的というのかアナクロの感じがします。しかし、どこか薄っぺらい感じがします。平面的で奥行を感じさせないし、色遣いが平板な感じで、見易いのですが、人物にも生命感が感じられない。まるで、ルネサンス風のレプリカのようなのです。これは、シャヴァンヌが下手だというのではないのです。技術的な下地がなければ、このようなものを描くことはできないでしょうから。このルネッサンスのレプリカ風、ルネッサンスっぽいというのが、実は、本物を知らないし、それほどの教養や専門知識のない大衆にとっては、むしろ本物よりも見易いと言えるのではないかと思うわけです。つまり、“紋切型”を一生懸命やろうとしている。それは、シャヴァンヌが公共建築の壁画という人々に広く見られる、しかも民主主義の大衆を含めた市民社会に向けて、その宣伝的な要素もまじえたメッセージを分かり易く伝える絵画を描くことになる、ひとつの資質がここで表われているように、私には見えます。

それはまた、ここに描かれている三人の人物が、どこかで見たことのあるような類型化されたものであるということです。これまでの他の作品で使われてきたようなパターンを、“紋切型”であれば、描く方も見る人に分ってもらい易いし、メッセージを伝える道具として使いやすい。何よりも、画面そのものが安定して親しみ易いものとなります。

さらに、もう一つは、この作品が何か言いたげで、それが作品のメッセージとして見る人感じるのではないか、というひとつの単純化された作品であるということです。そのメッセージは、実は芸術家のあり方とか言葉にしやすい“紋切型”のようなもので、商品宣伝のポスターに近い考え方であるように思います。もちろん、シャヴァンヌ自身は真摯で真面目に芸術絵画を追求しようと、また、当時のデモクラシーの市民社会を真面目にリスペクトしていたと思います。そういう真面目を追求していくことが却って、“紋切型”を生み出すことになってしまっている。そのこと自体は、すぐれて現代的な問題提起的なことになっている(これも“紋切型”です)。これがシャヴァンヌという人の作品の大きな特徴ではないか、と私は思います。それが、この作品には出発点のように胚胎している。

2014年6月15日 (日)

シャヴァンヌ展 水辺のアルカディア~ヒュヴィス・シャヴァンヌの神話世界(1)

2014年1月15日(水) BUNKAMURAザ・ミュージアム

Chavannesposシャヴァンヌという画家。私は知らないし、日本ではあまり有名ではないと思います。たまたま、都心に出る用事があり、適当な美術展でもないかと物色していて、他に面白そうなものも見当たらず、見てみたというのが正直なところです。シャヴァンヌがどういう画家かというのは展覧会チラシの説明を引用します。“もとはギリシャの一地方であるアルカディアは、いつしか牧人や穏やかな自然の中で羊の群れを追う理想郷の代名詞として使われるようになっていました。それは幾多の文明を育んだ地中海世界のどこかに存在するやもしれぬ、誰も見たことのない桃源郷を意味します。唯一神々だけが、そこに舞い降りることができ、その豊かさを享受できるのです。そんなシーンを、まるで現実の、あたかも遠景で展開しているように描きだした画家がピエール・ピュヴィスト・ド・シャヴァンヌ(1824-1898)です。19世紀フランスを代表する壁画家として知られるシャヴァンヌは、古典主義的な様式でフランスの主要建造物の記念碑的な装飾絵画を次々と手がけ、並行してそれらの縮小版も制作しました。また壁画以外の絵画においてもその才能を発揮し、数々の名作を残しています。イタリアのフレスコ画を思わせる落ち着いた色調で描かれたそれらの作品は、格調高い静謐な雰囲気を湛えるとともに、その含意に満ちた奥深い世界は、象徴主義の先駆的作例とも言われています。古典的な絵画様式を維持しながら築き上げられた斬新な芸術。スーラ、マティス、ピカソといった新しい世代にも大きな影響を与えただけでなく、日本近代洋画の展開にも深く寄与した巨匠。”ということです。

もう少し突っ込んでみましょうか。展覧会カタログからの引用をしながら、少しだけお勉強の時間です。1860年代にドラクロワやドミニク・アングルが亡くなり、ロマン主義や古典主義の潮流が姿を消して行きます。これとともに色彩に対して形態や線を優先させる絵画表現は、新たな表現に取って代わられていきます。その代表的なものが理想的世界かに隔離したリアリティを重視するクールベやミレーらの作品です。その流れをさらに推し進めたのが印象派で瞬間を捉える感覚に執心し、デッサンよりも光に、人間よりも自然にこだわって行きます。このような流れに対抗していたのが象徴派で「イデアの画家」たろうとした。と図式的に言うことができると思います。このような時代状況の中で、シャヴァンヌはリアリズムを「極端な制限」と見て、“本質を描き出すことを志向する素描と色調を用いた独自の表現法を練り上げ、輪郭を強調した形象表現と、薄青色、灰色、そしたて淡いトーンの独特の抑えた色調によるスタイルを獲得した”と言います。一方で、象徴主義の怪異さを拒み、“「素描と色彩の、ほとんど宗教美術のような制約」の中で単純化されたフォルムと統一された色調の対話を紡ぎ出していく”ことになります。この点で、文学の世界で高踏派と言われる詩人たちが「イデアの美は隠喩を必要としない」として無駄な語彙や無根拠に叙情性を排する代わりにリズム、統語法、語彙の稀少性を重視することにより、シャヴァンヌの方向性に共感していったといいます。シャヴァンヌ本人の言葉が残されていて「あらゆる明晰なイデアのひとつひとつには、それを翻訳するひとつの造形的思考が存在する。しかしほとんどの場合、我々が得るイデアは混乱し不鮮明なものだ。そこでまずそれを解きほぐして、我々の内なる視線によって純粋な状態で見ることができるようにすることが重要である。その感情の中にひそむ思考を、それが自分の目で見て完全に解き明かされるまで、可能な限り明瞭に見えるようになるまで、じっくり時間をかけて練り上げる。それから正確に翻訳できる光景を探し求める。」何か、高踏的ですね。

ちょうど生没年でいえば、ギュターヴ・モローと重なるという時代の人です。モローとは没年が同じですが、日本でのモローとの知名度の隔たりは何でしょうか。ハッキリ言って、モローの象徴主義的な作品は、シャヴァンヌのように純粋で高踏的ではありませんが、モローに比べるのは適切であるかどうかは分かりませんが、モローに比べると、シャヴァンヌの作品は退屈で眠気を誘うものです。心に引っ掛かるところがなく、すっと上滑りしてしまっている感じです。キレイゴトばかり言っているタテマエばかりで人間としての心情が感じられない奴、そんな印象を持ってしまうということでしょうか。ただし、当時のフランスでは、シャヴァンヌは公共的な壁画の依頼を数多く受けて、美術界の要職を歴任していたと言いますから一介の美術教授にすぎなかったモローとは、今の日本評価とは正反対だったことでしょう。多分大衆的な支持という点でも、モローとは比較にならないほど広範に支持されていたと思います。

その辺りのことを考えながら、作品を観ていきたいと思います。なお、展示は次のような章立てで為されていました。

.最初の壁画装飾と初期作品(1850年代)

.公共建築の壁画装飾へ~アミアン・ピカルディ美術館(1860年代)

.アルカディアの創造~リヨン美術館の壁画装飾へ(1870~80年代)

.アルカディアの広がり~パリ市庁舎の装飾と日本への影響(1890年代)

2014年6月14日 (土)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2013(11)

そして、今度はベン・グレアムに戻りましょう。私は、1949年に購入したベンの著書「賢明なる投資家」の投資の議論のなかで多くのことを学びました。私の金融人としての人生は、その時から変わりました。

ベンの本を読む前は、私は投資の景色の中をあてもなくさまよい歩き、投資に関して書かれたものを貪っていました。私が読んだものの多くは、私を魅了しました。私は株式の動きを予測するためのチャートをつくり、市場の指標を利用することに挑戦しました。私は証券会社のオフィスに座り、テープロールが流れるのを眺め、解説者の話を聞きました。これらはすべて、楽しいものでした。しかし、私は成功できないと感じを振り払うことができませんでした。

これと対照的に、ベンの考え方は、(ギリシャ文字や複雑な数式のない)エレガントで分かり易い文章で、論理的に説明されていました。私にとって重要ポイントは、後の版で第8章と20章となっているところに書かれていることです。(オリジナルの1949年版は章数が違います。)ここで書かれたことが、今日の私の投資判断を導くものとなりました。

この本についての、2つの面白い挿話。後の版は、ベンにとって大当たりだった投資を名を伏せて追伸として加えました。ベンが初版を執筆していた1948年に、彼はその株を買いました。注目して下さい。その謎の会社は、実はGECOだったのです。GEICOがまた始まったばかりのころ、ベンがその特別な資質を認めなかったならば、私とバークシャーの将来は、まったく違ったものになっていたかもしれません。

この本の1949年版は、また、当時17ドルで売られ、1株当たり10ドルの利益を上げていた鉄道会社の株式を推奨していました。(私がベンを賞賛する理由の一つは、現在の例を取り上げるガッツを持っていたことです。もし、彼が躓いたならば、公開の場で冷笑に晒されてしまうのです。)低い評価は当時の会計原則に従った故のものでした。報告された利益は系列会社の留保利益を除外させられたものだったのです。

推奨された株はノーザン・パシフィック鉄道で、その重要な系列会社はシカゴ、バーリントンそしてクインシーでした。これらの鉄道は現在のBNSFの重要な部分です。そして、今日のバークシャーが完全に所有しています。私がこの本を読んだとき、ノーザン・パシフィックはおよそ4000万ドルの市場価格でした。現在、その後継者はたしかに多くのものを追加しましたが、その額を4日ごとに稼いでいます。

私は、その「賢明な投資家」の初版にいくら払ったか覚えていません。その値段はどうあれ、私はベンの格言の正しさを強調します。「価格は支払うもので、価値は得るものだ。」私がこれまで行ってきた投資のなかで、ベンの本を買ったことは最高の投資でした。(ただし結婚許可証に2度お金を払ったことを除いて)

 

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公共団体が支払う余裕のない年金を約束してしまったことにより、地域や州の財政問題が深刻になってきています。市民や公務員は約束が彼らに資金提供する意欲と衝突するものとなったときに生まれた巨大な金融の寄生虫を過小評価してしまっています。残念なことに、大部分のアメリカ人にとって年金の数字は分らないものになっています。

投資方針は、同様に、これらの問題で重要な役割を持っています。1975年、私はワシントン・ポストの会長であったキャサリン・グラハムに年金の約束の落とし穴と投資方針の重要性についての覚え書きを書き送りました。そのメモは118~136ページにあります。

これからの十年、皆さんは色々なニュースを読むでしょう。その中で悪い知らせは公共年金制度です。私のメモが、見ん台に対する迅速な対策の必要性を理解するために、みなさんのお役にたつことを期待しています。

この後、株主総会に招く記載がありますが、省略し、今年の“手紙”は、これで終了です。

2014年6月13日 (金)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2013(10)

私の二つの投資と株式投資にはひとつの大きな違いがあります。私が未だに農場やニューヨーク不動産についての引用を参照していないのに対して、株式投資は毎分皆さんの持ち株についての評価が提供され続けています。

株式の投資家が持ち株について幅広く変動している評価を知っていることは利点であるべきで、一部の投資家にとっては、実際そうなのです。結局、私の資産の隣の農場を持つむら気な人が、毎日のように私に向かって私の農場を買う、あるいは彼の農場を私に売る価格を大声でいうとしたら、そして、彼の精神状態のように短期間で価格が幅広く変化するとしたら、私は彼の不規則な振る舞いから、どのようにすれば利益を得ることができるのでしょうか。彼の毎日叫ぶのが途方もなく低い価格で、かつ私が余分な現金を持っているのであれば、私は彼の農場を買うでしょう。彼が叫んだ価格が不合理なほど高ければ、私は彼に農場を売るか、今のまま耕作を続けるでしょう。

しかしながら、株式の保有者はしばしば気まぐれを起こし、仲間の不合理な振る舞いは、同じように不合理を起こさせる。市場、経済、金利、株式の価格変動その他に関するおしゃべりがあまりに多いので、一部の投資家は専門家の話を聞くことが重要であると思っているようですが、彼らのコメントに従って行動することを重要に思っているのは、さらによくないことです。

農場やアパートを所有している際に、何十年も静かに座っていることができるような人は、株価の変動にさらされたり、「そこに座っていないで、行動を起こせ」という暗黙のメッセージを加えた解説者に追随する時に、頻繁に熱狂に捉われることになります。このような投資家にとって、ありうべき無条件の利益が悪態に変わってしまうのです。

「フラッシュ・クラッシュ」という株価の瞬間的な急落やいくつかのその他の極端な市場の価格変動は、気まぐれでお喋りな隣人が私の農場の投資に傷つけるほどには、投資家に損害を与えることはできません。たしかに、価格が価値とかけ離れて転落している時、投資家が利用できる手持ちの現金を持っているならば、転落している市場は本当の投資家には役立つものとなるのです。投資する際に、皆さんは恐れを友とし、高揚を敵とすべきです。

2008年後半に起こった異常な金融恐慌の間、たとえ厳しい不況がこれから起ころうとしていたとしても、私は農場やニューヨークの不動産を売ることを、決して考えませんでした。そして、もし私が長期的な見通しの手堅いビジネスを100%所有していたならば、それを放棄することを考えること自体が愚かなことです。それでは、なぜ、私は素晴らしいビジネスへの小さな参加である私の株式を売ってしまったのでしょうか。真実、かれら誰もが人を失望させる人だったとしても、グループとしてはうまくいくことは確かでした。アメリカの存在する驚くほど生産的な資産や人間の無制限な独創性を大地が呑み込んでしまうなどと本当に考えている人はいるでしょうか。

 

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チャーリーも私も株を買う時には、ビジネスの一部として考えて、我々の分析は会社全体を買収する際に行う場合の分析に極めて近いことをします。我々は、最初に5年かそれ以上の期間にわたる利益の幅を賢明に評価できるかどうかを判断しなくてはなりません。もし、その答えがイエスであるならば、もし我々の評価する最低限度に近い手ごろな価格で売られるならば、我々はそのビジネス、あるいは株を買うでしょう。しかしながら、もし、我々が将来の利益を見積もる能力を欠いているならば、通常はどちらかでしょうが、我々は他の株を見積もる方に移ります。この54年間、我々は一緒に働きました。マクロや政治的環境、他の人々の見通しのために我々が魅力的な購入を思いとどまったことはありませんでした。実際、我々が決定をする際には、これらの事柄を考慮することはありませんでした。

しかしながら、我々が「自分の土俵」の境界線を認識し、その内側に留まることは不可欠です。それでも、我々はビジネスでも株でも買い付けて失敗することがあります。しかしそうなったとしても、長い上昇相場に誘われて、予想される価格変動を先取りしたい気持ちで購入するときに起こる大失敗ではないと思います。

もちろん、ほとんどの投資家は、人生において景気見通しについての勉強を最優先事項とはしていません。賢明であれば、彼らは、特定の企業について将来の収益力を予想するのに十分な知識がないと結論するでしょう。

このようなノンプロの投資家にとって良い知らせがあります。典型的な投資家は、このような技術を必要としません。全体として、アメリカのビジネスは時とともに良くなっていますし、それがしばらく続くでしょう。(突発的な事態があるかもしれませんが)20世紀にダウジョーンズ工業株インデックスは66から11,497まで進み、配当金も増加しました。21世紀には、さらに相当な増加を目撃することができるでしょう。ノンプロの投資家のゴールは勝者を選ぶと言うものではありません。投資家もその助言者もそうすることはできないでしょう。しかし、むしろ、全体として事業の分野をクロスさせた所有をすることが間違いなく上手くやることになるのです。低コストのスタンダード・アンド・プアーズ500インデックス・ファンドはこのゴールを達成できるでしょう。

それは、ノンプロが投資すべき「何か」です。「何時」もまた重要です。大きな危険は、臆病か初心者の投資家が極端に活気のある時に市場に参加してその後市場が減退して評価損を出してしまうことです。(故バートン・ビッグスの次のような観察を思い出してください「強気の市場はセックスのようなものだ。終わる直前に最高に感じる」)このような時期を誤ってしまったこと投資家に対する特効薬は長い期間にわたって株式を持ち続け、悪いニュースがあって株価が高値から落ちても売らないことです。このようなルールに従って、多角化してコストを最小限に維持している「無知な」投資家が確実に満足する結果を得ることができるのです。本当に、自分の欠点について現実的である洗練されていない投資家は、ひとつの弱点すら認識できていない知識豊富なプロの投資家よりも長期的な成果を得ることができるでしょう。

もし「投資家」が互いに農地を熱狂的に売り買いしていれば、そこからの収穫の産出量も価格も増えないでしょう。そのような振る舞いから得られる唯一の結果は、農場の所有者がアドバイスを求めたり地所を変えたりするコストがかさんだことにより、全体的な収入の減少が起こることです。

それでも、個人や機関は、助言を与えたり取引をすることで利益を得る人々から、絶えず活発であるように迫られています。その結果として生じる摩擦の経費が膨大なものとなって、総計として投資家にとっても利益が上がらないことになります。それで、お喋りには耳を貸さず、経費を最小限に抑えて、農場を持つのと同じように株に投資するのです。

 

私のお金は、私が次に述べるとおりであると付け加えます。私がここで助言することは、私の遺書に書かれている特定の指示と基本的に同じです。ひとつの遺贈は、現金は私の妻の利益のために受託者に届けられると定められています。(私のバークシャーのすべての持ち株は私の財産が閉鎖されてから10年にわたり特定の慈善団体に分配されてしまうので、現金は個人としての遺贈に使います。)受託者に対する私のアドバイスは単純なものではあり得ませんでした。現金の10%を短期国債に、90%を低コスト・スタンダード・アンド・プアーズ500インデックス・ファンド(私はヴァンガードのものを推奨しました)に入れるというものです。この方針による信託の長期の結果は、大部分の投資家によって達成されるものよりも良いものになると信じています。年金基金、機関投資家あるいは個人にせよ、そういう投資家たちは、雇っているマネージャーに高いコストがかかるからです。

 

2014年6月12日 (木)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2013(9)

投資についてのいくつかの考え

「投資はビジネスライクに行う時には知性が必要になる。」ベンジャミン・グレアム

 

私は、投資について知っていることの非常に多くをベン・グレアムに負っているので、彼の引用からこの議論を始めるのは相応しいことです。ベンについては後で詳しく説明しますが、先に普通株について説明します。しかし、最初にかなり以前に行った2件の非株式投資のことをお話しします。どちらも金額において私の資産を書き換えることはありませんでしたが、有益だったと思います。

私の話はネブラスカから始まります。1973年から1981年までの間、中西部では農産物価格が暴騰しました。これは、急激なインフレが起こり小規模な地方銀行の融資方針がそれを加速化させたことによって起こりました。それからバブルがはじけ50%以上の価格下落をもたらし農民と貸し手を打ちのめしました。アイオワ州とネブラスカ州の銀行は、このバブルの余波で最近の大不況の5倍の損害を受けました。

1986年に私はFDICから、オマハの北方500マイルのところに、400エーカーの農場を購入しました。それは28万ドルでしたが、数年前に破綻した銀行が農場に融資した金額よりかなり少なかったのでした。私は、農場を経営することについては、何も知りませんでした。しかし、私には農作業が好きな息子がいました。私は彼から、農場は何ブッシェルくらいのコーンや大豆を生産できるか、そして営業経費はどのくらいかかるのかの両方を教わりました。これらの予想をもとに、私はこの農場の標準的なリターンを10%で計算しました。私は、また、時がたつにつれて生産性が上がり、同じように作物価格が上昇するだろうと予想しました。しかし、その二つとも外れました。

私は投資が下降するのではなく、本質的に潜在的に上昇するということは普通ではない知識や知恵ではないと思います。もちろん、時には、人々を失望させる不景気や価格の暴落もということもあります。しかし、それだけでしょうか。逆に、普通でないほどいい年もあります。そして、私は資産を売らなければならないように追い詰められているわけではありません。28年後の現在、農場は私が購入した時に比べて3倍の利益を出し、5倍の価値になりました。私は未だ農場について何も知らなくて、最近農場に2回目の訪問をしました。

1993年に私は一つの小さな投資をしました。私が以前CEOを務めていたソロモン・ブラザースのビルのオーナーであるラリー・シルヴァースタインは、私に整理信託公社が販売していたニューヨーク市立大学に隣接した小売物件の話をしてきました。この物件を含む商業不動産でバブルが再びはじけました。そして整理信託公社は楽観的な融資手続きにより愚行を煽って経営破たんした金融機関の資産を処分するためにつくられました。

ここでも、分析は単純でした。農場の場合と同じように、資産からのテコ入れされていない直接利回りは約10%でした。しかし、整理信託公社によって資産は管理されておらず、いくつかの空き店舗が賃貸にまわされれば収入は増加します。さらに重要なことは、このプロジェクト用地の約20%を占有するテナントは、他のテナントが1フィートにつき平均70ドルなのに対して5ドルしか使用料を払っていませんでした。この9年間の割安の賃貸借契約の満期が収益の大きな増加要因となることは明らかでした。ニューヨーク市立大学に移転の予定はなく、場所も最高でした。

私は、その区画を購入したグループにラリーと友人のフレッド・ローズとともに加わりました。フレッドは、家族とともに、資産を自ら管理する経験豊かで優秀な不動産投資家でした。そして、彼らは管理を始めました。古い賃貸借契約が満期になったとき、収入は3倍になりました。毎年の分配は我々の独自の株式投資の35%を上回ります。その上、我々の独自の住宅ローンは1996年と1999年に財政を立て直し、我々が投資したものの150%を上回る何回化の特別の分配がありました。私は、いまだ、それらの資産の現物を見ていません。

農場とニューヨーク市立大学近くの不動産からの収入は、今後の十年で、さらに増加するでしょう。増収は劇的ではありませんが、この二つの投資は、私の老後のための、そしてその後の私の子孫のための強固で満足できる保有資産になるでしょう。

私は投資の一定の基本を説明するために、これらの物語をしました。

 みなさんは、満足な投資リターンを得るために、専門家である必要はありません。しかし、そうでないならば、皆さんは限界を知り、合理的でうまくいく道筋を辿らなくてはなりません。物事を単純化し、ブレないことです。手っ取り早い利益を約束された時は、素早く「ノー」と言いましょう。

 皆さんは、資産の将来性に焦点を絞って考えましょう。もし、皆さんが資産の将来の収益の概算に満足できないならば、時には、そのことを忘れて進みましょう。誰にも、投資のすべての可能性を評価することはできません。

 皆さんが購入について考えたときに将来の価格変更に注目すれば、推測をしなければならなくなるでしょう。そのことに関して、不適当なことはありません。しかしながら、私は、その推測がうまくいかないということを知悉しています。そして、私は、そのような推測により継続的な成功ができると主張する人々に対しては懐疑的です。コイン・トスの最初の一回で半分が勝ちます。彼が、そのゲームをずっと続けるとしたら、その勝者のもうけを誰も予想することは出来ないでしょう。そして、ある資産が最近値上がりしたという事実は、その資産を購入する理由にはなることはありません。

 私は二つの小さな投資では、その資産が生み出すものだけを考えて、毎日の評価の変動にたいしては気にしませんでした。ゲームは、目がスコアボードにくぎ付けになったりせずに、競技フィールドに集中するプレイヤーが制するのです。皆さんは、土曜と日曜は株価を見ることなく過ごせるでしょう。それができるなら、平日でも、そうできるように試してみてはいかがでしょうか。

 マクロの意見を形成したり、または、他人のマクロ市場の予測を聞くなどということは時間の浪費です。本当に、重要な事実の皆さんのビジョンを邪魔することになるので危険でもあります。(私はマーケットがこれからどうするかについてテレビ解説者がもっともらしく語るのを聞くとき、ミッキー・マントルという有名な野球選手の容赦ないコメントを思い出します。「あなたは、放送ブースに入るまで、このゲームがとれほど単純かということが分っていない。」)

 私の二つの購入品は1986年と1993年のものです。経済、金利、または株式市場が、この次の年である1987年と1994年にどうなるかということは、そのような投資をする時に、私にとっては重要なことではありませんでした。私はその時に報道の見出しや専門家がどのようなことを言っていたかを思い出すことはできません。お喋りの内容がとうであれ、コーンはネブラスカで育つし、ニューヨーク市立大学に学生は集まるのです。

2014年6月11日 (水)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2013(8)

金融と金融商品

「クレイトンの債権ポートフォリオは、それ程長くないうちに少なくとも50億ドルまで増大し、賢明な信用基準により大幅な利益をもたらすことになるでしょう」─2003年の年次報告書

 

このセクターは、我々の中でもっとも小さく2つのレンタル会社であるエクストラ(トレーラー)とコート(家具)を含み、我が国のプレハブ住宅のリーディング・カンパニーであるクレイトン・ホームズです。この100%子会社を除いて、我々は、このカテゴリーに金融資産のコレクションとBerkadia CommercialMortgageへの50%の投資を含めます。

クレイトン社は326,569件、136億ドルの抵当を所有しサービスを行っているので、我々は同社をこのセクション入れています。近年、プレハブ住宅販売が急降下したため、クレイトン社の利益の大部分は抵当ビジネスによるものになりました。

しかし、2013年には新築住宅の販売が増加し始め、製造小売りの利益の重要性が再び増してきました。クレイトンは全米ナンバーワンの住宅建築業者です。2013年の29,547軒という住宅建築数は国内の一戸建て住宅建築総数の約4.7%を占めました。クレイトンのCEOのケビン・クレイトンは、深刻な住宅不況の中で会社のかじ取りをするという素晴らしい仕事をしました。現在の彼の仕事は、当時に比べれば先行きの明るさが見えて、2014年には一層の増益が期待できます。

 

 

投資

「我々の株式ポートフォリオは、その繰越価額(原価)より1700万ドル少ないですが、長期になれば、全体としてのポートフォリオはコスト以上の価値を持つものとなるだろうというのが、我々の信念です。」─1974年の年次報告

 

バークシャーには表には含まれない一つの大きな投資資産があります。我々は2021年9月までの間のいつでも50億ドルでバンク・オブ・アメリカの7億株を購入することができます。年末時点で、これらの株式は109億ドルの価値がありました。我々は、このオプションの失効の直前に株式を購入することになりそうです。結果として、バンク・オブ・アメリカが我々の5番目に大きな投資で我々にとって価値の高いものであることを理解することは、みなさんにとって重要なことです。

株式の保有に加えて、我々は債券投資にも相当な金額をあてています。ふつう、我々はこの範囲の中でうまくやっていますが、いつもではありません。

みなさんのほとんどは、エナジー・フューチャー・ホールディングスのことをこれまで耳にしたことはないと思います。皆さんはラッキーだと思ってください。私は、聞いていなければよかった、と確かに思います。その会社はテキサス州の電気事業資産のレバレッジ・バイ・アウトを行うために2007年に創設されました。資産のオーナーは80億ドルの自己資金をもとでに大量の借入れを行いました。私はチャーリーに相談することなく、その負債の約20億ドルをバークシャーで購入することにしました。それは大きな間違いでした。

天然ガスの価格が高騰しない限り、エナジー・フューチャー・ホールディングスは、ほぼ間違いなく2014年中に破産申請することになるでしょう。昨年、我々は持ち株を2億5900万ドルで売却しました。債権を所有している間、我々は利息を現金で8億3700万ドル受け取りました。したがって、全体として、我々は8億7300万ドルの税引き前損失を被りました。今度の時は、必ずチャーリーに電話することにします。

主として電気やガスなどの公益事業の我々の数社の子会社は、事業活動においてデリバティブを活用しています。それ以外では、我々は数年間デリバティブの契約をしていませんし、その姿勢をとり続けています。満期となった契約は数十億ドルの中期フロートと同じくらいの大きな利益を生みました。保証はありませんが、我々は帳簿に残っているものにも同じような結果を期待しています。

2014年6月10日 (火)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2013(7)

製造、サービスと小売活動

「この店を見ろ」とウォーレンはネブラスカ・ファニチャー・マートを指して言う。「これは本当によい仕事だ」

「なぜ、あなたは買わないんだ」と私は聞いた

「非公開なのだ」ウォーレンは言った。

「ああ」と私

「どうにかして買いかもいれない」とウォーレンは言った。「いつの日か」

─「SupermoneyAdam Smith1972

 

バークシャーのこの我々の事業は水際までカバーしています。グループ全体の要約貸借対照表と損益計算書から見ていきましょう。(貸借対照表と損益計算書は省略)

一般会計原則(GAAP)に従った、我々の収入と費用のデータは29ページにあります。対照的に上の営業費用GAAPに則っていません。特に、そこでは若干の購入会計アイテム(主に特定の無形固定資産の償却)を除外しています。調整された数値がテーブルで集計され、企業の本当の費用と利益をより正確に反映していると、私もチャーリーもかんがえているので、このようにデータを提示しています。

私は、全ての調整をここで説明するわけではなく、いくつか些少で分かりにくいものもあります。しかし、真剣な投資家は無形固定資産の異種の性格を理解しておくべきです。他のものが価値を失わない一方で、いくつかは時間とともに価値を減少させていきます。例えば、ソフトウェアで償還費は実際の費用です。しかしながら顧客関係の償還のような他の無形固定資産に対する費用は購入会計規則によって発生するもので、明らかに本当の費用とは言えません。GAAP会計は費用の2つの違いを考慮しません。収益を計算する時には、両方とも費用として計算されます。たとえ投資家の視点においても、それにはもっと違っているとは思えません。

我々が29ページで提示しているGAAPに則った数値ではこのセクションに含まれた会社のための6億4800万ドルの償還料金は費用として差し引かれます。我々は、このうちの20%は実際にあったものと考えています。そして、本当にそれらは上の表に含めた部分です。そして残りはありません。この違いは、我々が行った多くの取得のためには重要なことです。

もちろん、結局は、これらが関係している資産が完全に償却されたとき、「非-実際」の償却費はなくなります。しかし、これには15年間を要します。報告された利益が満了による恩恵を受けるのは我々の後継者たちです。

しかし、我々が報告する減価償却費は真実のコストです。そして、同じように、他の会社でも真実です。ウォール・ストリートの関係者が評価の基準としてEBITDAを持ち出したときには、財布のひもをしっかりと締めたほうがいいですよ。

もちろん、我々の公的な報告は、GAAPに則ってきています。しかし、現実を受け入れるために、我々の報告した償却費の大部分が戻るのを追加することを忘れないでください。

 

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このグループの会社は、アイスキャンディーから飛行機までわたる製品を販売します。このビジネスの中には、レバレッジをかけない正味固定資産に対する収益によって測定された(つまりROE)、税引き後利益で25%から100%以上の素晴らしい経済的成果をあげているも会社が数社あります。他の会社は12~20%という範囲の好成績をあげています。しかしながら、わずかな会社は、私が主な仕事である資本の分配で重大な間違いを犯した結果、非常に貧しいリターンしか上げられませんでした。私は、そんなことに惑わされません。私は、実際に動いている会社や産業の経済力に対する評価において誤りを犯していました。

幸いにことに、私の間違いは、通常、比較的小規模な買収にありました。大規模な買収は、普通はうまくいき、ほんの少しだけ非常にうまくいきました。しかしも私は企業や株式を購入するさいの最終的なミスは犯していません。計画通りに全てうまくいくとは限らないのです。

単独の実体としてみると、グループのそれぞれの会社はすぐれたビジネスです。これらの会社は2013年には平均で250億ドルを有形固定資産に使い、大量の余剰資金と税引き後で16.7%の利益を得ています。

もちろん、支払いが度を越していれば、いくら素晴らしい経済学を備えた経営であっても、悪い投資となるのです。我々のビジネスの大部分は固定資産に相当なプレミアムを支払っています。それは、我々が無形資産に対して示す大きな数値を反映したコストです。しかし、全体として、我々はこのセクターで展開させた資本上の相当なリターンを得ています。さらに、ビジネスの本質的価値は、総計においてマージンを加えることで帳簿価格を上回るものとなります。それでも、保険と規制された産業のセクションの本質的価値は帳簿価格より、はるかに大きいです。巨大な勝利者がそこにいます。

 

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このグループには、ここで我々が個々にコメントするのに追いつかないほど、あまりにも多くの会社があります。その上、現在あるいは潜在的な競争者がこの報告書を読むことでしょう。もし、彼らが具体的数値を知ってしまったら、幾つかの分野で我々は不利な立場になってしまうかもしれません。それで、バークシャーの評価のサイズに満たない事業では、必要とされることを報告するだけにします。皆さんは80~84ページで我々の事業の多くについて詳細を見ることができます。

しかしながら、私はここで、ネブラスカ・ファニチャー・マートのテキサス州への進出について最新の情報を披露することを抑えられません。私はバークシャーへの経済的重要性のために、このことを隠していません。バークシャーの2250億ドルの資産ベースでメーターの針を動かすには、新しい店舗が一つできた程度では足りないのです。しかし、私はブルムキン一家と30年以上にわたり共に働いてきて、注目に値する店舗の興奮しているのです。まさにテキサス・サイズです。ダラス都心の北部地区のビルです。

店舗が完成すれば、ネブラスカ・ファニチャー・マートは、屋根の下の433エーカーの敷地で、小売とサポートの倉庫のために180年平方フィートのスペースを持つことになります。ホームページでその進展を見ることができます。ネブラスカ・ファニチャー・マートは、既に、国内で2箇所、オマハとカンザスシティで、最大規模の家庭用家具の店舗を持っています。それぞれが年間で4億5000万ドル売り上げています。私は、テキサスの店舗がこれらを凌駕すると予想しています。もし近くに住んでいる方がいれば、ぜひ見に来てください。

1983年8月30日のことを思いだしています。ちょうど私の誕生日、私はブルムキン夫人に会いに行ったとき、1と4分の1ページのネブラスカ・ファニチャー・マートの買収提案の下書き原稿をもっていました(114~115ページに再現されています)。ブルムキン夫人は一言一句変更を加えることなく、私の提案を受け入れてくれました。私たちは投資銀行や弁護士の介入を受けることなく取引を完了しました。会社の決算書の検査はしませんでしたが、私は何も心配していませんでした。ブルムキン夫人は私に何ごとかを簡単につたえました。私にはそれで十分だったのです。

ブルムキン夫人は当時89歳で、103歳まで現役であり続けました。明らかに私好みの女性です。116~117ページのネブラスカ・ファニチャー・マートの1946年からの決算書を見て下さい。ネブラスカ・ファニチャー・マートの現在の財産は、(a)同社の所有する72,264ドルの自己資本と50ドルの現金と、(b)ブルムキン夫人、彼女の息子ルイとその息子ロンとアーヴたちの驚くべき才能です。

この物語のオチはブルムキン夫人が学校へ行っていなかったということです。そのうえ、彼女は英語を知らずにロシアからアメリカに移住しました。しかし、彼女はこの国を愛していました。ブルムキン夫人のリクエストで、集会では、家族はゴット・ブレス・アメリカを歌っていました。

向上心のある経営者は、ブルムキン夫人の信じられないような成功を生んだ、明白だが珍しい特質を真摯に見なければなりません。毎年40もの大学の学生が私を訪ねてきます。そして、私はまず彼らに何日かネブラスカ・ファニチャー・マートへの訪問から始めさせます。彼らがブルムキン夫人のレッスンから吸収できれば、彼らは私に何も必要とするものがなくなるでしょう。

2014年6月 9日 (月)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2013(6)

規制された、資本集約的な事業

“公共的な事業には多くの規制の制約がありますが、我々がこの分野でさらに約定を受ける可能性はあります。我々がそうした場合には含み益が増えることになるでしょう。”─1999年の年次報告書

我々にはBNSFとミッド・アメリカン・エナジーという我々の他のビジネスと区別される共通の特徴をもった2つの非常に大きなビジネスがあります。したがって、我々はこの手紙でこの2社を自身のセクターに割り当てて。我々のGAAP貸借対照表と損益計算書にこの2社の統合財政統計を振り分けます。

この2社の主要な特性は、バークシャーによって保証されない大量の長期国債によって部分的に資金を供給されるという規制された資産と非常に長期の投資を有していることです。この2社には我々の信用は必要ではありません。この2社には恐ろしい景気状況においても、十分に利益をえる収益力があります。昨年の生温い経済において、たとえば、BNSFのインタレスト・カバレッジは9.1でした。(我々のカバレッジの定義は、利子に対する税引き前利益であって、EBITDAではありません。それは深い損失に対する一般的な見方です)

一方、ミッドアメリカンでは2つのファクターはあらゆる状況でもサービスを確実に供給することを可能にしています。第1点はすべての公共事業に共通のもので、不況態勢所得です。これは不可欠なサービスを独占的に提供している会社にだけあるものです。第2点は他の公共事業にはないもので、単一の規制機関から受ける深刻な障害から我々を守るための利益獲得の経路の多様性です。今、NVエナジーを買収したことにより、ミッドアメリカンの収益基盤は、さらに広がりました。ミッドアメリカンとその公共事業を営む子会社は、この特定の強みを生かして、バークシャーに所有されるで、負債のコストを大幅に削減することができました。この利点は、我々や株主に大きく貢献することになります。

毎日、我々の2つの子会社は主要な方向でアメリカ経済の原動力となっています。

 トラック、鉄道、水上、航空全てを含めたアメリカにおける都市間の貨物輸送のマイル当たりのトン数でいうと約15%がBNSFによって担われていると、皆さんに言うことができます。事実我々は他のどれよりもマイルあたりの多くのトン数で運搬します。そのことがBNSFを我々の経済の大動脈としています。業界ナンバーワンの地位は2013年に、さらに強化されました。

BNSFはとても燃料効率がとてもよく自然に優しく貨物を移動させます。ディーゼル燃料1ガロンで1トンの貨物を500マイル運ぶことができるのです。同じ仕事をトラックが引き受ければ、その4倍の燃料を浪費してします。

 ミッドアメリカンの電気事業は10の州で個人消費者に規制を受けて提供しています。これほど多くの州にサービスを提供している会社は他にありません。その上、我々は再生可能エネルギーの分野でリーダーに位置にあります。最初に9年前のスタート時点から我々は我が国の風力発電の7%を発電してきました。太陽光発電における我々のシェアは、まだ建設中ですが、さらに大きくなるはずです。

ここからの利益のすべてを自身で持てるので、ミッドアメリカンはこれらの投資をすることができます。これは、あまり知られていない事実です。昨年、ミッドアメリカンは、他の国内の電力会社よりも断然多くの利益をドルで持ちました。我々と業務監査委員会は、このことを重要な利点と見なしています。今から、5年、10年、20年と残るものです。

我々の現在のプロジェクトが完成すれば、ミッドアメリカンの再生可能ポートフォリオは150億ドルを要しました。われわれは、それらのプロジェクトが相応のリターンを見込めれば、そのような参加を喜んで行います。我々は将来これらが規格化されるということを信じています。

我々の過去の経験と知識によって社会が流通とエネルギーに多大な投資を永遠に必要としているという我々の確信は正当化されます。重要なプロジェクトに継続して資金を提供する流れを確保することで主要な提供者をどうするかということは政府の関心によっています。監査機関や人々の代表から承認を得ることで事業を行うことは、我々の関心によっているのです。

その任務に対する我々の献身は、52の持ち株会社と101の電力会社を対象とする昨年の顧客満足度調査で証明されました。回答者の95.3%は「非常の満足した」と答え、「不満足」と回答した人は一人もいなかったことにより、ミッドアメリカン・グループは第1位にランクされました。ちなみに調査の一番下の得点は34.5%でした。我々の3つの会社はすべてミッドアメリカンに買収される前の調査では、はるか下位にランクされていました。我々が拡大をしている時に、達成した並外れた顧客満足は非常に重要です。我々が参入することを望んでいる州の監督機関は、我々が信頼できる電力会社であることを知っており、我々に会いたがっています。

我々の鉄道会社は顧客ニーズの先取りにおいても勤勉でした。あらゆるやり方で、わが国のインフラストラクチャーが壊れてきていることについて皆さんが聞いているであろうこと、一般的にBNSFや鉄道に当てはまります。アメリカの鉄道網は、産業による巨大な投資の結果、良好な状態にありませんでした。しかし、我々は休んでいるわけではありません。BNSFは2013年の鉄道事業に40億ドルを使いました、これは減価償却費の2倍にあたります。そして、2014年はさらに多くの金額を使うでしょう。信頼できる輸送機関の必要性に対して先見の明があったノアのように、我々は将来の計画を立てることが重要であることと思っています。

我々の資本集約的な2つの会社は、ミッドアメリカンはグレッグ・アベルが、BNSFはマット・ローズとカール・アイスが率いています。この3人には私は感謝しており、みなさんもそうするに値する有能なマネージャーです。

Facebook SNSをこんな風にやってみてます

私は、このブログの他にもFacebookTwitterも始めてみました。年寄の冷や水のようで、ちょっと無理をしているようではあります。そもそも、そんな無理を始めたのは、IRの業務をやっていて、SNSというネットワークを介しての投資家とのコミュニケーションという分野が未開拓だったので、まずは自分でやってみようと試みてみたのが、契機でした。しかし、ここにきてIRの業務を離れてしまい、もともとの目的が無くなってしまいました。とはいえ、始めてみたら、Facebookをやっていたということで、かつての学生時代の友人たちが、それぞれにFacebookをやっていて、長らく薄らいでいた関係が復活したり、仕事で知り合った人との関係がFacebookを介することによって発展したりということが、少しだけあって、今、やめられなくなってきました。また、ほんの数人ですが、全く面識のない人からフォローされたりということも起こりました。

ただし、私自身、Facebookでのネットの友人を増やしたり、Facebookに特有の“いいね!”をたくさん獲得するとかいうことには、全く興味がありません。また、不断にスマートフォンを見て、ネットワーク上のやりとりを欠かさない、というよりも振り回される、というのでもありません。

SNSなどのネットワーク上での付き合いについては、最近、様々な問題が起こるようになってきて、リスクも抱えながらということになってきています。

そんなところもあって、当初の目的を喪失したこともあって、とはいえ、Facebookは不可欠とは言わないまでも、有益で、ある程度積極的に使いたいところにもあるので、ここで改めて、考えてみました。少し前から、色々考えていたのですが、先日、ブログのお友だちがSNSについてまとまった考えを書いておられたので、触発されて、ちょうどいい機会だと思って、ここでチャレンジしてみました。

現時点では、Facebooktwitterには、1日1回、ほとんど決まった時間にだけアクセスするようにしています。たいていは、帰宅して寝る前の入浴後、布団に入るまでの涼みながらアクセスするようにしています。飲み会や用事、あるいは出張など、または気分が乗らないときは、無理してアクセスすることはしていません。それは、継続していくに際して、無理はしないということを優先しているためです。最初は、多少無理していましたが、今では習慣化しているようなので、無理なく続けることができるようになっています。

そして、アクセスしたときは、特にFacebookには、とにかく何かしら書き込むことにしています。これが一番大切にしていることですが。私の友だちのなかには、毎日の昼食を画像つきで書き込んでいる人やジョギングの記録、あるいは出張の多い仕事をしている人が出張先の駅の画像をアップしていたりと、さまざまな人がいます。私は、そのようなことではなく、考えたこと、その断片とか、メモ程度のことを手短に書き込んでいます。そのまとまったものが、ここで今ブログに書き込んでいますが、そうまでならない、思いつきとか、未だまとまっていない断片などをそのまま書き込んでいます。何でこんなことをしているかというと、多分、これが私という人物が一番正直に出るものというのが、だんだん分かってきたからです。

ネットワークの世界というのは実際に合うのと違って、別人格の人に成りすますことが可能と言われています。ウソをついても分からない。例えば、私が子供を装うことだって不可能というわけではない。そこに悪意をもった下心を隠してやりとりすることもできてしまう。そういう危険の大きな世界、だから、個人の思想信条などを明かしてしまうことには、リスクが大きい。そう言われることもあれます。しかし、そこで考えてみると、そういうのは、一回、二回とならできるのでしょうが、それを毎日長期間にわたり続ける、しかも過去のことが全部記録に残っている、というところでウソをつき続けるというのは、難しい、必ずどこかでボロが出てしまう、ということが実感で分かりました。だいたい、思想信条について考えを書くということは、数回であればストックがあるので書き込むことができますが、それを少しずつでも毎日続け、それを数か月、数年となれば、必ず途中でストックが尽きてしまいます。そこで、続けるということになれば、絞り出す、あるいはその都度考える、ということなると、ウソをつけなくなるはずです。ウソは底がつけば続けられなくなる。そこで、出てくるのは、装うとか、飾るとかすることもない、自分でも驚くようなこともありますが、そういうものが出てくることになります。たまに辻褄が合わない、以前書いたことと矛盾するようなことも出てきますが、その矛盾やつじつまの合わないことこそが、まさに私のことを表わしているというわけで、そこに少なくとも正直なものが出ていると思っています。

これと同じことは、私とやり取りしているほんの数人の人も、そう考えているようで、本質的に、ネットワークでは正直な、その人が出る、結果として、という点で、考えは一致しています。

そう考えると、例えば、ビジネス、それだけではないですが、などで初めて出逢った人が、もし、私という人が分からなくても、Facebookへの書き込んだのを追ってみれば、そこにある点正直な私という人間が表われているということになってきます。もしかしたら、SNSのコミュニケーションのあり方という、このようなものもあるのではないか、と考えて試しているというところであったりします。これはまた、最初にFacebookを始めたのがIRという企業と投資家の間の新しいタイプのコミュニケーションを試行錯誤しようとしたことを、場面を替えて個人のコミュニケーションの場に置き換えて試してみようとしていると言ってもいいかもしれません。

毎日の昼食を書き込むことにしても、その人の食の好みや傾向が表われてくるわけですし、食に対する姿勢も分かってしまう、そこからある意味での人生への姿勢も透けて見えることなるわけです。それを露わにしてしまうところもありうるわけです。こんなことで、ウソをつく人もいないでしょうから。

まあ、こんなことは私の独り善がり、ということなのでしょうが、年寄は、そんなにかまってもらえないので、別に弊害などもあまりないでしょう、ということで、しばらく続けてみるつもりです。

もし、興味のある方で、Facebookに登録している方がいらっしゃれば、ここを覘いてみていただけるとうれしいです。

2014年6月 8日 (日)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2013(5)

我々は3つの主要な保険会社の他により小さな会社のグループを所有しています。そして、それらのほとんどは保険世界の辺鄙な片隅で取引を営んでいます。全体として、それらは一貫して利益をもたらしてきました。そして、それらが我々に提供するフロートは相当な量です。チャーリーも私も、これらの会社やマネージャーを大切にしています。

 

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手短に言えば、保険は約束を売るようなものです。顧客は、今、お金を払い、保険会社は、将来、ある特定のことが起きたら、お金を払います。そういう約束です。

時には、その約束は何十年も検証されないこともあります。20代に加入した生命保険など、考えればそうです。したがって、保険会社の支払い能力と意志は、支払時期が到来したときに経済情勢が混乱していたとしても、非常に重要なことです。

バークシャーの約束は、特にアスベストにかかわる保険請求を含む莫大で例外的に永続的な負債を放棄したいと望んでいるという世界最大かつ最も洗練された保険会社の行動によって最近確信された事実と同じではありません。これは、保険会社は再保険業者に負債を譲ることを望んだことを示しています。しかしながら、財政的に困っていたり悪質だっりといったのが明らかな悪い再保険業者を選べば、もとの保険を負債を足もとに引き戻す危険にさらすことになってしまいます。

ほとんど例がなく、援助を求めた保険会社はバークシャーに来ました。今までのそのような取引の記録の中で最も大きなものは、2007年のロイズのもので、我々に引き渡したのは、1993年以前の契約から生じた既に明らかになっている何千もの請求と同じ期間について今後生じてくることが確かな膨大な数の明らかになっていない請求の両方です。そうです。我々は、1993年以前にあった事実から生じる請求を、今後数十年にわたり受けなければならないのです。

ロイズの業務から生じるバークシャーの支払いが最終的にどのくらいになるのか、現時点では分かりません。しかし、確かなことは、バークシャーが150億ドルという政策的限度まで正当な請求に応じきるということです。他の保険会社の約束は、ロイズに対してバークシャーが合意したことによって与えた安心を提供することはできないでしょう。それから、請求の対応に当たったロイズのCEOは次のように言いました。「ロイズのもともとの保険業者のNAMESは安らかに眠りたかった。そして、我々は彼らに世界最高のマットレスを買ってあげることができた」

 

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バークシャーの偉大なマネージャーたち、最高の財務力、そして広い濠をもった多様なビジネスモデルは保険の世界においてユニークなものを作り出しています。これらのコンビネーションは時とともに価値を高めるので、バークシャーの株主にとって大きな資産となっています。

2014年6月 7日 (土)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2013(4)

我々には、コピー困難なビジネスモデルをもち、ビジネスを規律正しく実行する保険マネージャーがいるため、バークシャーの魅力的な保険ビジネスが成り立っているのです。皆さんには、主要なユニットを説明しましょう。

フロートのサイズでみると第一は、アジット・ジェインによって運営されているバークシャー再保険グループです。アジットは他の誰もがやろうとせず、資金をかけようとしないリスクに対して保険をかけます。彼の活動は、保険ビジネスの中ではユニークな方法で、能力、スピード、決断力と最も重要な頭脳を組み込んだものです。彼はバークシャーを我々の資源に関して、不適当な危険に決して晒しません。本当に、我々は大部分の保険業者に比べて、その点ではるかに保守的です。例えば、保険業界がいくつかの大規模な大災害の被害で、これまでに直面したもののおよそ3倍の損害となるような2500億ドルの損害を経験したとしても、これまでの利益の連続により、その年には穏健な額の利益を計上するでしょう。これに比べて、他のすべての主要な保険業者と再保険業者は大幅な赤字となり、そのいくつかは債務超過に直面するでしょう。

1985年のスタンディングスタートから、アジットは370億ドルの著しい引受業務利益をフロートにより産み出しました。これは他保険会社のCEOでは近づくことする出来ない業績です。これらの成果により、彼はバークシャーに何十億ドルもの価値を追加させました。アジットのマインドは現在の各種の品揃えに追加できるビジネスの新たなラインアップを常に探している、さながらアイディア工場のようです。

彼は、昨年の6月にバークシャ・ハサウェイ専門保険(BHSI)を設立し、一つのヴェンチャーを立ち上げました。これによって、我々は企業向けの営利保険事業へと導かれることになりました。そこで、我々はアメリカ中のメジャーな保険ブローカーと企業のリスクマネージャーたちに、直ちに受け容れられることになりました。これらの専門家たちは、これ以外の保険会社では今後長年にわたり発生する支払い要求に対して即時に全額支払うことを保証するバークシャーの資金力に見合っていないことを認めています。

BHSIは、ピーター・イーストウッドが率います。彼は、保険業界で広く尊敬を集める経験豊かな引受人です。ピーターは、フォーチュン500の多くと大きな契約を取り交わし、同様に小規模な契約を獲得した素晴らしいチームを築きあげました。BHSIは数年以内に数十億を生み出すバークシャーの主要な資産となるでしょう。

 

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我々には、ゼネラル・リーというもう一つの強力な保険チームがあり、これをテッド・モントロスが率いています。

本質的には、健全な保健活動には四つの規律を固く守る必要があります。それは(1)ポリシーが損失を招くような異なる際に晒されているすべての危険を理解していなければならない、(2)それを実行する場合に損失や見込まれるコストを引き起こすと見込まれるあらゆる要素を保守的に評価しなければならない、(3)将来の損失コストと営業費をカバーして、平均して利益を上げることの出来るプレミアムを設定しなければならない、(4)適切なプレミアムを得ることができない場合には退場する用意をしておかなければならない。

多くの保険会社は最初の3つのテストには合格するものの、第4に失敗します。彼らは、単に競争相手が熱心に引き受けている保険ビジネスに背を向けることができないのです。他のみんながそうしているので、我々も同じようにそうしなければならないという古いガイドラインは、保険により当てはまりますが、それ以外のどんなビジネスでもトラブルを招くことになります。

テッドは四つの保険規律を全て守りました。それは彼の成果に現われています。ゼネラル・リーの巨大なフロートは彼のリーダーシップの下でコストフリー以上の状態にあり、平均して将来もそうあり続けるだろうと予想できます。我々は、ゼネラル・リーの国際再保険ビジネスに特に注目していますそして、我々が1998年に買収して以来、一貫して有益な成長を達成してきました。

我々がゼネラル・リーを買収して間もなく、私が大きな間違いを犯したと信じる評論家たちが引き起こした問題に悩まされたことを忘れることはできません。しかし、それも遠い昔の話です。

 

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最後に、私が63年前に最初の経験を積んだ保険業者であるGEICOがあります。GEICOは、18歳で入社し2013年までに52年にわたって勤め続けているトニー・ナイスリーによって運営されています。トニーは1993年にCEOとなり、会社を飛躍させました。

1951年1月に初めてGEICOに引き合わされたとき、私はGEICOが業界の巨人が負担する経費に比べて、莫大なコスト面での有利さを謳歌していることに衝撃をうけました。この事業効率のよさは今日まで維持しており、非常に大切な資産となっています。自動車保険にお金を払いたいと思う人はいません。しかし、ほとんどの人は自動車を運転するのは好きです。必要とされる保険は、ほとんどが家族のために加入するというものです。家族の事故に対する備えは、低コストで、実現しようとするのです。

GEICOのコスト面での有利さは、同社が年々マーケット・シェアを貪り食うように高めるのを可能にした要因です。このようなコストの低さは競争者との間に越えられない堀をつくり、それは永続的なものになっています。一方、我々の小さな代理店が、アメリカ中の人々にGEICOが如何に重要なお金を節約するかを話し伝え続けています。我々の運営コストを引き下げたことで、彼らの話すことは、さらに魅力的になりました。

1995年に、我々はその買収により獲得する固定資産の総額を上回る14億ドルで、まだ所有していなかったGEICOの残り半分を取得しました。それは「のれん」で、我々の帳簿の上では永遠にあり続けるものです。しかし、GEICOのビジネスが成長すれば、それに応じて「のれん」も成長します。私は、その額が200億ドル近くになっきていると思っています。

 

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2014年6月 5日 (木)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2013(3)

本質的なビジネスの価値

チャーリーと私が本質的なビジネスの価値についてお話しするのと同じほど、我々はみなさんに正確にその数値がバークシャー株式の数に対してどの程度かを話すことはできません。しかし、我々は2010年の年次報告に、3つの要素を載せました。その一つは質的で、我々がバークシャーの本質的な価値を見ることができるキーポイントと信じているものです。その議論は109ページから110ページに再現されています。

ここに、2つの量的要素の最新版があります。2013年に、我々の1株当たりの投資額は13.6%増えて129,253ドルになりました。また、保険と投資以外の企業からの我々の税引き前利益も、12.8%増えて9,116ドルとなりました。

1970年以降、我々の1株当たりの投資を毎年倍加する19.3%の率で増やしてきました。そして、我々の1株当たりの利益は20.6%の速さで増えました。我々の、この2つの価値の尺度と非常に近い割合で43年間という期間にわたるバークシャーの株価が増加したことは、偶然の一致ではありません。チャーリーも私も、この2つの尺度の両方が増加してほしいと思っていますが、我々は常に営業利益をつくることをより強く求めています。

 

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さて、我々の事業の4つの主要なセクターを見ていきましょう。そのセクターそれぞれには他のセクターとはかなり異なる貸借対照表と収入の特徴があります。したがって、それらを一緒くたにしてしまうと分析できなくなります。(これらのビジネスを一つの屋根の下で持つことは、重要で永続的な利点があるのですが)そこで、我々は、これらを4つの別々のビジネスとして説明します。我々のゴールは、皆さんが報告するマネージャーで、我々がその場にいない株主であるのと同じになるように、我々のポジションが欲しいと思う情報を皆さんに提供することです。

 

 

保険業

“保険会社への我々の投資は収益力の基盤を多様化させる努力の大きな第一歩です。” ─1967年の年次報告書より

最初に保険事業から見ていきましょう。1967年のこのレポートを公にして以来、一貫してバークシャーの拡大成長のエンジンとなり中核を担ってきた事業です。

損害保険(P/C)は前払いのプレミアムを受け取り、後で請求に対する支払いを行います。極端な場合、特定の労災補償事故のような場合は、支払いが数十年間延びることがあります。このような、今現金を受け取り、支払いは後になるモデルでは、我々の手元に多額の「フロート」と呼ばれる現金が据え置かれることになります。最終的には、そのお金は我々の手元を離れることになるのですが。一方、我々がこのフロートを投資に振り向けることで、バークシャーは利益を得ることができます。ここの方針や主張は行ったり来たりしますが、我々が抱えるフロートの総額はプレミアムボリュームに関して安定しています。その結果、我々のビジネスは、フロートに応じて成長しました。我々がいかに成長したかは、下に表しています。

今後、フロートをさらに増加させていくのは難しいと考えられます。プラス面としては、ガイコのフロートは間違いなく増加していくことでしょう。しかしながら、国家賠償の再保険部門では、たくさんのランオフ契約を保持しており、これらのフロートが不安定で落ち込む可能性があります。我々が将来のフロートの低下を経験するとしても、それは非常に段階的で、数年で3パーセントを以上にはならないでしょう。我々の保険契約の性質は、我々の持っている現金資源に比べて、それを上回るような金額を即時に支払わなければならないような要求を受けることはあり得ない、というものです。(この点において、損害保険は生命保険の特定の形とは重要な点で違います。)

プレミアムが我々の費用と最終的な損失の合計を上回っていれば、フロートが産み出す投資収益を加え、我々は引受業務利益を計上します。このような利益が産み出されるとき、我々は自由なお金の運用を喜びます。さらにこれを増やしながら、後の支払いを待ちます。

残念なことに、このような幸福な結果を成し遂げたといいう保険業者の願望は、激しい競争を引き起こします。大きな引受業務損失を起こす損害保険会社があるため、ほとんどの年に競争は活発です。この損失は、事実上、業界がフロートを保持するために支払うようなものなのです。例えば、スティトファームは、わが国最大の保険業者であり経営があまり良好でない会社ですが、2012年末で、この12年のうち9年は引受業務損失をまねきました。(彼らの会計報告で、ここで使える最新のものです)競争のダイナミズムは、保険会社に対し、すべての会社がフロート収入を持っているにもかかわらず、他のビジネスと比べて水準を下回る収益しか得られないという惨憺たる記録を続けることを強いています。

この報告書の最初のセクションに見られるように、我々は11年連続で引受業務利益を上げてきて、この期間の税引き前利益の合計は220億ドルにも達しました。我々は、これからも、ほとんどの年に収益の高い引受けを続けるだろうと信じています。そうすることは、貴重なフロートがひどい引受け結果によって台無しになってしまう危険をよく知っている保険マネージャーたちの毎日の注意点なのです。

それで、我々のフロートはどのような我々の本質価値の計算に影響するのか?我々のフロートはバークシャーの帳簿価格を計算する際には負債として完全に差し引かれます。ちょうどそれは、我々が明日払わなければならなくて、それを補充するものがない時のように。しかし、それはフロートを表示するには誤った方法で、代わりに回転資金として見られるべきです。毎日のように、我々は古い請求への支払いを行い、2013年には500万人以上の請求者に対し合計で170億ドルになり、フロートを減らしました。同じようにたしかに、我々は毎日のように新たな保険契約を結び、それによってフロートを加えるあらたな請求を引き起こします。もし、我々のフロートの回転にコストがかからなくて、それが永続するのであれば、私はそれはありえると思いますが、この責任の本当の価値は会計責任に比べ劇的に少ないものになるでしょう。

この誇張された負債を部分的に相殺するのは、資産として帳簿価格に含まれる保険会社に対する好意に起因する155億ドルです。実質的に、この好意は我々の保険業務でフロートを産み出す能力の価格を意味します。しかしながら、好意の費用は本質的価値とは関係がありません。もし、保険ビジネスが大規模で持続的な引受業務損失を生み出してしまうのならば、それに起因する好意資産は、当初の導入コストがどれだけかかっていても、意味がないと考えざるを得ません。

幸いにも、バークシャーはそうではありません。チャーリーも私も、我々の保険業務の好意の本当の経済的価値は、同様の品質のフロートを購入することで測ることができますが、歴史的な繰越価値を越えていると信じています。我々のフロートの価値というのは、バークシャーの保険ビジネスの本質的価値が帳簿価格を大幅に上回ると信じている理由です。

 

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ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2013(2)

今期のバークシャー

事業面においては、昨年は、ほぼすべてについて順調で、特定分野では非常にうまくいきました。これから、説明していきましょう。

 我々は、NVエナジーの全株式とH.Jハインズの主要株式を約180億ドルで購入し、2件の大規模な買収を完了させました。両社は、我々との相性がよく、今後、大きく貢献してくるでしょう。

さらに、ハインツ買収とともに、我々は将来の大規模な買収の際にバークシャーが用いる提携の基準をつくりました。我々は、今回、友人のジョージ・パウロ・レマンが運営する3Gキャピタルの投資家たちと協力しました。ハインズの新CEOであるハーナード・ヒースと会長のアレックス・ベーリングは彼の同僚であり、この事業に責任を持っています。

バークシャーは資金面でのパートナーです。その役割のなかで、我々はハインズの80億ドルで優先株を購入しました。それは9%の利回りだけでなく、ほかにも、優先株の年間収益として12%かそれ以上の価値向上をもたらします。バークシャーと3Gはハインズの株式を半分ずつ、42億5000万ドルで購入しました。

ハインズ取得には「プライベイト・エクイティ(未公開株?)」の場合と類似している点がありますが、決定的な違いがあります。バークシャーは、この会社の株式を売る(売って儲ける)ことを考えていません。むしろ、もっと買いたいと思っており、将来、その可能性はあります。3Gの投資家のうち誰かが、将来彼らの持分の全部または一部を売るかもしれません。そういう時に、我々が持ち分を増やすことができるのです。バークシャーと3Gは、(時価に応じた公正な評価で)所有している優先株を普通株に転換するときに、相互に有利になるような取り決めをすることができます。

我々は提携して、6月にハインズの管理を始め、ここまでの事業成績は有望です。しかし、ハインツからの少数利益だけは今年のバークシャーの報告書に反映されることになります。一時的な取得に要した経費と事業のリストラの費用が13億ドルになりました。2014年は、このような一時的な費用がなくなる利益が出てきます。

NVエナジーは、我々の公共事業の子会社であるミッドアメリカン・エナジーが56億ドルで買収したもので、ネバダ州の全人口の88%に電気を供給しています。この買収は、我々の既存の電力事業にうまくフィットし、再生可能エネルギーへの大型投資のために多くの可能性をひろげるものです。NVエナジーは、ミッドアメリカン・エナジーの実施する買収の最後ではありません。

 ミッドアメリカン・エナジーは、我々の「5つの原動力」のひとつです。「5つの発電所」は、2013年に前年に比べて7億5800万ドル増えた税引き前利益108億ドルをあげた非保険事業のあつまりのことで、他にBNSF、イスカー、ルーブゾールとマルモンです。

その5社のうち、ミッドアメリカン・エナジーだけは税引き前で3億9300万ドルを稼いでいたのを、9年前にバークシャーの所有となりました。その後、我々は現金主義で他の3つの会社を取得しました。5社目のBNSFを獲得する際に、費用の70%を現金で、残りは6.1%という利回りの株式を発行することでまかないました。言い換えると、9年間にわたり5社によりバークシャーに104億ドルの利益がもたらされたことは、わずかな希釈が伴っています。つまり、それは単に成長するというのではなく、1株当たりの業績の方を伸ばすという我々の目標に沿うものであります。

アメリカ経済が2014年も好調を続けるのであれば、我々の5つの発電所の利益が、さらに、おそらくは税引き前で10億ドルほど、よくなると予想することができます。

 我々のこれより規模の小さい非保険事業の会社の多くは、昨年、2012年の39億ドルから増加させて、税引き前で47億ドルの利益をあげました。われわれは、2014年も、さらなる増益を期待しています。

 バークシャーの広範な保険事業は、11年にわたりフロートを増やし続けてきた引受業務利益を、2013年にはまた営みました。このフロートとは、我々が所有しているのではないけれど、我々がバークシャーの利益のために投資に回すことができる資金のことで、11年間で410億ドルから770億ドルに増加しました。これに並行して、我々の引受業務利益は、2013年に実現した30億ドルを含めて、税引き前で220億ドルとなりました。そして、これらのすべては1967年の860万ドルの国家賠償の購入から始まったのです。

現在、我々は非常に優れた多種多様な保険事業を保有しています。最もよく知られているのはガイコで、それ以前には部分的な持分所有だったのを1995年末にバークシャーが全面的に取得した自動車保険会社です。1996年にガイコは、全米の自動車保険業者の中で第7位にランクされました。現在では、ガイコは第2位になり、つい最近オールステイトを抜きました。この驚くべ成長の原因は、ごくシンプルなことで、安値と安心できるサービスです。もし、保険費用を節約したいと思ったら、1-800-847-7536に電話するか、Geico.comをクリックすることで、それができるかどうかを見ることができるのです。その貯金で、バークシャーの他の事業の製品を購入できるにことになります。

 チャーリーと私は象のような大型の買収先を探しているあいだ、我々の多くの子会社は定期的にボルトオン買収を行っています。昨年、我々はこのような契約を25件締結し、全体で31億ドルかかる予定でした。これらの業務は規模においては190万ドルから11億ドルまで広範囲にわたるものとなりました。

チャーリーも私もこれらの取引を奨励しています。それらは、我々の既存のビジネスに適合し、我々の経営の専門部隊によってマネジメントされる活動において資本を展開します。このようなボルトオン買収は今後はもっと多くなっていくでしょう。総体的に、それは有益なものです。

 昨年、我々は最も確かな種類のボルトオン買収に35億ドル投資しました。それは、我々がすでにコントロールした素晴らしい2社の増資株の購入です。一つのケースとして、マルモンの場合、その買収は我々を2008年の100%の所有へと導きました。別のケースとして、イスカルの場合、ヴェルトハイマー家は、保持していたプットオプションを行使することを決め、我々が2006年に支配権を得た時に、保持していたビジネスの20%を我々に売却しました。

これらの購入は、我々の収益力に税引き前で約3億ドルを加え、その上、8億ドルの現金をもたらしました。一方、昨年の手紙で説明したと同じ無意味な会計規則は、これらの買収について実際に支払ったものより18億ドル少なく帳簿に記帳するように義務づけています。これはバークシャーの帳簿価格を引き下げることになります。(この経費は株式発行差金となります。これで解決です。)この奇妙な会計処理により、バークシャー同じ18億ドルの帳簿価格の上に本質的価値を上乗せしたことになります。皆さんは、このことがお分かりになると思います。

 我々の子会社は2013年には110億ドルという記録的な設備投資を行いました。これは減価償却費の2倍に相当します。そこで支払われた金額の約89%はアメリカ国内に対する投資でした。我々は、海外に対しても同じように投資しますが、その主要なものはアメリカにあるものに対して行います。

 大抵の資産運用のマネージャーはS&P500を上回ることができないことが明らかになった、この1年、トッド・コームズとテッド・ウェシュラーは二人とも、うまくやったと思います。彼らは、70億ドルを超えるポートフォリオを運用しています。かれらは、それだけの稼ぎをしています。

私は彼らの投資が、私のそれを上回ったことを再び認めなくてはなりません。(チャーリーはロットでということを付け加えるべきだといいます。)もし、そのような屈辱的な比較が続くようならば、私は彼らについて話すことを止める他はありません。

トッドとテッドは、また、彼らのポートフォリオ活動とは無関係ないくつかの案件で目覚ましい成果を創出しました。彼らの貢献は始まったばかりです。彼らの静脈にはバークシャーの血が流れているのです。

 ハインツを加えたバークシャーの年末時の従業員数は、昨年より42,283人増えて330,745人となりました。増加にはオマハ本社での1人を含めたことを、私は認めなくてはなりません。(慌てないでください。本社の人々は1階で気持ちよく適合しています)

 バークシャーは、アメリカン・エキスプレス、コカ・コーラ、IBMそしてウェルズ・ファーゴという“ビッグ・フォー”に対して、昨年、投資を増やしました。我々はウェルズ・ファーゴ(2012年末の8.7%から9.2%に増やしました)とIBM(6.0%から6.3%に)の株式を追加購入しました。一方、コカ・コーラとアメリカン・エキスプレスは自社株買いを行ったので、我々の所有比率は相対的に上昇しました。コカ・コーラの我々の資産は8.9%から9.1%に上昇し、アメリカン・エキスプレスでは13.7%から14.2%になりました。そして、皆さんが小数点以下のパーセンテージは重要でないと思うなら、この数字を考えてみてください。全体の中で、この4社では我々の資産シェアが0.1%上昇すれば、バークシャーの年間利益の分け前が5,000万ドル増えることになります。

この4つの会社は、優れたビジネスを持ち、才能に恵まれた、株主指向の経営者によって経営されています。バークシャーでは、我々は、まあまあのビジネスを100%所有することよりも素晴らしい会社の相当な部分を非コントロールで所有する方を好んでいます。ラインストーンのすべてを所有するよりは、ホープ・ダイヤモンドの一部に投資するほうがいいのです。

年末の持ち株によって、我々の“ビッグ・フォー”からの投資収益は44億ドルに達しました。しかし、我々が皆さんに報告している収益は、我々が受け取る配当だけで、昨年は14億ドルでした。しかし、それは誤りではありません。我々が報告しない30億ドルはバークシャーが計上する分と同じように大切なものです。

これらの4社は、しばしば収益を、普通に有利であることが明らかなビジネスチャンスの資金調達のためと同じように、自社株の買戻しのために使います。それは将来の収益シェアを高めることになります。そのようなことはすべて、この我々が投資している4社の1株当たり利益が時とともに大きくなっていくことを予想させるものです。4社がそうしていれば、バークシャーの受け取る配当は増えていくことでしょう。さらに重要なことは、我々の未実現のキャピタル・ゲインも同じように増加していくことです。(4社の未実現の利益は年末で390億ドルになりました)

我々の資本配分は柔軟性があり、我々が経営を見ない事業に多額の投資をして分け前を受け取ることもできます。それは、自分でできるビジネスしか取得しない会社よりも有利になることができます。ウッディ・アレンは次のように言いました。「バイ・セクシャルの長所は土曜の夜のデートのチャンスが倍になることだ。」同様に、事業を営むことと受動的な投資をすることのどちらかに投資しようとすることで、我々は、現金の分別ある運用を見つける可能性を倍にします。

 

***********

 

2009年の後半、大不況の暗がりの中で、我々はバークシャーの歴史の中で最大の規模となったBNSFの買収に合意しました。このとき、私はこの買収を「アメリカ経済の将来に対する全部込みの賭け」と呼びました。

このようなことは、我々にとって目新しいものではありませんでした。バッフェット・パートナーシップ株式会社が1965年にバークシャーの支配権を握ってからずっと、同じような賭けをしてきました。正当な理由で。チャーリーと私は、常に、アメリカの反映がさらに進むことが確かになるかどうかの「賭け」を考えてきました。

たしかに、誰が過去237年の間アメリカについて逆の方に賭けることで利益を得たでしょうか。皆さんが我が国の現在の状態を1776年当時のものと比較したならば、きっと驚きのあまり目を瞬かせることでしょうそして、我々の市場経済に埋め込まれたダイナミズムは、その魔力を働かせ続けています。これから先に、アメリカの全盛時代が待ち受けているのです。

この追い風が我々のために働くことで、チャーリーと私はバークシャーの一株当たりの価値を構築することを期待して、次のようなことを行います。(1)我々の多くの子会社の基礎的な収益力を不断に向上させること、(2)ボルトオン買収により、さらに利益を向上させて行くこと、(3)投資先の会社の成長により収益をえること、(4)価格が本来固有の価値からかなり割安になっている時にバークシャーの自己株式を買い戻すこと、そして(5)時折、大規模な買収を行うこと。皆さんにとって成果を最大化させるために、バークシャーの株式を割り当てることはないでしょう。

これらを形作る建築ブロックは岩のように堅固な基礎の上に築かれています。1世紀後にも、BNSFとミッドアメリカン・エナジーは我々の経済の舞台で主役を演じているでしょう。保険は企業と個人の両方にとって不可欠な存在であり続けているでしょう。そして、バークシャー以上にビジネスに対して豊かな人材と財政的資源を持っている会社はないでしょう。

さらに、我々は、常に、最高の財務能力を維持しています。少なくとも200億ドルの現預金をもって、短期的な負債を借り入れることはありません。チャーリーと私は、これらの事とその他の強みを見ているので、皆さんの会社の見通しを立てることができるのです。私は、この会社の経営を任されていることを、たいへん幸運に思っています。

2014年6月 3日 (火)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2013(1)

先日、バークシャ・ハサウェイのホームページに、ウェーレン・バフェットの「株主への手紙」の2013年版が掲載されました。

これから、その全文を日本語にして、ここで掲載していきたいと思います。ただし、下手な訳、というよりも直訳に近いだろうから、読みにくいと思われた人は、原文を当たってみてください。

下のURLにあります。

http://www.berkshirehathaway.com/letters/2013ltr.pdf

 

それでは、少しずつ訳していきたいと思います。このような拙い翻訳を始めて5年目となりますが、以前は全部終わったところでまとめてアップしていましたが、今年は、ある程度進んだところで、その都度アップしていきたいと思います。そのため、仕事の都合や翻訳のペースによってアップの時期が一定しませんが、我慢してお付き合いください。それでは、始めて行きたいと思います。

 

 

 

バークシャ・ハサウェイの株主の皆様

 

2013年バークシャーは株主価値をトータルで342億ドル増やすことができました。我々がマーモンとイスカーの少数株主持ち分の購入に18億ドルを費やした上でのものです。この費用を費やしたうえで、我が社のクラスAとクラスBの株式の帳簿価格は両方とも18.2%増加しました。現在の経営陣が経営を引き継いでから49年以上の間に、帳簿価格は19ドルから134,973ドルに成長させました。これは年間複利で19.7%に当たります。

 

見開きのページで、我々の長年のわたるパフォーマンス、つまり、S&P500のパフォーマンスに対するバークシャーの毎年の株価の変化、を表にしています。もちろん、計算しているは一株当たりの本質的な価値です。しかし、それは主観的な数字であり、帳簿価格は大まかな追跡のための指標として有効であるにすぎません。(本質的な価値についての詳しい説明は、後ほど説明いします。これについての方針は30年の間のレポートでも触れられ、新しく株主となった片やこれから株主になろうという方々にはぜひとも読んでいただきたいと思います。)

 

皆さんにずっと言ってきたように、バークシャーの本質的な価値は帳簿価格を遥かに上回るものとなっています。両者の差は近年、さらに拡大してきています。そういうわけで、帳簿価格の120%で自社株の買取を認めるという我々の2012年の決定は理に適っているであると言えます。一株当たりの本質的価値はある程度まとまると帳簿価格にかけたパーセンテージを超えてしまうので、この水準での買い取りは継続して株主となっている方には利益をもたらすことになります。しかしながら、我々は、株価が120%の水準に下がってこなかったので、2013年に買い取ることをしませんでした。そういう事情がなければ、我々は積極的に行うことでしょう。

 

私は、バークシャーの副社長であり、私の長年のパートナーであるチャーリー・マンガーとともに、バークシャーの帳簿価格も本質的価値もマーケットが下降局面だったり、適度な上昇局面にある時は、何年でもS&Pを上回ると信じています。しかし、マーケットが強気の時には、2013年がそうだったように、我々はショートの立場に立たされることになります。我々はS&Pが15%を超える上昇をした時には、49年間で10回バークシャーの価値が下回る結果となりました。

 

2007年と2013年度末の間の株式市場のサイクルの上で、我々はS&Pを越えるパフォーマンスをあげてきました。今後のサイクルにおいても、我々は、また、同じようにパフォーマンスを上げて行こうとするでしょう。もし、それができないならば、報酬を受けとることはないでしょう。最終的に、皆さんは常にインデックス・ファンドを所有することになり、S&Pの成績を保証されることになるのです。買収の経費と今後のリストラの費用は合計で13億ドルになります。2014年は、そのような経費がないので本来の利益が表われてきます。

ハインツとともにバークシャーは現在81.5社の会社を所有しています。それらはフォーチュン500社の中の独立型企業です。

2014年6月 2日 (月)

マルティン・ゼール「自然美学」(46)

b.全体なき統一

自然との美的な出会いは、世界に対する内容的に相容れない態度を現実化することである。それらの態度は価値評価的な相互依存と時制的な共存という関係によってのみ相互に結びついているに過ぎない。同一の現象領域を同時に意味疎遠的・意味付随的・画像的に分節化されたものとして把握する直観は、矛盾を孕んだ直観である。よりによってそうした矛盾のうちに風景空間の卓越した美しさが見出され、そうした美しさが同時に倫理的な性質として解釈されうるならば、そうした矛盾した生状況のあり方は─おだやかに言えば─喜ばしい現実存在の重大な障害にはならないであろう。むしろ、こうした矛盾の一定のあり方、つまりこの矛盾が肯定的な実存可能性を強化したものと把握されるような在り方をうまくゆく生の条件と考えるのが自然である。もちろん、その矛盾が肯定的な実存可能性を強化したものと把握されるようなあり方をうまくゆく生の条件と考えるのが自然である。もちろん、その矛盾がこの対立する可能性の(一つの)を悪化させ破壊するという反対の事態も考えられる。それどころか、このことが自然の「恐るべき」統一と両義性とを自然の美しい/崇高な半面から区別するのである。しかし、この矛盾が好都合でも不都合でもありうる。自然美の時間に生じているのはこうしたことなのである。成功する世界開示の部分的な諸方法の矛盾した関係のうちに生きることは、美的自由という幸福の状態にとって本質的である。これは許容された矛盾という幸福である。それに対して、倫理的イデオロギーとその一部分としての美的イデオロギーは、矛盾の経験を理性的な善き生から消し去ろうとする。善のイデオロギーは善の内部のいかなる矛盾も許与しない。しかし、それは誤った倫理的真面目さであり、成功するすべての生の本質は、一定の方向でおのれが矛盾していることにあるのだ。

ここで問題にしている矛盾は言明どうしのあいだの論理学的矛盾ではない。また、言明と現実の間の事象内容に関する矛盾でもない。さらに、規則とそれを遵守すること・意図と行為・自己了解と振舞いとのあいだの実践的矛盾とも異なる。私はそうした矛盾を実存的矛盾と名付けたい。それは、個人が同時に支持し追求する両立不可能あるいは通約不可能な構想や利害関心のあいだの矛盾である。追求されたものの厳密な両立不可能は、こうした矛盾の否定的な事例である。個人の選択したオプションと目標とが相互に妨害し合っている─これはたしかにうまくゆく生の条件ではない。それに対して、追求されたもののたんなる通約不可能性は実存的な不和の肯定的な事例である。つまり、当該のオプションと目標とが対照をなすことによって相互に強め合う実存的可能性を開くのである─これはうまくゆく生の基本的な条件である。生の可能性の肯定的な通約不可能性の本質は、価値評価的な相互依存関係のうちにあり、その結果として、対立に巻き込まれているいずれの方向も他の方向によって統合されも置き換えられもしないことになる。それを「肯定的な不一致」の関係と言えるかもしれない。しかし、その不一致が実際に肯定的な関係である場合には、それは肯定的であるにもかかわらず個人によって矛盾した関係、すなわち生きるに値する矛盾として経験される。うまくいく生の本質は、熟慮された価値評価と利害関心とがすべて一致することうちにあるのではない。うまくゆく生は、分裂しているにもかかわらず両立可能な自足した現実存在の可能性を掴むことができるときに成し遂げられるのである。

美的自然は作家に不可欠な比喩を提供し、哲学者には人間の現実存在を記述するのに適したモデルを提供する。美的自然がこうした貢献をするのは、それが同時に比喩やモデル以上のもの、すなわち、善き生という際限のない現実の卓越した構成要素だからである。たしかに自由に経験された自然を欠いた善き生を考えることは少なくとも可能である。それにもかかわらず、自然における美的自由を無視する根拠はない。それは善き生の「豊か」な形式の代わりに「控え目」な形式を選択する適切な根拠がないのと同じであり、そうした根拠がないからである。というのも、美的意識だけでなく倫理的意識が自然美の肯定的な偶発性の直観を避ける─あるいは避けるに違いない─としたら、どちらの意識も貧しくなるだろうからである。自然の風景あるいは少なくとも都市の風景に対して感情を持つことがないならば、善の一定の現実性に対する感覚がわれわれから奪われることになるだろうし、その結果として善の普遍的な可能性に対する我々の感覚は鈍ってしまうことになるだろう。

 

5.道徳的問題としての自然

自然美の「倫理的」道徳から直接的に自然美の「道徳的」道徳が生じる。美しい自然がうまくゆく個人的な生の卓越した舞台であるというのが本当であるならば、美しい自然が可能である場としての自由な自然を保護することは、個人の生が展開する可能性は社会的かつ政治的に配慮することである。自由な自然が人間的な現実存在の幸福の相対的ではない条件であるならば、その条件を保持することは、人間が人格的存在であることの尊重の一部分である。私のこれまでの個人倫理的議論は、自然との美的なかかわりが善き生の無条件的な形式であり、その形式に即して─哲学的な考察にとって─うまくゆく生の普遍的な構造が説明されることを示そうとしてきた。こうした証明が定式的に表現しているのは、自然に対する一定の─美的な─振舞いに対する狭い意味で道徳的な根拠ではなく、もっぱら思慮に基づく根拠である。この証明が強調したのは、自然美に対する感覚はすべての人間の反省的な自己利益のうちに見出されるということであった。しかし、こうした議論から、万人にとって価値のある生の可能性の尊重に対する紛れもなく道徳的な根拠が生じる(実際に各人がどれほどその可能性に関心を示すかは関係ない)。したがって、自然美がこの価値評価的な意味における人間的生の普遍的形式であるならば、自由な自然の保護(そして可能な限りでの「展開」)は普遍主義的な道徳の一つの規範である。

このことは、自然とのかかわりの一般的倫理学にとって重要な意義を持つ。なぜなら、美的自然の倫理学だけが自然を、たんに人間の生存可能性としてではなく、人間の肯定的な生の可能性として記述できるからである。美しい自然はたんに善き生のための資源あるいは条件として善なのではなく、善き生の現実として善なのである。自然美学だけが自然との非道具的なかかわりの完全な意味を解明することができ、そうして、そうしたかかわりを許容する自然を保護する義務を根拠づけることができる。自然美を気に入る義務はないとしても、自然を気に入る可能性を保護する義務は存在する。しかしそのことは、ここに提起した美的自然の倫理学が自然倫理学を全体的に代表できるとか根拠づけできるということ、また自由なまたは美しい自然だけが人間にとって善き自然であるということを意味しない。自然への道徳的な配慮もまた関係への関係と関わっているのである。

2014年6月 1日 (日)

マルティン・ゼール「自然美学」(45)

4.倫理的経験としての美的自然

我々はここで自然の道徳とは何であるのかという問いに答えることができる。「総括的」自然の美的経験は、善き生の形式に出会うことであり、強い意味での倫理的経験である。個別的で相互主観的な生き方に対してうまく関与でき・隔たりをとることができ・展望を持つことができること、それが善き生の形式である。これらの可能性が与えられている状況は、充実した時間という状況である。こうした状況の範囲内で営まれる個人的な生が善き生である。こうした状況が手の届くほど、あるいは期待できるほど近くにあることが現実であるような世界が存在するならば、それは自由で人間味のある世界であろう。こうしたすべての地平─状況・生・世界─の上で、うまくゆく生の現実は全体なき統一という構造を現わす。

a.関与・展望・隔たり

善き生が一般に美的な生である必要はない。たしかに美的意識を欠いた生は考えられるよりもかなり貧しいであろう。しかし美的観点は、先に述べられた善き生の構造を解体することなく、そうした善き生の構造が排除されうる。善き生の豊かな概念があらゆる美的次元を包含すればするほど、善き生の控え目な概念は美的規定なしでも済ませられるであろう。というのも、いざというときにコミューン的生のために必要な「隔たり」を手に入れてくれるのは理論的観照だけであり、またいざというときにコミューン的生のために必要な「展望」を手に入れてくれるのは単なる想像力だけだからである。しかし、こうした成果は、倫理的な善の美的に動機付けられた証明という我々の意図にとって災難に他ならない。なぜならこの第六章のテーゼは、美的な生だけが(あるいは差異化された美的意識を含む生だけが)善き生でありうるということではなく、自然の包括的な美的現象から出発して善の相対的でない概念が獲得され解明されるということだからである。この相対的でない善の概念は、先に述べた通り、「控え目」な了解よりは「豊か」な了解を目指している。自然美は、善き生の具体的可能性が(照応的に)開示される状況として、生の認識的ならびに規範的必要から直観に満たされた隔たりを取った(観照的)現実存在の状況として規定された。すなわち、自然美はこうした可能性が相互に条件づけ合っている状況として規定されたのである。繰り返しておこう。自然は生活世界における現実、すなわち、生のたんに主観的ではない企投ならびに事物のたんに主観的ではない見方を、同時に直観的に強化し・提示し・一時停止させる現実である。

自然美のこうした規定に基づいて、より普遍的─倫理的─な規定を強調することがこの第六章の目的であった。私は、照応直観とはコミューン的実践への内在的関与の形式であり、想像的直観とは現在の生の形式を展望する形式であり、観照直観とは世界内在的意味への執着から感覚的または概念的に隔たりを取る形式であると解釈した。これらの基本的態度と結びついたいずれの活動も、遂行志向的な活動の本来的な可能性であることが明らかになった。そこから善き生の普遍的構造が規定されてくる。すなわち、善き生は、相互主観的な生の具体的形式への関与・展望、そしてそれから隔たりを取ることに個人が同時に成功する可能性を持つ、そうした状況によって特徴づけられている。人間の現実存在の成功は、相互主体的で具体的な生の形式に関与し、それから隔たりを取り、それを展望することが同時に可能であるような、そうした現実の中で生じる。

上で強調された二つの命題には、善き生の普遍的な形式とその形式の自然美学的な充実とのあいだの構造的類似性ならびに構造的差異が書きとめられている。どちらの状況─自然美の状況と善き生一般の状況─にも、日常的な現実性に対する様々な基本的態度への同時的で可変的な通路が共通に見られる。どちらの状況も、第四章第一節cで言われた、何か「から」の多様な自由─それは同時に何かに「対する」自由である─の状態であるという点で共通である。しかし、両者が異なっているのは、自由な生の遂行という同時存在するこれらの可能性がそれぞれ現実であるそのあり方である。そのあり方は、自然美の場合、直観する働きへの限定を度外視すれば、生活世界に対する三つの原理的態度が厳密にバランスを保った同時存在である。しかし、関与・展望・隔たりが「同時」に可能であることは、必ずしも、その三つがつねに同時にかつバランスを保って実現されなければならないだろうということを意味しない。関与・展望・隔たりがバランスよく実現するのは、むしろ美的な特殊事情であり、それが「倫理的なものの内部で」知覚される場合であっても、特殊事例であり続ける。右に解明された通常の事例はコミューン的生の事例であり、何らかの仕方でそれが超え出てゆかれることに対して開かれている。それゆえ、自然美の時間構造が提供してくれるのは、善き生の遂行構造についての通常概念ではなく、あくまでもそれの極端な概念である。しかしその極端な事例の分析は、善の通常性も調和的かつ統一的な構造を持っていると思われがちであるが、それほど完全にそうではないことに目を開かせてくれるのである。

自由な自然は、それが確実に与えられているならば、美的に充実した直観とそうでない直観に直面する。自由な自然は、それが確実に与えられているならば、美的に充実した直観とそうでない直観との両義的関係にあるが、それと同様に人間の生の自由も、それが確実に獲得されているならば、充実した時間とそうでない時間との両義的関係にある。うまくゆく生はその成功の両義性のうちに存する。それ以外のあり方はあり得ない。なぜなら、相対的でない方向づけの獲得は常に相対的な─個人的にせよ集合的にせよ、いずれも個別的な─方向づけの獲得と一致するか否かは前もって確定していない。うまくゆく生はそれ以外の仕方では存在し得ない。なぜなら、個人的な生の構想の実現化はいずれも、それが何らかの仕方でうまくゆくならば、もともとの構想の挫折の─あるいはその構想そのものの─契機を含んでいるからである。うまくゆく生においては、つねに追求されたあるいは期待された幸福以上のもの、あるいはそれ以外のものが満たされるのである。うまくゆく生はそれ以外の仕方では存在し得ない。倫理学が語る幸福と成功は、自分の生から何が生じるかを知り得ず、意識的にかつ死ぬべく、そして歴史的に生きている存在者の幸福と成功だからである。人間の幸福あるいは成功は失われることもありうるものである。そうしたものだけを我々は幸福ないしは成功と呼ぶ。至福、すなわち壊れることも失われることもない幸福は人間の幸福ではない。人間の生とはまさにそれの脆さが意識されている生である。したがって、うまくいって成功している人間の生はこの脆さを承認することによってしか遂行できない。この脆さは実存の外的事情にかかわるだけでなく、倫理的に見て理性的生き方そのものの内的構造にもかかわる。関与・隔たり・展望の立場を優遇することは、たんに善の両義性に順応する最良の方法であるだけではない。むしろ、こうした両義性のうちで善の可能性の条件を承認する方法なのである。

美的自然の両義性はそうしたことの事例なのであった。したがって、美的自然の経験は美的実践の修正手段であるだけでなく、人間の実践の修正手段でもある。自然に関する日常的な美的意識は、両義性の除去と偶発性の克服という「本性的」であるが誤ってもいる理想に対する修正手段であり、成功と幸福とは肯定的に克服された偶然性の状態であって、除去された偶然性の状態なのではないということを想起させるものである。自然美は─「倫理的なもの」の内部で経験されて─倫理的全体性のパラダイム的な経験である。言い換えれば、幸福という人間的状況の統一の経験であるだけでなく、同時にうまくいく生と自由な人間世界の構造との統一の経験である。

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