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2014年6月27日 (金)

岡本隆司「近代中国史」(5)

2.科挙と官僚制

「国計民生」という言い回しがある。その「国」は王朝・政府をさすが、更に引き伸ばして、その構成員で表わせば、「官」あるいは「士」と言い換えることができる。つまり「官」「民」、「士」「庶」なども、同様の対句表現である。前者は支配者・エリート、上流・搾取者、後者は被支配者・非エリート、下層・非搾取者である。そしてねこの四文字熟語はあくまでも「国計」と「民生」との複合語であって、一体をなしていない。実態として「国計」のカバーする範囲が「民生」全体に及ばないからであり、それが成語にも反映している。中国は歴史的に「国」と「民」が一体にならなかった。「国」と「民」とは、互いに領有の主体・対象となるべき外者、よそ者であった。「国民国家」といい、国民と国家が曲がりなりにも一つの共同体をなすのが、日本・欧米だとすれば、少なくとも史上の中国は、両者一体ならない二元的・重層的な社会構成だった。権力エリートと一般人民の距離が遥かに遠く、隔たっていたことを意味する。そうした二重構造は、言語から見て然りである。現代でも、書き言葉と話し言葉の間に、相当の隔たりがある。文章をきれいに書くのは、十分な教育を受けたエリートでなくてはかなわない芸当であり、他方で漢字も満足に書けない庶民の数は決して少なくない。過去は、もっとはなはだしい。文語文はエリートの占有物であり、一般庶民とは何のかかわりもなかった。その最たるものが古典、主として経書・史書の文章である。これは聖賢の説く真理を載せるものだから、その文章・文体を体得し、読んで解説でき、書いて表現できる者こそ、世の師表たりえた。そうしたごく一部のエリートを「士」と呼び、そうでない大多数の人々は、あくまで「庶」の範疇にあったのである。中国でも、はじめ「士」「民」の間に、さほどの隔たりはなかった。それが時代を下るにつれ両者の距離は拡がってゆき、雲泥ただならぬ懸隔ができ、観念の上でも根深い差別意識が生じた。この懸隔は隋唐の時代に定着し、牢固として抜きがたいものとなった。この永続に与って力があったのが、科挙制度である。

科挙というのは、隋の時代に始まった官吏登用試験である。試験で官吏を選抜登用する、エリートの社会的地位や役割を個人の才力で決定する、というコンセプトは近代西洋の高等文官試験にも影響を与えた。もっとも、高等文官試験と科挙を同一視してはならない。試験だから受験者の才力をはかる出題をするのは、当然である。けれども、その才力とは何を意味するのか、が問題であって、中国の場合、それは「士」たるに相応しい資質を有するかどうかにあった。具体的に言い換えれば、聖賢の説く真理を記載する古典を覚え、その真理を適切に表現できるか、という能力の有無をためすのである。それが「士」と「庶」を分かつ境界だったからであり、科挙はその測定を目的としていた。しかし、「士」と「民」という階層差別は、科挙に先んじて出来上がっていた。両者を分かつ契機・方法はもともと血統や家柄だったのである。これに対して、科挙により素養のある者が、名実ともに「士」となりうることになった。つまり、科挙というのは、「士」「庶」の階層差別・重層社会を前提として、それをより合理的に正当化するために生まれたものに他ならない。実地に政務を行う官僚に相応しい人材を選抜、登用するためのものではなかった。

科挙に合格して「士」として遇されるということは、中国史上のエリートととなり、特権階級になれるということだ。中国古来の通念によれば、政治の場には必ず、治める者と治められる者が存在し、前者は頭を使い、後者は体を使う。これが「士」と「庶」の区別に対応していた。実際の行政も、治める「士」の指示に従い、治められる「庶」が労力を出し合って、運営すべきものとされる。その義務時な労働奉仕を徭役と称した。これは財政のありようとも関わっている。庶民が労力を拠出すれば行政のコストは賄えるはずだから、なるべく租税の賦課はしない。これが古来の理想であって、財政構造が切り詰められたチープ・ガバメントになりがちなのも、こうした思想が作用していた。しかし、現実には切り詰めた少額の不足分を、庶民の労働が補っていたのと、事実上は同義である。その労働はしたがって、しばしば課税に転化したし、さらに税収が不足すれば、労働奉仕を再生産し、あらためて補わざるをえない。一般の人々にとっては、公式の租税よりも徭役は、重い負担で苦痛だった。租税は恒常的で率・額が決まっていたのに対して、徭役の負担は臨時的・恣意的で、しばしば際限がなくなり、しかも記録に残らなかったからである。「士」は治者の立場で頭を用いるから、肉体を用いた労働奉仕にあたるには及ばない。というのが「庶」と判然区別される「士」のステイタスのあかしである。

北宋時代に定着して以降、千年の長きにわたの科挙が続いてきたのは、一にかかって、こり特権に理由がある。何しろ科挙に合格すれば、免役・免税の特権を得て、本人の富貴が保証されるのはもとより、その一族・関係者にもその余沢が及ぶ。人々が争って科挙を受け、「士」となろうとしたのは、一身の利禄獲得と一家の財産保持という利己的、経済的な理由によるのであって、四書五経に記す高邁な聖賢の道を習得、実践するためではない。

「士」になれない人は、条件に恵まれない「庶」は、少しでも負担を回避するために、その家族・財産もろとも「士」のもとに身を寄せて、その特権に与ろうとした。自分が独立した財産を持っていれば、租税も納めなくてはならないし、労働奉仕も免れえない。ところがその財産を「士」に寄進し、自身も使用人としてその家の一員になれば、「士」の免役・免税の恩恵が及んで、負担が軽減される。そればかりか、その「士」の威を借りて、自分と同じ「庶」よりも有利な地歩を占め、上に立って見下すことも、不可能ではなかった。

優秀な子弟と教育コストのほとんどが、科挙の受験準備に投入された。科挙の準備教育は中国中に普及し、19世紀末の華北では、男子5人に1人という識字率であった。その教育とは、古典を叩き込み、その注釈書も含めて一言一句、丸暗記させ、固定的な様式の文章を綴らせることに他ならない。それで経典を諳んじ、史書に詳らかになり、詩文を作ることはできるだろう。しかし、実地の行政ができるかどうか、未知数である。実用実務はあくまで非公開の私的な領域で、徒弟的な習得を通じて体得するしかなかった。それを身につけた人も、社会的に決して尊重されない。経済であろうと、工芸であろうと、なべてスペシャリストは偏頗なものであって、それゆえに地位は低いのが、中国社会の歴史的な通念・原則であると同時に、実際のありようであった。要するに官僚とはいいながら、あらかじめ実地の行政を深く研究することはない。任官した後も、それは同じで、ほとんどの場合、政治の実務に熟練しようという気もなかった。行政はほとんどしない。その任務としてよく言われるのは、「銭穀」と「刑名」である。前者は徴税を、後者は刑罰を意味する。他に仕事はなかった。人の生命と財産を、強制的かつ合法的に奪いうる、という権力の最も権力らしい根幹の部分しか、統治。行政の実務が存在しなかったわけである。官僚の存在理由とは、プリミティブな権力しか体現、行使し得ない「自己の保存」。官僚制度末端の行政がこのような形態だったすれば、財政収支がチープ・ガバメントの構成になっていたのも納得できる。

いわゆる「銭穀」(徴税)も、今の税務とは違う。「自己の保存」を旨とする当局・官僚からみるなら、自分が必要とする額さえ、税収として入って来さえすれば、取り方はどうでもよかった。取りやすいところから取ればいいのである。だから直接の納税者は、ごく一握りの富裕層にしかならなかった。言い換えれば、最終的な税負担者が誰であろうと、あるいはいかほどの金額を負担していようとも、何らかまわない。逆に必要とする額が集まらねば、法律にどう定められていようと、収奪を辞さなかった。その必要な額とは、公私問わず、官吏たちが自分に必要だと判断すれば、際限なく使える。一方、官僚たちに支給される正規の俸給は、極めて少ない。そこで勢い、官僚たちは徴税を割り増すだけでは飽き足らず、賄賂・役得にも頼って、それを補うようになる。当時は「自己の保存」、生計の不足分を補うにとどまる限り、常識的な節度を大きく逸脱しない限り、咎められることはなかった。しかし、その節度・境界はきわめて曖昧、しょせん自制の問題であってタガは往々にして外れる。これが定着し、汚職を汚職と見ない感覚が出来上がり、確乎不抜の風習となってゆく。それはどうやら、現代の中国にまで及んでいる。税は取ったら取りっぱなし、もちろん民生に還元しない。くわえて汚職まがいの収奪も日常的、法外な搾取も少なくなかっただろう。民間が政府を信用し無くなって、権力から遠ざかっていったのも、そうした積み重ねの歴史的所産に他ならない。政府権力は、いわば乗っかっていただけで、とても社会を掌握していたとは言えない。民間社会に権力の占める地位が軽く、その掌握力も乏しく、頼るものは軍事力しかなかった。そのため、当局が社会に直接コントロールを及ぼそうとすると、逆にそれだけ煽動的・強権的・暴力的にならなくてはならぬ、というパラドクスに陥るわけである。

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