岡本隆司「近代中国史」(8)
2.明朝の成立と中国経済
10世紀の分裂争乱期をはさむ唐から宋への王朝交代は、中国史上、前近代最大の社会変革期として位置付けられる。江南デルタの水田化、米穀及び茶・生糸・磁器など特産品の増産、穀倉地帯の江南と最大消費地の首都を結びつける大運河の整備、交通・流通の発達、鉱山採掘と金属量産、エネルギーの転換、金融の発達、人口の増加、都市化の進行など、そのめぼしいものをあげるだけで、数々の技術革新を伴う大きな経済の発展だったことが確認できる。それらを一言で括るならば、社会の商業化に他ならず、「商業革命」と称せられるのも、故なきことではない。但し、そうした革新が中国全体にまんべんなく生じていたわけではない。江南デルタから大運河沿いの幹線地方を中核とした経済の発展は、あまりに突出、孤立していた。それ以外の地方、就中内陸の山間部に広大な未開地が残っており、恒常的な開発は及ばず、大きな発展も見られない。中国の王朝は、それらを一元的な経済圏とすることは不可能だった。対内的な遠隔地の商業網すら、十分に発達していなかったからである。優れた中国産品は、たしかに海外の市場を獲得しつつあった。けれども取引の恒常性・定着性・数量規模には、まだまだ限界があった。なお内地に後進地ものこっていたからである。しかも中国をめぐる対外貿易のヘゲモニーは、西方のムスリムが掌握しており、華人の進出は顕著ではなかった。
ムスリムの商業資本と提携して、ユーラシア全域を制覇したのが、13世紀のモンゴル帝国である。中国経済はその支配下で、開かれた全ユーラシアの市場と先進地・西アジアのノウハウを得て、いっそう商業化の様相を深めてきた。それまでに使われてきた紙幣の普及は、その典型に他ならない。準備に銀を用いて、中国全土の財政経済の運営を一本化したモンゴル政権の通貨政策は、すこぶる先進的で、以後の中国経済の帰趨にも、大きな影響を与える。しかし、世界的な「14世紀の危機」でモンゴル帝国が倒れ、中央ユーラシアの経済的な地盤沈下がおこり、15世紀に陸から海への転換を始めていた。中国経済も再出発を余儀なくされる。
モンゴル政権に代わって、中国を支配したのが明朝である。明の太祖朱元璋は、南京を本拠として、長江流域に割拠した群雄勢力との争覇戦に勝ち抜き、モンゴル政権を長城の北に駆逐して、華北をも政治的軍事的に併合することに成功した。朱元璋は異種族のモンゴルに代わって君臨するため、「中華」と「外夷」の区別、漢人の自尊という朱子学的イデオロギーを自らの正統性のあかしとして、内外に宣告した。ここまでなら、多かれ少なかれ、他の王朝でも思い当たる話ではある。朱元璋・明朝に特徴的なのは、それを建前だけに終わらせず、制度と政策で実現しようとし、またそれを継続したことにあった。その際朱元璋の念頭にあったのは、おそらく南北の経済格差であろう。華北はモンゴル帝国以前から久しく、江南と事実上の分離状態にあった。モンゴル帝国も、華北と江南で同一の統治を行っていない。そのため華北は、江南よりもむしろ北林の遊牧民族と結びつきやすくなっていた。そこで自らを「中華」と表明するためには、その範囲が一つにまとまっていなくてはならない。そのためには、ずっと分離してきた華北を、自らが拠った江南と統合する必要がある。その経済的表現が現物主義であった。
現物主義とは、なるべく貨幣を介在させずに、政府の財政経済活動を実現しようとする原則を指している。穀物なら穀物、飼料なら飼料というように、税を現物で人民から徴収して、政府当局もそれをそのまま消費した。明朝枷こんな現物主義をとったのは、当時の経済的な条件と政策上の志向が作用している。朱元璋の政権は戦乱に明け暮れ、勝ち抜いた軍事集団だったから、糧秣・兵器・衣料など、現物の調達をもっとも緊要としていた。しかもそれにモンゴル政権が実施してきた紙幣制度の崩壊が加わる。政府発行の紙幣は14世紀後半の騒乱で信用を喪失し、その裏付けをなした金銀などの貴金属や銅銭は、流出し、あるいは退蔵され、流通から逃避、払拭してしまった。しかし、それを新たに投入できるだけの資源にも乏しかった。こうして始まった現物主義を以後も継続したのは、「中華」の統合という目的による。明朝は政治的・軍事的に江南と華北を統合したものの、その成果を持続してゆくには、経済的にも南北の一体化を目指さなくてはならない。モンゴル政権の通貨制度崩壊の影響は、とりわけ華北で深刻だった。生産力に恵まれなかったため、民間に貴金属のストックも少なく、流通を紙幣に依存していたからである。主としてこの地方で時代の進行に逆行するかのような物々交換が出現した。これに対して江南では、なお金銀の蓄積は少なくなく、戦乱の影響で現物のやりとりがあったとしても、それはごく一時的で異例な現象だったはずである。こうした格差を解消するには、南北いずれかの一方を、他方に合わせればよい。後進的経済状態をいきなり、先進的なそれに合致させるのは、到底無理である。しかし逆は、容易でないにしても、不可能ではない。そう判断して、華北の状況を基準とする現物主義を、江南も含む中国全土に適用、施行したのであろう。江南に対する明初政権の苛酷な弾圧も、こうした経済政策の遂行・強制という点から説明できる。
この現物主義を実施に移すには、第一に、物資・労力を直接取り立てるのであめから、その対象となる土地・人を、逐一個別に把握管理しておかなくてはならない。第二に、現物徴収を妨げかねない商業・流通を、厳重な制限統制のもとにおく必要がある。ともに戦乱で荒廃した農地・農業の復興をも、兼ねて目指すものだった。まず第一。土地・人民を調査し、台帳に登録する。こうした台帳・帳簿の記録は、米ならば石、生糸なら斤というように現物の単位による。徴税で特徴的なのは、税率が地方によって著しく違ったことにある。弾圧した江南デルタの地主からは他より遥かに高い額を納税させた。取り立てた税収は、それを消費する場所・官庁に運ばなくてはならない。さらには、各官庁で雑用に任じる人々も必要である。そこで中産以上の人民が輪番制で「里中正役」として労働奉仕を行わせられ、税収の取り立て・運搬、あるいはそれにまつわる紛争の調停に当たった。それ以外不定期・臨時の労役は、いっそう有力な人々が負担し、これを「雑徭」といった。この二つが明代独特の徭役制度だった。ついで第二。現物主義を円滑に運営するためには、商業・流通の管理を徹底し、貨幣をなるべく使用しないことが前提になる。それには、とりわけそれ自体で流通価値を持つ金銀など貴金属の使用を禁止しなくてはならない。いかに現物主義とは言っても明朝は貨幣を全廃してしまったわけではない。しかし、実際のところ、銅銭の鋳造発行量は、鉱産資源の枯渇もあって、経済規模に比してごくわずか、民間の広範な使用に供されるべきものではなかった。金銀の貨幣的使用が禁じられ、銅銭のストックも乏しくては、紙幣を発行しても準備のない不換紙幣になってしまった。銅銭にせよ紙幣にせよ、元来が商品流通・貨幣経済に備える目的ではなく、現物主義的経済推進の補完として発行されたものに過ぎなかった。
こうした禁令や幣制は、明朝独自のものだから、その権力・政治力の及ぶ範囲にしか通用しない。必然的にその範囲の内と外に、判然たる境界を画し、閉鎖的な姿勢を導き出す。例えば外国と貿易するには、内外共通の外貨的な価値を提供する金額の仲立ちが、当時は欠かせなかった。そのため金銀の禁令を徹底しようとすれば、外国との貿易も原則として禁止せざるを得なくなる。明朝はそこで、中国の対外的な交流は、「朝貢」を通じなくては出来ないことにした。こうした貿易・貨幣の制限を有効ならしめるには、人の出入りも厳重に規制しなければならない。沿海では、出航・来航に対し厳重な海禁が布かれた。これは当初、沿海の敵対勢力を平定し、外国との内通を防ぎ、治安を維持するためにはじめられたものだが、のちに経済統制の意味をより濃厚にしてくる。金銀のストックが豊富で、地勢上も海上交通の便利な江南は、これで海外と独自な商業行為ができなくなる。しかも紙幣はそれまで、多く華北で流通していたから、これを江南に強制することで、南北の統一化が図れる。中国内でしか適用しない紙幣の強制使用は、内外共通して流津しうる金銀の禁止と相俟って、江南を海外と切り離したうえで、華北と結びつける役割を担った。現物主義と不換紙幣が共に有効となる範囲。地理的に言えば、長城と海岸線が画した内側で、本書でいう中国にほぼ重なる。それが明朝の「中華」に他ならない。その外側を「外夷」として軽んじ、貿易を禁じ、朝貢と冊封で互いの上下関係を証拠づける。これで明朝のイデオロギーに合致した世界秩序となるわけで、それは対外政策にとどまらず、財政経済の体制にも深く関わっていた。
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