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2014年6月 2日 (月)

マルティン・ゼール「自然美学」(46)

b.全体なき統一

自然との美的な出会いは、世界に対する内容的に相容れない態度を現実化することである。それらの態度は価値評価的な相互依存と時制的な共存という関係によってのみ相互に結びついているに過ぎない。同一の現象領域を同時に意味疎遠的・意味付随的・画像的に分節化されたものとして把握する直観は、矛盾を孕んだ直観である。よりによってそうした矛盾のうちに風景空間の卓越した美しさが見出され、そうした美しさが同時に倫理的な性質として解釈されうるならば、そうした矛盾した生状況のあり方は─おだやかに言えば─喜ばしい現実存在の重大な障害にはならないであろう。むしろ、こうした矛盾の一定のあり方、つまりこの矛盾が肯定的な実存可能性を強化したものと把握されるような在り方をうまくゆく生の条件と考えるのが自然である。もちろん、その矛盾が肯定的な実存可能性を強化したものと把握されるようなあり方をうまくゆく生の条件と考えるのが自然である。もちろん、その矛盾がこの対立する可能性の(一つの)を悪化させ破壊するという反対の事態も考えられる。それどころか、このことが自然の「恐るべき」統一と両義性とを自然の美しい/崇高な半面から区別するのである。しかし、この矛盾が好都合でも不都合でもありうる。自然美の時間に生じているのはこうしたことなのである。成功する世界開示の部分的な諸方法の矛盾した関係のうちに生きることは、美的自由という幸福の状態にとって本質的である。これは許容された矛盾という幸福である。それに対して、倫理的イデオロギーとその一部分としての美的イデオロギーは、矛盾の経験を理性的な善き生から消し去ろうとする。善のイデオロギーは善の内部のいかなる矛盾も許与しない。しかし、それは誤った倫理的真面目さであり、成功するすべての生の本質は、一定の方向でおのれが矛盾していることにあるのだ。

ここで問題にしている矛盾は言明どうしのあいだの論理学的矛盾ではない。また、言明と現実の間の事象内容に関する矛盾でもない。さらに、規則とそれを遵守すること・意図と行為・自己了解と振舞いとのあいだの実践的矛盾とも異なる。私はそうした矛盾を実存的矛盾と名付けたい。それは、個人が同時に支持し追求する両立不可能あるいは通約不可能な構想や利害関心のあいだの矛盾である。追求されたものの厳密な両立不可能は、こうした矛盾の否定的な事例である。個人の選択したオプションと目標とが相互に妨害し合っている─これはたしかにうまくゆく生の条件ではない。それに対して、追求されたもののたんなる通約不可能性は実存的な不和の肯定的な事例である。つまり、当該のオプションと目標とが対照をなすことによって相互に強め合う実存的可能性を開くのである─これはうまくゆく生の基本的な条件である。生の可能性の肯定的な通約不可能性の本質は、価値評価的な相互依存関係のうちにあり、その結果として、対立に巻き込まれているいずれの方向も他の方向によって統合されも置き換えられもしないことになる。それを「肯定的な不一致」の関係と言えるかもしれない。しかし、その不一致が実際に肯定的な関係である場合には、それは肯定的であるにもかかわらず個人によって矛盾した関係、すなわち生きるに値する矛盾として経験される。うまくいく生の本質は、熟慮された価値評価と利害関心とがすべて一致することうちにあるのではない。うまくゆく生は、分裂しているにもかかわらず両立可能な自足した現実存在の可能性を掴むことができるときに成し遂げられるのである。

美的自然は作家に不可欠な比喩を提供し、哲学者には人間の現実存在を記述するのに適したモデルを提供する。美的自然がこうした貢献をするのは、それが同時に比喩やモデル以上のもの、すなわち、善き生という際限のない現実の卓越した構成要素だからである。たしかに自由に経験された自然を欠いた善き生を考えることは少なくとも可能である。それにもかかわらず、自然における美的自由を無視する根拠はない。それは善き生の「豊か」な形式の代わりに「控え目」な形式を選択する適切な根拠がないのと同じであり、そうした根拠がないからである。というのも、美的意識だけでなく倫理的意識が自然美の肯定的な偶発性の直観を避ける─あるいは避けるに違いない─としたら、どちらの意識も貧しくなるだろうからである。自然の風景あるいは少なくとも都市の風景に対して感情を持つことがないならば、善の一定の現実性に対する感覚がわれわれから奪われることになるだろうし、その結果として善の普遍的な可能性に対する我々の感覚は鈍ってしまうことになるだろう。

 

5.道徳的問題としての自然

自然美の「倫理的」道徳から直接的に自然美の「道徳的」道徳が生じる。美しい自然がうまくゆく個人的な生の卓越した舞台であるというのが本当であるならば、美しい自然が可能である場としての自由な自然を保護することは、個人の生が展開する可能性は社会的かつ政治的に配慮することである。自由な自然が人間的な現実存在の幸福の相対的ではない条件であるならば、その条件を保持することは、人間が人格的存在であることの尊重の一部分である。私のこれまでの個人倫理的議論は、自然との美的なかかわりが善き生の無条件的な形式であり、その形式に即して─哲学的な考察にとって─うまくゆく生の普遍的な構造が説明されることを示そうとしてきた。こうした証明が定式的に表現しているのは、自然に対する一定の─美的な─振舞いに対する狭い意味で道徳的な根拠ではなく、もっぱら思慮に基づく根拠である。この証明が強調したのは、自然美に対する感覚はすべての人間の反省的な自己利益のうちに見出されるということであった。しかし、こうした議論から、万人にとって価値のある生の可能性の尊重に対する紛れもなく道徳的な根拠が生じる(実際に各人がどれほどその可能性に関心を示すかは関係ない)。したがって、自然美がこの価値評価的な意味における人間的生の普遍的形式であるならば、自由な自然の保護(そして可能な限りでの「展開」)は普遍主義的な道徳の一つの規範である。

このことは、自然とのかかわりの一般的倫理学にとって重要な意義を持つ。なぜなら、美的自然の倫理学だけが自然を、たんに人間の生存可能性としてではなく、人間の肯定的な生の可能性として記述できるからである。美しい自然はたんに善き生のための資源あるいは条件として善なのではなく、善き生の現実として善なのである。自然美学だけが自然との非道具的なかかわりの完全な意味を解明することができ、そうして、そうしたかかわりを許容する自然を保護する義務を根拠づけることができる。自然美を気に入る義務はないとしても、自然を気に入る可能性を保護する義務は存在する。しかしそのことは、ここに提起した美的自然の倫理学が自然倫理学を全体的に代表できるとか根拠づけできるということ、また自由なまたは美しい自然だけが人間にとって善き自然であるということを意味しない。自然への道徳的な配慮もまた関係への関係と関わっているのである。

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