岡本隆司「近代中国史」(4)
Ⅱ.アクター─社会の編成
1.政府権力
中国の財政は、今の日本と比べると、その特徴が際立って見える。例えば支出の面で、軍事費と社会福祉費の比率の大小は両者で極端に正反対である。しかし、中国の特徴的な財政支出は今に始まったことではなく、歴史的にずっとそうだった。
例えば1766年の清朝の記録を見ると、歳出の50%以上は明らかに軍事費であり、その他の費目は文官の俸給に充てられていた。要するに軍事力・官僚制を維持する目的の財政的支出だった。本質的には軍隊・官僚という純消費者の権力集団を養うため、つまり政府権力が自己保存するためだけに、財政が存在していたといえる。言い換えれば、一般の民間社会に税収が直接還元されず、財政支出がカバーしていた社会とは一握りの支配層でしかなかった。また、当時の中国は、そうした軍隊と官僚組織が構成する権力で、社会全体を治めていた。その社会が二億以上の人口を擁する巨大なものだったことを考え合わせると財政支出の総額は、ごく小規模な額に過ぎない。驚くべき「小さな政府」だった。
他方、支出のほほすべてが軍隊と官僚の人件費だったといえども、財政規模の小ささは全員に十分生活できる額が行き渡るには程遠いものだった。つまり、軍人も官僚も政府の俸給だけでは生計を立てられなかった。そこで、文武いずれにも起こる事態が、今日の我々から見れば不正汚職にほかならぬ慣習であった。これは、ゆきすぎたチープ・ガバメントの弊害だと言ってよい。
現代中国の歳入規模はおよそ90兆円、税収が9割を占める。GDPに大差ない日本では、税収は37兆円くらい。納税負担は中国が倍以上に大きい。その内容を比較するといっそう対蹠的である。現在の日本では、所得税・法人税・消費税の割合に大きな差はない。額で言えば、個人が負担する所得税が最大、企業が負担する法人税が最少である。それと比べれば、中国の所得税収入は微々たるもので、税収全体の1割にも満たない。歳入の多くを占めるのは、法人税と種々の間接税である。しかも、ごく一握りの大企業や富裕層が大口の納税者となっている。大企業150社足らずで税収全体の半分を占め、所得税でも、納税者全体の3%で納税額の35%を占めるという。間接税収入もかれらの企業活動・消費活動で上がる部分が圧倒的に大きい。富裕層とはその大企業に勤める人々がほとんどである。したがってこの場合、税負担はひとくくりに大企業であると言ってもあながち間違いではない。極言してしまえば、中国では大企業の納める税が、財政収入を成り立たせているのである。
税収にかかるこうした事情は、財政支出と同じで、今に始まったことではない。財政支出の場合と同じように清代の事情を見てみると、歳入の75%を土地税が占めているが、土地は地主が所有していた。地主は小作人に土地をリースしてえた小作料で利益を上げる一種の企業体であった。政府はここから税を徴収していた。要するに産業部門の大企業だけから税を徴収していた。現代中国は納税の相手として大企業・富裕層を、清代では地主や大商人のみを補足していた。人にせよ企業にせよ個別に把捉して徴税を行おうとしていた日本の姿勢とは、歴史的な異なっていた。
以上から分かるのは、中国の政府権力が収支の対象とした「社会」は、今も昔もきわめて狭小な範囲に限られている、ということである。18世紀の清の事例は極端ながら、財政が関わる「社会」が狭小だったればこそ、あのように切り詰めたチープ・ガバメントの様態を取ることも可能だった。したがって、そのチープ・ガバメントを、我々の感覚で額面通り受け取ってはならない。その埒外に、厖大な社会が横たわっているからである。そこに暮らす人々は、たしかに権力から直接公式の収奪を受けることはなかった。しかし権力の手が及ばないところで、経済的な収奪が行われていることは、想像に難くない。地主と小作農はもとより、資本家と労働者、大商人と零細商人・消費者、いずれの間でも、前者が後者を搾取していた。中国はこのように、権力が相手にする社会とそうでない社会とに分かれていたことになる。
清朝の時代には、しばしば減税が行われた。それは善政を意味する。ことばは美しいが、これは一握りの納税者階層を潤すばかりの結果だった。その善政は一般庶民には届かない。政府権力にとっては、その存立を依存する納税階層から見放されないようにすることが問題だった。そうしたしくみと思考法が、財政の縮小と歳出の欠乏をもたらし、いよいよ文武官僚の俸給は薄くなって、不正汚職を再生産する。それが清代に限らず歴代の王朝で繰り返されたことだった。
現代中国でも同様である。国有企業が財政出動・公共事業で肥え太り、民間企業はそれによって、圧迫吸収されて没落する。財政収支はもっぱら国有企業を相手とし、民間はそこから切り捨てられる。それは、清代と変わらない。
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