岡本隆司「近代中国史」(6)
3.民間社会
中国社会は、「士」と「庶」の階層に分れ、権力は民間から浮き上がっていた。にもかかわらず、王朝政権は数百年の安定を保ち、社会もばらばらに解体してしまうことはなかった。それは、この二者の間を、かろうじて接続する仕組みがあったからである。「士」と「庶」の社会的地位は、確かに隔たっている。けれども「士」に世襲はなく、庶民が科挙を通じて紳士となる以上、両者の関係が全く乖離し、分断されてしまうことはありえない。互いの貧富・貴賤がはっきり分かれてしまった後も、その距離が近接した時期や局面もあった。時代が下るとともに、分離分断を深めていったのは、「士」と「庶」よりもむしろ、「官」と「民」の関係だったと言うべきだろう。とくに14世紀末から19世紀まで明清時代に鮮明になる。
14世紀から三百年続いた明朝という政権は、中国史上異彩を放っている。その常軌を逸した強権ぶりは、その建設者である太祖朱元璋と息子の永楽帝という専制君主によるところが大きい。二人とも有力な官僚を迫害粛清し、万単位という夥しい人々を処刑した。その弾圧はとりわけ、経済先進地の江南の富裕層に加えられた。これは財源を確保する必要と同時に、反抗的な有力者に対する見せしめの企図もあった。政権に対する「士」のあからさまな抵抗は、こうした威嚇で消滅したかもしれない。しかし、その積極的な支持・忠誠心をも奪ってしまった。「士」の政府権力に対する態度は以後、愛想を尽かせた、ごく冷淡なものとなる。かくて「士」のうち、政権を構成する「官」になるのは、官界での出世・利権を主たる目的とする人、あるいは渡世を送るために、心ならずも任官する人々がほとんどであって、いずれにしても統治行政に無気力なことはかわりない。もっとも、そんな「士」ばかりではなかった。官僚になっても、あるポストで任期が終わると、次の地位に就くまでに時間があるので、その間は郷里で日を送る。引退すれば、なおさら故郷に引きこもるため、「士」と郷里とのつながりは、決して絶えることがなかった。あるいは途中で、官途に望みを絶った「士」もいる。彼らは郷里・住地に腰を落ち着け、いっそうその土地に愛着を持って、住民たちと苦楽を共にしようとした。こうした人々を「郷紳」という。
一定の土地に住みついた郷紳たちは、科挙に合格した学位や元官僚の肩書を有し、特権的な地位を認められていたので、自ずとそこの社会のリーダーになった。このような「士」が増加し、その下に「民」が結集して、地域社会が力を持ってきたのが、明代中国の特徴であり、その趨勢は清代にも継続する。郷紳は軍隊を背景に持つ官僚になるべく楯突かず、むしろ彼らに頼って、生命と財産の安全を保つのを得策とした。徴税・治安は彼らに任せ、それ以外は自分たちが掌握する。地元の事情に通じない官僚は、民衆を指導し把握する郷紳の機嫌をそこなわないようにつとめ、彼らに協力を求めて、徴税・治安の実効を上げた。郷紳の中には、私的に官僚のブレーンとなって、顧問にあずかり、実地の行政を補佐する者がおり、清代には一般化した。これを「幕友」といい、集合名詞的に言えば「幕僚」「幕府」となる。官僚と郷紳は、このように持ちつ持たれつの関係であった。そもそも郷紳は、官僚を輩出する「士」という同一母体から派生したものだったからである。その存在が、官僚制と民間社会をかろうじてつないでいた。
一方民間社会の組織は千差万別で、形態も名称も一定していなかった。しかしその条件と原理は、ほぼ共通しているから、ここでは中間団体と呼ぶことにする。西洋でいうところの具体的な行政は事実上、中間団体が担っていた。「郷党」「郷団」などいわれ、その「郷」とは、要するにローカルな狭い範囲で、つまり中間団体の自治的な行政機能は、地元・地縁の範囲にとどまり、その埒外に及ぶことはなかった。また、「宗族」という姓を同じくし祖先をおなじくし祭祀を共にする父系の欠運集団もある。この中にはいくつもの家族を含み、それだけでひとつの村落・聚落をなす規模があった。これらの中間団体のイメージできるローカルな社会とは、おおむね農村である。一方商工業を主要産業とする都市では、同郷同業の中間団体が根を張った。「幇」「行」「会」という。同郷だから地縁で結集するし、地縁は多くの場合、血縁と重なる。そして同郷はしばしば、同業と同義である。このように、血縁・地縁と生業を紐帯にしていた点、同郷同業団体も宗族とかけ離れたところではない。むしろ同質の集団と見た方が分かり易い。指導者が「士」であったところにも共通点がある。こうしてみると、都市でも農村でも、紳士が指導する中間団体に、庶民が結集していた、という同一の構造が浮かび上がってくる。官僚制はその上に乗っかり、郷紳・紳商を介して、農民・商人に統治を及ぼした。政府当局が普通に接触したのは、農村での郷紳と同様に、都市でも中間団体の上層に位置する紳商のみである。重大任務の徴税も、彼らだけを相手にして、その納税を通じて行っていた。それ以下、団体内部のことには、原則として関与しなかったのである。
明清時代の民間社会での中間団体の機能は看過できるものではなかった。実地の民政事業はほとんど中間団体が実行していた。逆に言えば、個々の庶民はそうした中間団体に属さなくては、生命・財産の保護を受ける当てがなく、秩序だった生活を送ることが不可能だった。もっとも、血縁・地縁・生業を基本的な紐帯とする以上、その範囲が一定の広がりを超えることはあり得ない。そのため中間団体の規模が、際限なく大きくなるはずはない。人口が増えたなら、それに応じて、各々の団体が拡張してゆくのではなく、団体の数が増えていくことになる。以前にも聚落形態のところであったように市鎮が明清時代を通じて夥しく増殖したのは、この結果なのであり、中間団体のリーダーたる郷紳は、多くこの市鎮に居住した。
人口の増加と並行して、沿海の交通も盛んになり、人々は商業に従事するため、あるいは労働力として海外へ移住する。いわゆる華僑とチャイナ・タウンの普及であって、その中核には必ず同郷同業団体が存在した。今でも世界各地の中華街には会館があるのはその名残である。海外ばかりではなく、中国内の移住も著しくなった。開港以後の上海は、その典型と言える。そこに中間団体も増える。
既成の社会・通常の秩序というのは、上で見てきたように、民衆が縁故を通じて、中間団体に結集すること、その指導者として、郷紳・紳商を戴くことにほかならない。いかに既成・通常とちがうといっても、その行動様式が特別にかけ離れていたわけではなかった。既成社会の秩序から逸脱した人々も、中間団体を設けて、そこに結集したのは同じである。異なるのは、指導者と、結束の紐帯だった。郷紳にせよ紳商にせよ、科挙合格者の「士」であることにかわりはない。その科挙は政府権力が実施する登用試験であり、その内容は体制教学の儒教である。それを身につけた「士」なればこそ、同質の「官」・政府権力と接合できて、中間団体・民間団体との統合が保たれた。ここでも中間団体が儒教を信奉せず、その指導者が「士」ではない場合、「官」・政府イデオロギー・価値観・風習が共有できず、良好な関係を保てない。つまり、既成秩序から逸脱し、政府権力に背こうとすれば、「士」に非ざる者を中間団体の指導者として戴き、体制教学の儒教とは異なるイデオロギーを奉ずればよいことになる。これが政府の言う「淫祀邪教」にほかならない。我々はこうした団体を秘密結社と称することが多い。秘密というのは、反政府的な色彩を帯び、地下組織となるため、その実態が知りがたいからである。団体の結束を維持するためには、経済的な裏付けがなくてはならない。通常の中間団体なら、政府権力も認める合法的な生業・産業が、それを担当する。秘密結社はそれに対し、当局がその存在自体を認容しないのだから、自ずと禁制品の取引や生産に従事せざるを得ない。この種の取引で有名なのは、専売品の塩を密売した私塩商人である。19世紀に入るとアヘンの密売集団が有力な秘密結社となる。
禁制品の売買が発覚すれば、もちろん官憲の弾圧にあう。それに対抗するため、秘密結社は団結を強め、大掛かりな武装をすることも少なくない。こうして反政府的な軍事力が形成され、それが局地的な騒擾を起こす。それに対抗して一般の中間団体も、自衛のため武装した。この両者は、容易に一方が他方に転化しえた。明末清初の17世紀、清末の19世紀で全国的に治安が悪化したのは、ここに根本的な原因が存する。局地的な騒擾が重なり、組み合わさったりすると、全国的な変乱に発展することもあった。太平天国や義和団などは秘密結社が中核となり、周囲の結社・団体をとりこんで大きくなったものである。
明清時代の民間社会はこのように、「官」「民」の乖離からできあがった中間団体の集積・複合で成り立っていた。の構造を抜きにして、中国の経済を語ることはできない。
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