岡本隆司「近代中国史」(3)
2.人口動態と聚落形態
おおよそのところ、中国の長期的な人口変動は、中国の伝統的な史観ていう王朝交代・「一治一乱」の現象に重なり合う。騒乱の中から、社会を安定させる力量を持つ勢力・政権・王朝が勝ち抜いて、中国を支配し、長期の平和を実現する。そこで人口が増加する。野外内外の矛盾が蓄積されて、王朝末期には騒乱が起こり、死亡率が急激に上昇、王朝政権が滅んでいく。つまり、王朝の消長のサイクルにシンクロするように人口の増減が起こっている。
しかし、そのサイクルを経るたびに、人口の規模が更新、拡大している。そこには社会経済的な要素が背景となっている。そのように見ると、中国の歴史は五つの時期に大別できる。
その第一は漢代から2世紀までで、華北が大きく経済成長をとげ、華北の生産が人口の大半を養っていた時代だ。これが3世紀の気象の寒冷化により、不作が続き既成の方式で従前の人口を養えなくなる。そこで、求められたのが江南の開発だった。この間10世紀に至るまで中国は分裂時代が続く。その後の統一政権は隋唐で、人口規模は漢代なみとなった。しかし、その内容は異なり、その人口を華北と江南が共に養うようになった。以後の中国経済は江南の比重が相対的に高まっていく。
第三期は唐から宋への王朝交代の時期に大きな社会変革が起こった。江南デルタで水田稲作が普及し、生産が爆発的に伸びる、多くの人口を養えるようになっていく。これが様々な社会変化を引き起こす。例えば軍隊。それまでの王朝政府は徴兵制のように、直接に兵役を課し、人民を徴発し軍事力を組織していた。ところが唐の後半期に寡兵性に改められた。職業的な傭兵を財力で養わなくてはならない、という意味である。技術革新も多くこの時期に起こっている。これに伴い商業が内外にまたがって勃興、発達した。貨幣経済の浸透が起こり、紙幣の流通が始まる。等である。この時期を商業革命と称することも可能だが、この動きは14世紀の危機を迎え、頓挫してしまう。
第四期には、再び気候が寒冷化し、疫病が蔓延する中で、元末明発の大混乱が起こり、経済はどん底に落ち込んだ。そこからの明清時代、経済の回復が海外の需要と相俟った江南の産業構造転換が進んだ。この海外の需要とは主として「倭寇」という名の海外貿易そして大航海時代のヨーロッパとの貿易にほかならない。その結果起こったのが18世紀の爆発的な人口増加で、当時の経済で収容しきれなくなっていく。
ではこうして増減した人口は、どのように暮らしていたのか。第一期から第二期にかけての10世紀までは城郭都市と村落の二本立てであった。それが第三期の唐宋変革の時期に、新たな聚落が出現する。従前は行政都市の一区画に押し込められていた商業区域が城郭の中から溢れ出したり、村落でも定期市を開くため、城郭都市と関係の薄い、独立の聚楽落が発達するようになった。こうした商業聚落は、それまで存在しなかった無城郭の都市にほかならない。これを「市」とか「鎮」と称する。この三本立ての形態は第四期になると、形態は変わらないが、量的な大変化が生じた。市や鎮が夥しく増殖したのである。この時期は人口の爆発的な増加が起こっていた時であり、増加した人口は増加した市や鎮に吸収されていく。この市や鎮は城郭を持たない、つまりは行政機能を持たない都市でもあった。これらの都市には行政機能がなかったため、権力のコントロールが行き届かない。これは、同時代の日本にもヨーロッパにも見られない、中国に特徴的なものだ。
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