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2014年6月 1日 (日)

マルティン・ゼール「自然美学」(45)

4.倫理的経験としての美的自然

我々はここで自然の道徳とは何であるのかという問いに答えることができる。「総括的」自然の美的経験は、善き生の形式に出会うことであり、強い意味での倫理的経験である。個別的で相互主観的な生き方に対してうまく関与でき・隔たりをとることができ・展望を持つことができること、それが善き生の形式である。これらの可能性が与えられている状況は、充実した時間という状況である。こうした状況の範囲内で営まれる個人的な生が善き生である。こうした状況が手の届くほど、あるいは期待できるほど近くにあることが現実であるような世界が存在するならば、それは自由で人間味のある世界であろう。こうしたすべての地平─状況・生・世界─の上で、うまくゆく生の現実は全体なき統一という構造を現わす。

a.関与・展望・隔たり

善き生が一般に美的な生である必要はない。たしかに美的意識を欠いた生は考えられるよりもかなり貧しいであろう。しかし美的観点は、先に述べられた善き生の構造を解体することなく、そうした善き生の構造が排除されうる。善き生の豊かな概念があらゆる美的次元を包含すればするほど、善き生の控え目な概念は美的規定なしでも済ませられるであろう。というのも、いざというときにコミューン的生のために必要な「隔たり」を手に入れてくれるのは理論的観照だけであり、またいざというときにコミューン的生のために必要な「展望」を手に入れてくれるのは単なる想像力だけだからである。しかし、こうした成果は、倫理的な善の美的に動機付けられた証明という我々の意図にとって災難に他ならない。なぜならこの第六章のテーゼは、美的な生だけが(あるいは差異化された美的意識を含む生だけが)善き生でありうるということではなく、自然の包括的な美的現象から出発して善の相対的でない概念が獲得され解明されるということだからである。この相対的でない善の概念は、先に述べた通り、「控え目」な了解よりは「豊か」な了解を目指している。自然美は、善き生の具体的可能性が(照応的に)開示される状況として、生の認識的ならびに規範的必要から直観に満たされた隔たりを取った(観照的)現実存在の状況として規定された。すなわち、自然美はこうした可能性が相互に条件づけ合っている状況として規定されたのである。繰り返しておこう。自然は生活世界における現実、すなわち、生のたんに主観的ではない企投ならびに事物のたんに主観的ではない見方を、同時に直観的に強化し・提示し・一時停止させる現実である。

自然美のこうした規定に基づいて、より普遍的─倫理的─な規定を強調することがこの第六章の目的であった。私は、照応直観とはコミューン的実践への内在的関与の形式であり、想像的直観とは現在の生の形式を展望する形式であり、観照直観とは世界内在的意味への執着から感覚的または概念的に隔たりを取る形式であると解釈した。これらの基本的態度と結びついたいずれの活動も、遂行志向的な活動の本来的な可能性であることが明らかになった。そこから善き生の普遍的構造が規定されてくる。すなわち、善き生は、相互主観的な生の具体的形式への関与・展望、そしてそれから隔たりを取ることに個人が同時に成功する可能性を持つ、そうした状況によって特徴づけられている。人間の現実存在の成功は、相互主体的で具体的な生の形式に関与し、それから隔たりを取り、それを展望することが同時に可能であるような、そうした現実の中で生じる。

上で強調された二つの命題には、善き生の普遍的な形式とその形式の自然美学的な充実とのあいだの構造的類似性ならびに構造的差異が書きとめられている。どちらの状況─自然美の状況と善き生一般の状況─にも、日常的な現実性に対する様々な基本的態度への同時的で可変的な通路が共通に見られる。どちらの状況も、第四章第一節cで言われた、何か「から」の多様な自由─それは同時に何かに「対する」自由である─の状態であるという点で共通である。しかし、両者が異なっているのは、自由な生の遂行という同時存在するこれらの可能性がそれぞれ現実であるそのあり方である。そのあり方は、自然美の場合、直観する働きへの限定を度外視すれば、生活世界に対する三つの原理的態度が厳密にバランスを保った同時存在である。しかし、関与・展望・隔たりが「同時」に可能であることは、必ずしも、その三つがつねに同時にかつバランスを保って実現されなければならないだろうということを意味しない。関与・展望・隔たりがバランスよく実現するのは、むしろ美的な特殊事情であり、それが「倫理的なものの内部で」知覚される場合であっても、特殊事例であり続ける。右に解明された通常の事例はコミューン的生の事例であり、何らかの仕方でそれが超え出てゆかれることに対して開かれている。それゆえ、自然美の時間構造が提供してくれるのは、善き生の遂行構造についての通常概念ではなく、あくまでもそれの極端な概念である。しかしその極端な事例の分析は、善の通常性も調和的かつ統一的な構造を持っていると思われがちであるが、それほど完全にそうではないことに目を開かせてくれるのである。

自由な自然は、それが確実に与えられているならば、美的に充実した直観とそうでない直観に直面する。自由な自然は、それが確実に与えられているならば、美的に充実した直観とそうでない直観との両義的関係にあるが、それと同様に人間の生の自由も、それが確実に獲得されているならば、充実した時間とそうでない時間との両義的関係にある。うまくゆく生はその成功の両義性のうちに存する。それ以外のあり方はあり得ない。なぜなら、相対的でない方向づけの獲得は常に相対的な─個人的にせよ集合的にせよ、いずれも個別的な─方向づけの獲得と一致するか否かは前もって確定していない。うまくゆく生はそれ以外の仕方では存在し得ない。なぜなら、個人的な生の構想の実現化はいずれも、それが何らかの仕方でうまくゆくならば、もともとの構想の挫折の─あるいはその構想そのものの─契機を含んでいるからである。うまくゆく生においては、つねに追求されたあるいは期待された幸福以上のもの、あるいはそれ以外のものが満たされるのである。うまくゆく生はそれ以外の仕方では存在し得ない。倫理学が語る幸福と成功は、自分の生から何が生じるかを知り得ず、意識的にかつ死ぬべく、そして歴史的に生きている存在者の幸福と成功だからである。人間の幸福あるいは成功は失われることもありうるものである。そうしたものだけを我々は幸福ないしは成功と呼ぶ。至福、すなわち壊れることも失われることもない幸福は人間の幸福ではない。人間の生とはまさにそれの脆さが意識されている生である。したがって、うまくいって成功している人間の生はこの脆さを承認することによってしか遂行できない。この脆さは実存の外的事情にかかわるだけでなく、倫理的に見て理性的生き方そのものの内的構造にもかかわる。関与・隔たり・展望の立場を優遇することは、たんに善の両義性に順応する最良の方法であるだけではない。むしろ、こうした両義性のうちで善の可能性の条件を承認する方法なのである。

美的自然の両義性はそうしたことの事例なのであった。したがって、美的自然の経験は美的実践の修正手段であるだけでなく、人間の実践の修正手段でもある。自然に関する日常的な美的意識は、両義性の除去と偶発性の克服という「本性的」であるが誤ってもいる理想に対する修正手段であり、成功と幸福とは肯定的に克服された偶然性の状態であって、除去された偶然性の状態なのではないということを想起させるものである。自然美は─「倫理的なもの」の内部で経験されて─倫理的全体性のパラダイム的な経験である。言い換えれば、幸福という人間的状況の統一の経験であるだけでなく、同時にうまくいく生と自由な人間世界の構造との統一の経験である。

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