岡本隆司「近代中国史」(2)
Ⅰ.ステージ─環境と経済
1.自然環境と開発の歴史
中国は巨大な大陸国家である。島国たる日本と同じではない。当たり前のことである。しかし経済を考える時、我々は案外、この当たり前の事を忘れがちではなかろうか。
その巨大な範囲内の地勢はいわば西高東低、だから河川はおおむね東流し、北の黄河と南の長江がそれを代表する。こんな巨大な川は、日本にもヨーロッパにも存在しない。この二大河川によってできた広大な平原こそ中国経済の主要舞台なのであり、逆に言えば、中国経済の展開は、あくまでもこの舞台が前提をなす。これだけでも、中国の経済を日本・西洋と同一の尺度で考えることはできない。同じ東方向に流れるから、同一河川の上流と下流は、同じ緯度帯、類似した気候に含まれる。河川が違えば、それも同じではなくなり、生態系も著しく異なる。北の黄河流域と、南の長江流域とでは、経済の環境・条件、そして動向がまるで違っていて、その中間を流れる淮水が、ほぼその境界をなす。
古代の歴代の王朝政府は黄河流域に興り、黄河の浚渫、堤防の構築、決壊の補修を繰り返し、莫大な労力と費用をつぎこんだけれど、人力では十分な対策は不可能だった。そもそも河北の平原が、黄河の度重なる氾濫の末にできた沖積平野なのであって、すこぶる厳しい自然だと言えよう。そんな黄河か運ぶ土砂が有名な黄土である。その成分は必ずしも肥沃ではなかった。黄土層の形成する大地は、人が居住し始めた時期には、鬱蒼とした森林に覆われていたとともに、より広大な草原もあった。この森林を切り開き、草原で家畜を飼育することで双方を施肥しつつ農地にしていった。肥沃な黄土とは、人為的に肥沃化されたものだったのである。そうした農地化が、森林の濫伐と草木の消尽をもたらし、黄河の氾濫を一層重大にした。黄河文明の昔から、連綿と続いたその歴史の結果が、現在の森林を蕩尽した景観である。
このように黄河本流をコントロールできない以上、人々が農耕を営んだ生活空間は、必然的に黄河に注ぎ込む支流の流域となる。そこで主要な支流とその分水嶺に沿った形で、経済的なまとまりが出来上がった。そうした土地で家畜を養いながら、黍・粟・麦・豆などを栽培収穫する、というのが、今も続く河北農民の暮らしである。もとより降水の少ない気候条件は、容易なものではない。酷寒の大地に降った雪を集め、春の発芽期に少しでも水分の足しにするなど、その忍耐強い労働は、こうした厳しい環境に由来する。そこで必要になるのが灌漑だった。典型的なのは関中盆地である。中心は長安という都市で、漢・唐という中国史上屈指の統一王朝がいずれも国都にした。そのため国都が抱える官僚・軍隊など厖大な人口を養わなくてはならない。御膝下の農地開発をゆるがせにできなかったのである。そのため権力の側も大規模な灌漑事業を可能にする労働力をすぐに編成できる体制を整えておかなければならなかった。このような事情から、漢から唐までの支配は人民から直接に労働力を徴発する制度を根幹としていた。しかし、いかに灌漑を施し、農地を広げようとも、またどれほど技術が向上し、生産が増えても、一度天候不順になれば、凶作は免れない。いな、生産性が高まって平時に多くの人口が養える分、有事に際してのダメージは、それだけいっそう大きくなってしまう。局地的に食糧困難になれば、流民が発生する。凶作地に大量の穀物を取り寄せるのは難しいからであり、むしろ人の方が、食を求めて移動した。庶民に限らない。王朝政府そのものが、周囲の食糧事情が悪化したために、移動することもしばしばだった。長安を抱える関中盆地は、もはや開発増産の限界に近づいていた。食糧を入手するために人が動くのではなく、穀物を取り寄せる。それを常時、円滑に実行するには、穀倉地帯の開発、交通・運輸の改善など、新たな条件が揃わなくてはならない。それが揃ったとき、中国の経済は次の段階に入る。端的にいえば、南方の開発進展と比重増大であり、黄河流域が経済の中心だった世界は、唐代にはもはや過去のものとなっていた。
これに対し、長江は黄河ほど氾濫したり、流域を変えたりしない。それは黄河と違って、流域の地形が複雑で、中渦流域に多くの湖沼が存在するからである。それらが天然ダムのように長江の水位を調節する機能をはたしてきた。そのために水位が安定し、本流と支流を組み合わせた交通路として水運を利用できるのも長江水系の特徴である。黄河流域が乾燥気候であるのに対して、こちらはモンスーン気候に属し高温多湿である。植生・生態系も、華北より日本に近い。こうした長江流域を江南と呼ぶ。江南の農耕は水稲栽培であった。中国の古代文明は黄河文明ばかりではない。しかし、この江南文明は黄河流域に政治力で圧倒され、従属の歴史を歩んできた。中華とは黄河流域の事であって、江南はその中華から見た一地方の名称に過ぎない。秦漢の統一に至る中国古代史は、そういう固定観念が出来上がるプロセスでもあった。
それは黄河流域の開発と経済の伸長が先んじ、長江流域のそれが遅れたことを意味する。しかし、黄河流域の開発は10世紀までに限界に近づき、以後の相対的に地位を後退させて、その間に開発が進んだ江南は、やがて経済力で華北を凌駕し、中国経済史の主役に躍り出る。
江南の中心は一貫して南京周辺、つまり三国時代の呉と六朝政権の首都がおかれた地であった。この時期では江南デルタと呼ばれる海に近い長江河口の低湿地の開発はあまり進まず、塩水の浸入を防いで湿地を水田にする技術が確立する10世紀以降本格化する。塩水の浸入を防ぐために護岸堤を築き、水路を開削し、クリークを縦横にめぐらせ、湿地の水と土を分離し稲作地を増やして行ったのである。江南の開発は拡大し、中流域や支流に開発の手が及んでいった。
隋の時代に大運河が開削され、江南の生産は華北の消費と結びついた。宋代の江南デルタは「蘇湖熟すれば天下足る」と言われ、中華の食糧供給を一手に担っていた。そこに商業が勃興する契機も潜んでいた。
華北と江南がメインストリームとすれば、その他の諸地方でも次第に商業が営まれるようになり、それが外界との接触と交渉も活発化し、外界との橋渡しをする外郭的な地方が勃興する。例えばシルクロードの出入り口にあたる甘粛回廊。それがなければ、例えば洛陽盆地に都が置かれた背景が分からなくなる。これは、西北部の遊牧民族との関係の重要性からと言える。中国、いや東洋史全体の中でも、遊牧世界と農耕世界の共生・相克が大きな部分を占める。遊牧社会は必要な牧草地と物質を求め、季節の変化に応じて移動を繰り返すから、隣接する農耕社会の華北にも、その影響が季節ごとに訪れる。平和時には貿易取引、さもなくば略奪・戦争という形で、遊牧民との関係を取り結んできた。北京が歴代王朝の首都となったのも、遊牧世界と隣接する、地政学的にも要衝の位置を占めていたからと言える。
これに対し、江南は長江の水系を利用した水運のやりとりが活発化する。また、長江流域から外れた地域は海に面し、海運が発達するとともに海洋を通じて諸外国との関係を深めた。つまり海上貿易が水運によって江南全体に波及していった。日本もそうした貿易相手のひとつであった。
このように考えると華北は江南よりも北の国境と、江南は華北よりも南の国境との結びつきが一層強い筈であり、華北と江南が一体であるべき中国というのはステロタイプで誤解を招きやすい先入観、さもなくば一種のイデオロギーということになる。中国の政治的・経済的に対内的統合の欲求・機運はつねにありながら、それがときに成就し、ときに挫折したのは、対外的な関係と相互作用がそれを促し、あるいは妨げる駆動力となって来たからである。それが中国史を通じた動向であり、20世紀に入っても、また目前の中国においても、やはり真理である。
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