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2014年7月

2014年7月31日 (木)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(8)

第3章 記号と意味─「現象」の内実

すべてをもはやそれ以上遡り得ない最終的地盤へと送り返す超越論的還元に続いてフッサールが要請するのは、ここで獲得された「現象」の内にすでに与えられているはずの、個々の現象の「何であるか」すなわちその本質を明示的に取り出し・確定する役割を担う形相的還元である。この与えられた「現象」がそもそも「何」であるかが確定されてはじめて、そのような現象がいかにして構成されたのかを明らかにする「構成分析」が緒に就くわけである。換言すれば、超越論的還元と形相的還元という二段階の還元を経てはじめて、現象学はようやく<世界の構成分析>というみずからの本来の仕事に取り掛かることができるのである。

弧の構成分析には、実際の分析の進展につれ、種々の層と次元が含まれていることが次第に明らかになってくる。まずは形相的官憲を経て確定され・明示された「本質」としての現象が、ほかの諸々の本質とどのような関係の下にあるのかの体系的・類型学的分析が行われる。このレヴェルでの「本質」は、それぞれ具体的な「内容=実質」を伴ったものであり、例えば物理的自然、動物的自然、精神といった領域を形成している。こうした各領域の構成を問うのが「実質的(質料的)存在論」であり、実質をともなって現象している本質の対照的側面の構造を問う「ノエマ的分析」と、その本質を構成するはたらき=作用の側面に照準を合わせる「ノエシス的分析」との相関の中で構成分析が進行する。こうした実質的存在論に対して、それぞれの本質が含む実質を捨象して対象一般とか事態一般などといったあるもの一般の構成を問うのが「形式的存在論」である。こちらもまた、ノエマ的分析とノエシス的分析が手を携えて進むことになる。しかし、これらの分析が、すでに本質として与えられた対象がそのようなものとして構成された(出来上がった)相のもとで、その構成成分を析出するという仕方でなされる「静観的現象学」であるのに対して、彼の関心はさらに、そのような本質としての対象がそのようなものとして構成されてくるいわば現場に降り立つことへと向かうようになる。それは、現象することの基本的性格をなす絶えざる時間的流動の中で、そのような本質としての対象がどのように構成されてくるのかを問う発生的な分析、ないしは発生的現象学という構成のもとで追究されるようになる。こうして、構成分析は何段階にもわたってその分析を深めていくことになる。

2014年7月30日 (水)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(7)

4.超越論的現象学は独我論か─「超越論的なもの」をめぐって

「超越論的」という概念について触れておく。近代哲学ではカントの批判哲学に固有の態度・スタンスを表現する概念として表れてきている。批判哲学とは、哲学の本体をなす形而上学に先行して、私たちの理性には何ができて何ができないのか、すなわちその権能を吟味検討する学の事である。それは何らかの対象についての認識を追求するものではなく、そもそも対象についての認識しいかにして可能になるのかを解明するもの、つまりは<認識の仕方>についての学なのである。この学は、経験の可能性の条件の解明である以上、経験に先立つ(ア・プリオリな)学となる。これをカントは、経験を「超越」したものに関わるわけではないが、別の意味で経験に「先行」する学と捉え、それに「超越論的」の名を与えたのである。フッサールはカントのこうした用法を踏まえた上でこれに現象学固有の意味を重ね合わせる。現象学固有の意味とは、あらゆる「超越者」が、そこにおいてほかならぬ「超越者」として構成される最終的な基盤という意味であり、だからこそそれは「超越論的」と呼ばれて然るべきなのである。ここで「超越者」とは、対象が主観的な与えられ方を超えて、それ自体で存在するそのあり方に着目して、いわゆる「客観」を指し示すものとして使われる。つまり、「超越論的」とは、そこにおいて超越者が超越者として構成される次元の名前なのである。すなわちフッサールにおいては、還元を経て獲得された「純粋な現象」の次元こそ「超越論的なもの」の次元なのである。現象学がこの次元を自らの立脚点としている以上、現象学は必然的に超越論的現象学なのである。

還元によって開示された領野に「絶対性(絶対的主観性)」が付与されるのは、それがもはやそれ以上に遡ることの出来ない最終的な基盤、そこからすべてが汲み取られる究極の「源泉」だからである。超越論的領野こそが、この意味で「絶対者」なのである。「絶対者」における「現象」の「純粋体験」、ここからすべてが始まるのだが、この地点とは、言葉の厳密な意味での<いま・ここで・現に>以外ではありえまい。現象が端的な直接性において与えられているのは、そこでしかありえないからである。それは、特定の時間、特定の場所、特定の人物ではない。

厳密な意味での<いま・ここで・現に>がたまたまそうした特定の時間・場所・人物と重なることはあっても、それはあくまで「たまたま」そうなのであって、その特定の時間・場所・人物が<いま・ここで・現に>であるわけではないのである。それを特定の時間・場所・人物で規定することは出来ず、逆にそれの方が特定の時間や場所や人物を規定しているのである。一面から見れば、こんなにもあやふやで、たちどころにそうでなくなるもののが、他面から見れば、すべてがそこから始まる「絶対的なもの」だというのである。それこそが、すべてを規定しているものだからである。それは、あらゆるものに時間的・空間的・人物的…規定を与えるものとして、それ自身はまったく無規定的なものなのだが、それがそのようなものとして姿を現わす(現象する)のは、いつもこうしたたまたまの規定の下でのみであるとしても、それだけがすべての最終的な基盤なのである。この「たまたま性」を括弧に入れて宙づりにし、私たちの視線を、<「たまたま」そのように規定されているもの>から<そのような規定を与えている当のもの>の方へ送り返す操作、それが超越論的─現象学的還元であると言ってもよい。ところが、現象学が注目しようとしているそれは、それ自身は無規定的なものであるために、何々として指し示すことができない。「として」とは、規定によってのみ可能な事態だからである。いくら厳密に<いま・ここで・現に>と言ったところで、それを特定のものに規定せざるを得ないのである。現象学的還元は、この規定の力を宙に浮かせることで、規定されたものから別のものへと私たちの視線の先にいったい何が見えているのであろうか。

フッサール自身、自らの超越論的現象学が一見独断論的に見えること、だがそれは通常の意味でのそれではなく超越論的な意味での独我論であることを認めている。ここで「それしか存在しない」と主張されてのが、すべてに規定を与えている<絶対者における現象の純粋体験><いま・ここで・現に>である。ところが、彼はそれをはっきり自我と名指している。だからこそ、それは超越論的独我論なのである。しかし、ここで「それはしか存在しない」と言われるものに与えられた自我という規定は、いったい何を意味しているのだろうか。いま問題になっている事柄の性質からして、それは何も規定していないのである。何かを規定しているとすれば、それはたちまち「自然的見方に根差す普通のバカげた意味での独我論」でしかなくなってしまうのである。

しかし、彼がいう超越論的な意味での独我論とは、必ずしも「我」という規定が相応しい事態の事ではなかった。それはあらゆる既定のもとに居合わせて、何やらのものの端的な現象を可能にしている<いま・ここで・現に>のことであった。そのような<いま・ここで・現に>のみが、すべての最終的な基盤なのであった。語源的にも、「独我論」と訳される言葉は、正確には<それのみ>ということを言っているのである。ここで現象学が自らの基盤にして出発点と見定めた地点は、この言葉の本来の意味でのそれだ。すなわち<いま・ここで・現に>という「現象」の直接性のみが存在するということ、簡略化していえば<いま・ここで・現に>の独在論なのである。

現象学が依拠する「純粋な現象すること」の次元は、もはや客観的なものではないがゆえに、通常は客観性に依拠している「学」の理念と抵触するものをその中核に含んでいる。それは端的には、現象学は独我論に見える、というかたちで現れる。現象学が依拠する「現象」の「純粋な体験」の<いま・ここで・現に>は、ひとたびそれが語られたときには、それによって規定されたものとしてしか現象しないからである。<ある人物が、たまたま自分がいま・そこで立ち会った現象の出現を、すべての最終的な基盤と主張している>としか聞こえないのである。そうとしか聞こえないにもかかわらず、それは現象学が依拠している<いま・ここで・現に>ではない。あるかなきかの区別こそが、現象学が言う意味での超越論性のすべてをなしている。この区別を何らかの仕方で維持することにこそ超越論的現象学のすべてが繋がっている、と言っても過言ではないのである。いま、「何らかの仕方で」と言ったが、それが「どのような仕方で」なのかが決定的な事柄である。超越論的現象学のその後は、一に懸かってこの「どのような仕方で」なのかをめぐる問題なのである。今やこう言ってもよいであろう。「現象すること」そのことは「学」の基盤であるが、「学」そのものではない。この意味で現象学は、「学」と「学」以前のそれを支えるものとの狭間に身を持している「思考」である。したがって、この「思考」を語る言葉はつねに両義的である。それが「主観的─客観的」という概念対のなかで理解されるか、それともそのいずれにも先立つ次元において理解されるかで、見えてくる世界はまったく異なるからである。

2014年7月29日 (火)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(6)

3.「私には~と思われる」─「真理」とは何か

現象学的─超越論的還元の全体像を明らかにしたい。私たちが自然な日常の生活の中で行っている超越定立(客観を超越者として、すなわち私たちとは独立にそれ自体で存在するものとして定立する=妥当させる)のすべてを「停止し」、「スウィッチを切り」、「括弧に入れる」ことによって、「純粋意識」が「残る」(「現象学的残余」)のである。かくして還元とは、自然的な意識(通常私たちはそれを「心」と呼んでいるはずである)から「純粋意識」へ向けての還元であり、その内実をなしているのは、当の自然的意識が行っている超越定立(存在妥当と真理妥当)の停止(ないしは中立化)という操作なのである。これをより厳密に言い表すならば、超越論的還元とは、すべてをそが現われるがままのもっとも原初的な姿と(現われを超えたものとの一切の係わりを宙吊りにしたまま)送り返すことであり、その定式は「私には~と思わる」に他ならない。この定式は、かのデカルトが『省察』の中で最終的に到達したものであり(「私には見えると思われ、聞こえると思われ、暖かいと思われるということ、少なくともそのことだけは確かである」)、ついでカントが私たちの経験の最終的な形式にして条件として呈示した「超越論的統覚」(「<私は考える>は私のあらゆる表象にともないうるのでなければならない」)とその中核部分(私は考える=私奈は~と思われる)を共有するものである。だが、この簡潔で単純な定式のそれぞれの哲学者における表現がいかなる事態を指し示しているのかは、それぞれ哲学の根本に関わる大問題なのであり、いまもって議論の絶えないことがらであることを忘れてはならない哲学の真骨頂は「問い=問題」の提起に尽きると述べたゆえんである。事情はフッサールにおいても同じである。彼の場合、この「私には~と思われる」こそ「純粋意識」と呼ばれたものであり、それは何ものかが「現象すること」そのことにほかならない。現象学とは、この意味での「現象」へとすべてを送り返し(還元し)、その地点をもはやこれ以上遡り得ない最終的な基盤と見定めて、すべてをそこから考察しなおそうとする思考のことなのである。

しかし、この単純な「私が~と思われる」は、各人一人一人の「心(意識)」が捉えたということではない。それは中立性変様

を受け、「私」は、世界の中に存在する一人物と言う通常の存在定立が停止されており、「~と思われる」という世界内の何らかの人物が行う想定や思考という様相定立が停止されているのである。つまり、「純粋現象」とは、正確には、そこで現象している「何か」が「私」と呼ばれる「誰か」に対して、「私には~と思われる」という仕方で「現象していること」そのこと全体を、それ以外にはもはやどこにも求められることの出来ない私たちの最終的な基盤として指し示しているのである。言い換えれば、この「私には~と思われる」の中に現われる「私」や「~と思われる」がその意味を保持したまま、当の意味が指し示しているはずのものの定立が一切停止されている。「私」という言葉が指し示しているはずの「誰か」や、「~と思われる」が指示しているはずの特定の思考作用(誰かの頭ないし心の中での作用)との結びつきを保留したまま、それらの言葉は純粋に意味としてのみ機能しているのである。したがって、超越論的還元とはすべてをその意味へと送り返す操作だ、と言ってもよいのである。意味とは、フッサールにとって「純粋現象」の別の名なのである。

いまや取り出された純粋な意味(「純粋現象」)は世界の内に存在する誰かの「心」の中に生じたものではない。話は逆なのであって、「誰か」や「心」がその指示対象と結びつき、存在妥当と真理妥当を発効させることがあるとすれば、それはこの純粋な「意味」から出発してのみなのである。かりにそうした指示対象が「在る」とすれば、それはこの純粋な「意味」から出発してのみなのである。かりにそうした指示対象が「在る」とすれば、それはこの純粋現象を通して指示されるほかないからである。言うまでもないことだが、「在る」もまた一個の「意味」以外の何ものでもないのである。「私には~と思われる」は、それが世界内の特定の人物としての「誰か」や、その人がもつとされる「心」や、場合によってはその人物のもつ大脳の特定の部位の神経興奮を指示し得るためにも、原理上そうした指示とは独立なのである。これが、<「私には~と思われる」は私の意識のことではない>ということなのである。すなわちそれは、心理学主義の主張ではないのである。だが、だからといってそれは論理学主義ではない。論理学主義とは、たとえば「一足す一は二」といった理念的事態が、それが現象することとは独立に成立するという立場であった。「一足す一は二」は人類誕生以前から「真」であったし、太陽系の消失以後も真として「存在」し続けるはずである。したがってそれは「現象すること」とは基本的に無関係なのだ。そう考えるのが論理学主義である。しかし超越論的現象学は、そうは考えない。どんな理念も論理も普遍的なものも、それらがそのようなものとして存立するためには、必ずやそれらは「現象」しなければならないのである。論理学主義がそのようなものの存立を主張するとき、現にそれらはすでにそのようなものとして「現象」してしまっているのである。かくして、心理学主義と論理学主義のどちらの主張に対しても、「現象すること」の方が先行していることが明らかになったのである。

およそいかなる真理であれそれが真理であることが成り立つにあたって、すでにそれに先行してしまっているのが「現象すること」の次元であった。何かが現象してはじめて、それが真であったり偽であったりすることができる道理だからである。この「現象すること」の次元のもつ「普遍性」は、もはや(伝統的真理観の言うように)「知性と物自体との一致」でもなければ、デカルトが考えたような「絶対に疑いえないもの」でもない。「私には~思われる」は、なるほど「~と思われ」た当のものの存在=真理定立からは独立であるから、ひとたびそのように思われたのであればその「疑いなさ」は当の「思われ」の内部では絶対的である。しかし、この「思われ」自体にはそれ以上の根拠はないのであるから、デカルトにならっていえば、この「思われ」を可能にしている「思うこと」の文法そのものを破壊してしまう「悪しき霊」を想定することはあくまで可能なのである。「私には一足す一は二に思われる」とき、「一足す一は二」が誤っている可能性が問題なのではなく、そのように「思われる」こと自体が、実は「思われ」とは似ても似つかない全くの別物である可能性がなお想定できるのである。このときそこにいったい何が出現しているかは、もはやいかなる「確実性」をもっても語ることはできない。私自身は何か特定の「思われ」の中にしか居ないのだし、そもそもこの「思われ」の文法が破壊されていることの想定自体もまた、「<そのような想定が可能である>と思われる」こと以外ではありえないのだから、「思われること」の確実性が破壊されれば、もはや何ものも確実性を持って存立することは出来ないのである。「存立することはできない」というこの主張すら、そうなのである。かくして現象学が依拠する「単なる思想」としての「思われ」(純粋現象)は、もはやそれ以上に遡ることの出来ない最終的な地盤であるがままで、まったくの不確実性と両立していることになる。別の言い方をすれば、それはまったくの不確実なものでありながら、そこから以外には世界は始まりようがないという意味で「普遍的」なのである。このとき「真理」は、存在定立とも真理定立とも別の次元に、すなわち「単なる現象」の次元に基盤を持つことになる。このとき「真理」の意味が変わったのである。私たちの日常の自然な理性にとっては「真理」とは、実地の経験を通じて「学ぶ」ものであろうし、デカルト的懐疑の精神にとっては思考力の限りを尽くしてなお疑う余地のまったくないもののことであったとすれば、現象学における「真理」とは、それが「現象する」ことをもってすでに「真」なのであるから、現象するかぎりですべては「真」なのである。それはもはや経験に照らして「学ぶ」必要も、思考の限りを尽くして「疑う」必要もない。何らかの「現象」に居合わせるだけでよいのである。「現象すること」としての「真理」─これこそが、私たちの世界の最終的な基盤なのである。

現象学は、世界のもはやそれ以上背後に遡ることの出来ない最終的基盤へと超越論的還元によって移行し、その地点をみずからの立脚点とした上で、現象がそのようなものとして現象することはいかにして可能かを問うことを自らの課題とする。これが「構成分析」と呼ばれる課題であり、現象学という哲学の体系はここに見定められる。ところがこの構成分析には、二つの層があることに気づかされる。ひとつは、「純粋な現象」がどのようにして特定の定立(存在定立や真理定立)と結びついて、私たちが通常無条件で受け容れているような「対象=客観」として通用するようになるのかを分析する、という意味での構成分析である。これは、「私には~と思われる」の「~の部分」の部分の真理=存在定立の途筋を再構成する分析である。「一足す一は二」が「真」とされるのはいかなる途筋によってなのかを明らかにするわけである。これに対して、構成分析にはもうひとつの層がある。それは、現象が現象として成り立つことそのことの分析としても言うべき層である。上に述べた構成分析のように存在定立や真理定立がいかにして機能するようになるかを問うのではなく、そうした定立に先立って「純粋な現象」そのものの成立がいかにして可能となったのかを問うのである。

2014年7月28日 (月)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(5)

2.中立性変様─超越論的還元を可能にするもの

「現象学的還元とは、一切の超越者(私に内在的に与えられていないもの)に無効の符号をつけることである。すなわち、その超越者の実在と妥当性をそのまま定立しないで、せいぜい妥当現象として定立することである。たとえば、一切の心理学や自然科学など、あらゆる科学を私はただ現象として利用しうるにすぎず、したがってそれらを私にとって認識批判学の手がかりになりうる妥当的真理の体系として、また前提としても、仮説としてさえも、利用してはからない」。

ここで言われている「超越者」という言葉は、それは「私に内在的に与えられていないもの」、この意味で私を「超越」するものを意味する。ここで「私に内在的に与えられたもの」は「実的」と呼ばれる。従ってその否定である「非実的」とは、「超越」のことにほかならない。自然としての世界や数学的理念の世界、総じて「客観」と呼ばれるものすべては「超越者」である。こうした「客観」に対して通常暗黙の内になされている「真理妥当」や「存在妥当」を停止することを、ここでフッサールは宣言しているわけである。だが、この「超越者」という言葉は、いずれ破棄されなければならない立場を暗黙の前提としてしまっている嫌疑を免れ得ない。なぜなら、彼はこの「超越者」を、私に「実的に」与えられたものを超えているにもかかわらず、「志向的」には「内在」するものと考えているからである。こうした形容矛盾にまで追い込まれる事態は、もはやそこで使われている概念枠組みがもはや有効に機能しなくなる地点にまで事象そのものへの彼の肉薄が進んでいることの証左である。

「厳密に言って、私たちは(この還元によって、)何ひとつ失ったわけではなく、むしろ絶対的存在の全体を獲得したのであり、しかもこの絶対的存在は、正しく理解されるなら、すべての世界的超越を…理念的に実現され整合的に継続される諸作用の、しかも習慣的な妥当性を持つそれら諸作用の志向的相関者として…それ自身の内に内蔵し、自己の内部でそれらを<構成している>のである」

ここで「志向的相関者として」という文章は、「世界的超越」が「内蔵」されるその仕方を表わす表現なのである。いまやこの「志向性」の内実が問われねばならないのであり、それを繰り返せば、この内実を問う作業は、「超越」や「内在」といった概念枠組みの大幅な組み換えを要請せずにはおかない。その他、「絶対的存在」の「絶対性」と「構成」については、フッサールの「絶対性」とはデカルトのように絶対に疑いえないという仕方での確実性に関わるものではなく、還元によって宙吊りにされたものなのである。なぜなら、それこそがあらゆる認識判断の最終的な「起源」のありかを指し示しているからである。つまり、現象学的な意味での「絶対者」とは、あらゆる認識がそこにおいてはじめて可能になる最終的な地点としての「起源」のことなのである。もう一つの「構成」は、以後現象学的分析を導く鍵概念の一つとなる考え方を示している。それは、「客観」ないし「対象」がそのようなものとして妥当することになる途筋を表現する言葉である。つまり、何ものかが「真」なる「客観」として現に私たちのもとでそうであるように妥当するようになる途筋を、あらゆる認識の最終的な基盤である「起源」に遡って、そこから辿り直すことが「構成分析」なのである。

こうした還元を経て獲得されたものが、純粋な「現象」と呼ばれるものの領野(次元)である。この「現象」の性質を考える際に「中立性変様」を先に見ておきたい。すなわち、私たちが世界に関してもつあらゆる認識判断は、肯定や否定、必然性や偶然性、可能性や現実性、推量や想定や信や疑い…といった、一般に「様相」ないし「様態」と呼ばれるものを伴っている。SはPである、SはPでない、SはたまたまPである、SはPでありうる、SはPだろう、…といった具合である。これらは、各々の命題の中核をなす「SはP」という部分が高的に定立されていることを基盤として、それを改めて肯定したり、否定したり…という仕方で定立される。つまりこの考え方に従えば、すべての認識判断は、「原信憑」の「(様相的)変様」として捉えることができるのである。これに対して、フッサールはこうした様相的な「変様」のいずれでもない特異な「変様」として「中立性変様」なるものを持ち出す。それは、原信憑を含んだあらゆる様相を完全に「無効化」(すなわち「宙吊り」にする)する変様だという。あらゆる様相が無効となるのだから、それは否定でもなければ、想定や想像でも、可能性でもない。それは原信憑もろともすべての定立を停止し、それを「単に考えられただけのもの」として保持するのである。

つまり、すべての認識判断がすでに前提にしている存在妥当や真理妥当を停止することで遂行される現象学的還元は、この中立性変様に基づいて可能となったのである。「妥当」とは、存在を存在として定立すること、真理を真理として定立することであるが、中立性変様においては、この定立のすべてが無効化される。したがって、それはもはやデカルトの懐疑の場合のように真理/虚偽という基準の内を動いてはいない。

「存在」に関しては、通常私たちは「存在」ということで、何かが「現実に」存在していることを理解しているだろう。それに対して夢や幻においては、一見何かが「存在」しているように思われても、実はそれは「現実に」は存在していないがゆえに、一種の錯覚・錯誤とされる。それは「本当は」存在しないのだ、というわけである。ここには、「存在」が「現実には」とか「本当は」という仕方で、「真理」と分かち難く結びついている様が見て取れる。それだからこそ、存在妥当の停止と真理妥当の停止は連動している。だが、何が「真」の「存在」であるかは、究極のところ決定不可能なのであった。そして還元は、「現実性」という意味での「存在」と、その否定としての「非存在」の区別に先立つ次元へと、私たちを連れていく。それが「単なる思想」という中立化された次元であり、それをフッサールは「純粋な現象」と呼ぶのである。

つまり「単なる思想」とは何が想像か、何が現実か最終的に決着がつけられないため、頭の中で考えられたものがどうかはっきりしない、一般的な意味での思想のことではない。これがすなわち、現象学はもはや心理学主義ではないということなのだ。還元が私たちを前代未聞の次元へと連れて行くとはこのことであり、思想という言葉の前につけられた「単なる」という小辞は、いまや切り拓かれた新たな次元をこそ示している。この「単なる」は、彼が以後盛んに用いることになる「純粋意識」とか「純粋現象」という述語に用いられた「純粋」と同意である。

いまや現象学は「存在」や「真理」を含むすべてを、純粋な現象(「単なる思想」)へ還元した。だがここでフッサールは、このような移行を可能にした「中立化」ある一つの留保をつける。この「中立化」と、現象学が自ら拠って立つ地盤を確保するための方法論的操作である「還元」とは非常に近いにもかかわらず、決して同じものではないと言う。彼がこのように考えるのは、もしすべてが中立化に服してしまったら、そこは、もはや理性の決定に服さない、真理と存在の外部に位置する地点なのだから、そもそもいかなる「学」も不可能になってしまうからである。

心理学主義でも論理学主義でもない、新たな立場で学の樹立を目指すフッサールにとって、そのような立場を可能にするものが、同時に当の学の可能性までをも奪ってしまうものであってはならないことは、よく理解できる。だが、学は「単なる思想」であってはならないという彼のこの危惧の内には、知らず知らずの内に、<「単なる思想」とは各人が勝手に、思い思いに頭の中に思い描いたものだ>という理解が入り込んでしまってはいないだろうか。そのような各人各様の想いなしが「学」の名に値しないのはもちろんである。それこそ哲学を一個の「世界観」に堕さしめるものであり、厳密学としての哲学を標榜する彼が断固として斥けたものにほかならない。だが、今フッサールが立っている地点(「単なる思想」)は、そのような各人各様の主観的な想いなしの次元ではなかったはずである。それが、もはやいかなる存在妥当や真理妥当も機能させないという点で「学」ではありえないとしても、だからと言ってそれが各人の主観的に思いなしや世界観に堕するわけではないのである。それは学ではないにもかかわらず、学以上に「普遍的」であるかもしれないのである。そうであれば、彼は、還元に際してあらかじめ中立化に制限を付すことで、みずからが発見しつつあった新たな次元を早くも裏切ってしまったのではないか。

2014年7月27日 (日)

こんな映画はいかがですか

昨日の書き込みのおまけです。

もし、昨日掲げた本の半分でもハマった方がいらっしゃれば、ここに挙げなかった本をあげて、少し、お喋りさせていただきたいです。

今日は、同じように映画を挙げてみます。ただし、映画はいつも公開しているわけではないので、ちょっだけコメントをつけておきます。古いの新しいの(新しいのはありません)、洋画と邦画、あるいはジャンルといった区分はありません。

「刑事ジョン・ブック 目撃者」(1985年アメリカ)監督:ピーター・ウィーアー 主演:ハリソン・フォード

 視線のドラマ、誰かが誰かを見つめるだけでドラマを作れる

「リオ・ブラボー」(1959年アメリカ)監督:ハワード・ホークス 主演:ジョン・ウェイン

 男たちの連帯をまるで楽園のように描く、「ワイルド・ヴァンチ」はこれに対する鎮魂歌

「天空の城ラピュタ」監督:宮崎駿

 たった一個の石がもたらされたことから、その石が転がるようにストーリーが後から後から展開するストーリーの快楽

「東海道四谷怪談」(1959年)監督:中川信夫 主演:天地茂

 気の弱い男が一瞬カッとなったことをきっかけに運命の坂を転げ落ちる悲劇

「野菊の墓」(1981年)監督:沢井信一郎 主演:松田聖子

 各ショットの美しさと品格の高さ

あんまり、映画史上の名作は入っていないし、マニアックでもないのですが、好みの傾向なんでしょうね。今までに見た映画ベストテンをセレクションすることになれば、これらは入れないでしょうね。そういう公式っぽいのには入ってこないのですが、これらの映画で「これこれ!」とか話題が合う人とは、映画で話は尽きないだろうと思います。最初の「刑事ジョンブック 目撃者」が試金石になる映画です。

 

2014年7月26日 (土)

こんな本はいかがですか

類は友を呼ぶとでも言うのでしょうか、私が出会った人の中で読書を趣味とする人が比較的多いのではないかと思います。読書といっても、それぞれ対象としている分野も異なるし、分野が重なっても好きな本が違っていたりと、それぞれバラバラで、それが面白いのですが、バラエティに富んでいたというが印象です。そのなかで、ほんの何人か、対象とする分野が違うし、好きな作家などもまったく違うのに、ある限られた本について趣味がほとんど完全に重なる人がいました。その本というのは、必ずしも私がよく読む分野ではないし、ある作品など、その作家はその本でしか読まないものもあります。私としては、あまり他人には明かさない隠れファンの作品です。今まで、何回かお付き合いのあとで、これは、という人に探るように、その中の一冊を仄めかすと、ハマる人は次の一冊も、「それもそう」と将棋倒しのように連続して、どんどんハマって、逆に一冊明かして反応がないと、二冊目もダメというように、反応が極端というほど分かれてしまいます。これは、年齢や性別に関係ありません。

ちなみに、何冊かあげてみますので、もし、私もという人がいれば、その方には、他の本もお教えしましょう。

ただ、ハマったからといって、それがどうということはありません。

また、名作とかためになるとか、そういうものでもありません。

山川方夫「夏の葬列」

黒井千次「春の道標」

ジョン・ファウルズ「コレクター」

ドストエフスキー「地下生活者の手記」

樹村みのり「わたしの宇宙人」

あすなひろし「青い空を白い雲がかけてった」

佐野洋子「100万回生きたねこ」

 

この中でも、最初の「夏の葬列」は、私の年代は国語の教科書で読んだ人が多く、知っているけれど…ということで一番の試金石です。

2014年7月25日 (金)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(4)

第2章 事象そのものへ─「現象」への還元

いかにして心的なものと論理的なもの、経験的・個別的・偶然的なものと理念的・普遍的・必然的なものの二者択一から抜け出せるというのか。『論理学研究』によってもこの問題が未だ解決されていないことを誰よりも自覚していたフッサールは、心的なものから独立な論理的なものの存立を支える最終的な基盤を求めてデカルトに出会うことになる。

1.デカルトとフッサール─懐疑と還元

「方法的懐疑」とはどのような内実を持つ懐疑なのか。それは、「ほんの少しでも疑わしさが残るものは、断固としてそれを偽とみなし、斥ける」ことにほかならない。世の中には確からしく見えるものは多々あるが、それが確からしいことは、少なくともそれが「実はそうではなかった」ことを排除しないからである。そのような土台の上にいくら堅固な建物を建てても、事態は「砂上の楼閣」であるスコラの諸学の場合と何ら変わらない。そうであれば、どんなにわずかな可能性であれ少しでも疑わしさの残るものは、徹底した懐疑の力でもって予め摘み取られ、そうしたものが学の土台に混入しなければならない。そのために要請されたのが、少しでも疑わしいものは「虚偽とみなして斥ける」という断固たる処置なのである。ここで彼の方法的懐疑を導いている最終的な基準が「絶対に疑いえないもの」であるかぎりでの確実性であることに注意しておこう。

そて、フッサールもまた、あらゆる学に学としての尊厳と地位を保証する筈の論理的・必然的なものの基盤をどこに求めうるかをめぐって、模索と逡巡を重ねていたことは既に見た。それを、私たちのあらゆる認識の最終的な基礎を求めての模索と言い換えてもよいであろう。この点で、フッサールはデカルトと問題意識を共有しているのである。そして、フッサールは、この「あらゆる認識の最終的な源泉」へと立ち戻ろうとする動機をこそ、超越論的動機と呼ぶのである。

しかし、両者には微妙なずれがある。フッサールが、みずからが立ち戻るべき最終的地点を「起源」「母たち」「大地」と表現していることに注目しよう。それらは、各々用いられる文脈によって「始源」「根源」「源泉」などと呼び換えられるが、彼にとって「あらゆる認識が立ち戻る」べき地点とは、これらの意味での「起源」に他ならなかった。これに対して、デカルトにとって何よりも急務であったのは、「絶対に疑えないもの」へと立ち戻ることであった。このように並べてみれば明らかなように、私たちのあらゆる認識の「起源」と、「絶対に疑いえないもの」とは、必ずしも同じではない。つまり、私たちのあらゆる認識の最終的な「起源」が何であるかという問題と、それが「絶対に疑いえないもの」であるかどうかという問題は、おのずから別の問題なのである。つまり、現象学の実際の進展とともに、当初は重なり合っているかに見えた「起源」と「絶対に疑いえないもの」とが分離し、その上で現象学は、当初の動機に忠実に「起源」への途を歩み続けたのである。

では、「絶対に疑いえないもの」から分岐した「起源」とは何か。この意味での「起源」とは、それが徹底した懐疑にはもはや耐ええないものであっても、そこからしか私たちの思考と理解が始まりえない、この意味での最終的な「場所」のことである。そのデカルトの「懐疑」とフッサールの「還元」を分かつ根本的な相違はどこにあるのだろうか。それはデカルト的懐疑がなお「真・偽」という基準ですべてを測っているのに対して、フッサールの還元はもはや「真・偽」に関わらず、それを「中和化」した次元、あるいはそれとは「中立」な次元への移行を果たすという点に求めることができる。それはこういうことである。デカルトの方法的懐疑が採用した格率は、「ほんの少しでも疑わしさの残るものは、これをすべて偽とみなして斥ける」というものであったこれはすなわち、彼の懐疑が真・偽という基準の内を動いていることを示している。さらに、「偽とみなして斥ける」とあるように、偽とみなされたものは、そこで目指されている「絶対に疑いえないもの」の資格を充たさないがゆえに、そこから「排除」され、「否定」される。「偽」には「否定」の力がもともと含まれているのである。これに対しフッサールの還元は、あらゆる認識判断の暗黙の前提となっている「真理妥当」と「存在妥当」の停止を求める。なぜなら、さまざまな学や認識が、その知見や主張を「真」なるものとして呈示しているとしても、そもそも何をもって「真」とするかは必ずしもあらかじめ明らかなことはないからである。「真理」なるものが存在すること、それどころか総じてすべてが存在することですら、疑おうと思えば疑えることだからである。

私たちの自然な性向は、私たちの認識判断の内に「真なるもの」と「偽なるもの」があることを当然のことと前提しているし、その上で或る特定のものを無条件に真として受け容れてもいる。フッサールにとっては、「真」が「真」であるのはいかにしてなのかこそが、あらためて問われなければならないのである。また私たちは、私たちの生きるこの現実が紛れもなく「存在」すること、「実在」であることを何ら疑うことなく、全面的に受け容れているであろう。「実在」とは「真実在」すなわち「真に存在すること」の謂いであり、これほどまでに「真理」と「存在」は私たちの自然的理性の内ではじめから分かち難く重なり合っているのである。だが、このような「実在」とて懐疑を免れるものではない。単なる夢や幻と実在の世界を区別するものは何かと問うたデカルトが、これに与えた答えは「醒める」ことによってのみ両者は区別されるということであった。そうであれば、いま現にここで私の目の前にあるそれが真の実在であるか否かは、いつまで経っても決着がつかないことにならざるを得ない。仮に目の前のそれがいまだ「醒め」ていない/かつて一度も「醒め」たことのないものだとしても、そのことは、それがいつか「醒め」る可能性を決して予め排除しないからである。結局のところこの問題に最終的な決着はありえないのである。世界が実在しているという私たちの革新は、決して無条件で全面的に妥当するものではないのである。

ここで「妥当」とは、何かがそのようなものとして「通用する」、「正当性を認められる」といったほどの意味に解してよい。フッサールは私たちのあらゆる認識や判断の隠れた前提となっているこうした「真理妥当」や「存在妥当」を、必ずしもその「妥当」の根拠が明らかでないがゆえに、いったん「停止」することを求めるのである。これは、個々の認識判断のその都度の停止ではなく、あらゆる判断の根底に働いている<世界の存在を妥当させること=世界を実在として承認すること>の停止なのである。ここでいう「停止」は、決してデカルトの場合のように「偽とみなして」それを「斥ける」ことではない。それは、そもそもそのような判断を行わないこと、この意味での「判断中止」であり、それはしばしばフッサールは「括弧に入れる」と表現している。

現象学的還元とは、私たちの行うあらゆる認識判断にすでに含まれている真理妥当と存在妥当の停止である。それは、妥当の根拠が必ずしも明らかでないがゆえに要請された措置なのである。「厳密な学」たらんとする哲学にとっては、何ごとも無批判に受け容れられることがあってはならないのである。この意味で、哲学は無前提な学でなければならないのであり、それはかつてデカルトが「哲学者たるものは一生に一度は全てを根底から疑ってみなければならない」と述べた、その精神の継承なのである。

2014年7月24日 (木)

久しぶりにN社のことなど

以前から何度か、「N社の野望」として書き込んできたN社の決算説明会があって、先日、見学してきましたので少しく感想を述べさせていただきます。これは、私がIR業務を担当していたことにお付き合いいただいた、ある方のご厚意により、関係者以外は見ることの出来ない説明会を見学させていただいているもので、この方には、いつも感謝しております。

全体としての経済状況はアベノミクスとか株式市場とかニュースなどで報道されていますが、製造業の現場では決して将来が明るいとか活気を呈しているということはありません。むしろ、一時の景気低迷円高を脱したとはいっても世界経済全体が停滞気味で、国内のそれほど悪くない状態がいつまで続くかというような、とても楽天的にはなれない状況と言っていいと思います。各企業が5月半ばに今年度の業績予想を発表していますが、概してコンサバ、つまりは強気の成長戦略は描いていないことが明らかな予想を出しています。これはたぶん、本当はもっと低い確実な今期予想をしたいのだけれど、景気への期待やら、アベノミクスの風評やら、などの要因が重なり、あまり低い予想をするとその企業は経営意欲がないと誤解されそうなので、折衷的な数字を作っている、というところが多いという状況と思われます。一部の企業を除いて、経営への閉塞感というは、増していることはあっても、決して減ることはないという状態にあるのではないか。かなり、私の見方は悲観的かもしれませんが。

そんな中で、N社は創業者であるN社長の経営手腕によって、そんな景気状況をものともせず、順調に業績を伸ばしてきた、いわば独り勝ちの企業です。この会社は、創業以来の中核だった事業がノートパソコンのファンモータでしたが、パソコン自体が市場が成熟し、需要が頭打ちから、減少に転じてくるだろうという中で、事業分野を転換し、モーターを中心とした自動車の電子部品に展開し、それが軌道により、受注が加速度的に増え始め、それが業績に反映し始めたというのです。ただし、単純にモーターを自動車に転用したのではなく、制御装置を新たに開発し、今、どんどん電子化が進む自動車に新たなシステムを提案し、それに注文がきているということです。例えば、自動運転装置を将来に向けて自動車会社だけでなくグーグルも開発競争をしていますが、そこで使われるミリ波のセンサなども開発しているそうで、つまりは、自動車メーカーや従来の自動車部品のメーカーが扱っていない新たな分野の製品を開発して、ファーストサプライヤーとなって市場を独占してしまおうという努力を数年前から始めて、ここにきて漸く成果が現われてきた、というものだそうです。N社は自動車に限らず、電機機器では、コンパクト化が進み、コードで電源につなぐのではなくバッテリーに充電して手軽に持ち運びできるタイプに切り替わって来るのに対応した、軽量小型で無駄に電気を消費しないように自己制御するモーターを開発して、独占的にその市場を支配するとかいったことも進んでいるとか。N社長は、ライバルとは競争してコスト競争で消耗することなく、次々と新市場を開拓してそこを伸ばしていく、と高らかにうたっていました。彼に言わせると、新分野はまだまだあるということで、N社の可能性は、これからもまだまだある、ということでした。

経営者が元気旺盛で、ポジティブパワー全開であると、こうも企業というのが活力あるものに見えるのか、と感心されられました。たぶん、N社長の行っている通りに、業績数字も実際に、そうなっていくのだろうと思います。

前回も言いましたが、決して私はN社のスポークスマンではありませんが、こういう会社が、こういう経営者が、もっとあってもいいのではないか、というのが正直な感想です。私はこういう人にはなれませんが、経済政策とか景気対策とか何とかいっても、こういう経営者や会社が、後から後から生まれてくれば、そんな政策などなくても経済を上向くのだろうな、などと妄想に耽ったりしました。

しかし、気になる点もあります。前回も書きましたが、事業分野が広がり、しかも新たな分野に進出しているということ、しかも、先行他社もない独自の道を拓こうとしているところで、エネルギッシュなN社長もさすがに追いつかなくなってきているのではないか、ということが明らかに目に見えてきたことです。以前は、そんなことはなかったのですが、とくに今回は自動車の電装部品に関する説明は、どこか舌足らずで説明が足りないところは気合で穴埋めしていたように聞こえました。ワンマンで鳴らした創業経営者のN社長も必死に勉強しているのは偲ばれますが、追い付いていないのは、説明を聞いている私も分かりました。多分、顧客となる自動車メーカーすらも確かなイメージのない段階でN社は、こういうのはいかが?と提案をしているようなので、自動車メーカーの最先端の機密の技術にまで踏み込もうとしているのでしょうが、しかも、かなり細かいところでやっているのではないかと思われるので、なかなか分野違いということもあって届かないというのが正直なところではないでしょう。ただ、センスとか嗅覚とか経営者の勘とかで間に合わせているような気がしてなりませんでした。たぶん、N社長の次の世代というのか、スタッフにどこまで任せられるのかということになるのでしょうから。

また、以前のノートパソコンの部品の市場は市場の消長が激しいところでその見極めには、それこそ野生の勘が必要になるような市場だったと思います。これに対して、自動車の場合は中長期的な生産計画に基づいて、注文は長期的で比較的安定した注文をとれるようになるので、それに対する態勢も変質してくると思われます。いわば、今まではワンマン社長にしたがって会社は一致団結していればよかったのが、今後は個々に各個展開していかなければならなくなり、以前のような統制とは違った会社になっていかなければならないはずで、それにどう対応していくか、実は社長が切り替わっていないのではないか、そんな感じを抱きました。それは、今回の説明会で精神論的な言辞というのか、気合というのか、「まあ、見ていなさい」とかそういった類の言葉が増えたことがやけに気になったのでした。

また、説明会に出席している、自分より年下のアナリストたちをからかうように鼓舞していたのが、(それに対して、一言も喰って掛かるように反論すらしないアナリストたちも、どうかとも思います。そこで堂々と渡り合うこともできないで証券市場の健全な発展があるのか、という気はします。そこで経営者に直言するからこそ、経営者にとってメリットが生まれるわけだし、ひとつのカバナンスにもなるのだろうと思いますが。スチュワード・シップなどと御大層な報告書を有識者とやらがぶちあげるよりも、足もとのこういうところで、やるべき人がやるべきことをやっていないのを、やらせる方が実効性があると私は思います。ここで出席しているアナリストはだらしないと思いました。言い過ぎですね。)私には、説明を誤魔化しているように見えて、そこに一抹の寂しさを覚えました。

最後に書いたことは、おそらく私のひとりよがりの杞憂だと思います。N社については、来年の通期決算がどこまで伸びるのか、たいへん楽しみです。しかも、毎回のことですが、N社長には元気のオーラをお裾分けしていたたきました。

2014年7月23日 (水)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(3)

3.論理学から超越論哲学へ─第三の「転回」

フッサールは決して単純に論理学主義に鞍替えしたわけではなかったのである。しかし論理学主義の主張ならびにその心理学主義批判の中には、彼自身も全面的に賛同する正しさがある。とりわけ第一巻で、彼はそれを明示したのである。だが、心理学主義が一から十まで誤っていたわけでもないのである。とりわけ、彼の当初からの疑問である<「数」のような理念的・普遍的なものが、いかにして「心」という経験的・個別的なものにおいて捉えられるのか>に答えるためには、論理学主義の主張の正しい点を認めてもなお、その論理学主義の主張の正しい点を認めてもなお、その論理的・理念的なものが「心」と取り結ぶ関係への問いが残っているのである。果たして論理的・理念的なものにとって、それが「心」という経済的・個別的なものと関わることは、単なる「偶然」にすぎないのか。それは、あってもなくてもよい二次的なことにすぎないのか。そうでないとすれば、そこにどのような関係が成り立っているのか。この疑問には、いまだ答えが与えられていない。この疑問に応じようとするフッサールの渾身の努力の産物が第二巻の諸研究なのである。しかし、彼自身の眼には『論理学研究』が、個々の論点ではそれなりの成果を上げ得たとしてもまだ<心理主義か論理主義かという二者択一>に引き裂かれたままであることがはっきりと見えていたのである。この問題に解明の光が投げかけられない限り、『論理学研究』の立場は破棄され、一から出直されなくてはならない。

出直しに当たってフッサールに決定的な影響を与えた人物に、新カント派の哲学者パウル・ナトルプがいる。ことは「心」とほぼ同義の「自我」の哲学的身分にかかわるものであった。すなわち、カントの額等を継ぐナトルプがそのカントの「超越論的統覚の自我」をあらゆる私たちの経験の最終的な制約である「純粋形式」として、いわば世界の論理的構造の要の位置において論じていたのに対して、フッサールは『論理学研究』で、「自我」とは経験的個人以外ではあり得ないという理由で、ナトルプの言うような「純粋自我」を、哲学者のでっち上げた虚構として斥けたのである。このナトルプからの反批判を通してのやりとりを経て、フッサールは「純粋自我」と言う発想を自らの立場の内に取り込む方向を模索するようになる。この模索が経験的次元でもなければ理念的ないしは論理的な次元でもない第三の途としての「超越論的次元」の発見へとフッサールを導いたのである。

つまり、ナトルプが属する新カント派はカントの批判哲学の遺産を現代に蘇らせようとした。カントがア・プリオリなものとみなした「純粋悟性概念」を、人間と言う生物種が生まれながらに所持している能力とする生理学的な解釈が最初行われた。それは、「心」を自然科学的な分析の対象として捉えた上で、そこからすべての理念的形成体を説明しようとするかぎりで、心理学主義と基本的な立場を一にする試みだったと言ってよい。しかし、その後、「カテゴリー」をそうした生物学的所与としてではなく、純粋に論理的なものとして捉え直すようになる。なぜなら、「カテゴリー」はあらゆる経験の可能性の条件をなすものである以上、生理学をはじめとする個別科学もまた、その「カテゴリー」を前提としてはじめて成り立つものだからである。「カテゴリー」の方が生理学を可能にしているのであって、その逆ではないのである。これはすなわち、「カテゴリー」は生理学的所与ではないということに他ならない。こうして新カント派は心理学主義と袂を分かち、むしろ論理学主義に近いスタンスをとることになる。ところが新カント派が袂を分かったのは、自然科学的傾向をもって哲学から独立しようとしていた心理学からであって、新カント派自身は、カント以来自らの拠って立つ基盤であった反省哲学を、新たに「心理学」の名の下に洗練させようと試みることになるのである。それは「意識」をあらゆる哲学的考察の出発点に置くに足るほどまでに純化する試みとなる。かくして新カント派は、一方で「カテゴリー」という純粋に論理的な形式、他方で「意識」という何らかの仕方で「心」との繋がりを予想させるものの双方を、自身の内に抱え込むことになる。ここに、理念的・普遍的なものと経験的・個別的なものとの関係を問おうとするフッサールとの接点が形成されるのである。言ってみれば、彼らの間には、「心」をいわゆる心理学主義とは別の仕方で哲学的に有効な、それどころか不可欠の契機として再確立しようとする点で、共同戦線を組む余地が生まれたのである。

ナトルプは、カントの「純粋統覚」(「私は考える」は、私のあらゆる表象にともないうるのでなければならない)に依拠しつつ、この「私は考える」を「純粋自我」としてあらゆる経験の可能性の最終的な根拠とした。したがって、「純粋悟性概念(カテゴリー)」のような論理的なものも、当然この根拠の内に最終的に包摂されるわけである。しかもこの「純粋自我」は、カント自身はっきり述べていたように、いかなる具体的・個別的な、すなわち特定の内実を伴った経験的な自我でもない、純粋な「形式」である。こうした純粋形式であるかぎりでの「純粋自我」こそが、あらゆる哲学的な考察の出発点にして最終的な基盤としての「純粋意識」なのである。そして『論理学研究』のフッサールに対しては、論理的なものも最終的にはそこに帰属することになるはずの、この「純粋意識」の次元への無理解を批判するのである。すなわち、『論理学研究』はいまだ論理的なものと心的なものとの間の関係を十分に解明するには至っておらず、両者は「分裂したままにとどまっている」というのである。

そして、フッサールにとって、この「分裂」を乗り越える可能性を秘めたものとしてフッサールが慎重に検討し始めたのが、ナトルプが呈示していた先の「純粋自我」という考え方だったのである。

しかし、フッサールの到達した「超越論的」次元はナトルプのいう「純粋自我」とは決して同じものではなかった。第一にナトルプには、一体いかにして私たちは(そのままでは経験的・個別的な「心」でしかない私たちは)「純粋自我」ないし「純粋意識」に到達しうるのかを明示する方法論的考察が欠けている。あるいし、カントにおいてそうであったように、それは論理的な要請の次元にとどまっている。この意味で、論理学主義を脱却しているとは言い難い。第二に、第一の点と密接に関わっているのだが、「純粋自我」と呼ばれるものの実態が結局のところはっきりしないのである。それは文字通り単なる「形式」なのか。そうであれば、それは純粋に論理的なものとなろう。「純粋自我」が問題となる以上、ナトルプにとって経験的なものではあり得ない。ナトルプは、この「純粋自我」のもとに単なる論理形式以上の「何ものか」を見ていた可能性は極めて大きい。そこには、その超越論的ならびに論理学主義的な残滓がこびりついており、他方でそれはある種の論理学主義的色彩も帯びてイネ、心理主義と論理主義のどっちつかずと言わざるを得ない。

これに対してフッサールの超越論的現象学の真骨頂は、論理学主義か心理学主義かという二者択一を破棄する原理的な可能性を呈示した点にある。

『イデーンⅠ』や『論理学研究』第二巻で「純粋自我」を承認したにもかかわらず、それがいったい何であるかについて立ち入った考察は展開していない。フッサールは、心理学主義と論理学主義の二者択一を破棄する第三の途として自ら切り拓いた超越論的現象学の拠って立つ次元が、はたして「純粋自我」と呼べるべきものであるかについて、なお疑念を払拭できないでいたのである。彼自身も未だ確信が持てなかった。しかし、その次元こそ、彼がその哲学的な苦悩を通して探り当てた新たな問題の発源地かもしれない。

2014年7月22日 (火)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(2)

2.心理学から論理学へ─第二の「転回」

『算術の哲学』公表の1891年、ゴットロープ・フレーゲから心理学主義に対して根本的な疑義を指摘される。この心理学主義が基礎とするのは、「心」ないしその「作用」というそれ自体は経験的で個別的なものである。私たち一人ひとりが「心」なるものを持ち、その「心」の「作用・はたらき」を通して「数」をはじめとする理念的・普遍的な対象が捉えられるとするものである。だが、もしそうだとすれば、そのような「心」によって捉えられた対象は、結局のところ、それを捉える働きである「心」が持つ経験的・個別的な性格によって最後まで規定され続けることになってしまわないか。どんな理念的・普遍的対象も、つまるところ私たちの「心」においてそのようなものとして捉えられたものにすぎないのであれば、それはどこまでも私たちの「心」という経験的で偶然的なものに依存したものではないか。そうだとすると、「1+1=2」は、私たちの「心」によってそのように捉えられるかぎりでのこととなる。ということは、私が誕生する以前は「1+1=2」ではなかったことになる。そこには数学的真理を捉える「心」がなかったからである。だが、これでは真理の名に反するのではないだろうか。「数」が普遍的なものであるとは、それがいつ・どこで・誰によって捉えられようと、そしてたまたま誰もそれを捉えることがなかろうと、そうした経験的で個別的かつ偶然的な事態とは独立に成り立つということ以外ではないのではないか。そしてそのことは、「数」のような理念的・普遍的なものは、それを捉える「心」のはたらきとは独立であることをこそ示しているのではないか。心理学主義は、もともと「心」という経験的・個別的なものとは別の次元に属する理念的・普遍的なものを、よりにもよって経験的なものによって基礎づけるという次元の混同を「他のジャンルへの不当な移行」を、もともと別のカテゴリーに属するものを一緒くたにしてしまうというカテゴリー・ミステイクを犯している。その限りでの心理学主義は、理念的・普遍的なものを「心」によって基礎づけるという当初の目的に失敗せざるを得ないのではないか。フレーゲの批判はおよそ、このようなものである。

この批判は、一方で、心理学主義が「心」という経験的・個別的・偶然的であらざるを得ないものによって「数」をはじめとする理念的・普遍的・必然的なものを基礎づけようとする「カテゴリー・ミステイク」を犯してしまっているという点を突いている限りでは、納得できることだ。しかし他方で、理念的・普遍的・必然的なものがその本質においては「心」という経験的・個別的・偶然的なものとは独立に成り立つことをあらかじめ認めてしまっている点で、おかしい。「数」の独立性のこの承認自体が、何らかの仕方ですでに「心」と関わってしまっている/関わらざるをえないことの意味を、この批判は十分には考え抜いていないからである。ここで問題になっているのは「志向性」という考え方についてのものと同じ事態といえる。つまり、フッサールにとって心理主義は、「心」という経験的・個別的なものと「数」という理念的・普遍的なものとの間にどのような関係が成り立っているのかを、そのどちらの側面をも切り捨てることなく問おうとしていると見えた点で「正しい」方向で問題を立てているのだが、先のフレーゲらの批判が示しているように、結局のところ「カテゴリー・ミステイク」を犯すという仕方で理念的・普遍的なものを「心」という経験的・個別的なものへ回収してしまわざるを得ない点で失敗しているのである。この回収はつまるところ、「心」という経験的・個別的・偶然的なものにおいていったいいかにして理念的なものの理念性が確立されるかが解明できていないことを帰結せざるをえないのである。これはブレンターノの「対象の志向的内在」としての「志向性」が、そのままでは結局のところ対象が心に内在するということに帰着せざるを得ないのと同様なのである。問題は「志向的」という仕方で差し当たり表現された時代の内実を徹底して明らかにすることに懸かっているのであり、そのことを通じて<対象の心への内在>という図式が破棄されるところまで進まない限り、この発想もまた心理主義と同じ轍を踏まざるを得ないのである。

フレーゲによって自らの心理義的な立場がある決定的な点で維持できないことを批判されたフッサールは、まずはこの批判に正面から向き合う。それは心理主義がそのまま原理的に維持できないことを認めることである以上、自分自身の立場の根本的な変革とならざるを得ない。フッサールは一方で心理学主義にも一半の真理と、他方で論理学主義にも何か不十分なものを感じているのだから、この変革は、新たに自身が依拠しうる地盤を発見するまでは、そもそも依拠すべきものすらない宙ぶらりんの状態にみずからを置かざるをえない苦しい途となる。

1900年、フッサールは『論理学研究』第一巻『純粋論理学への序説』で、かつての自分自身の立場である心理学主義を完膚なきまでに批判し、理念的・普遍的なものの心的なものからの独立性を前面に押し出した。ところが、1901年に第2巻『現象学と認識論のための諸研究』では、そもそも『論理学研究』全二巻を通じて追究したのは「論理学や数学のあらゆる理念的対象が何らかのかたちで不可分に結びつけられている心的経験についての記述的な研究だった」というのである。これではまるで、先立つ第一巻があれほど厳しく批判し・斥けたはずの心理学主義への逆戻りではないか。実際の第二巻には論理学主義的色合いの強いものと、心理学主義に逆行したと思わせるものが混在しており、ひとつの著作の中でアンビヴァレントな緊張関係をなし、読者を戸惑わせるものだった。

2014年7月21日 (月)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(1)

第1章 たび重なる「転回」─数学から超越論哲学へ

1.数学から心理学へ─第一の「転回」

フッサールほど、学問上の立場の大きな変更(「転回」)を経験した人も珍しいのではないだろうか。そもそも、専攻する学問自体が何度も替わっている。はじめに学んだのは数学であり、助手職につくほど本格的な数学者だったのである。ところが、同じ数学の中でもその基礎に関わる部分への関心から、当時新興の学問として人々の注目を集めていた心理学へと接近する。このときのフッサールの関心は、「数」という理念的にして普遍的なものがいったいいかに私たち一人のような経験的・偶然的で個別的な存在者のもとで成立するのか、という疑問であった。「1」や「2」…といった「数」それ自身は、目に見えたり、手で触れることのできる経験的な対象ではない。当の「数」それ自身は、それを指し示す記号である数字とは独立である。様々な数字の表記は、あくまでも「数」それ自身を指し示す記号であって、「数」それ自身ではない。これが、「数」しれ自身はその表記法とは独立だということである。だが他方で、どんな表記法で「1」(それ自身)を指示しよう、そしてまたいつ・誰が・どこで指を一本立てようと、それらが指し示している数「1」それ自身は厳密に同じものである。それが「数」の普遍性ということに他ならない。したがってそれは、単に目に見えたり、臭いがしない(知覚つまり五感の対象ではない)ばかりでなくも想像上の存在とも異なる。知覚するもの、想像するものは人によって異なる。しかし数「1」それ自身は、とこをとってみても同じでない部分はないのである。それを理解する私たち一人ひとりは、存在する場所も・時間も・考え方も…細かく見ればみんな違っていると言うのに、一体どのようにしてこうした「厳密に同じもの」がひとつとして同じもののない私たちのもとで成立することができたのか。─これが、「数」の基礎に関わるフッサールの疑問であった。

実は、この疑問、すなわち経験的・個別的なにおける理念的・普遍的なものの成立に関わる疑問が、フッサールの長い学問上のキャリアを貫く一本の赤い糸なのである。この疑問を突き詰めて行く途上で、何回かの「転回」を経て、ついに「現象学」という新しい哲学が生まれるに至ったのであり、そしてその現象学においてもまた、最後までこの問いは問い続けられたのである。では、一人の名だたる哲学者が50年も60年もかけて追求した問題の解決はどうなったのか。そういう普通の意味での「解決」は哲学にはない。万事が収まるような解決が与えられるような問題なら、それは哲学的に大した問題ではないのである。話は逆なのであって、いったいどうしてそんなことが可能だったのかが真に不思議に思えて仕方がない、と人を説得できるほどまでに疑問を鍛え上げることにこそ、哲学の営みの本質は存するのである。考えれば考えるほど不思議になる(「なぜ」という疑問が次々に湧いて出てくる)ところに、哲学の真骨頂があるのである。そして「なぜ」の問いが止めどもなく湧いて出てくるのであれば、いつまでたっても疑問に「解決」は与えられないのである。そのためには、凡庸に問うていたのでは駄目である。ただ分らないと言うだけで、同じところに停滞していたのでは、とても一生その問いを問い続けることなど出来はしない。問うことの中で、分らなさが、不思議さが亢進してゆくよう問われなければならないのである。もちろんそれは、やろうと思っても、それだけで出来るものではない。おのずから問いが問いを呼ぶのである。哲学者とは、ある問いに取り憑かれてしまった者のことである。あるときふと気づいてみると、すでに私はその問いに掴まれてしまっているのである。問いは向こうからやって来るのだ。フッサールに話を戻せば、彼はかの問いに取り憑かれた50年を超える年月の間に、この問いに改めて驚く一つの境地を開拓したのである。

「数」という理念的で普遍的なものが一体いかにして成立したのかという基本的な疑問に対して、フッサールが考えたのは、それは私たちの心の作用・はたらきによって形成されたものではないか、というとであった。19世紀後半という時代は、人間の心についての科学としての心理学が、心をめぐる学的考察を精神やら理性やらの名の下に長らく牛耳ってきた哲学から独立して、一個の自立的な学問としての地歩を固め始めた時代でもあった。その中には心理学を一個の個別科学として自立させようと動きが含まれていたが、そればかりではなく、心を問題領域として取り扱う学的試みの地殻変動とも言うべき実に多様な動きが含まれていた。

科学の分野を「自然」の領域と「心」の領域に二分できる(近代という時代はこの二分法の上に成り立っていたと言ってよいであろう)、前者の「自然」を科学の対象へと衣替えさせることで旧来のアリストテレス的自然学から近代的な物理学への脱皮が行われた。これ対して「心」を衣替えさせる作業は19世紀後半に本格化した。それは旧来のアリストテレス的形而上学から哲学を含む新たな学の地殻変動を伴うものであった。それが、フッサールが数学から一歩足を踏み出した時の状況だった。

フッサールは、「数」という理念的・普遍的なものとそれを理解する私たち一人ひとりのという経験的・個別的なものとの関係に関心を持った。そこで注目したのがスコラ哲学で論じられた「志向性」という事態を「心」に固有の本質と見なして新たな心理学の基礎に据えたフランツ・ブレンターノであった。通常、対象とはあるものの外部にそれ自体で存立しているもののことを意味するが、「心」はその対象を特有の仕方で内部に含むかたちで対象と関係するというのである。この関係を「志向的内在」とよび、対象同士が互いに「外在」する物理現象との決定的な違いとした。この発想はフッサールにとって、「心」という経験的・個別的であるとともに「内在」である領域と「数」という理念的・普遍的対象との間に、(単なる「内在」でもなければ、その逆の単なる「外在」でもない)「志向性」という新しい関係を見て取るものとして、おおいに示唆的なものとなった。後にフッサール現象学のスローガンの一つともなる「意識とは何ものかについての意識である」というテーゼは、ブレンターノから受け継いだこの「志向性」という発想のフッサールによる新たな表現“なのである。そこで「何ものか」という対象が意識に対して独立性を保ちつつ(意識という「内在」に単に回収されるのではなく)、だが意識との不可分の関係の中で成立するさまが語られているのである。もっとも「志向性」を持ち出すことで例の謎(理念的・普遍的なものと経験的・個別的)にものとの関係がいかにして可能となったのか)が解明されたわけではないことに注意しなければならない。「志向性」とは、それによって何かを説明するためのものではなく、そこに問わなければならない謎があることを指し示す問題概念に他ならないのである。

フッサールは、ブレンターノの言うように「志向性」が「心」に固有の規定であるならば、「数」という理念的・普遍的な対象もまた現に私たち(の「心」)によってそのようなものとして「意識」する以上、その「心」に問い尋ねてみることによってその秘密が明らかになるのではないか。かくして、フッサールは、私たちの「「心」の作用・はたらきがその固有の構造(志向性)に従って、「数」という理念的・普遍的な対象を成立させるという見通しのもとに、「数」概念の成立をめぐる心理学的研究に赴いたのである。

その後、大学の教壇に立ちながらもフッサールは、「数の概念についてを包括発展させて、「一」と「多」という記号的表象(これこそ「数」にほかならない)に関する包括的な研究を『算術の哲学』としてまとめる。

2014年7月20日 (日)

探幽3兄弟展(4)~狩野安信

Kano3yasuこの展覧会では、この狩野安信の作品展示が3人の中で相対的に力が入っていたのではないかと思います。昨年の出光美術館の展覧会では狩野探幽と尚信の紹介に比べて、安信はその後の狩野派という中に入ってしまうような感じで、二人の兄に比べていささか影が薄かったようでした。こんかいの探幽3兄弟展の解説の中でも、狩野安信という人は、創造者というよりは教育者とか狩野派という団体の組織のオルガナイザーとして才能を評価しているようにも見えます。画家兼教育者として、後に粉本主義と揶揄される狩野派という集団の形式的な絵画様式の端緒をつくるような働きをした反面、創造性よりも前例を生真面目に勉強し、その成果を誠実に作品にまとめ上げるという、悪意で言えば、ちゃんとしているが、面白みの少ない、というイメージで語られているようでした。それは、歴史的に見て、探幽や尚信と安信との間の年齢的な開きが、画家として生きた環境を分けたということが大きな理由の一つのようです。探幽や尚信の生きた環境は、狩野永徳の死と安土桃山から江戸へという時代の大きな変化のなかで、永徳の様式の画風が次代の変化に取り残されていき、新たな為政者である徳川家に取り入るために、新時代に適した画風を模索して中で自らの画風を獲得していったのに対して、安信が画家としてスタートして時には、狩野派の地位や体制は固まりつつあって、安信は兄たちのつくった道を歩くことができたという大きな違いです。ただし、そのようなことは私が展示されている作品を見る限りでは、作品からそうであるということを看取することはできませんでした。そのようにして見れば、そう見えてしまう、私には、その程度しか絵を見る力はありません。そのことは、ここで断っておきたいと思います。

Kano3yasu2『源氏物語 明石・絵合図屏風』という作品。丁寧に一筆たりとも忽せにしないという感じがします。几帳面に手を抜くことなく描き込まれていて、建物の描き方など、まるで定規で線引きした設計図のようです。茅葺屋根の萱の一本一本までチキンと描かれているようで、彩色も鮮やかで、人物もそれぞれに丁寧に描かれています。また、花咲く花びらの一つ一つや草木の草や葉のひとつひとつまでも丁寧に描かれています。とはいっても、そのような細部にまで描き込まれている割には、画面全体がスッキリしているのは、多分安信という人のセンスの良さ、構成力なのでしょうか。これを実際に屏風として部屋に飾った場合に、それほど自己主張することもなく、部屋や場の雰囲気をそれとなく華やかで落ち着いたものにするような効果をあげる助けになるのではないかと思います。現代の絵画という視点でみると、安信という画家の個性が分からない、ということを考えてしまいますが、調度品というような感じでみると、良質なものといえたのではないかと思ったりします。ただ、正直にいえば、今回の展覧会にしても、狩野探幽、尚信と3人の展示だから、わざわざ見るために出向いてきたのであり、狩野安信の展覧会ということであれば、とくに見に来ようとは思わなかったと思います。今回の展示を見て、そう思いました。

2014年7月19日 (土)

探幽3兄弟展(3)~狩野尚信

Kano3nao1さほど広くない展示室で、痛々しい状態の狩野探幽の『群虎図襖』に唖然とした隣、狩野尚信の『雉子に牡丹図襖』が展示されていました。『群虎図襖』に較べれば、まだましな状態のようで、痛む前の状態を想像して見るというのは、私のような知識教養のない人間にとっては、いささかつらいものでした。金箔の地に絵の具を定着させるように塗っていくような、このような作品では、以前に出光美術館で見た狩野尚信の特徴的な墨線のダイナミックな動きを見ることもできません。板橋区立美術館というのは狩野派のコレクションや展示を意欲的に行っていることらしいし、今回の展示もその一環ということであろうとすると、この展示は代表的な作品をピックアップしているのだろうと思います。とすれば、私が狩野探幽や尚信に対して注いでいる視点は、多分ズレているのだろうと思いました。別に、私個人が勝手に、好きなように作品を見ているだけなので、それはどうということではないのでよいのですが、自分の視点というのが、何となく、少し見えてきたように思えました。それは、もしかしたら、今回の展覧会での最大の収穫だったかもしれません。

それで、『雉子に牡丹図襖』を見直してみました。多分、私が以前に見た視点では、見えてこない、この作品の魅力があるのかもしれません。ここで、参考として右図の京都二条城の障壁画を参照していただきたいと思います。下の桜の花の前に柴垣があって雉子が配されているのは、尚信の代表作とされているものだそうです。(今回の展示にはありませんでしたので、あくまでも参考)これを見て、真っ先に気が付く面白さは、上下の構図がよく似ているということです。上の松の枝振りと下の桜の木と雲形のおりなす形象はそっくりです。それを飾る場所の違いや意味づけの違いなどによって、似たような形象でも内容が変わって来るということでしょうか。上の大胆で力強い印象に対して、下は繊細で落ち着いた印象ということでしょうか。その下の方で尚信は、落ち着いたといっても、静的な中で、柴垣とか雉子とか様々なアクセントを施すことで動きを与えるとともに、装飾的な豪華さも生み出しているといえます。

Kano3nao3そういう二条城の襖絵に比べて、この『雉子に牡丹図襖』は南禅寺金地院という禅寺の襖絵ということで、求められる機能も異なって来るのでしょうが、構図が二条城と違った意味で工夫されたものになっていると思います。その二条城のものと較べれば、この『雉子に牡丹図襖』の特徴がよく分かってきます。まず、画面の構成要素が極端に少ないということ、そして大部分が余白になっているということ、そして、色彩がかなり偏って使われているということでしょうか。画面左下から右上へ対角線を引くと、対角線の左上はすべて余白になって、右下の部分のみに描かれているという偏った構成が取られています。しかも、一番右側の襖に牡丹と岩が配され、牡丹の花の薄いピンク色や葉のグリーンの鮮やかな(当時は鮮やかだったのだろうと思います。今は色褪せてしまっていますが)色は、右側の襖に集中しています。そのため、参考で見た二条城がそれなりに左右でバランスが図られていたのに対して、この『雉子に牡丹図襖』は意識的にアンバランスな構成が取られています。題材が牡丹の花と一羽の雉子というスタティックなもので、背景も省略されている抽象化された画面の中で、ややもするとスタティックになってしまうところを、構成をアンバランスに偏らせることによって、余白の部分が目立ってくることになり、何やら訳ありに見えてくるのと、余白と描かれている部分が対立的な緊張関係を生み出してくるように思います。それだけでなく、右側の襖に鮮やかな色彩を集中的に投下することで、構成のアンバランスを色遣いでさらに煽って、緊張感を際立たせています。そうなると、画面のとしては静的なものであるのに、ピーンと緊張感が張りつめたような印象となってきます。それは、寺院という落ち着いた空間でありながら、精神修行という緊張を絶えず迫られている場所であるという特性に適した雰囲気を作り出している、と言えないでしょうか。さらに、例えば、一番右側の襖では、柔らかな牡丹の花を鮮やかな色彩で装飾的に描くその下側には、骨法によりゴツゴツした肌触りの岩が、苔むすような渋さで、まるで牡丹の鮮やかさを打ち消すように配されて、両者の対立的な緊張関係が形づくられています。また、真ん中左の襖で雉子のポーズが逆S字になっているのに対するように水流がS字を形づくって、両者が対峙するようになって対立関係を作り出しているなど、大きくは画面構成での対立関係から細かい部分まで対立関係が重層的につくられて、その積み重ねが画面全体として緊張関係を作り出しています。それを考えると、尚信という画家の魅力のひとつに画面の構成力ということがあるのかもしれません。

Kano3nao2このことは、最初に私が述べた尚信の魅力である墨線という、画家が筆で一瞬の線を引くという肉体的な技量の修練と、一瞬の技によってきまる、いわば即興的な要素とは、全く逆の、知的で論理的な計算による画面構成という尚信の特徴というものを認識させられた、ということでしょうか。しかし、このことは、逆に予め構成を考えるためには、各構成要素の組み合わせという要素が強くなってくることや、頭で考えていくことはパターン化に陥る危険が高くなる恐れがあります。そのことは、後に狩野派に冠される“粉本主義”という批判が生まれる素地にもなっている可能性も考えられなくもありません。そういう危うさが、実は探幽にはない尚信の魅力なのかもしれません。

 

Kano3nao4_3尚信は、上記のように金箔を施した上に彩色するような作品よりも、墨一本で勝負する水墨画のほうに真骨頂があるのだろう、というのが私の印象です。ここでの展示も水墨画点数の方が多かったことから受けた影響かもしれませんが。しかし、私には、以前に出光美術館での展覧会でみた尚信の水墨画に比べて、今回展示されていたものはピンとくるものがありませんでした。『西湖図屏風』は中国の有名な景勝の風景を描いた伝統的な画題で、パターンは確立されているものではないかと思いますが、これは、そういう伝統をお勉強しています!という作品として、私には見えました。当時の尚信は、職業としての画家で注文があれば、それに応じなければならないので、そういう注文があったということではあるのでしょう。たしかに、墨線の千変万化とも言ってもいいヴァリエイションの多彩さは、彩色を抑えたことで際立っていて、尚信の線を堪能するのに余りあるものとはなっています。とくに、岩峰や建築物を描く線は力強く、ゴツゴツした雪舟の骨筆の肌触りを感じさせつつも奔放さをコントロールしてカチッと決まっているという洗練を加えたものと、遠景や水辺の墨がにじんでぼかしたり紙にフェイドアウトするように輪郭がうすまっていくものとが、対比的に計算されたように構成されているところなど、見どころの少なくない作品です。でも、上の『雉子に牡丹図襖』のようなパターンからいったん飛び出してしまうような奔放さがありながら、結果的にパターンになっている、というのか新たなパターンとなってしまっているような、形式に対するダイナミズムを、この『西湖図屏風』からは感じることはできません。

そういう、私が尚信の魅力と思っているものを感じさせてくれたのが『山水花鳥図屏風』でした。残念ながら、画像はありません。大胆に余白をとっている、というよりは地の部分がほとんどで、点景のようにところどころに何かが描かれているという感じで、手抜きか?と思えてしまうほど。多分描かれているのは、流水と岩とそこにしがみつくように生えている樹木と数羽の鳥なのではないかと思う。というのは、私には正確には何が描かれているか判然としないところがあるからで、それよりも、尚信の筆致というのでしょうか、墨が滲み、跳ね、引かれ、というように墨の軌跡の縦横さに翻弄されるようです。それは、抽象画に近い様な感触でしょうか。筆で墨を即興的に紙に乗せ、滲ませた奇跡を、鳥だの流水だのに後でこじつけた、とでも想像してしまいそうなもので、結果として山水画になっている、と私には見えてしまう作品です。それだけに、私には尚信らしさが全開と思えるものです。ただ、ここでは奔放過ぎというのか(私は、そういうのも好きです)、結果的にできたものがひとつの新たなパターンになっているというような、形式と奔放さのせめぎあいとそこから生じるピリピリとした緊張感というはなかったのでした。たとえば、点景のように描かれた部分がバラバラで、例えば流水がメインとしてその流れに沿って岩や樹木があるといった全体としての一本の筋のようなものがない。それで、一般的な説明では構成が弱いというような評価が書かれていました。

2014年7月18日 (金)

探幽3兄弟展(2)~狩野探幽

Kano3tanyu1狩野探幽に対して、昨年の出光美術館で何気なく見た『竹林七賢』の線の卓抜な処理と地と図の特徴的な使い分けという個性的な作品に衝撃的な出会いをしてしまったので、今回、かなりの期待をもっていました。期待が大きすぎたのでしょう。展示替えのタイミングもあったり、そもそも狩野探幽の作品を多数集めること自体がたいへん難しいことではあるのでしょう。南禅寺にある『群虎図襖』というのは有名な作品らしく、今回の展覧会チラシにも使われているようで、大作といえるものでしょう。しかし、傷みが進んで、私のような日本の絵画を見慣れていない者には、中心の虎の部分など絵の具が剥落してしまって、探幽の作品の生命線と私が思っている線が見えなくなってしまっているので、がっかりというのが正直な印象でした。襖に貼られた金箔の上に描かれているようで、絵の具を乗せなければいけないせいなのか、ベッタリと絵の具が塗られているようで、まるでペンキを塗りたくったような感じでした。多分、年月の経過で表面の絵の具が剥落してしまって、筆の手触りが感じられなくなっているのかもしれません。私には、この絵を見るには、この絵が描かれたころを想像できる知識や想像力がないと、この絵の素晴らしさを味わえないように思えました。

Kano3tanyu2『富士山図屏風』は、『群虎図襖』ほどの傷みは表面化していなかったのですが、手前に久能山の東照宮をキッチリと描き込んで、後景で富士山が望まれるように薄ぼんやりと描いて対照を味わう風情ということなのでしょうか。それにしては、手前の久能山を描くのにキレがないというのか、精緻に描き込むのでもなく、大胆に線を工夫して印象的に描くでもない、中途半端な感じを持ってしまいました。というよりも、正直なことを言うと、これ以外にも、数点の作品が展示されていましたが、今回見た探幽の作品は、印象が残っていません。素通りしてしまったというのが正直なところです。もとより、これは私の個人的な印象です。私には、この後に展示されていた尚信と安信の作品を見るための序章のようなもの程度のものでしかありませんでした。このへんが、私が日本の絵画を見慣れていないせいかもしれません。しかし、出光美術館で見た、あの圧倒的な探幽はどこへ行ってしまったのか。

2014年7月17日 (木)

探幽3兄弟展(1)

Kano3pos2014年3月 板橋区立美術館

都心でのセミナーが早く終わったので、かねてから行ってみたいと思っていた板橋区立美術館に寄って見た。公立の美術館でその方向でコレクションがあって、意欲的な企画展を何度も行っているという評判をきいていたところ、ちょうど、この前、出光美術館で狩野探幽を中心とした江戸狩野派の展覧会を見て面白かったので、格好の機会と思ってのこと。高島平という場所は多摩地区からちょっと面倒臭いところだし、都心から寄るのにもちょっと距離がある。だから多少構えていくぞ、という決意、というほどのこともないが、そんなことが要る。立地は公園の中に在って環境としては悪くないのだろうけれど、都営三田線の終点というのが、都営三田線自体が縁遠いし、終点までは結構ある。そして、駅から首都高速の車の騒音を横目にしばらく歩かされる、とやっぱり行きにくかった。

狩野探幽をはじめとする3兄弟についてと、その3人を取り上げた展覧会の趣旨については、主催者あいさつで次のように述べられています。「狩野探幽(1602~1674)は狩野永徳の孫にあたり、徳川幕府の開府とともに狩野家の本拠地を江戸に移し、狩野派の画風を一変させて新しい様式を確立した江戸初期の巨匠として知られています。探幽については多くの先行研究や展覧会の開催により、その画業が明らかにされつつありますが、探幽には二人の弟がいて、3兄弟で徳川幕府の御用を勤めていたことは、現在あまり知られていないのではないでしょうか。探幽の五歳年下の弟は尚信(1607~1650)、十一歳年下の弟は安信(1613~1685)といいます。探幽・尚信・安信の家系が、後に奥絵師四家と呼ばれる体制に結実するため、江戸時代の狩野家の始点となる3兄弟の存在は非常に重要であると言えます。しかしながら、尚信・安信」の画業は探幽の陰に隠れ、これまでほとんど紹介されていません。本展では、探幽・尚信・安信の作品を一堂に展示することで3兄弟の画業を明らかにし、江戸狩野派の成立期にそれぞれが果たした役割を具体的に検証します。」これは、主催者あいさつの一部ですが、昨年の出光美術館の『江戸の狩野派展』の従来粉本主義と批判されてきた狩野派を江戸狩野派の端緒に遡り模倣と創作の意味を見直すという焦点を絞ったものだったのに対して、こちらは江戸狩野派の実質的な創始者である3兄弟のうち、とくに長兄の探幽の陰に隠れがちな他の2人を紹介しようというものと言えます。ただ、惜しむらくは、作品の保存状態によって見にくくなっているものもあって、私には折角の展示を十分味わうことができなかったということと、彼らの奥絵師としての表向きの作品として襖絵などは城郭や寺院と一体不可分であるため取り外して美術館に展示するというのが難しいのでしょうから代表作と言われるものを集めにくいというもあるのではないかと思います。そしてまた、この美術館の建物は意匠を凝らした設計ということなのでしょうが、作品を展示するということには非常に使いにくそうで、展示に苦労しているのが見て判るほどで、それほど多くの作品を展示できないということもあると思います。まあ、前期と後期で展示替えをすることになっているそうですが、私のような一度訪れるだけでも、多少の決意を要する人間では、前後期ともに訪れることは望むべくもなく、それらを考えると残念な展覧会ではあったと思います。

展覧会のチラシを見ていただけると面白いと思いますが、3人の画家の描いた虎を並べて、それぞれの違いと特徴を比較することによって見分けられる試みをしています。真ん中の大きくスペースをとったのが長兄の探幽の描いた虎で、右下が次兄の尚信の描いたもの、これは探幽に比べるとユーモラスに見えるほどに大胆にデフォルメが施されています。そして左上の虎が末弟の安信の描いたもので、一番省略やデフォルメが抑えられて細部が詳細に描き込まれているように見えます。そのような印象をベースに具体的に作品を見ていきたいと思います。展示は章立てされていたと思いますが、狭いスペースに限られた作品を工夫して展示しているのを、とくに章立てを意識して分けて見ることはしなかったので、兄弟それぞれに分けて感想を述べていきたいと思います。

Kano3keizu展覧会の展示とは直接関係あるものではありませんが、私はこういう絵画作品に疎いため、少しくお勉強してみました。もとより、直接作品に触れるということが大切であって、下手な予備知識は偏った予断を招いてしまうという考え方もあるでしょうが、虚心坦懐に作品に向き合うということそのものの底流にあるイデオロギー性を私は感じていて、それに対して不信感を抱いています。そのことに関してはこちらで考えを述べているので、興味のある方はそちらを参照してください。

で、簡単に狩野探幽らの3兄弟の属した狩野派という集団の絵画というの、どのようなものかをまとめてみたいと思います。右図の狩野派の系図を見ると、始祖とされている狩野正信は生没年からすると東山文化の時代に活躍したことが分かります。日本史の復習ではありませんが、東山文化の代表とされるものの一つが京都東山の地にある銀閣で、絢爛豪華な北山文化の金閣に対していぶし銀のような渋さというのか、“わびさび”のような幽玄な文化という特徴があったと言われています。絵画においても貴族文化をベースにしたやまと絵の装飾的かつ濃彩の屏風ではなく、禅宗を影響のつよい峻厳な山水の水墨画が、そのような気風に適合したものだったと言えます。しかし、水墨画の本場である中国で制作されたものは、掛軸のような体裁であったので、これを日本の事情にあわせて屏風や障壁画に翻案したいというニーズが潜在していたといいます。そこで、そのニーズを掘り起し、応えたのが狩野正信で、その手法を大成したのが次代の元信ということです。

Kano3sessyu彼らは、単に中国の水墨画を屏風や障壁画に置き換えることだけにとどまらず、武家の心情を取り込んだ方法を編み出していきました。その方法とは端的に言えば、雪舟を代表とする水墨画の花鳥図(左上図)と土佐派を代表とする室町期末のやまと絵(左中図)を合体融合させたものでした。その代表例が、狩野元信の「四季花鳥図屏風」(右下図)と言えます。雪舟は独特の力強い筆致による線で花鳥を描き、そこに微かに彩色したものは、禅画の堅苦しさが残り、新たな時代を切り開いていく武家には保守的なものに映ったといいます。他方、土佐派の伝統的なやまと絵を装飾化し金地を背景とした屏風は、新しい花鳥図の息吹を宿していましたが、貴族的で武家の趣味には必ずしもそぐわないものと言えます。そこで、狩野正信と元信は、雪舟の骨筆用法の花鳥図を描いた上に、鮮やかな彩色を施した装飾画を創り出したといいます。これは、当時の狩野正信や元信は新興の、囚われるほどの伝統を持たなかったがために、大胆な試みが可能になったと言えると思います。狩野元信は、これを金碧花鳥画として発展させ、豪奢で祝祭性に溢れた屏風を制作し貴顕や豪商の好みに適うものとなっていったといいます。

Kano3tosahaそして、この方法を一層大胆に、極限まで推し進めたのが狩野永徳だったということができます。彼が描く奇々怪々とも言える独創性の高い大作は、乱世から天下統一に向かう新たな時代の力強い息吹にマッチしたもので、狩野派のライバルである長谷川等伯と言った人も、狩野派の絵画を前提に、それを批判しながら自身の画風を確立していくといったような時代のスタンダードの地位にあったといえると思います。

Kano3moto_2しかし、時代は徳川幕府の成立から安定期に移っていくことになります。時代の変化の中で、狩野永徳の豪放な作風は取り残され、急速にすたれていくことになります。その中で、狩野派の次の世代の人々は、漢画の筆法と大和絵の濃彩との融合になるものとは言え、ともすれば漢画の筆法が勝ちすぎるきらいのある永徳の作風を、筆勢を控え奥行きのある画面構成に誘導しようすることで、新たな時代への適応を図っていったと言います。これは、当時の彼らにとっては大幅な路線変更を迫られるもので、苦しい試行錯誤を繰り返したといいます。そして永徳の長男で探幽3兄弟の伯父である光信の高弟狩野興以が、障屏画において幾何学的構図(下図)を考案します。これは、永徳の様な名人芸的筆勢により、をはみ出さんばかりに伸長する樹木のエネルギーを絵画表現する時代から、むしろ分をわきまえた中に洗練と調和の妙を発揮すべき理知の時代が来るとの考えのもとに生み出されたものです。

このような中から、狩野探幽が登場してくるわけです。

Kano3koui

2014年7月14日 (月)

ジャズを聴く(8)~「ハンク・モブレー・カルテット」

Hank Mobley Quartet  1955年3月27日録音

Jazmobley_qurtet_2Hank's Prank

My Sin

Avila and Tequila

Walkin' the Fence

Love for Sale

Just Coolin'

Hank Mobley(ts)

Horace Silver(p)

Doug Watkins(b)

Art Blakey(ds)

ハンク・モブレーの初リーダー・アルバム。10インチ盤のレコードだったため収録時間は短くなっている。当時、モブレーが在籍していたジャズ・メッセンジャーズのリズム・セクションとカルテットを組んだ、モブレーのワン・ホーンでのプレイを聴くことができる。『Soul Station』に代表される60年代のモブレーに比べると、元気にハード・バップをプレイしている。モブレー自身のサックスを比較してみると、『Soul Station』の渋い味わいに対して、バリバリ吹いている。しかも、滑らかで豊かで艶っぽい音色の感じが出ている。これは、1955年という制作された時期がハード・バップが盛んで、競うようにバリバリとパップをプレイしていたという状況にも因っていると思う。また、モブレー自身も若く、初めてのリーダーということで張り切っていたのではと想像してしまう。バックのリズム・セクションが気心の知れたジャズ・メッセンジャーズの面々であることから、モブレーも伸び伸びとプレイすることができているし、彼らの方からもモブレーの背中を押すようなパッキングをしているように聞こえる。ここでの、モブレーのプレイを聴いていると、ファンキーとか歌心とか言われることもあるけれど、彼のベースはバップにあったというのが分かる。モブレーと言う人は、良くも悪くもバップのプレイヤーという枠の中で自分なりの音楽を追求した人だったというのが、この原点のようなアルバムを聴くと分かる。処女作には、その人のすべての要素が入っていると言われるが、このアルバムは、まさにそういうものであったと思う。

最初の「Hank's Prank」は出だしでテーマを示した後、さっそくアドリブに突入していくが、いかにも突入という感じで、モブレーが颯爽として、元気いっぱい。ここには、速いテンポで真正面からバップのブローをしている。後年の歌うような横の線のフレーズではなくて、縦に短いフレーズを繰り出してたたみかけるようなアドリブ・プレイは非常に力強くダイナミック。ただ速いパッセージでは、少しもたつくところが珠に瑕。2曲目の「My Sin」はバラードで、マイルドな音色で、訥々とメロディを吹いているのは、『Soul Station』の頃のプレイに比べて、ここでのモブレーは洗練されていない代わりに淡々とした朴訥な味わいを持っている。『Avila And Tequila』はラテン風リズムのバップ・チューンで、スタッカートでリズミカルなテーマから、アドリブに移ると軽快にメロディアスなフレーズを次から次へと繰り出すモブレーのプレイの変わり目がとても面白く、軽快な乗りにモブレーの紡ぎ出すメロディが合って、ピアノ、ドラムのソロのリズミカルで重くならない。唯一のスタンダード曲「Love for Sale」はかなりアップテンポで、バックの煽りを受けて、まるでオリジナル曲のように崩してしまってバリバリ吹いている。面白いのは次の「Just Coolin'」が、前の「Love for Sale」と対を為すような対称的なアクセントとメロディラインで、同じようなスタッカートのリズミカルなテーマであること。こちらはミディアムテンポに落として、アドリブも崩すというよりメロディアスに展開させている風。結果的にそうだったのかもしれないが、このアルバム全体に漂っているリラックスした遊び心のようなものが最後にそういう風に表われている。

このころのモブレーのプレイの特徴のひとつに、何はともあれ、他のプレイヤーとセッションして音を合わせたり、相互にソロをとったりみんなでプレイすること自体が大好きで、それを楽しんでいるという感じが、このアルバムにはよく表われていると思う。音楽性とか自分のプレイ等ということを言う前に、モブレーは他のプレイヤーが気持ちよく演奏するのに気を配り、それが演奏を楽しいものにし、そのなかで自身も楽しんでプレイしている様が伝わってくるようだ。ソロとして自己主張するには性格が良すぎるとか、地味とかいろいろ後で言われることになるけれど、ここではそういう雑音が入って来ないで、モブレーの一歩引いたような姿勢がみんなを盛り上げ、結果的によい演奏となった幸せな時が記録されている、と思う。

2014年7月13日 (日)

ザ・ビューティフル 英国の唯美主義1860~1900(2)

Ebmooreレイトンと同じことはアルバート・ムーアにも言えると思います。この展覧会の目玉であろう「真夏」という作品は、ただ巧いということが感想です。東洋風の扇子を持つ女性に挟まれて、椅子に座って居眠りをする若い女性。3人の女性は官能的に透けた薄衣の上に鮮やかなオレンジ色のローブをまとう。その薄衣やローブの触感とか、透けて見える女性の肌の官能的に映る描き方の巧みさは、レイトンの場合とよく似ていると、私には思います。明るく柔らかな光に包まれた白昼夢のような光景という評もあるようです。たしかそれは言えると思いますが、そういう意匠が先に立っているというのは、この作品は小手先の意匠によって差別化されたということを物語っていると見えるのです。こんなことを言うと、意地悪いように聞こえますが、それはいい面でも悪い面でも、この作品の特徴になっていると思います。レイトンやムーアの作品を見た印象では唯美主義というのは表層の表現というものに特化した作品制作に対する姿勢ではないか、とも思われてくるのです。それは、突飛なことかもしれませんが、この展覧会でも触れていたジャパニズムの影響ではないか、とも私には思われてきます。例えば、先ほども少し触れましたが浮世絵の美人画の方法論です。そういう目で見ると、この「真夏」で描かれている3人の女性には個性がなくて、しかし、伝統的な歴史画に描かれる理想の女性の姿とうよりは最大公約数の美人のパターンを写したというものに見えます。中央の女性に意識がないこともあるのでしょうか、活き活きとした生命感が希薄で、女性を題材にした模様の図柄のようなのです。そういう図柄をペースに技巧を凝らして様々な色付けをしていく、例えば光線の当て方とか、衣装とかいったものです。同じムーアの「黄色いマーガレット」を見ると、ここで描かれている女性と「真夏」の中央の女性は同じようなポーズをしています。二人の違いは着ている衣装の違いで、言わば着せ替え人形です。そして、そのような傾向をもっと推し進めたのが、「花」という作品です。ここで描かれている女性は、着ている衣装とともに背後の花と同質化して一体となって模様の一部になっています。このような模様のような様式化は、もっと進めればアルフォンス・ミシャになってしまいます。つまり、アルバート・ムーアの場合の美しさというのは、例えば部屋の壁紙のような装飾の一部のようなものになっていると言えるのではないか。その意味で、唯美主義というのが生活品にも波及し、量産品として都市部の中産階級等を対象として、商品として使われたというのも分かります。つまり、小市民的な生活で、生活の邪魔にならず、ちょっとした美的なものを手軽に感じて、市民生活を豊かな気分に盛り上げるというものです。いうなれば消費のための一種のセールス・トークです。ただし、大衆資本主義的な経済社会にいる以上は、これに善悪の価値判断を言うつもりはありませんが、主催者のあいさつにある物質至上主義に対する運動という捉え方は、私には、それをやっている人たちの一種の後ろめたさとか自己正当化の主張に寄り添い過ぎているように、私には見えます。

Ebmoore3そのなかで、この展覧会で突出して見えたのは、オーブリー・ビアズリーでした。私は、必ずしもビアズリーの作品を好んでいるとは言えませんが、ここで展示されている画家たち、ここには感想を書いていませんが、ロセッティやバーンジョーンズのようなラファエル前派の画家たちも含めて、それらを全部合わせても、ビアズリーの研ぎ澄まされたような鋭く、しかし病的に引かれた一本の線の衝撃には及ばない、と原画を見て感じました。オスカー・ワイルドの「サロメ」の有名な挿画が展示されていましたが、印刷されたものや画像ではなくて、原画のペンで引かれたビアズリーの線を実際に見て、その凄味というものが、はじめて分かりました。ペンで引かれた線というものに、これほどの衝撃を受けたのは、全く世界は違いますが、手塚治虫の原画の一気に引かれた丸い線の衝撃に勝るとも劣らないものです。まさに、この線自体が雄弁に語っているというのでしょうか、この線だから描かれる形態とかすべてが決まってしまう。まずは線ありき、そして印刷された画は線のインパクトが薄まっても衝撃が未だに残っているというものです。むしろ、印刷によりインパクトが薄味となったからこそ、受け容れられたのかもしれません。そういうものだったと思います。美しいとかいうよりも、おぞましいとか禍々しいとか、そういう印象です。私自身、再度、見たいとし思いませんが、強烈な印象で、今年の展覧会の中で衝撃度は一番になるのではないかと思います。

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2014年7月12日 (土)

ザ・ビューティフル 英国の唯美主義1860~1900(1)

2014年2月 三菱一号館美術館

Ebpos色々あって、午後から休みを取ったけれど、ちょっと時間が空いたので、その間にということで隙間を利用して観てきた。ひと通り見終わって、外に出たら雪が降り出して、積もり始めていた。

展覧会チラシの中で主催者あいさつをしながら唯美主義の簡単な説明をしている。

「19世紀半ばのロンドン-。産業革命後の物質至上主義がはびこるなか、人々のライフスタイルをも変革した先進的な芸術運動がおこりました。主導したのは前衛芸術家たち。芸術はただ美しくあるために存在するべきだとする彼らの信念は、革新的な美術とデザインを生み出します。芸術と人生のどちらにも美が重要とする芸術至上主義は、一般家庭のインテリアに変革をもたらすとともに、デカダンスの世紀末芸術へと発展していきます。本展は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館など英国の主要な美術館・博物館の所蔵品を中心する絵画、家具、工芸、宝飾品約150点で構成します。」

展覧会全体としては、絵画だけに限らず陶器や工芸品等多数が展示されていました。しかし、私には、陶器や工芸品には興味がなく、展示の一部の絵画作品だけに限って感想を書いていきたいと思います。ここで展示されていた画家はロセッティやバーン=ジョーンズ、シメオン・ソロモンのようなラファエル前派の画家たちの他に、フレデリック・レイトンやアルバート・ムーアというあまり名の知られていない画家たちやオーブリー・ビアズリーやホイッスラーのような世紀末の画家の作品が少しずつ展示されていました。ここでは、とくに展示テーマを気にせず、アトランダムに取り上げて感想を述べていきたいと思います。

たぶん、主催者が説明している芸術はただ美しくあるため存在すべきということの内容は、最終的に、そのような言葉にタテマエとして結晶されたものではないかと思います。それは産業革命による物質至上主義がはびこるという19世紀後半のイギリス社会を説明していますが、その中で産業資本家という新興の階級が台頭し、伝統的なジェントリーという地主たちにとって代わって社会や経済の主導権を握っていったと考えられます。新興の資本家たちは言うなれば成金のような人たちで、伝統と歴史のある貴族とは違って、眼の前の現実に振り回され、投資ということの性格から将来への視線に重心が移っていたのでないか、そして宗教のような伝統的な心情に対しても世俗化が進んで、より現実的な考え方をするような人たちではなかったと思います。そうであれば、伝統的な絵画でヒエラルキーの高い歴史画や宗教画といった、歴史的なストーリーや宗教的なエピソードといった主題やそれを伝える様々な約束事や方法への教養の蓄積があまりなくて、従って、そういうものに対するニーズをそれ程持っていなかったのではないかと思います。そうであれば、絵画を制作する側でも、教養や知識の蓄積を必要としない新興の階層のニーズに応えるものを提供する必要に迫られて行ったのではないか、それに応えるものとして教養を要するような主題とか宗教とか約束事がなくても親しめるような絵画だったのではないか、つまり、パッと見て分かるという見た目のキレイさ、表面的に映えるということで、そのために趣向を凝らしていく、ということだったのではないか。それを、後付けで正当化する言辞が芸術はただ美しくあるため存在すべきと言う言葉で、それが、最初は自己正当化の弁解のようなものだったのが、そういう言葉を与えられることで、それが独り歩きしはじめ、大層な理念でもあるかのような錯覚が生まれ、自己の立場に開き直るかのように正当化したい画家たちの心情とあいまって、次第にエスカレートしていったのが唯美主義という、あたかも芸術運動があったかのような外観ではないのか、思います。それはまた、一方で当時別の意味で襲来しようとしていた大衆社会に対しては、画家が側からすれば、多額のお金を持たない大衆にたいしては複製による大量生産という方法論をしらず、画家の顧客の対象とはならないとして新興の成金との区別のために、芸術は高尚であるかのような外観を呈することによって一種の高級品ブランドとして高価に見せて、顧客の自尊心をくすぐり、絵画の価格を高く維持する必要があったと思います。それには、芸術はただ美しくあるため存在すべきというメッセージは、便利に使え、新興成金の人にも分かり易かった。その意味で、二つの方向で唯美主義というのは、便利だったと思います。それは、例えば、最初にあげるフレデリック・レイトンの作品などに見られる、と私は思います。

Ebrei1フレデリック・レイトン「パヴォニア」という作品。ラテン系の顔立ちの若い女性の肖像で漆黒の髪と眉、そして瞳と肌の柔らかな感じが印象的な作品。パヴォニアというのは孔雀のことだそうで、背後に孔雀の羽根の団扇を広げているのを描いているためでしょうか。美人の女性を美女として描いたという作品。それが当時では唯美主義とか芸術至上主義とかいわれた、ということでしょうか。しかし、時代を隔てて、その熱が冷めた後世から見ると女性の肖像を依頼主が喜ぶように実物より少しきれいめに目立つように描き足した肖像画という印象です。描き方は伝統的というのか、しっかり描き込んで、表面の手触りがすべすべするような滑らかな肌の感じとか、衣装の布地の柔らかな感じとか、髪が光るように黒い感触が印象的という程度で、これを殊更に唯美とかいうほどの突出したものがあるのか、はなはだ疑問ではあります。唯美というけれど、その美というのがどういうものか、何をもって美というのか、ということが画家が認識しているとは思えないのです。強いて言えば、浮世絵の美人画のような当時の江戸の町の評判の美人を、当時の人々が美人の絵としてみなすような記号的な表現に絵師が局所的な意匠を加えることで絵の価値を上げるというようなものに近いのではないか、と思います。女性の“美”を抽出して描いたと言うよりは、美しい女性を見栄えよく巧みに描いたという作品ではないかと思います。

Ebrei2_2同じレイトンの「母と子(さくらんぽ)」という作品。部屋で母親と娘の二人が寛ぐ(多少だらしない姿勢になっているけれど)、その部屋には白いユリが壷に活けられていたり、鶴を描いた屏風が立てられていたりというジャポニスムと床にはペルシャ絨毯が敷かれているという道具立てになっている。二人が来ている衣服の白と肌の白さに対して、母親の唇の赤とさくらんぼの赤が映える印象となっている作品と言えます。レイトンと言う画家は、このような見せ方の巧みさとか、描く人物の肌の感触とか局所で冴えを見せるところはあるものの(多分、それを売り物にしていたのではないかと思いますが)、言ってみれば職人芸というのか、それを方法論として独自の美をつくったとか、そういうひとではないと思います。以前に別の展覧会で「プシュケーの水浴」という作品を見たことがありますが、言ってみれば、顧客のニーズにうまく応える(あまり良くない言葉で言うと媚びる)という印象だったと思います。多分、レイトン本人には、媚びるとかそういうことの意識的な自覚はなくて、本人の中に自意識とか問題意識が希薄で、とりあえず巧いので、その腕に任せて、どんどん描いていったというが実状ではないのか、と思います。

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2014年7月11日 (金)

岡本隆司「近代中国史」(17)

民間からの積極的な資金拠出が望めないので、まず政府・当局が官金で出資して、工場・企業の創設・経営を主導しなければならない。これを「官瓣」「官督商瓣」と称する。これらは投資・実務・監督をいっさい政府当局が行う方式であり、軍需工場に多い。それに対し、民需企業の経営は「官督商瓣」、経営的な当局の役割を監督に限って、経営実務は民間商人に任せるものだった。こうした商人経営形態に「合股」がある。出資者が利権を一定額ずつ等分に持ち合って事業を営む方法で、法人格をもたない、いわば組合組織であった。出資者はほとんど地縁・血縁のある者、あるいは知友で連帯責任を持ち、外部から招聘した企業家に経営を担当させた。出資者は配当のほかに出資金の貸付利息を受け取った。これは企業経営の安定に大きな障碍となりうるものだったが、それなくしては資金の拠出を期待できなかった。この「合股」は、企業投資に対する法的・制度的な保障のない伝統経済において、なるべく円滑に多額の資金を集める方法だった。しかしこれを近代的な大企業の立場・観点から見れば、人的信用の範囲内でしか資金を調達できず、しかも企業活動の年限を切りつつ、利潤のほとんどを出資者への配当・利息に還元していては、経営の前提をなす大資本や継続性という条件が満たせない。これでは零細な企業規模にしかなり得なかったし、経営は楽なものではなかった。

例えば1870年代に外資系の企業が先導し、生産を始めた器械製生糸は中国の代表的な輸出産品の地位を占めた。しかし、外資系以外は、概して自己資本の乏しい零細な工場で、資本の大部分を外資に仰いでいる。とりわけ原材料の繭は、価格の変動が大きく、零細な製糸業者にはその調達が大きな負担であった。生産した生糸を担保として、金融機関から融資を受ける、という自転車操業を余儀なくされる工場も少なくなかった。すべては大口の金銭貸借を不可能ならしめる「官」「民」の乖離・政府権力の民間経済への不干渉という伝統経済の特質に規定された情況だった。したがって、近代企業を成功させるには、政府が経済活動に対する不干渉を改め、信用構築とリスク回避のために関連する法律や制度を設計整備し、かつ安定的に運用して、散在する遊休資金を企業投資に向かわせる必要がある。政府官僚ばかりではない。企業の経営者にも、このような法律や制度を前提とした経営を遂行する能力が必要不可欠である。しかしそうした人材の養成と登用は、困難を極めた。最大の要因は、科挙制度の存在にあった。実務に通じた人材を養成する、という観念そのものが備わっていなかったし、ましてや、西洋の事物に関する教育など、望むべくもなかった。

このように経済界を揺さぶり始めた貿易の増加は、政府財政にも影響を与えている。流通が増えれば、それに課した税収入が増す。外国貿易の増加は、関税収入の急増をもたらした。この場合の関税とは、もっぱら海関の税収を指している。西洋貿易を所轄する海関には外国の船舶・商社に有効な管理と徴税を及ぼすため、外国人官吏を入れて西洋的な関税業務を行うこととした。それは華人商人たちに貿易取引と関税納入を任せた、それまでの請負とは異なる制度となった。その収入が急増したのも、請負につきものの着服がなくなったためである。

このように財政規模全体が拡大したのは、内乱の鎮圧とそれに続く治安維持、外患に備えた海軍建設などによる軍事費の増加が主な原因である。軍隊を指揮、維持するのは「督撫重権」の役割で、その主要な財源的裏づけは、釐金の収入だった。それに加えて、増加した関税収入も、その支出増をまかなう一翼を担ったわけである。総じて、この時期の政権運営が、貿易とそれに関わる流通に基礎を置くようになったあらわれとみればよい。もっとも釐金とかんぜいとでは、そのあり方と機能が異なっている。釐金は現地で便宜的な出納ができる。地方官の裁量のきく税収だった。逆に言えば、局外からは収支の見えにくい税目であって、従って各種の統計には、その実額がほとんど表れてこない。その意味で旧来の財政に準じた特徴を備えている。それに対して、外国人が管轄した関税は、徴収のプロセスを透明化し、実収額も容易に分かる税目だったので、外からみても計算可能な、信頼できる財源になった。これはかつて存在したことのなかったものである。そのため、開港場では、清朝現地官庁の必要に応じ、この関税収入を担保として外国商社・外国銀行かせ資金を借り入れることが可能になった。そもそも伝統経済の財政で、政府が民間かに借金をすることはありえなかった。社会に対し、収奪者・債権者としてしか振る舞えなかったのだから、実に未曽有の事態、コペルニクス的転換である。しかも外国人は、借款の担保に用いた関税を中央政府の税収・財源と見なした。けだし、当時の欧米人の常識を投影した見方であって、実際には、清朝は19世紀末になっても「コモン・パース」の欠如した、中央・地方の区別のない財政体系であることに変わりがなかったから、誤解というほかない。しかしこの誤解が、以後の中国に中央政府財政を創出し、外国銀行ひいては外国列強が、そこに介入する足掛かりを提供し、財政制度そのものも変容していくこととなった。それがまた、ひろく経済全般に影響を与える体制変革につながるのである。

 

 

こうしてみると、日本のあり方というのは特異であるのが、よく分かると思います。多分、こういう中国のあり方は現代以外の欧米諸国に近いように見えます。多分、中国のあり方のほうに普遍性があって、それを変わっていると見てしまう、私のような立場が、むしろ変わっているといえると思ったりしました。

 

2014年7月 9日 (水)

岡本隆司「近代中国史」(16)

2.胎動─1890年代まで

中国の貿易は1880年代に入るまで拡大したけれども、それはむしろ量的な増加であった。ところが1880年代から20世紀に入るころには、量的な増大のみならず、質的な変容も顕著になってきた。量的な拡大の内訳として、生糸や茶の輸出は頭打ちとなり、他の多様な産品の輸出が伸び始める。大豆、羊毛、皮革、綿花、鶏卵など北方を主産地とする物産だった。従来の輸出品の大宗は、茶にせよ生糸にせよ、高度な製造技術を有する奢侈品である。むしろ中国の先進性を示す物産だと言ってよい。それに対し、この時期に輸出が伸びた産物は、むしろ工業の原材料をなすものである。イギリスに続いて産業革命を果たしつつあった欧米諸国が求めるようになった結果にほかならない。

こうした動向はまた、空間的な変容を意味していた。広東あるいは上海を中心港とする貿易パターンが変わったからである。旧来のパターンは茶・生糸を扱う買瓣商人・外国商社の系列が形づくっていた。この時期はそれに加えて、別系統の内外商人が輸出貿易に参入してきたのであって、それまで外国から顧慮されてこなかった開港場が、それぞれ海外市場と結びつくようになったのである。それまでの農村の余剰生産物は、主要な仕向地が経済的な先進地・中心地の江南デルタや上海などの主要開港場に集約していた。そこに大きな需要が集中して存在したからである。ところがそうした情況は、80年代に変化した。各地域からみた外部需要は、中国内の経済先進地や貿易中心地からではなく、外国と直結したそれぞれの開港場から作用し、生産物の供給も、各開港場に分散することになったためである。そして各々の開港場が周辺の地域と強い結びつきを有するようになって、その需給関係の及ぶ範囲が、あたかも独立した経済圏であるかのような様相を呈し始めた。それまでの地方間分業から、地方分立への転換である。これはやがて、開港場をかかえた各省の当局が独自の政策を打ち出す基盤を提供することになる。

これらの経過を中国の立場からしいて類別すれば、モノをアジアから買い、欧米に売っており、アジアに負った赤字を、欧米から稼いだ黒字により、相殺していたことになる。これだけならアヘン戦争前後の時期と変わらない。また明清以来の伝統経済の基本も、同じく変わっていない。依然として各地域の集積から成り立っており、外部需要に敏感に反応していたからである。変化したのは、その外部需要の質と量である。それに伴って、中国経済の編成にも、従来とは異同が生じた。工業化を基準とする経済発展という西洋的近代的な観点では以上を見直すなら、中国は原料を輸入し製品を輸出する、いわば先進国型の貿易構造から逆に後進国型のそれに転じたことになる。

こうした変動は、当時の為政者にも、それなりの危機感を与えていた。もとより、先進・後進の観念で判断できたわけではない。むしろ単純な貿易額の推移をみてのものである。中国の貿易統計は外国人が管理した海関が作成し、1870年代に刊行が始まった。それが数値として示した当時の輸入超過が、官僚たちに警鐘を鳴らしたのである。この統計数値は不完全で、必ずしも実態を反映していなかったけれども、これ以降の中国の経済論調は、つねに入超による富の流出を慨嘆するものとなった。そこで提起されたのは、輸入品の流入を防ぐ西洋流の保護関税導入と国内での近代産業の新興である。いずれも中国在来の思想にはないものだ。しかし、その試みは成功していない。保護関税を実施するには、税率の引き上げが必要になる。そこには不平等条約に規定のある片務的な協定関税を廃し、関税自主権を獲得しなくてはならず、条約の改訂が欠かせない。列強は見返りに釐金の減免を中国側に求めたからである。列強は中国との貿易、とりわけ輸出が思うように伸びないのは、内地の釐金が事実上の関税障壁として機能し、流通を妨げているからだと見ていた。中国側は釐金の減免においそれと応じることは出来なかった。従って関税自主権の獲得も、保護関税の導入も、遅々として進まない。それが新たな展開を見せるのは、さらに財政上の問題がリンクしてきてからのことになる。

いまひとつの産業振興は、日本史の殖産興業に当たるもので、軍備の近代化、軍需工業およびその関連事業の創設推進という行為では日中共通する。異なるのは、その進め方であり、目的であった。日本では体制そのものの変革、近代国家創成の一環としてあったのに対して、中国では督撫重権の一環としてあり、旧来の制度を抜本的に改めることではない。中国各地を確実に統治するため、李鴻章をはじめとする地方大官の裁量を拡大して、それに必要な措置を講じさせることだった。その第一の目的が治安維持にあたる義勇軍の増強であったからこそ、装備の精強化・西洋化を目指す事業も監撫重権の主導で進められた。新しい産業の導入・新興も同じであった。いずれも李鴻章の幕僚や関係者たちが上海に設けたものだった。しかし、所期の成果を上げることは出来なかった。その主要な原因は経営の問題にある。担当した李鴻章の幕僚は買瓣・紳商で、当時の中国で最も貿易事情に通じていたはずの人々であったが、貧しい農民が主体をなす伝統経済の基層の動向は正確に認識できなかった。そこには「士」と「庶」の距離がはるかに遠い社会構成が原因している。また、機械工場一つ建てるにしても、莫大な資金がいる。恒常的に近代企業を経営しようとすれば、尚更であって、それを集める仕組みは、当時の中国にはなかった。

2014年7月 8日 (火)

岡本隆司「近代中国史」(15)

条約・開港という、西洋人から見た新時代の到来は、こうしてみると、むしろ従来の継続と理解する方が、客観的な事実に近いだろう。アヘン戦争を経ても、経済の構造に根本的な変化はない。では、それ以前と何が変わったのか。端的に言えば、外国貿易とそれに伴う内地流通の量的増加である。西洋近代との関係は、「衝撃」という言い回しから連想しがちな質的な劇的転換とみるのではなく、むしろ量的な拡大に伴う漸進的な深化・変容だと考えた方がよい。この貿易増加を担ったのが、新たに参入した外国商社と華人商人であり、その参入を支えたのが、新たな金融業である。1860年代から本格的に中国へ進出した外国銀行は、外国商社に対する融資、中国と外国との間の送金決済などの業務を行い、イギリス領の香港では、ドル銀建てで独自の貨幣を発行してもいた。これに対し、中国内の送金や華人商人への融資を担当したのが、土着金融機関の票号。銭荘である。公金の為替送金は主に山西省出身の票号が、交易への融資は浙江省寧波出身の銭荘が担った。買瓣商人に貿易経験の豊かな広東人が多かったことを考え合わせれば、開港以後にさかんになった貿易・金融の企業にも、やはり同郷同業で結集する中間団体の組織原理が貫いていたわけである。この票号・銭荘も業務の拡大にあたっては、外国銀行からの融資を受けた。西洋のような株式会社を組織できず、大きな資本を持てなかったからであり、あたかも買瓣商人と外国商社の関係と同じである。外部・海外からの資本注入で流通が活発化する、という明清以来の伝統経済の構造と体質が、ここにも表現されていると言ってよい。こうした動きの中核的な舞台となったのが、新たな海港都市・上海である。

数値で量る限り、中国経済の貿易依存度は、当時さほど高くなかったと言える。それはしかし、貿易が中国に影響を与えなかったことを意味しない。この増える貿易を現場でいかに秩序付けていくか、が課題だった。アヘン貿易に典型的なように、増大した分が主として、密輸・脱税という現象であらわれたからである。18世紀後半以来の秘密結社の叢生にともなう治安の悪化が、商業・通商という局面で顕在化したものである。言い換えれば18世紀前半までは、清朝旧来の権力体制で治安維持を手当てできていた規模の民間社会が、人口の激増で膨張して、その許容量をはるかに上回った。そのため、「官」が統御しきれなくなった中間団体は、秘密結社として逸脱し、それらが携わる経済活動も、自ずから非合法化したわけである。その内対外貿易の密輸は外国商人との結託によって起こる。すでに華人の中間団体・民間社会すら統御しきれない中国の政府権力が、外国人とその社会まで取り締まれるはずはない。そこで、中国に居留する外国人に対しては、外国官憲の手で、外国のルールで統御する方法を取らざるを得なかった。後世の中国人が避難してやまない不平等条約、例えば治外法権も租界も、そうした中国の社会経済構造の必要に応じてできあがり、存続していったものなのである。

もとより、外国側を手当てするだけでは足らない。中国内の秩序再建も必要である。それには反権力的な秘密結社が治安悪化と内乱の原動力だった以上、主として二つの方法がありうる。その秘密結社を撃滅するか、さもなくば、体制側に寝返らせればよい。しかし前者には、自由ライ以上の軍事力が、後者には包容力・統制力が必要である。いずれにしても、治安悪化や内乱勃発を防げない旧来の官僚制のままでは、不可能であった。そこで権力の再編が不可避となる。治安の悪化と内乱の発生は、秘密結社のみならず、通常の中間団体にも、自衛のために武装を促した。かくて夥しく増殖した潜在的・顕在的な武装中間団体は、清朝・権力に対する態度で二分、整理できる。清朝に敵対する側は秘密結社となって、太平天国をはじめとする反乱勢力に荷担、それに対し権力を支持する側は団練などの自警団を組織した。反乱勢力も義勇軍も、武装中間団体という本質に変わりのない社会構成体の集積である。互いが互いに寝返るのも容易だった。反乱が時を措かず大規模になったのも、なかなか平定しきれなかったのも、おびただしい死傷者を出しながら、戦闘終焉という以上の社会変革をもたらさなかったのも、そのためである。この義勇軍を組織・掌握したのが、一省の軍政・民政を統轄する地方大官の総督・巡撫であった。その軍事力はこれまでなかったものであるため、新たに財源を必要とした。総督・巡撫は個別に自ら新しい施策を打ち出し、必要な資金を現地で調達しなくてはならない

その最たるものが、新たな課税である。秘密結社・反乱勢力は禁制品のアヘンや専売品など、要するに密輸で自らを養っていた。それに対し、義勇軍の軍費をまかなったのは多くは寄付の名目で商人から軍費を拠出させる釐金であった。これは商人たちを地方当局が捕捉して、もともと不法だった交易を当局が商人保護してやる代わりに、その上前をはねる、という方法に他ならなかった。それを実現するのに最も便宜なのは、その商人が属する中間団体の存在を、業種の如何にかかわらず、丸ごと当局が承認して、商人の統率と資金の拠出を任せてしまうことである。そのため、秘密結社の従事する密売も対象になった。それは密輸を合法化するのみならず、反乱勢力に与する武装中間団体を、その資金源もろとも義勇軍に取り込むことを意味する。

1860年代のいわゆる同治中興。その社会経済的な内実は、秘密結社を含む武装中間団体が、総督・巡撫を支持する軍事的・経済的勢力に転化したことにある。それに伴い、総督・巡撫は所轄地方の軍事権・財政権を握って、清朝の内政外政に大きな発言力・指導力を有するようになった。「督撫重権」と呼んでいる。もともと、慎重の中国統治は、当初から実地の政務の多くを地方の総督・巡撫に一任していた。その人事・行政を北京で点検統制し、最終的な決定権を皇帝が握った、という体制で、18世紀前半までうまくいっていたのである。ところが、以後19世紀前半までに進行した人口の増加と武装中間集団の叢生・蜂起は、こうした体制を無力ならしめた。それに対処し得る有効な手立てを模索して行き着いたのが、義勇軍などの新軍隊・釐金などの新財源であり、所轄の地方行政に対する裁量を拡大した督撫重権だった。いずれも実地に武装中間集団を権力の側に取り込み、あらためて地域を確実に統治し、その治安・秩序を維持するために為された手段であった。北京の清朝中央も、内乱を制圧し、事後の騒乱を未然に防ぐため、自らの利害に大きく反しない限り、おおむね事情に通じた現地当局の処置にまかせている。それが総督・巡撫の拡大した裁量の正当化に等しくなり、中央の君臨と地方の統治が噛み合って、バランスを保った。

2014年7月 7日 (月)

岡本隆司「近代中国史」(14)

Ⅳ.モダニゼーション─国民経済へ向かって

1.序曲─1870年代まで

東アジアの伝統経済と欧米の近代資本主義は、同じ時期に並立、並行して形づくられたものにほかならない。しかも相互に連関している。イギリスの産業革命は中国の伝統経済と密接な関わりをもって進行したし、その産業革命は中国経済に大きな影響を与えた。その両者を結びつけたのが貿易だった。

18世紀を通じて喫茶の習慣がひろまったイギリスは、中国に輸出できる対価をもたなかったからも茶を手に入れ続けるには、銀と引き換える他なかった。茶は当時、中国にしかできなかったのである。かたや、その銀を吸い上げた中国が、伝統経済を確立させたことは、すでに述べたとおり。銀の持続的な流入があればこそ、好況に沸くこともできた。けれども国内産業を育成するため、資金需要が高まっていたイギリスにとっては、大量の貴金属を持ち出す貿易、一方的な入超は、もはや座視できない問題である。そこで着眼したのは、植民地化を進めるインドだった。インドはすでに中国との主要貿易国である。しかもイギリスとは異なり、中国が必要とする産物を有していた。綿花は、中国紡績業の原料として、少なからず輸入されている。イギリスはこうしたインド物産の売込みを増やすことで、入超を是正しようとしている。そのうちアヘンが中国側の需要に応えて、19世紀に入ると、売上が急増し、茶に対する支払いを相殺できるまでに拡大する。中国・イギリスの貿易は、茶の輸入でイギリスの赤字であり、インド・中国貿易は、綿花とアヘンの輸出でインドの黒字。イギリス・インド間の収支は、関税率や為替等の操作でイギリスの黒字にする。それらを組み合わせて全体の決済を行う、いわゆる三角貿易が成立した。最終的には、アメリカを含めた全世界を視野に最終的な決済をロンドンの国際金融市場に集約させるグローバル規模の多角的決済網をつくりあげた。イギリスの産業革命が進めば進むほど、よく多くのアヘンが中国に流れ込む、という現象を呈する。

そのため、アヘン戦争が小さからぬ意味を持つ事件とは言える。しかしそこで中国の新しい近代が始まるということには疑がわしい。政治・経済の旧来の体制に大きな変化は見られないからである。アヘン貿易が対内的には商業秩序を乱したことに間違いはない。秩序が乱れた、というのなら、それはつとに別のところで始まっていた。アヘンを持ち込み、売りつけたのは、確かにイギリスである。しかし中国には、その禁制品を欲する社会的需要と禁じ得ない政治的構造とが備わっており、政府権力がいかに禁じても、その禁令を骨抜きにしてしまう厖大、強力な受け入れ態勢が民間社会にあった。その最たるものが、非合法。反権力的な中間団体、いわゆる秘密結社である。繰り返し禁令を発したにもかかわらず、実現できなかったのは、政府当局が取り締まる有効な手段を持たなかったからである。それは民間の経済活動に対する権力の不干渉という清朝統治の体質に根差していた。

これは何もアヘンだけに限らず塩などの当局の統制する商品もそうで、専売制度も崩潰に瀕していた。さらに、通常の貿易取引でも類似の事象が見られる。イギリス側は株式会社・銀行を発展させ、潤沢な資金で大量の茶・生糸を買い付けた。中国側でその買い付けに応じたのは、官許をえて納税にあたった少数大手の貿易商である。ところが彼らは、取引の量が増すにつれ、運転資金の欠乏に苦しんだ。伝統経済の仕組みによって、大きな資本を集めることができなかったからである。イギリス商人に借金をして返済できず、倒産する企業が続出、取引の現場はとかく円滑を欠いていた。これもアヘン戦争を起こしたイギリス側の不満のひとつだったのである。そこで実質的な取引に携わるようになるのは、官許の貿易商以外の華人商人である。大資本を持つ外国商社は、彼らに資金を貸し付けて、輸出入品の売買を委託した。いわゆる買瓣の起源はここにある。こうして貿易に従事した華人商人たちは、政府当局から認可を受けていなかったから、とりもなおさず非合法的な存在である。もちろん納税などしないから、その取引が増えるに従って、脱税もはびこった。アヘンの密貿易も、こうした形態の取引の一種だと考える方が、むしろ真相に近い。こうした情況は、言うまでもなく秘密結社の叢生に深く関わっていた。これは18世紀からつづく趨勢だった。

したがってアヘン戦争の結果、結ばれた南京条約も経済上、重大な意味を持ち得ない。上海や福州の開港やそこでの貿易の発展は、たしかに新しい事態ではある。しかし、それは構造的、本質的な変容ではなかった。それまで広州で繁栄していた西洋貿易の場が、ほかにも分化、移動したにすぎない。1830年代になって、アヘン輸入の増大で銀が流出し、銀価が急騰して政治・社会が混乱した、という史実経過は世界史の教科書にも書いてあって、あまりにも有名である。しかし、その実体経済に対する影響はいかほどだったか。アヘンが輸入されるには、もちろんそれに対する需要・消費がなくてはならない。しかしその流入増大が、同じだけの吸引者、中毒者、あるいは実質的な貿易赤字の増加を意味するとは限らない。アヘンは一定の需要をもつ、少量で高価な商品であるため、貴金属と同じ価値がある。それなら伝統経済の性格からすれば、秤量貨幣の銀に代わりうるのであって、取引の場では、通貨の役割を果たしていたケースもある。アヘンに対して税の徴収はできないから銀流出が財政に混乱を起こしたことは間違いない。しかし流通経済に及ぼした影響はそんなに大きくなかった。

2014年7月 6日 (日)

岡本隆司「近代中国史」(13)

7.経済体制と社会構成の定着

この未曽有の好況期に人口が急増した。既存の耕地と産物だけで増加した人口を養うのは不可能になっていく。そこで現れた政策は移住民とその開発である。江西・湖北・江南・四川の山地の開墾で、新大陸原産のタバコ・トウモロコシ・サツマイモがそこに植えられた。内陸の山岳地帯だけでなく雲南や広西・貴州・台湾などの、さらに縁辺の地にも移民の波は及んだ。中国内にととまらず、移住地は東南アジア諸国から新大陸まで及ぶ。地方間の分業と華人の生活圏・交易圏は、はるかに海を越えて拡大した。

人口の急増がもたらしたのは、移住民ばかりではなく、そうした流動を引き起こす一因となったのは、社会全体の貧困化であった。それは、貧民の大量発生で、彼らは未開地に移住するか、都市に流入した。生活は極めて苦しかったものの、今日でいうところの社会保障や生活保護などは皆無で、政府に代わって社会福祉の機能を果たしていたのが中間団体である。当の貧しい庶民は限られた土地・資本を奪い合う激烈な競争をしていた。そんな過当競争は、権力のチェックがないだけに際限がなく、信用は限られ金利ははね上がった。そうなると小さな耕地を小作する農民等は、市場に左右される商品作物よりも自給目的になる。以前述べた、地域の内需を自給が満たす割合が大きいのは、こうした事情によっていた。そんな自給を伴う経営で競争に勝つには、何よりも安価な生産が必要で、コストを切り詰めなくてはならない。かくて節約の容易な労賃コストが、まっさきに減らされ、労働・サービスへの対価は、限りなく低く抑えられた。華人が過酷な労働に耐える低廉な労働力だと評価されたのも、元来はこうした経済構造・行動様式に由来する。人口が右肩上がりで増えていくので、いよいよ貧困に拍車がかかり、その境遇は固定していった。

金利が上がり、貸借の競争が激化するのは、借り手の増加ばかりが原因ではない。貸し手の方に大きな資本がないことにもよる。18世紀の好況で、富める者はますます富み、都市の富裕層を中心に絢爛たる消費文化が展開した。しかし、事業への投資・資本の蓄積は進まなかった。そこには、当時の権力と社会の関係、あるいは伝統経済の仕組みが作用している。金融業に限らず、大きな資本を備えるには、なるべく多くの人から遊休の資金を集めればよい。その場合、見ず知らずの人に資金を貸しても、確実に返済してもらえる保証が必要である。また会計監査や破産手続きのように、投資に対するリスク回避の制度も構築しなくてはならない。それには、権力による広域的、統一的な金融の管理・市場への規制・背任への制裁が不可欠である。しかし、清代の中国では、それは不可能だった。官と民・政治が乖離し、私法の領域・民間の経済に権力が介入しなかったからである。貸借の保証はそのため、個々人間の信頼で成り立たせざるを得ない。信用はその範囲にしか広がらないから、金銭を貸借できる対象も、自ずから限られてくる。そのため「盛世」の事業資本は、我々が想像するよりも、はるかに小さい。余剰・遊休の資金は、奢侈に費やされるのでなければ、市場に出ずに退蔵されてしまう。たとえ富裕な大商人であっても、絶えず運転資金の欠乏に苦しんでいた。貧民はもとゆり、富民も限られた資本を奪い合い、決して安穏を約束されてはいなかったのである。

2014年7月 5日 (土)

岡本隆司「近代中国史」(12)

6.景気の変動

清朝は1644年、北京に入ったけれども、その中国支配は容易に確立しなかった。明朝政権を滅ぼした流域、および南方の明朝の残存勢力を掃討しなくてはならない。とくに鄭成功の反清活動はいうなれば倭寇の再現であり、清朝は貿易の禁止で対抗した。この時期の欧州は異常気象と飢饉及び新大陸からの銀の産出の激減により経済が下降局面に入った。中国でも内乱が収まらず貿易の衰退がおこり、銀が入ってこなくなる。さらに時の康熙帝は節倹に精励して緊縮財政を行った。支出を減らすのだから、銀は市場から引き上げられ、その流通が減少した。そうした銀の不足は「穀賤傷農」ということばをもたらした。要するにデフレ不況である。

この不況は明末以来の経済構造を前提としていた。端的に言えば、銀が入ってこないと、モノが売れないで触れになるという仕組みである。その銀は地域間決済通貨であり、地域と地域を結び付け相互の取引を成り立たせていた。地域の内部から外部へ貨物を移出する役割を果たす。銀が入ってこなければ地域の産物が外に売れなくなる。商品の多くが農民の副業で生産されたし、専業の手工業でも、最終消費者の大多数が農民であったから、地域内部の需給を決定するのは、彼らの経済生活だった。そしてその少なからぬ部分は自給でまかなわれていた。その結果として地域の内需は極めて限られていた。そのため、商品を大量に生産販売し、労働力を多く用いるためには、需要・代価を地域の外からもたらさなくてはならない。さもなくば地域が生産する商品は容易に供給過多になってしまう。すなわちデフレが進行する。かくて、各々の地域は、外需の増減に敏感に反応し、景気動向を左右された。総体として、きわめて外向きの体質の経済だったといえよう。この時代。銀の流入がその外需の役割を果たしていた。地域の内部に銀が一旦入って来ると、容易には出て行かない。その対価として、地域の商品が捌け、増産をもたらし、雇用も増す。価値保存手段として、蓄積もされた。だから地域と地域の間な流通する銀は、地域の内部に吸収されやすく、つねに不足がちとなる。それぞれの地域が好況を続けるには、地域の外を流れる銀がたえず内部の吸収分上回っている必要があった。

伝統経済がこうした構造・体質である限り、中国全体の銀需要は、必然的に厖大となってしまう。交易を促す銀は海外から入って来るために、経済の活況はその入り口たる沿海地方で生じやすい。そこが経済の発展する先進地となって、内陸から人々が集まるのも、このような伝統経済の構造・体質のなせる技なのであり、今も続く沿海と内陸の経済格差は、ここに端を発している。だから、デフレの解決策は、銀の流入と流通を促すことにある。換言すれば、大陸封鎖で途絶している海外貿易を再開すればよい。1683年鄭氏が降伏すると康熙帝は海禁を解いて海外貿易を公認する。その効果は覿面で、18世紀にはインフレに転じる。

再開した貿易の内容に変化が生じていた。日本の銀の産出が急減したことにより日中貿易が衰退し、替わって東南アジアとインドが重要な取引先となってくる。タイからは米穀を輸入し、手工業品を輸出し、インドとは綿花を輸入し、砂糖を輸出している。そこに新たな貿易相手として欧州が登場した。生糸・磁器あるいは茶が輸出され、欧州からは対価として銀が流入した。中国にとって欧州は日本に代わる銀の新たな供給先となり、中国経済の帰趨を左右するものとなっていく。かくて中国は18世紀後半に好況が盛りを迎える。

2014年7月 3日 (木)

岡本隆司「近代中国史」(11)

5.伝統経済の特徴

1644年、清朝が北京に入って以後の中国支配は、前代明朝の制度・慣行を尊重して、在地在来の秩序になるべく手を触れないことを原則とした。目につきやすいところでは、皇帝独裁・官僚制・科挙の踏襲、全面的な漢人の登用などをあげることができる。無用の混乱を招かず、迅速円滑に支配を安定させようとした企図であろう。財政もやはりその例にもれない。従って、明代の在世の特徴も温存される。現物で徴収する物資は、穀物なら食糧・飼料、木材なら建築のように、品目も用途もはじめから決まって、変えようがない。とりたてる地も、費やす地も、自ずと決まる。たとえそれが銀納になっても、代替換算したにすぎないとすれば、現物本来の決まった納税先・支出先は変わるはずはないし、税の項目や換算率も品目によって異なったままであった。そのため、税目が異なると、同じ銀で納税しても、一括はされなかった。一括を曲がりなりにも実行した一条鞭法は一時的なものでしかなかった。また、現物主義では税収の分配や配送も、現代の財政とは違う。現物で得た税収の物資はかさばるし、種々雑多なので、それらを逐一、首都や省都の財政部局へ集中させるのは困難だし、また無意味でもあった。しかじかの物資を徴収した地点から、需要消費する機関へ、直接に配送した方が能率的である。銀納に転換しても、この方式は変わらなかった。

そこでは、中央と地方の区別やそれぞれの役割も、現在とは異なってくる。発送する箇所と、配送を受ける箇所との選択・調整・指示は、中国全土をみわたす中央の財務官庁が行うしかない。中央の役割とは、各地の税収を適切に動かす指示を出すことにある。全国から上がる税収を一括し、国庫金として自ら保有管理支出することではなかった。だから「国庫」のない、現代から見ると特異な財政体系が出来上がっている。「コモン・パース」という西洋の、多様な税収を国庫という“一つのどんぶりの中に入れて、その中から各種の費目の支出をする”というしくみが、中国には概念すらなかった。だから国税と地方税、国家財政と地方財政という観念も区分も、存在する余地がない。統一的で精確な歳入・歳出の算定も、不可能となる。

もし仮に、そうした夥しい収支の項目や額を、各地の事情に応じて毎年、変更改訂したとするなら、中央官庁が当時の乏しい情報の収集・管理能力で、その決定・統制を実行するのは極めて難しい。収支・配送の額をあらかじめ一定にしておけば、その統制は遥かに容易になる。こうして定着した制度運用を「原額主義」と呼ぶ。実地の財務行政では、この一定額をこえて経費が必要なこともありうる。しかし額が決まっていて動かさなければ、必要に応じるには、その埒外に財源を確保しなければならない。そこから、徭役の追加徴発や附加税の課税が繰り返し生じた。このような財政の運用は、必要経費を予め計上した上で課税追徴を行う現代の予算制度と対極をなすものと言える。そうした財政需要の満たし方になるため、会計上の「赤字」は存在しない。そこに、官僚の汚職が発生・増殖する温床があった。取り立てる側に必要な額を、一方的に決めていたからである。例えば、清代の土地税収は、全土で銀3500万両足らずと決まっており、それが省ごとに、さらに末端の県ごとにいくら、と決まっていた。実地にその県を治め、庶民から税をとりたてる県知事は、その割当額を揃えて、収めさえすればよい。要するに一種の請負であった。割合の額以上を取り立て、差額を着服してかまわない、ということである。現実にどれほど、どのような徴収をしようが、咎められることは殆どなかった。だから表にあらわれる数字が3500万両であっても、実際に取り立てられ、動いていた金額は杳として知れない。以上の財政体系は、明清時代を通じて踏襲された。

そうした清朝の態度は、経済そのものにも貫徹している。旧来の慣行に手を触れない原則に基づいて、商業化と銀の流通・浸透を容認したからである。中国を治めるにあたって、財政の原理と体系は引き継いだが民間が明朝の禁令に背いて行ってきた銀の貨幣的な使用を容認した。政府財政を含め、地域と地域の間をつなぐ外部流通で銀を用いることが、清代では公認され、普遍化した。その銀とは地銀であって、銅銭のように枚数では数えない。いわゆる秤量貨幣であり、「両」等の重量が、その計算単位となっていた。

銀ばかりではない、銅銭も従来の使用法を認めた。清朝は明とは違って政府が一定の形式の銅銭を夥しく鋳造した。けれどもそれは、明代に民間が使っていた私鋳造銭を代替したものにすぎず、機能にかわるところはない。政府当局は鋳造して発行したら、それで終わり、その価値や使用を全くコントロールしなかった。だから規格が同一の銅銭であっても、私鋳銭の時代と同じように地域が異なれば価値が違う。政府が決めた額面が問題ではなかった。それなら価値の信認を共有する地域で、政府発行の銅銭を使うのも、また別の形態の貨幣を使っても、別にかまわないことになる。実際、頻繁に使われたものに政府発行の銅銭に代わる「銭票」があった。市鎮の穀物店・酒屋・雑貨屋などの普通の商人たちが独自に発行した、一種の有価証券、あるいは紙幣である。この場合、注目すべきは、どんな商人でも「銭票」等を発行できたことで、そこに行政的、権力的な規制はほとんどなかった。専門の金融業者もいない。というよりも、当局がまったく関係せず、規制が存在しないために、金融業務の排他的な専門化が起こり得なかったのである。明清時代の中国で銀行業が発達しなかったのも、こうした権力の規制と金融のありように由来する。

そのため貨幣の発行も、いわば自由競争なのである。そうした情況で、貨幣価値そのものの決定と金融の安定が、自律的に組織されていた。もとよりその自律性は、直接の取引関係・信用関係を取り結んでいる一定の範囲の外に出ることはない。このローカルな貨幣を「現地通貨」と呼ぶ。「現地通貨」はそのローカルな範囲の地域内でしか通用しない。だから現地通貨の異なる地域同士が交易した場合、外貨的な機能が必要であり、それを秤量貨幣の銀が果たしていた。そこでの銀は「地域間決済通貨」である。地域と地域の間といった場合、それは国内の商業のみならず、対外貿易にもあてはまる。というよりも、われわれが普通に想起するような国内・国外の区別、国境が存在しないのが、伝統経済の特徴であった。それは明朝の華夷・内外を隔離する政策を民間が克服することで、成立したものだったからである。だから、当時の海関といっても、今日の国境を区切る税関ではない。明清時代の関とは商業税を取り立てるところでしかなかった。つまり、海関とは、国内外の境界を区切ることを企図したものではなく、内外の交通・流通を沿海にまで拡大延長させたことを示す官庁に過ぎない。そうした機関の設置も、地域と通貨の編成に基づいていた。

かくて清朝の治下で完成した中国の伝統経済は、権力と民間の経済的な乖離に見合うシステムだったといえようし、両者が一体化しない二元構造は、ここで決定的となったともいえる。貨幣の事例でも分かるように、政府権力はなるべく、民間社会の経済活動に介入しなかった。行政・政治が商法・私法の領域に対する干渉・統制をさしひかえた、ということになろうか。取引というものは、自分のモノを相手に売ることで成立する。したがって、そのモノは間違いなく自分の所有でなくてはならない。そうなるためには、外部の強奪などから守らなくてはならないし、相手と取り交わした売買の約束も、合意通りに果たされなくてはならない。ここに財産と契約の保護が必要になる。西洋のスタンダードな歴史過程では、財産・契約の保護は、最終的に法律が担保し、権力が執行した。しかしそれが、世界のあらゆる時期・場合にあてはまるわけではない。

権力が経済の領域に介入せず、財産・契約を保護する法律的諸制度が存在し得ないとすれば、取引の現場においては、民間のレベルで私法の制定・行使、経済活動に対する保護や統制という役割を果たす存在がなくてはならない。それが血縁・地縁、あるいは業種ごとにまとった中間団体、すなわち宗族や同郷同業団体である。そこには宗法や章程など、団体の構成員を律する成分の規約があったし、また慣習という不文律もあった。それが我々の言う民法・商法に代替していた。つまり、いわゆる地域の中核を構成し、範囲を画定していたのは、中間団体だった、ということになる。だから、人々にとって帰属する宗族や同郷同業団体こそ、服従すべき権力に等しかった。その外部にある法律家や官僚制や王朝政府ではなかったところが重要である。政権が定め、官僚が行使する法律よりも、中間団体の規約や慣習の方が、その構成員にとって、はるかに身近で尊重、遵守すべき対象だった。自身の財産や契約、経済活動を保護してくれるのは、後者であって、決して前者ではなかった。だとすれば、政権・当局は自らの定める政策・法令を、中間団体が有する規約・慣習に一致させたら、支配が円滑に進むし、さもなくば、統治が難しくなる。さらに言えば、両者が一致しないというだけで、容易に中間団体が反権力的な秘密結社に転化しかねない。現代の中国で地下経済が存在し、それが往々にして、権力との衝突を引き起こすのも、メカニズムは同じなのかもしれない。

2014年7月 2日 (水)

岡本隆司「近代中国史」(10)

4.伝統経済の確立

貿易を望んだのは、銀需要の高まった中国ばかりではない。工業化した江南デルタが産する生糸・絹製品は、中国の国内市場を制するとともに、海外でも高い声評を受ける。また木綿も、地元の消費の他、中国内で他産地のものと競争しつつ次第に仕向け先を海外にシフトさせるようになってきた。くわえて、前代から海外の市場に定着してきた特産の茶・磁器もある。それらはいずれも、魅力あふれる商品で、諸国の垂涎、渇望の的であった。かくして海外貿易は、必然の事態となる。ところが明朝政府は、民間の貿易を禁じていた。「中華」の統一と自尊、そのための現物主義と金銀の使用禁止、そうした政策を実現、徹底するには、貿易があってはならない。社会の商業化とそれに伴う民間の貿易希求は、明朝のそんな理念と政策を圧倒する。旺盛な銀の需要は、現物主義を有名無実化し、草原・海外との分断を狙った長城・海禁を乗り越えて、密貿易の盛行をもたらした。16世紀になると、世界は大航海時代、新大陸から産出された銀が地球を駆け巡って中国に殺到した。

新大陸だけではない。中国に最も身近に銀を潤沢に供給してくれるところがあった。日本列島である。戦国時代の金山・銀山の開発・採掘ラッシュは中国の貴金属需要に喚起されたものだった。日本はこうして中国第一の貿易相手国となった。これを事なかれ主義の官僚は見て見ぬふりをした。これが常態化し、中国内では法令を尊重しない、遵守しない風習が蔓延し、明朝政府の支配は破綻していたとも言える。それでも時に取締・弾圧が実践強化される時があった。そうなれば貿易に従事する人々は武力に訴えてでも抵抗する道を選ぶ。中国の沿岸で行われる密貿易だから、密輸業者は当然ながら華人が最も多数である。とはいえ、日本が第一の貿易相手である以上、目立つ外国人は倭人だったから、そうした沿海での紛糾を称して「倭寇」といった。明朝の側はこうした外患を「北虜南倭」、北方の遊牧地「韃虜」と南方の海賊「倭寇」の脅威だと称した。だがその実態は、明初以来の財政経済政策に対する執着とその破綻を示すものに他ならない。

このように16世紀末には、経済に関わる明初設計の支配体制は内外からは単に瀕していた。これに乗じたのが新たな政権となる清であった。清は多種族から成る武装貿易集団の性格が濃厚である。貿易取引を成功させるには、どうしても外国・異種族と交渉しなくてはならない。その貿易が弾圧を受けかねない情況では、対抗する軍事力を保持して、貿易相手の異種族とも団結し、集団の組織化を高める必要がある。そのため清朝ははじめから、満州人を中核として、漢人・モンゴル人を包含する多種族の混成政権を志向していた。このような清朝政権は、商業を忌避し、交通を遮断し、「外夷」と「中華」、外国と中国・異種族と漢人とを分断しようという明朝の志向とは、まったく相反する存在である。清朝自体が、前世紀の「北虜南倭」と同じく、明朝的な体制・秩序に対するアンチ・テーゼなのであった。

この政権交代を生んだ経済的な意味を表現するなら、社会の商業化と言える。これは唐宋変革の商業革命が数々の技術革新に裏付けられた質的な革命であったのに対して、量の増大による変化ということができる。

明朝政府の現物主義は、自作農の存在とその掌握を前提に、構想したものである。租税も徭役もそうである。いずれも農地と労力を個別に固定、登録した上で、はじめて徴発できるものだった。「官」が「庶」を、権力が民間を把握しようとつとめていたのである。しかし15世紀から16世紀に及ぶ商工業の発達と銀流通の浸透、それらにともなう租税・徭役の銀納化は、農民に否応なく銀の入手を迫ったから、彼らは商人に頼らざるを得ず、その支配を受けるようになる。かくて中小の自作農は没落し、有力者が土地を兼併集積して、不在地主と化した。商業が勢力を拡大し、貧富の差は拡大し、富者はごく少数で貧者は9割以上にのぼった。そんな富者のうち注目に値するのは、科挙の学位を有する紳士、すなわち「士」である。彼らはエリートの優遇特権として、徭役や租税の減免を受けた。そこで「庶」・庶民は、負担を免れるために、土地・財産のみならず身家さえも、あえて「士」に寄進した。こうして人と土地の動きは流動化していった。こうなると、政府当局は農地も労力も把握できない。「官」と「民」はどんどん乖離してゆく。それでも安定的な財源を確保するためには、新たな方法を考案しなくてはならなかった。そこで「一条鞭法」が登場する。その狙いは、種々雑多な負担、とりわれ徭役の項目をひとまとめにし、それを所有地と成年男子数に応じて、銀で割り当てるにある。割当ての基準で最も重視されたのは土地なので、納入負担を地主に求めた。こうした財富と負担の富裕層集中は、商業の領域でも進んだ。商業・流通に対する課税も、有力商人を指定して、納税を請け負わせる方法が成立、定着したのである。納税者が少数の富裕層のみで、政府当局が彼らしか相手にしない。現代にも通じる財政構造は、このとき出来上がった。17世紀以降の中国経済は、以上の推移のうえに成立する。この前提のもとに展開する経済を伝統経済と呼ぶ。

2014年7月 1日 (火)

岡本隆司「近代中国史」(9)

3.転換と形成

明朝の現物主義はこのように、当時の経済状況と対内的・対外的な政治方針とを巧妙に結びつけた政策であり、周到極まる構想だったといってよい。けれども、いかに構想として巧みであったにせよ、しょせん頭の中で人為的に考えたこと、政治・経済の実体・実勢とうまく合致するとは限らない。明朝が長城以北に駆逐したモンゴルはなお健在だったから、これに対抗する軍事経営は明代の課題となった。軍事は純粋な消費活動である。どうしても、継続的な補給、物資の調達が必要である。そこで商業に頼らなくてはならない。永楽帝が長城に近い北京に本拠を置くと事実上の遷都となる。こうして、政治・軍事の重心が北辺に移ると、いよいよ商業と流通に頼らざるを得ない。生産力の低い経済的な後進地に、官僚と軍隊が集中する一大消費地ができたために、物資の移動流通の必要性が高まったからである。とくに江南から北京への糧食供給は、不可欠だった。大運河が改めて整備され、これを軸に特産品が生産と流通を増やしていく。現物主義の体制は、100年もたたないうちに大きく転換しようとしていた。

先ず租税。現物の租税の米穀では、江南では納める農民自身が収納地の南京まで運ばなくてはならず、その負担に耐えかねて、銀納を求めた。その三年後には、北京の武官たちが俸給を銀で支給してほしいと要求している。当時、文武の官僚たちは南京で俸米を受け取り、その米を他の物資に替えて北京に持ち帰っていた。ところが売る俸米が安く、買う物資が高くなって困窮をきたしていた。以上の経過から、まず米価が下落していたことが分かる。生産が向上した結果と言える。そして、第二に判明するのが、北京などの都市や江南では商品経済が普及し、銀が流通していたことである。税収の銀納化は、財政の運営を流通の現状に近づけようとした措置に他ならない。言い換えれば、現物主義がもはや実体経済から乖離していたことを意味する。

こうした銀の流通をもたらす経済動向の中核は、江南デルタである。中国で最も高い生産力を持つこの地方は、14世紀末から15世紀初頭にかけ、北方の物資需要が高まるなか、推理条件が変わって、生態系と産業構造を一変しつつあった。長江の流れが変わり、江南デルタでは15世紀以降、米作が減少し、木綿、麦、麻が栽培され養蚕が始まるなどして、商業化、集約化がすすむ。やがて産出した生糸・木綿を中心に、織布・染色など高度な手工業も興ってくる。それに伴い労働人口も増えて行った。その結果、人口過剰となって主穀の供給を他の地域、とりわけ新たに開発された長江中流域に仰がざるを得なくなった。その湖北・湖南から百万石の米が移入され、この見返りに、衣と木綿を主とする商品が売られた。つまり、それまでの穀蔵だった江南デルタの産業が転換し、農産物は多様化、商品化し、新しい地方の開発が進んだ。地方間の分業と相互依存が、進展し深化する。物資が夥しく移動し、これに伴い人の移動も盛んになり、交通・交易が頻繁の度を高めていった。

経済全体の商業化と社会全体の流動化は、滔々として、とどめ難い潮流となった。そこでなかんずく、強い集約化に向かった江南デルタで、貨幣需要が増大してくる。ところがその貨幣が、当時は存在しなかった。明朝の貨幣は現物主義の補完物に過ぎない。大規模に商業化しつつあった経済の需要に、とてもこたえられるものではなかった。明朝政府には幣制を改革しようという意思はなかった。その間に貨幣は悉く使い物にならなくなる。政府の法定的通貨は、あてにならない。そこで民間では独自に通貨を設定して、日増しに高まる貨幣需要をまかなおうとする動きが顕著になる。

少額の取引には私鋳銭が流行し、大口・高額の交易では銀の使用が広まった。いずれの場合も、まちがいなく違法行為ではある。だが、そうでもしなくては、経済が立ち行かなくなった。それは民間経済が、法定的な通貨・幣制、あるいは現物主義、さらにいえば明朝政府そのものに、不信任を突きつけたに等しい。民間で流通した私鋳銭の種類や数量はまちまちだったが、取引には売買双方に共通の尺度がなければ成り立たない。まちまちな種類の銅銭は人々の合意信任を通じて選別されたが、その信認は取引にあずかる個々人の自発的な合意なので一定の範囲以外には広がり得ない。このような範囲を地域と呼ぶ。全体としてみると、銅銭は地域ごとに多種多様、バラバラになっている。共通の信認がある範囲の各地域内での取引流通には使えても、その外に出て別の地域で使うことは出来なかった。だとすれば、その範囲を超えて地域と地域の間をつなぐ取引・流通には誰もが共通してその価値を信認できるモノでなくてはならない。このいわば外部流通で通用したのが銀であった。官僚が俸給の受け取り・労役の奉仕でほしがったのも、中国全土に赴任するため、どこでも使える外部通用の貨幣が必要だったからである。こうして経済のみならず、財政も事実上、銀建てに転換していった。ところがすでに当時、中国内に貴金属の埋蔵は殆どなくなっていたために、銀を手に入れるためには海外から輸入しなくてはならない。そこで貿易の要求が強まってくる。それは中国の気運であった。

 

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