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2014年7月25日 (金)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(4)

第2章 事象そのものへ─「現象」への還元

いかにして心的なものと論理的なもの、経験的・個別的・偶然的なものと理念的・普遍的・必然的なものの二者択一から抜け出せるというのか。『論理学研究』によってもこの問題が未だ解決されていないことを誰よりも自覚していたフッサールは、心的なものから独立な論理的なものの存立を支える最終的な基盤を求めてデカルトに出会うことになる。

1.デカルトとフッサール─懐疑と還元

「方法的懐疑」とはどのような内実を持つ懐疑なのか。それは、「ほんの少しでも疑わしさが残るものは、断固としてそれを偽とみなし、斥ける」ことにほかならない。世の中には確からしく見えるものは多々あるが、それが確からしいことは、少なくともそれが「実はそうではなかった」ことを排除しないからである。そのような土台の上にいくら堅固な建物を建てても、事態は「砂上の楼閣」であるスコラの諸学の場合と何ら変わらない。そうであれば、どんなにわずかな可能性であれ少しでも疑わしさの残るものは、徹底した懐疑の力でもって予め摘み取られ、そうしたものが学の土台に混入しなければならない。そのために要請されたのが、少しでも疑わしいものは「虚偽とみなして斥ける」という断固たる処置なのである。ここで彼の方法的懐疑を導いている最終的な基準が「絶対に疑いえないもの」であるかぎりでの確実性であることに注意しておこう。

そて、フッサールもまた、あらゆる学に学としての尊厳と地位を保証する筈の論理的・必然的なものの基盤をどこに求めうるかをめぐって、模索と逡巡を重ねていたことは既に見た。それを、私たちのあらゆる認識の最終的な基礎を求めての模索と言い換えてもよいであろう。この点で、フッサールはデカルトと問題意識を共有しているのである。そして、フッサールは、この「あらゆる認識の最終的な源泉」へと立ち戻ろうとする動機をこそ、超越論的動機と呼ぶのである。

しかし、両者には微妙なずれがある。フッサールが、みずからが立ち戻るべき最終的地点を「起源」「母たち」「大地」と表現していることに注目しよう。それらは、各々用いられる文脈によって「始源」「根源」「源泉」などと呼び換えられるが、彼にとって「あらゆる認識が立ち戻る」べき地点とは、これらの意味での「起源」に他ならなかった。これに対して、デカルトにとって何よりも急務であったのは、「絶対に疑えないもの」へと立ち戻ることであった。このように並べてみれば明らかなように、私たちのあらゆる認識の「起源」と、「絶対に疑いえないもの」とは、必ずしも同じではない。つまり、私たちのあらゆる認識の最終的な「起源」が何であるかという問題と、それが「絶対に疑いえないもの」であるかどうかという問題は、おのずから別の問題なのである。つまり、現象学の実際の進展とともに、当初は重なり合っているかに見えた「起源」と「絶対に疑いえないもの」とが分離し、その上で現象学は、当初の動機に忠実に「起源」への途を歩み続けたのである。

では、「絶対に疑いえないもの」から分岐した「起源」とは何か。この意味での「起源」とは、それが徹底した懐疑にはもはや耐ええないものであっても、そこからしか私たちの思考と理解が始まりえない、この意味での最終的な「場所」のことである。そのデカルトの「懐疑」とフッサールの「還元」を分かつ根本的な相違はどこにあるのだろうか。それはデカルト的懐疑がなお「真・偽」という基準ですべてを測っているのに対して、フッサールの還元はもはや「真・偽」に関わらず、それを「中和化」した次元、あるいはそれとは「中立」な次元への移行を果たすという点に求めることができる。それはこういうことである。デカルトの方法的懐疑が採用した格率は、「ほんの少しでも疑わしさの残るものは、これをすべて偽とみなして斥ける」というものであったこれはすなわち、彼の懐疑が真・偽という基準の内を動いていることを示している。さらに、「偽とみなして斥ける」とあるように、偽とみなされたものは、そこで目指されている「絶対に疑いえないもの」の資格を充たさないがゆえに、そこから「排除」され、「否定」される。「偽」には「否定」の力がもともと含まれているのである。これに対しフッサールの還元は、あらゆる認識判断の暗黙の前提となっている「真理妥当」と「存在妥当」の停止を求める。なぜなら、さまざまな学や認識が、その知見や主張を「真」なるものとして呈示しているとしても、そもそも何をもって「真」とするかは必ずしもあらかじめ明らかなことはないからである。「真理」なるものが存在すること、それどころか総じてすべてが存在することですら、疑おうと思えば疑えることだからである。

私たちの自然な性向は、私たちの認識判断の内に「真なるもの」と「偽なるもの」があることを当然のことと前提しているし、その上で或る特定のものを無条件に真として受け容れてもいる。フッサールにとっては、「真」が「真」であるのはいかにしてなのかこそが、あらためて問われなければならないのである。また私たちは、私たちの生きるこの現実が紛れもなく「存在」すること、「実在」であることを何ら疑うことなく、全面的に受け容れているであろう。「実在」とは「真実在」すなわち「真に存在すること」の謂いであり、これほどまでに「真理」と「存在」は私たちの自然的理性の内ではじめから分かち難く重なり合っているのである。だが、このような「実在」とて懐疑を免れるものではない。単なる夢や幻と実在の世界を区別するものは何かと問うたデカルトが、これに与えた答えは「醒める」ことによってのみ両者は区別されるということであった。そうであれば、いま現にここで私の目の前にあるそれが真の実在であるか否かは、いつまで経っても決着がつかないことにならざるを得ない。仮に目の前のそれがいまだ「醒め」ていない/かつて一度も「醒め」たことのないものだとしても、そのことは、それがいつか「醒め」る可能性を決して予め排除しないからである。結局のところこの問題に最終的な決着はありえないのである。世界が実在しているという私たちの革新は、決して無条件で全面的に妥当するものではないのである。

ここで「妥当」とは、何かがそのようなものとして「通用する」、「正当性を認められる」といったほどの意味に解してよい。フッサールは私たちのあらゆる認識や判断の隠れた前提となっているこうした「真理妥当」や「存在妥当」を、必ずしもその「妥当」の根拠が明らかでないがゆえに、いったん「停止」することを求めるのである。これは、個々の認識判断のその都度の停止ではなく、あらゆる判断の根底に働いている<世界の存在を妥当させること=世界を実在として承認すること>の停止なのである。ここでいう「停止」は、決してデカルトの場合のように「偽とみなして」それを「斥ける」ことではない。それは、そもそもそのような判断を行わないこと、この意味での「判断中止」であり、それはしばしばフッサールは「括弧に入れる」と表現している。

現象学的還元とは、私たちの行うあらゆる認識判断にすでに含まれている真理妥当と存在妥当の停止である。それは、妥当の根拠が必ずしも明らかでないがゆえに要請された措置なのである。「厳密な学」たらんとする哲学にとっては、何ごとも無批判に受け容れられることがあってはならないのである。この意味で、哲学は無前提な学でなければならないのであり、それはかつてデカルトが「哲学者たるものは一生に一度は全てを根底から疑ってみなければならない」と述べた、その精神の継承なのである。

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